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ただ今、人生の仕切り直し中のケアマネ
プロフィール
HN:
かたつむり
性別:
女性
自己紹介:
心と身体を壊し、まだ人生の仕切り直し中のケアマネ。

保有資格:社会福祉士・介護福祉士・介護支援専門員。ついでに日商簿記2級・全商簿記1級
(Twitter@renrinoeda2)
P R
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マギーズ東京【固定トップページ】

父が旅立って半年ほどたったころ、私は『肺がんの父を看取った娘』として、マギーズ東京へ行き、スタッフの方に話を沢山聴いていただきました。

『マギーズ東京』(HP https://maggiestokyo.org/ )・・・ここは、がんで見失いそうな自分を取り戻す場所です。がん患者、その家族、がんの家族を看取った人達にとっての『もうひとつの場所』です。



私が思い切って行ったとき、スタッフのかたが、あたたかく迎えて下さいました。
ここに入ったときに『私一人でない、同じ立場の人達が沢山いるのだ』そう思えました。

今の日本の医療や福祉の制度では、がん患者とその家族の支援はあるけれど、看取った家族(=遺族)の心のケアをする制度はありません。
大切な家族を送った後、『心の中の大きく開いてしまった空洞』と『深い哀しみ』と『喪失感』を抱えたまま、生きていきます。
その哀しみがいつ癒えるのか、心に空いた空洞がいつ小さくなりふさがるのか、全く解りません。
そして、相談するところがなく、苦しくて哀しい胸の内をはき出す場所がありません。

それとともに、『あれで本当に良かったのか?』『もっと出来ることがあったのではないか?』と、永遠に答えが出ない問いを自分の中で繰り返し続けていきます。

そんな苦しい思いの人達を、『優しくを受けいれて下さる場所』であり、『想いを聴いて下さる場所』・・そう、私は思いました。

★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
 
数は多くはありませんが、NPOやボランティア団体、一部の医療機関で、癌患者の遺族のかたへの心のケアの支援をしています。

苦しいときは、独りで苦しまずに、このような場所へ行ってみてください。

もちろん、マギーズ東京は、今まさに『がんと闘っているかた』、『そのご家族』、『がんによって自分を見失ってしまいそうになっている全てのかた』にとっての『もうひとつ居場所』なのです。


泣きながら話をする私の父への想いを、本当の意味で肯定していただきました。

『今までのように、最期までお父さんが家長として一家の大黒柱であり続けられるように、最期までお父さんらしく過ごすことが出来るようにと、あなたは頑張ったのですね。そしてやり遂げたのですね』

このことを認めてもらえた事で、気持ちがとても楽になりました。


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ご無沙汰しております。

ご無沙汰しております。

 

一応、生きております(笑)

 

コロナウイルスに気を付けながら毎日を過ごしています。

 

Twitterでは叫んでおりますが、こちらになかなか書く機会をつくれないまま、年を越してしまいました。

 

 

昨年に新しい職場に就職しましたが、昨年の夏の終わりに更に体調が悪化しました。

体調が戻らないままの身体には、昨年の酷暑に耐えきれませんでした。

『会社から解雇されても仕方がない』と、思いましたが、社長と話し合いの末、週4日勤務にして、まずは身体を治すようにしてはどうか」とおっしゃってくださいました。

もちろん給料は減給になりましたが、きちんと書面で互いに確認をしたうえで、給与額も決まり、昨年9月からは週4日で仕事をしております。

メンタル・整形外科・整骨院に受診しておりますが、どうやら私は自律神経の機能が低下しているようです。

そのため、生活のリズムを整えて、食事の内容に気を付けることから始めました。

そのかいあってか少しづつですが、体調が上向きになり始めております。

 

実は、長年介護職で夜勤もしていたためか、『規則正しい生活』って発想が私にはなかったんですね。

身体を治すため、そんなところから始めている状態です。

食事の内容にも気を付けるようにしています。

以前はこのような発想も持てませんでした。

 

フルタイム勤務できるまで、今の会社にどこまで待って貰えるのかは解りません。

それでも、解雇されても仕方がない状況だったのに、このように猶予をつくってくれたのですから、今の社長には感謝しています。

 

この先どのようになっても、身体を少しでも戻すことはしなければならないので、その努力は続けていきたいと思っています。

 

最近は、自己研鑽の勉強も、少しづつですがやっております。

しかし、夏の体調悪化で試験勉強の追い上げができなかったので、行政書士試験の受験は昨年は見送りました。

その後、社会福祉士会の勉強会でお会いしたかたの勧めもあり、今は社会保険労務士の試験勉強を始めています。

資格の取得もそうですが、もうひとつの理由として、自分の経験上、労働問題にも関心が出てきていたので、労働関係の法令の勉強をすることは、福祉専門職としても大切だと思いました。

勉強のペースはゆっくりですし、内容は難しいですが、でも勉強していて面白いです。

もちろん行政書士もあきらめておりません。

 

最近は、社会福祉士会の研修にも参加しております。

念願の基礎研修Ⅰを終了することが出来ました。

また、高齢者分野外の勉強をするのも面白いです。ケアマネとしての引き出しも増えることに繋がります。

他分野の方とも話が出来るので、とても刺激になります。

今は、色々なことに興味が広がりすぎて、勉強したいことが沢山あります。

一日24時間では足りません。

 

 

 

実は、いろんな事に関心を向けられるようになったことで気がついたことがあります。

 

『福祉分野は政治や経済や更には『憲法』と切っても切り離せない』ということです。

 

今頃になって気がついたのかよ!と、思われるかたもいるでしょうね。

 

私がこのことを意識したのは、自民党の憲法改正案のことを強く意識してからでした。

 

自民党がつくった憲法改正草案を読んで、私は恐怖心を覚えました。

 

国民には事実上、基本的人権も、国民主権も、言論の自由もなくなる、内閣がその気になれば、戦争もできるし、更には独裁政治も恐怖政治もできる内容だからです。
(少なくとも私はそう理解しました)

 

ですから私は、憲法改正に反対です。

 

経済も、デフレが続き消費税も上がり、庶民は買いたいものも変えず、市場に金が回らないから、負のスパイラルに落ちている。

中小零細企業は更に経営が苦しくなり、倒産件数も増えている。

一部の大企業や裕福層だけがさらに裕福になっているという、異常な国になっています。

 

自分の視野が狭くなっている間に、この国がとんでもないことになってしまっていました。

 

私自身も含めて、国民一人一人が、もっと社会に関心を持たないと、この国が更にとんでもないことになってしまう、そんな危機感を感じている今日この頃です。

 

いろんな出来事が全て福祉分野につながっているんだと、改めて感じています。

 

私自身の気持ちは、以前よりは前向きになれたような気がします。

 

以前のようなペースでは書けないと思いますが、毒吐きブログを再開できればと思っております。





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仕切り直し、動き始めてます

ご無沙汰しております。

 

Twitterでは色々と叫んでおりますが、ブログは久しぶりになります。

 

実は、新しい職場で仕事を始めています。

先日、ふた月が経ったところです。

 

かかりつけ医からは早い段階で『就労の許可』がでました。

『まだ、身体は戻っていないが、自宅での静養を続けると、物事を悪いほうに考えてしまい、精神状態が更に悪くなるため、身体は辛くても仕事をしていた方が、悪いことを考え込まずに済むから。』

というのが、かかりつけ医の見解でした

 

そして、結局また、『ケアマネ』をやっています。

 


実は本気でケアマネを辞めるつもりでした。



 

『自分にはケアマネ業界は合わないから、ケアマネの仕事は好きだけど、もう辞めよう。』

 

そう思っていました。

 

母からも『もう、ケアマネの仕事は辞めてくれ』と、言われました。


 

最初の職場でも前職場でも、はっきり言って『ボロボロ』になりました。

特に今回は、『過労死』が頭をよぎるくらいでした。

精神的にも危険で、衝動的に自傷行為以上の行動をしそうでした。
何をしでかすかわからないと自分でも恐かったので、『一人でいたら危険』と思い、実家へ逃げ込み、一日の大半は寝込んでました。。

もっとも義叔父の介護のことで、私が動かなくてはならない状況でしたので、義叔父のことは無理を押して気力のみで動いてはいました。

 

そんな娘の姿をみたら、母親としては、『もうケアマネの仕事はしないでくれ』と、思うのも当然だと思います。

 

主治医からも『ケアマネの仕事はもう辞めた方がいい』と言われていました。

 

理由は『トラウマ』です。

「新しい職場であっても、ケアマネを続けていると、前職場や最初の職場での辛い経験が『トラウマ』になっているので、職場環境が変わっても、何かの折に過去の『トラウマ』を思い出してしまい、上手いくこともいかなくなる。」

と、言われました。

 

 

でも、それでも、一応、ケアマネのほうでも仕事を探してみようかと動いたら、すぐに決まってしまいました。

採用までの流れが、あまりに事がトントン拍子に進みすぎたので、自分でもびっくりです。

 

これは、『まだあきらめるな。もう少し、ケアマネをやってみろ!』と、父が言っているのかな??

 

と勝手に解釈して、もう一度ケアマネの仕事をしてみることにしました。

 

 

ですが、私も『トラウマ』が恐かったので、職場の選択は、色々と考えました。

その結果、今回の職場は、単独居宅だった前職場や最初の職場と全く環境の会社を探しました。

『併設型の居宅で、管理者の基礎資格は医療職』と、いうところを選びました。

 


上手くやっていけるかどうかはわかりません。


 
けれど、もう私は、無理に会社にとどまることはしないことに決めました。

 

今迄、会社の事を考えて一生懸命やってきたことは、なにひとつ評価されず、結局私の努力は報われませんでした。

 

だから、もう、会社というものに期待をすることをやめました。

 

そうすることで、会社と自分とのちょうどいい距離を保てるようにしたいと思っています。

 

 

ケアマネとして2社で仕事をして、ケアマネとして色々と経験して感じたことを前回も書きましたが、他にも感じたことがありました。

それは、

『常に勉強することが必要だけど、その勉強の範囲は、介護分野や福祉分野だけでは駄目なのだ』

ということでした。

 

昨年までは、父の事で勉強が出来なかった反動もあり、最近は自分なりに色々と勉強をしています。

 

その内容は、『福祉専門職としての自己研鑽』と、『かたつむり一個人として関心を持ったこと』の両方での勉強をしています。

 

通信教育過程の大学の編入学も考えています。

いずれグリーフケアの支援をしたいので、心理学の勉強がしたいのです。

 

福祉専門職としては、『社会福祉士』としての立ち位置での勉強です。
そのなかに『ケアマネ』の勉強も含まれています。

関連する福祉分野以外の勉強もしています。

 

今、個人として関心がある事柄は、『緩和ケア』と『安楽死』と『グリーフケア』です。

 

これらの関連の本も読んでいます。


いずれも、考えさせられる内容でした。

 

 

 

今までの自分のなかでは、30歳で社会福祉学科に入学した通信教育過程の大学での勉強の時以来の『勉強したい!!』という、ものすごい勉強への欲求に駆られています。

 

しかし、壊れた心と身体はもう戻りません。

 

仕事から家に帰ると身体が動きません。

 

この文章は少しづつ書いてきました、だから、投稿に時間が掛かってしまいました。

 

正直、日常生活にも支障が出ているくらいの心身状態です。

 

もう、無理がきかない心と身体ですが、それでも、自分に出来ることは、やってみたいと思います。

 

 

生きている限り、何度、崖から突き落とされても、必ず這い上がって見せます。

 


今の自分が出来る範囲で頑張ります。





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人生の仕切り直し

ご無沙汰しています、現在も静養中です。


昨日まで、実家で過ごしていました。
体調の良い時に、自宅の散乱した部屋の中を少しづつ片づけています。
 
前日も書きましたが、色々とあって、再び心と身体を壊して休養中です。
そして、今の会社(居宅介護支援事業所)は退職することにしました。
理由は、ブログでは詳細は触れませんが、また戻っても再び心と身体を壊すのがわかってしまったからです。
今は『自分の心と身体を守ることが第一優先』にするしかない状態にまでなってしまいました。
そうしないと『本当に自分が壊れて、元に戻ることができなくなってしまうほど、今の私はボロボロになっている』状態にまでなっているのです。
 
再就職するときに、悪友看護師に苦言を言われました。
 
『自分の身体より大事な仕事はない!それを忘れるな!!』
 
悪友の苦言にしたがって、これ以上ボロボロになる前に辞めようと思いました。
 
ご利用者様とご家族の事を考えたら、本当に申し訳なく思います。
ですが、このまま続けたら、自分の命にも関わりかねないと思い、苦渋の選択でした。
 
 
こうなった理由は沢山あるが、その中の一つは、管理者との『福祉専門職としての価値観の相違』がありました。
私は、ケアマネである前に『福祉専門職』でありたいと、『ご利用者様とご家族の生活と人生を守り支えるのがケママネの任務』と考えていました。
そんな私の価値観と、社長の価値観はあまりにもかけ離れていました。
 
だから、ケアプランに対する考え方まで全く違っていました。
 
完全に仕事のスタンスが違っていたのです。
 
社長のケアマネとしての価値観、そしてそれ以前に社長の一個人としての考え方に対して折り合いをつけるのは、私にはどうしても難しかった、できなかったのです。
 
自分の福祉専門職としての『ポリシー』をかえることは、どうしても出来ないことでした。
 
 
 
現在の職場の7か月間で、自分の身体を壊しながら感じた事は『ケアマネ業界の危機』でした。
職場だけでなく、いろんな研修にも参加して、他事業所のケアマネさんの考えを知る機会もあった。
一生懸命にケアマネの仕事に取り組んでいる人も沢山います。
けれど、正直『あなたは、なんのためにケアマネになったの??』と、思うような人も少なくなかった。
主任ケアマネさんも、その責務に懸命に取り組んでいる方も沢山います。
その一方で、『名前だけだから』とかいって、権利だけしっかり利用して、義務は全く果たさない人もそれなりにいます。
経営能力もないし身につけようと努力もしないで、居宅介護支援事業所を開いている主任ケアマネもいます。

ちなみに、私は自分で居宅介護支援事業所を立ち上げたくてもできません。
主任ケアマネではないからです。
正直、とても悔しいです。
 

 
かつて話題になった『ケアマネ不要論』。
私は今回、『ケアマネは要らないといわれても仕方がない』という現実を目の当たりにしました。
これでは本当に、ケアマネという職種が近い将来なくなるのではないかと、私は実感しました。
 
それとともに感じた事が、介護保険制度での高齢者の支援の限界でした。
 
ケアマネとして、前職場と合わせて、3年半ほど仕事をさせて頂きました。
ご利用者とご家族とともに苦しみともに笑いながら仕事をさせて頂けたことは、私にとってとても幸せでした。
今でもケアマネの仕事は大好きですし、出来れば続けたいと思っています。
 
しかし、父を看取ってから、ケアマネの視点だけでなく、在宅介護をする家族の視点の両面で、ご利用者様とご家族も見るようになっています。
ましてや、私はクライアント側にもなったことがあるので、その視点でも見てしまいます。

その為、私は、他のケアマネさんとは、価値観も動きも視点も全く違うことに、今になって気がつきました。
そして、そのことで、今は他のケアマネから浮いてしまっている自分を常に感じるようになってしまいました。
 
それと、父を看取ってから精神的に不安定になったことで、『在宅介護で家族を看とった後の遺族のケアが全くない』とに、自分が当事者になって気がつきました。
立ち直るまで支えてくれた悪友看護師と、『制度化されていない必要な支援』について、色々と話をして、そのことの重大さにようやく気がつきました。

父の死から立ち直りはじめたころから、自分の中で、『制度の隙間に埋もれて苦しんでいる人たちを支援する活動がしたい』と、そう思うようになっていきました。
 
ケアマネの仕事をしていくごとに、法制度にない隙間に落ちてしまう支援者を何人もみてきて、『このままでいいのか?!』と、思うようになりました。
 
そんな矢先に再び体調を崩しての退職となりました。
 
変な言い方になりますが、今の自分が『目指したい』『取り組んでみたい』と思っていることは、ケアマネの立ち位置では限界があり、できないと思いました。
 
だから、これから福祉専門職としてどのように活動していくか、もう一見つめなおしてみたいと思っています。
 
『制度の隙間に埋もれて苦しんでいる人たちを支援する活動』をするために。
 
具体的にどうするかは、漠然とはイメージはしていますが、最終結論はまだ出ていません。

ただ、一つ決めていることは『社会福祉士』としての勉強を一からやり直そうということです。
そして、制度の枠にとらわれない支援をしてみたいと考えています。
その為の引き出しを、今はとにかく多く持ちたい。
だから、これからはとにかく『勉強』します。介護保険もそれ以外のことも。
 
 
『ケアマネ』ではできなかったことが、『社会福祉士』としてならば、何かできるかもしれない。
『制度の隙間に埋もれて苦しんでいる人たちを支援する活動がしたい』
 
まだ、漠然としていますが、自分の新たな目標と夢を目指して、これからの生き方を探していきたいと思っています。


そんなわけで、一度ケアマネから離れることになると思いますので、どう転がってもいいように、ブログのタイトル名をかえました。

向日葵は私の好きな花です。




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新しい『目標』と『夢』

今年に入って、初めてのブログです。

 

どうにか生きておりますが、また無理を重ね過ぎて身体を壊しました。


幸い、早い段階で、社長から『傷病手当金の手続きをするから、今は休んでほしい』と、言われましたので、お言葉に甘えることにしました。

診断書は、約1か月の静養となっております。

 

休まずにあのまま仕事を続けていたら、間違いなく、以前の会社と同じ最悪の結果となっていたでしょう。

この先はどうなるかは自分でも解りませんが、『最悪のかたちになること』を社長が回避して下さったことに、こころから感謝しています。

 

今の職場で、働きだしてから、強く感じるようになった『こと』がありました。

 

『ケアマネであるが故の、自分に出来ることの限界』です。

 

この限界は、個々の能力のことをいってるのではありません。

 

ケアマネは介護保険法と、運営基準に基づいて仕事をしています。

 

そのケアマネの業務を定めている法令が、自分のなかで『足かせ』に感じてしまうことが最近多くなってきています。

 

元々、私は自分の職務範囲の枠を超えてしまって動くことは多々ありました。

ですが、そんな私でも、『これは、ケアマネの立場では、どうしても出来ないよ』と、思うことがとても多くなってきました。

 

それだけ、クライアントが抱えている『課題(ニーズ)』は、今の縦割りの福祉制度では対応出来なくなっているんだろう・・と、思いました。

 

国は、それぞれの福祉分野の枠組みを超えた包括的な支援の必要性は言ってはいますが、現実はまだまだです。

 

ですから、私は、『ケアマネの仕事とは別に、もっと福祉制度の枠組みを気にせずに支援がしたい、そして、福祉制度の枠組みからこぼれた落ちてしまった方々の支援をしたい』と、思うようになりました。

 

更年期まっただ中の、還暦まであとウン年と数えられるオバサンになって、『新しい夢と目標』を見つけてしまいました。

あと10歳、いやせめてあと5歳若かったら!!と、正直思っています。


30
歳代半ばから40歳代後半まで、うつ病を抱えていたので、一番自分のやりたいことを全力でやれる年代に、思いっきり行動することが出来ませんでした。

でも、そのことにあれこれ言っても、若くなるわけではないので、仕方がありません。

うつ病が寛解しただけでも、私には『奇跡』なのですから。

 

なので、現状の自分の年令を踏まえて、自分がやってみたいことを実現するためには、どうすればいいかを模索中です。

そして、ふと気がついたのです。

 

『そうだっ!、私、『社会福祉士』持ってるじゃん!!』と(^_^;)

 

ずいぶん前に取得した、『宝の持ち腐れ』と化していた、『社会福祉士』という資格。

 

『そうだっ、『ケアマネ』では無理でも、『社会福祉士』としてなら、何か出来るかもしれない!』

 

そんなことを考えながら、静養期間を利用して、身体を休めながら、動けるときに調べています。

 

ある程度の大まかなイメージは大体出来ています。

あとは・・・。

・その為に必要な準備期間。

・仕事をしながら自分の猛勉強をする時間の確保の方法

 (生活がかかっているので、仕事は当然フルタイムです)。

・活動のために必要な資金をどの位の期間にいくらまでつくる必要があるか
   (やっと生活しているのに、どうやって軍資金つくるんだよ・・(ーー;) )

これらを今、考えているところです。

 

 

社会人1年生になった時に、最初の上司にこう言われました。

 

 『何事も3年で考えなければいけない、

   一年目は土を耕し、種をまく

   二年目は、芽を出した苗を、水や肥料を与えて、害虫から守り、一生懸命育てる

   三年目に、ようなく実ったもの(目標)を、収穫するんだ。

  だから、何らかの目標を成し遂げるためには、3年は必要なんだ』

 

この言葉は、今でも私の生きる上での指針のひとつとなっています。

 

だから、次の夢を叶えるために、どのようにすればいいのか、『その準備の為の準備』をしています。

 

 

このことを考えるきっかけになったのは、やはり『父の死』でした。

患者が亡くなった後の遺族のケアが全くない。


私は、父亡き後、自分が身体を壊し、職を失い、大きな喪失感で、ただ生きているだけの毎日でした。

それだけではなく、その生きることさえも、身体を壊したが為に、何も食べることが出来ず、心身ともに更に悪化した。

自宅のベッドの上で、動くことも辛い状態のとき『もしかしたら、私、このまま孤独死するのかな・・』と、そんなことを思った。

『もうどうなってもいいや・・』と、投げやりになったときに、脳裏に浮かんだのが『父の顔』でした。


脳裏に浮かんだのが『父の顔』・・・
それが、私が立ち直るきっかけになりました。

 

立ち直る過程で『グリーフケア』というものを知りました。

実際に自分が『グリーフケア』を受けて、『そう、こうして、私の苦しさ哀しさ辛さがまぜこぜになった、父への想いを誰かに、聴いて欲しかったんだ。』と、思いました。

自分の胸の内をただ、思いつくままに話していく過程で、心理士さんが、最低限の言葉をくれて、それを受けて、自分のなかの哀しみの感情を整理して行くことが出来ました。

 

でも、このグリーフケアは、職業としては殆ど皆無で、NPO等のボランティアが担っていいます。

しかも、その団体は少ないし、知られていません。

私は、悪友看護師から教えてもらって知ったのです。幸運だったのです。

 

 

そう、日本の福祉制度は隙間だらけで、その隙間に落ちてしまっている人達が沢山いる。

それぞれの分野の福祉専門職は、自身の任務の指針となる法制度が、ときには足かせとなってしまい、『助けたくても身動きがとれない』ことが多々あります。

その隙間を埋めてくれているのが、沢山のボランティアさん達。

そして、国はそれを『当たり前』のように、ボランティアにあまりにも頼りすぎている。

 

私は、自身の身体をはって、DV被害者を守る活動をしている方と、インターネット上で知り合いになった。

DV加害者から被害を受けかねない、身体をはったその活動は、無償のボランティアだ。

ご本人は見返りなど全く求めていない。

逆に、少しでも社会の役に立てるのならば、と、考えている方です。

けれども、命に関わる被害を受けるかもしれないその活動を、無償のボランティアがしている、この国の現状に、私は疑問を持たずにはいられない。

 

そのような、『制度の隙間での支援活動も含めて、広い視界のなかで自分に出来る何かがあるのではないか・・?』

 

そんなことを、今、考えています。

 

 

先日、父の初めての命日を迎えました。

今年に入ってから、『一年前のあの頃は・・・』と、数え切れないほど思いながら過ごしてきた。

一周忌の法事もしてないし、

あまりに寒いのと、私が体調が悪いので、墓参りも行ってない。

 

ただ、一年前の『危篤の父が下顎呼吸に変ったのに気がついた時間から、父が彼岸に旅だった瞬間の時刻まで』、私は、自宅の父の写真とずっと向き合っていました。

 

『私も人生を全うして、彼岸で父に会ったときに『よく頑張ったな』と、褒めてもらえるような、生き方をしたい。』

 

最近、そんなことを強く思っている。

 

そして、

本当に実現できるかどうかは、やってみないと解らないけれど、それでも、この歳になって、新たにやってみたいことを見つけられたことに、幸せを感じています。




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大きく重い一年でした

私にとって、今年は大きく重い一年でした。


今年も残りわずかとなりました。


私は、新しい職場で、悪戦苦闘し、社長と時々ケンカしながら、それでも、以前と変わらずに『今の自分の全力』で、ご利用者様とご家族と向き合いながら、毎日仕事しています。

 

一度壊れた身体は、二度と元には戻りませんでした。

ですから、少しでも無理をすると、すぐに体調を崩します。

11月の初めに帯状疱疹になりました。

そのときに、『ここまで、体力も抵抗力もなくなっているのか』と、愕然としました。

前職場時代の自分の体力を『10』としたら、今の私は『4』くらいかもしれません。

 

今の体力のない身体とのつき合い方を、いまだに模索しています。

毎年自主的にやっていたインフルエンザの予防接種は、今年も体調不良でできませんでした。

 

 


あまりにも色々なことがありすぎた1年でした。

 

 


年明けからターミナルに入った父の介護と、前年からやっていた父のキーパーソンを、ケアマネの仕事をしながら必死にやった。

その時、自分の身体も本当にボロボロだった。

それでも、『父に残された時間はあとわずか。今動かないでどうする!』と、自分を奮い立たせて、本当に気力だけで必死に動いた。

そして、父は花が枯れていくように、静かに彼岸へ旅立った。

そんな父の最期を、自宅で母と姉と私の家族全員で看取った。

そして、父の遺言に従い、家族だけで静かに送った。

 


そのあとも、あまりにもいろんなことがありすぎて、私は心も身体も完全に壊れてしまった。

それでも、谷底に突き落とされた私は、今も必死に這い上がっているところです。

 


今までも、何度も絶望の淵に追い込まれ、谷底に突き落とされてきた。

そのたびに這い上がってきた。

だから、今も、ただ『地上に戻るため』に、空を見ながら這い上がり続けている。



これからも、這い上がってもまた谷底に突き落とされるだろう、何度も。

自分の人生が終わるまで、その繰り返しであろうことは、想像できる。

今までもそうだったのだから。

 




15歳の時に、家の経済事情で、大学や専門学校の進学をあきらめ、看護師になる夢をあきらめ、ランクを大きく下げて確実に合格する公立の商業高校へ進学した。

当時の我が家は、私が私立の高校に進学することもできない状況だったから。

そして、私は高校卒業後、一般企業に就職した。

 


そんな私が、今、ケアマネをしている。

そして、ケアマネの資格を取るよりも、もっと早くに、社会福祉士と介護福祉士の資格は、すでに手に入れていた。

 


高校卒業して一般企業に就職した19歳の私とは、180度違うところに、今、私は立っている。

 


ここに至るまでの道は、紆余曲折の連続だった。

あえて苦労という言葉は自分では使わない。

なぜなら、もっと苦しい思いをしている人がたくさんいるから。

その人たちに比べたら、私の半生は苦労のうちには入らない。

私は、少ないチャンスを生かして、長い年月をかけて、ケアマネの試験に合格するまでにたどり着いた。

しかし、当時うつ病であったことから、ケアマネの仕事には就くことができなかった。

それでも、カウンセリングを受け、病院をかえた結果、うつ病が寛解した。

 


自分でも『奇跡』だと思った。

 


ケアマネというかたちでようやく掴んだ、幼いころからの私の『夢』。

 

 


『自分の家の畳の上で死にたい』

 


祖母のこの言葉を、13歳の時に祖母を彼岸に送ってから、後から母から聞かされた。

そして、我が家と同じアパートの隣に住んでいた祖父母を介護していた叔父と叔母の姿。

それが、今の私の『原点』。



7年前、その叔父が、具合が悪くなり近くの病院に行ったときは、すでに末期がんで、病室で痛みに苦しみ、痛みをとるためにモルヒネ漬けになって死んでいった。

当時、介護職だった私には、持っている情報が無さ過ぎたし、叔父もすでに移送に耐えられる身体ではなかったので、転院も不可能だった。

末期がんの対応が難しい病院だったけど、先生や看護師さんは本当によくしてくださった。

そのことだけが、唯一の救いだった。


最期を自宅で過ごすことができなかった、苦しみながら死んでいった叔父のその姿が、私が『居宅ケアマネを目指す』後押しとなった。

 

 



『お母さんが大変だから、俺は、最期は病院でいいよ』

 


がんの再発がわかった時に父が言った言葉。

 

そのとき

 


― 俺は最期まで家にいたいけど、お母さんが大変だから、俺は病院でいいよ -

 


父の、心の声が聴こえたような気がした。

 


このときに、私は、クライアントの発する言葉が真実ではなく、その発した言葉の向こうに『本当の真実』が隠れていることを、ようやく知った。

 


がんの再発がわかってから彼岸に旅立つまでの、父の最期の1年3か月。

私は、父の姿から、父の言葉から、本当にたくさんのことを教えてもらった。

娘として。

ケアマネとして。

 


決して、私にとっては良い面だけの父ではなかった。

もしかしたら、負の部分のほうが多かったかもしれない。

それでも、私にとって最後にすがれる場所は父だったのだ。


そのことを、棺の中に納められた父の顔を見つめて、私はようやく気が付いた。

 


父は最期に私にたくさんのことを、自身の闘病を通して私に教えてくれた。

実際に、自分が、ケアマネとしての『ものの考え方が変わった』という自覚はある。

 


介護と仕事の両立がどれほど過酷かを、キーパーソンとして親の残りの時間とその責任を背負うことの重さを、自分が身をもって経験した。

この経験を、これからはケアマネとして、しっかりと活かしていきたい。

父も、それを望んでいるだろうと、私は思っている。

 

 


今でも、父を想って泣くことがある。

余命2週間と言われたときに、すぐに父のもとへ行くことが、仕事の関係上、どうしてもできなかった。

そして、私が行った時の父は、すでに声がでなかった。

それでも父は、安堵したように、私の顔を見て、穏やかに微笑んでくれた。

あの時の『父の穏やかな安堵したような笑顔』がどうしても頭から離れない。

 


もう一度だけでいいから、父の声を聴きたかった。


もう一度だけでいいから、父と普通の父娘の会話がしたかった。

 



後悔ではないけれど、それだけが心残り。

 



父が何度も『かたつむりはいつ来るんだ?』と、母に訊いていたと知ってから、なおさらだ。

 


『父が私に何かを直接言いたかったのかもしれない』

 

そう思った時に、父に申し訳ないことをしたと思った。

 

モニタリング訪問で一番忙しい時期でもあっただけに、私も身動きが取れなかった。

当時の職場に半日休でさえ、お願いできる状況ですらなかった。

でも、それは、私の言い訳に過ぎない。

 

 

 


まだ、私はいろんな想いが整理できないままだ。

だけど、立ち止まっているわけにはいかない。

前を向いて歩いていくしかない。

 

 


ケアマネとして、いちからやり直して、あえて自分をさらけ出して、ご利用者様とご家族と向き合い、課題解決のために奔走していく。

壊れた身体との付き合い方を模索しながら、今の自分の身の丈に合った生き方を探していく。

そして、ようやくつかんだ『夢』を手放すことなく、顔をあげて生きていく。

 


それが、父が私に望んでいることだと思って、これからも、自分の心に正直に生きていきたいと思います。

 

 


今、新たにやりたいことがいくつかあります。

実現できるかどうかは、正直わかりません。

でも、今までもそうしてきたように、少ないチャンスを活かして、新たな夢をかなえられるように、頑張ってみたいと思います。

 

 



大みそかは実家に泊まります。

 


父がケアマネさんに言った言葉

 


『家族3人で、いつまでも明るく笑って、仲良く暮らしてほしい』

 


私は、この言葉は、『父の遺言』だと思っています。



父のこの『想い』を胸に刻んで、これからも前を向いて生きていきたいと思います。

 

 

 




今年も、私の毒吐きブログにお越しくださり、本当にありがとうございました。

 


『ご利用者様とご家族の生活と人生を守り支える』ために、これからもケアマネとして精一杯務めさせていただきます。

 


どうか、これからも、よろしくお願いいたします。

 

 



かたつむり






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初めてのがんターミナルの支援  『ケアマネ』として『娘』として

社長から、相談を受けた。

「新規の依頼が来てるんだ。末期ガンなんだけど、若い人なんだ。ごめん、私にはできない。かたつむりさん出来るかな?」

 

最初、なぜ、ベテランの社長が出来ないのか理解できなかったが、社長の話を聴いて、『そりゃそうだ、社長が無理だと思うのは当然だよ』と、納得した。

社長は私よりもひと回りほど上。

そのご利用者様は、社長と同世代。

 

『同世代だから、担当するのが辛い』と、社長。

 

社長の気持ちを非難するのは簡単だ。

 

しかし、自分と同世代で、自身が末期ガンと認識しているご利用者様を前にして、『冷静にいられる自信が自分にはない』と、社長は判断したのだ。

そして、ご利用者様側も、自分の同世代の『元気なケアマネ』をみて、どのように感じるか解らない。これも個人差がある。

 

私が、介護職時代に、派遣社員として半年間勤務した某有料老人ホームに入居してきた、進行性難病の女性がいた。

私と同世代のかただった。

その方は、若い職員には優しく接していたが、自分と同世代の職員にはとても厳しかった、拒絶に近い言動だった。当然私は『標的のひとり』となった。

最初は、『なんだ、この我儘ぶりはっ!!』と、思ったが、拒絶されている職員が、私と同世代かその上だと解り、納得した。

 

『同じ年代の人は元気に動けるのに、なんで私だけ、寝たきりなんだよ!!』

もし、彼女がそう思っていたら、辛くて悔しいのかもしれない。

もし、私が、彼女の立場だったら、どう思うだろか?

 

そう思ったら、結果的に他人に『八つ当たり的な言動が出てしまうのも当然かもしれない』と、あくまでも私の主観的な考えであるが、そう思ったら、ご利用者様の言動にも納得した。

 

だから、社長が『出来ない』という気持ちは理解できた。

 

では、今の自分が『末期がんのかた』の在宅支援の仕事が出来るのだろうか?

正直、一瞬だが、ためらった。

自分も父をがんで亡くした、自宅で父を介護して看取ってから、まだ8ヶ月だ。

自分のなかにある『娘としての感情』をコントロールできるだろうか?

感情移入しすぎて、流されてしまわないだろうか?

 

私も迷った。

 

しかし、ケアマネである以上、末期がんのかたの在宅支援の仕事は、いつかやらなければならない。

逃げているわけにはいかない。

今、そのときが来たのだ。

そう思い、引き受けることにした。

 

でも、私の考えは・・・甘すぎた。

 

病院側やキーパーソンの娘さんと連絡を取り合っていくうちに、まだお会いしていないのに『重なって』しまったのだ。

 

ご利用者様が『父』と・・・

キーパーソンの娘さんが『自分』と・・・

 

いつもなら、当たり前に出来ることが出来ない。

『ご本人を不安にさせてしまわないだろうか』と、考えすぎて、ケアブランの文章どころが、単語ひとつ選ぶのにも、迷いすぎている自分がいた。

 

 

社長に、『切り離して考えないと駄目だ、私だって同じだよ』と、言われた。

社長も、お父様を亡くされて一年経っていない。

しかし、言葉が悪いが、実家の近くに住む兄弟がキーパーソンをしていた社長と私では、立ち位置が違う。

だから、私は社長に言った。

 

「社長、申し訳ありませんが、私はキーパーソンとして、父の残りの時間と父の命を背負い続けたんです。だからこそ、ご本人が父と、娘さんが自分と重なってしまうんです」

そう言って、私は、頭を抱え込んでしまった。

どうしたらいいのか解らない・・そんな心境だった。

 

そう、まさに父の命を背負い続けた・・・そのくらいの気持ちで、キーパーソンとして踏ん張ってきた。

自分が、どんなに辛くても、自分が取り乱すことは『許されなかった』。

家族が、決断すべき事は、全て私が決断してその責任を背負った。

私が『キーパーソン』だったから。

 

社長は、すぐに自分が発した言葉を撤回してくれた。

そして、「無理なら私がやろうか?」と、いってくれた。

 

しかし、末期がん(ターミナル)は、時間との勝負。

特に、家族側はそれを痛切に感じる。

『社内でもケアマネ交代に費やす時間がもったいない』とそれだけは私にもわかった。

頭を抱え込んでいる場合でないだろう!

そう、自分のハッパをかけた。

そして、社長に即答した。

 

『この先の依頼をどうするかは、もう一度考えますが、今回の方だけは私が最期までやります』と、言い切った。

 

そして、自分の感情をどうやってコントロールしたらいいのか、答えが出ないまま、自宅を訪問した。

緊急で予定を早めて、同日に、介護用ベッドの納品と、初回訪問とアセスメントから担当者会議までを全てする事になったのだ。

 

お会いしたご利用者様は、とても気丈な方だった。

いや、たぶん、気丈に振る舞っているのだ・・・家族を心配させないために。

私は、そう感じた。

その姿さえも、『最期まで強かった父』と重なった。

 

しかし、その、気丈に振る舞っている、ご利用者様の姿をみて、すぐに『冷静になれた』自分がいた。

 

『ご本人がこれほど、気丈に振る舞っているのに、ケアマネの私が、動揺している場合じゃないだろう!!』

まるで、横っ面を張り倒されたような、衝撃を受けた。

そう、私はまた、ご利用者様に助けられたのだ。

 

私は、ケアマネとして末期がんのかたの支援をするのは、本当に初めてだった。

ケアマネになって、2年目に入り間もなく、父が肺がんを再発し根治不可能といわれてしまった。そして、私が父のキーパーソンとなった。

そのため、あえて、末期がんの方の担当は断っていた。

『絶対に、ご利用者様とご家族が、父と自分に重なるだろうし、娘としての感情に引きずられて、冷静な判断は絶対に出来ない』と、わかっていたから。

 

 

私は、ケアマネとしての冷静さを取り戻したところからは、逆に『がんの父を自宅で看取った体験』が、ケアマネとしての私の判断を支えてくれた。

 

訪問看護師さんが、詳細をいつも本当に細かく、私に報告をして下さった。

おかげで、お会いしてなくても、ご利用者様の状態が私でも把握できた。

その判断材料のひとつが、父が悪化していく状態をこの眼で見てきたことだった。

訪問看護師さんの話の内容から、父以上に悪化が早いことがわかった。

父でさえ早かったのに、それ以上の早さだった。

残された時間がもう無いことは私でもわかった。

 

実は、介護用ベッドの納品を早めたのは、訪問看護師さんからの助言をうけてのことだった。

福祉用具の方に頼み込んで、納品予定を早めて、すぐ納品し、その場で初回訪問と初回アセスメントから担当者会議まで一気にやった。

なぜなら、私が自宅訪問する日よりも先に入った訪問看護師さんが、電話で私に状態を説明して下さり『この方の状態は、とても厳しい』と、訪問看護師さんから助言を受けた。また、私自身お会いする前から、それまで通院していた病院側からの情報や、電話での家族との仮アセスメントを通して、急がないと駄目だとわかっていた。ただ、家族が都合がつかないといってすぐに動けなかった。多分家族はまだ時間ある、まだ大丈夫と思っていたのだろう。
しかし、私から家族に『時間が無い』とは言うわけには行かなかった。
なぜなら、私は医師でも看護師でもないのだ。

その5日後に、再度訪問をしたら、5日にしかたっていないのに、ご本人の状態が急激に悪化していることが、介護職出身の私でさえ、すぐにわかった。

ベッドのサイドテーブルに、みたことがあるお弁当箱大の容器があった。

ものは違うが、それが何であるかは、すぐにわかった。

父も使っていた『痛み止め』。それは、腹部に針を刺して固定して、点滴のようにして、痛み止めの薬を身体に入れるのだ。

それを使用しているということは、薬が飲めなくなっていることを示しているも同然だった。

 

ここまできたら、『もう、ケアマネが主体で出来ることは何もない』ということもわかった。

これは、私の逃げ口実ではない。本当の事だ。

もう、この先は、訪問診療の先生と訪問看護師さんが主体で動く状況である事は、娘として経験済みだったから。

だから、私は、訪問看護師さんの後方支援で、介護保険を含む福祉関係を全てを整える『脇役』に徹することに決めた。

幸い、訪問看護師さんは、本当に細かく私にもご本人の状態を電話で報告して下さり、訪問看護師さんの『医療職として視点での見解』と、『ケアマネに動いて欲しいこと』をはっきりを依頼して下さったので、私は、その依頼を受けて動いた。

先生と訪問看護師さんが、仕事をしやすくするために。

そして、ご本人とご家族が安心できるように。

 

訪問看護師さんから、こんな依頼がきた。

『介護用ベッドを、リビングに移してほしい。』

理由は、隣の部屋に置いたベッドに寝ていると寂しいのか、どうしても無理をしてリビングに来てしまうみたいだ。とのこと。

ベッドを置いてある部屋と隣のリビングは仕切りの襖は全て外しており、事実上繋がっている。

しかし、私達からすると、短い距離でも、ご本人にとっては『とても遠く』に感じるのだろう。

 

私は、最期の頃の『母の姿が見えないと不安がる父』を思いだした。

 

訪問看護師さんも同じ意見で、『きっとご家族が集まるリビングで過ごしたいのでしょうね』ということで、福祉用具の方に電話で再び頼み込んだ。受話器を持ったまま頭を何度も下げた。

福祉用具の方は快く承諾して下さり、その日のうちに対応して下さった。

実は、福祉用具の方は、父の時にお世話になった方でもある。

訪問診療の先生と訪問看護師さんは、今まで通院していた病院の相談員さんが手配して下さったが、福祉用具の事業所は、この方の会社にするとすぐに決めていた。

ご家族も、事業所の選択はケアマネに一任して下さっていた。

ターミナルの支援が初めての私には、サービス事業所の方のお力をいつも以上にお借りしなければならかった。

ターミナルの支援に未熟なケアマネに助言と苦言を、いつも以上にはっきり言ってくれるくらいの、経験豊富な担当者でないと、今の私では無理なことはわかっていたから。

 

福祉用具の方が介護用ベッド一式を納品したあとに、私におっしゃった。

『かたつむりさん、納品した福祉用具一式は、最期まで交換しないで済むものを納品しました。マットレスも褥瘡が出来ても、よほどの悪化がおきない限りは交換不要の物を納品しました。途中でマットレスの交換することは、更に状態が悪化しているご利用者様には、あまりにも負担が大きすぎます。マットレスの交換だけもです。だから、今回の納品の商品で最期まで過ごせますから、その点は安心して下さい』

この説明は、私にとって、とても大きな勉強になった。

 

このかたの支援をしているときに、『やはり、自分は父の死から全く立ち直っていないんだ』と、気づかされた。

そして、がん患者や家族の支援団体である『マギーズ東京』のドアを叩いた。

ここは、悪友看護師から、父の死から早い段階で教えてもらっていた。

しかし、それなりの距離があり、当時、心も身体もボロボロになりすぎていた私には、あまりに遠い場所だった。

そこまで行ける体力すら無かったのだ。

今回、臨床心理士さんに長い時間話を聴いてもらった。たぶん、2時間は話していたと思う。

自分が頭に浮かんだもの、思い出したことをそのまま言っていたので、自分が発する言葉は、全く整理されていなかっただろう事は、自分でもなんとなくわかっていた。

そして、涙があふれて止まらなくなった。

 

臨床心理士さんは私にこう言って下さった。

 

『今までのように、最期までお父さんが家長として一家の大黒柱であり続けられるように、最期までお父さんらしく過ごすことが出来るようにと、あなたは頑張ったのですね。そしてやり遂げたのですね』

 

家族や親類にも、わかってもらえなかったことだった。

ここに、私の『父への想いをわかってくれる人はいた』そのことに、私の心が初めて救われたような気がした。

そう・・私は、『最期の瞬間まで父のままでいて欲しい』と願っていた。

父はまさに、我が家の大きな大黒柱だった。

家の大事は全て父が決断して、家を、そして家族を守ってきた。

決して父と私の関係は、良好ではない部分も多かったが、それでも、私にとって父は家族を守り続けてきた『家長』だった。

だから、父は釣り三昧の釣りバカではあったが、基本的に自分の事を優先にすることは殆ど無かった。

自分の再発したがんが治らないと分っても、家族を優先にした。

『お母さんが大変だから、俺は最期は病院でいい』と父は言った。

その、父の言葉が私には辛かった。

なぜ、この状態になっても、父は自分の望みを言ってくれないのか?

『俺は最期までこの家にいたい。俺はこの家で死にたい』と。

それは、父が『家長』であるが故に、自分の個人的希望を口にすることを、『父が自分で許さなかった』のだろう。

 

だから、私は、父の残された時間を、父が一家の大黒柱のままでいられるように、そしで父らしく過ごせるように、奔走しつづけた。

それと同時に、父が『最期まで自宅で過したい』と選択がいつでも出来るように、その環境も整えた。

自分が出来ることは全てやった、全て整えた。

あとの判断は、父と母に任せることにした。

ここからは、父が自身で決めて欲しいと思った、『父が父でいるために』。

そして、父は最期まで自宅で過ごした。

 

父が亡くなった後に母から聴いた。

私には言わなかったが、父は母にこう言ったそうだ。

『お母さん、俺、最期まで家にいてもいいか?』と。

母は『もちろん、家にいていいよ』と、その場で返事をしたそうだ。

 

臨床心理士さんは、私の父への想いをわかって下さった・・・。

そう思ったら、胸のつかえが少しだけだが、楽になった。

 

来て良かった、話を聴いていただけて、本当に良かった・・・そう思えた。

 

臨床心理士さんから、

『お父さんの闘病を支えてきたこと、今回のケアマネとして初めてのターミナルの支援をしたことで、これからケアマネとして、末期がんの方の支援にどう関わるべきを、考えていくきっかけになったかもしれませんね』

そう言われた。

 

そのとき既に、自分のなかで、『末期がんの方の支援は、『主体は訪問看護師さん』である。そして、ケアマネを初めとした『福祉職は脇役』として、訪問看護師さんと患者さんと家族を支えるのが役目である』と、今の時点ではあるが、ケアマネとしての自分のやり方を見つけていた。

 

マギーズ東京に行ってから数日後のことだった。

帰宅途中に、訪問看護師さんから電話があった。

『もう、意識が混濁している、排泄もベッドでおむつ交換です。もう長くないです』

私は、早い段階でベッドの使用状況の確認も兼ねて、一度モニタリング訪問はしていた。だから、看護師さんにこう言った。

『私は、モニタリング訪問は済んでいます。ですから、ご本人とご家族の大事な時間を邪魔したくないので、私からはあえて訪問はしません。ですから、何かあれば連絡を下さい。すぐに対応しますので』と。

褥瘡ができかけていると、看護師さんが言っていたので、福祉用具の方がそのことも視野に入れて、褥瘡ができてもよほどのことがない限りは、最期まで交換しないで済むマットレスを入れて下さっています』と、お伝えした。

 

すぐに娘さんに電話して意思確認だけした。

『私達家族で、最期まで自宅で介護して看取ります』と、しっかりとした返事が帰ってきた。

私が担当を引き受けたときは、自宅での看取りにするのか、最期を病院にするのか、全く決まっていなかった。

けれど、『家族で自宅で看取る』と、どのような選択であれ、最期の時間をどうすごすのかを、しっかりと本人と家族で決めることが出来たことに、私は、とても安堵した。

 

いつ依頼があるかわらないと思い、常に持ち歩いていた『ストレッチャーでの移動が可能な介護タクシーのリスト』の出番は、結局一度もなかった。

 

ご本人が他界されたのは、その4日後だった。

訪問看護師さんから電話で報告を受けた。

私が担当を引き受けてから、2週間ほどのことだった。

 

 

落ち着いた頃をみはからって、私から娘さんに電話をした。

最期の挨拶をしたいので、お線香をあげさせていただけないかと、お願いした。

しかし、ご家族は既に仕事に戻っているため、互いの日程が合わないため、娘さんから『お気持ちだけで充分です、本当にありがとうございます』と、私を気遣って下さった。

 

大切なひとを看取った家族がこの後どうなるのかは、痛いほどよくわかっている。

娘さんが、再び自分と重なった。

この方も、私と同じように、これから苦しむのだろう・・・と。

 

娘さんに『今は、まだ気が張っていると思いますが、何かの節目でその緊張がきれてしまうことがこの先、あると思います・・・』と、話したら、娘さんは私にこう訴えてきた。

 

『もう、私、哀しくて辛いんです』と。

 

だから、私は娘さんに、マギーズ東京の存在を伝えた。

遺族を支援する制度は今の日本にはないこと。

その活動をしているのが、NPOやボランティアや一部の病院と・・とても少ないこと。

だから、『どうしても辛くて苦しかったらここに行ってみて欲しい』と、伝えた。

私が、最期の挨拶をしたかった理由のもうひとつが『この話を伝えたかった』からだった。

 

そして、少しでも娘さんに安心してもらえるように、あえて私は、自分の個人的な事を話した。ケアマネは『自分の個人的な話はするべきではない』という人も多いだろう。

しかし、正論が常に正しいわけではないし、正論とケアマネの基本的な立ち位置にこだわりすぎたら、逆にご利用者様とご家族の苦しみを解決できないことも多々ある。

だから、私は、『ケアマネ』であるとともに『父をがんで亡くした娘』としても話した。

 

専門職の言葉よりも、素人でも同じ立場の人(当事者)の言葉のほうが、相手の心に響くことは沢山あるのだ。

それを、専門職は、あまりにも知らなすぎる。

だから、あえて私は自分と父の事を娘さんに話した。

 

『私も今年の2月に父をがんで亡くしました。家族で父を自宅で介護して自宅で父を看取りました。実は、私も娘さんと同じなんです。実は私はマギーズ東京に行き、父の話を聴いていただいて、気持ちが少し楽になりました。だから、娘さんもご家族もおひとりで抱えないで、このようなところへ足を運んでみて下さい』

 

余計なお世話という人もいるだろう。

だが、ある意味では、家族は看取った後のほうが『苦しい』し『辛い』のだ。

 

本人が亡くなったことで、ケアマネの支援も訪問看護師さんの支援も終わりになる。

そのあとの遺族への支援は、遺族の心のケアは全くないのだ。
(一部の病院では遺族向けの外来があるそうだが、私も調べたが本当に少ないのだ)

 

残された家族は、『心の中の大きく開いてしまった空洞』と『深い哀しみ』と『喪失感』を抱えたまま生きなければらない。

その哀しみがいつ癒えるのか、心に空いた空洞がいつ小さくなりふさがるのか、全く解らない。

出口のないトンネルのなかを歩いているような、そんな気持ちにもなるだろう。

そして、相談するところがなく、苦しくて哀しい胸の内をはき出す場所がないのだ。

それとともに、『あれで本当に良かったのか?』『もっと出来ることがあったのではないか?』と、永遠に答えが出ない問いを自分の中で繰り返し続けていくのだ。

 

今の自分が、まさにそうだから。

 

 

かつて、私はケアマネになったら『末期がんの方の支援が出来る』ケアマネになりたい。

そう思っていたし、それは今でも変わらない。

 

介護職時代に、大好きだった叔父が、末期がんで病院で苦しみ続け、モルヒネ漬けになって死んでいった。

誤解の無いように言っておくが、病院は悪くない。

逆に、先生にも看護師さんにも、本当によくしていただいた。

ただ、がんに関しては、打てる手が少なすぎる病院だったのだ。

すでに、叔父は転院できるだけの体力も時間も無かった。

医者嫌いの叔父は、ギリギリまで病院いいかなかったから、結果的になんの手も打てなかったのだ。

真面目に生きてきた叔父が、なぜ、最期にあんなに苦しまなければならなかったのか・・・今でも、納得できない自分がいる。

そして、あのとき、ケアマネとしての今の自分の知識と経験があれば、何か手を打つことも出来ただろうに・・・と思うと、今でも悔しくてならない。

 

この『叔父への想い』が、父のときも、今回の担当ケースでも原動力になったのだ。

 

ケアマネとして、今の自分が出来ることはやったつもりだ。

でも、これで本当によかったのかどうか・・・その答えは、まだでていないが。

 

甘い判断で引き受けた、末期がんの方の支援。

 

ご利用者様本人から、ご家族から、一緒に支援をした支援者の方々から、私は沢山の事を教えていただいた。

そのことに感謝しながら、ご利用者様のご冥福をお祈ります。

そして、残されたご家族の方の哀しみと苦しみが少しでも軽くなることを祈りたいと思います。

                                     合掌







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研修に参加できる『幸せ』

ご無沙汰しております。

 

新しい職場で勤務を始めて、もう少しで3か月になります。

 

先月より、社長が担当していたご利用者様を引き継ぐかたちで、担当を持ち始めました。

今月になって、新規の方も少しづつですが担当を始めています。

 

今の職場は立ち上げたばかりの会社なので、それなりに『かなり大変』です。

 

ですが社長は、私が身体を完全に壊してしまい、思うように動けないことを承知の上で採用してくださり、また『かたつむりさんの体調を見ながら担当件数を増やすペースを考える』と言ってくださっているので、とてもありがたく思っています。

私も、その社長の言葉に甘えすぎないように、早く30件を担当できるように努力したいと思っています。

前職場のように『半年で30件持って当たり前』ということは言われませんし、逆に『半年で30件持つのは当たり前じゃないから』と、おっしゃってくださっています。

 

しかし、私は、会計事務所で経理・税務事務の仕事をしていた経験と、通信教育課程の経済学科の短大を卒業しているので(←会計事務所勤務時代に税理士の受験資格を取ろうと考えてました)、会社経営がなんとなくではありますが、多少はわかるんです。

もちろん知識上の事だけですけど。

会計帳簿で、会社の『体力』を判断することくらいは、一応私もできます。

単純な話ではありますが、会社経営の視点で考えると、私が30件を持たないと、自分の給料分が稼げないのです。つまり赤字が増えてしまうわけです。

しかも、会社は単独居宅(=ケアマネしかしない会社)です。

(実は、あえて、今回も単独居宅に就職しました。)

そう考えると、社長の言葉に甘えてばかりではいられないのです。

しかし、これで無理をして件数を増やすと、前職場と同じ失敗をします。

しかも、勤務先が以前と違う保険者(=市区町村)なので、法律は同じなのですが、多少やり方が違うので、先月はその違いでとても混乱して、かなりパニックになりました。

前職場の保険者と今の会社の保険者とのやり方の違いに、ようやく少しづつ慣れてきたところです。

 

そして、今の段階で、書類作成の業務を溜めない習慣をしっかりと身につけなければ、また、前職と同じ失敗をして、自分が苦しむことになるのは解っていましたので、事務処理を含めた一連の業務の流れを身につけることに必死になっています。

 

しかし、壊れた身体は、やはり元には戻りません。

一度身体を壊すと、本当に大変なんだな・・と、身をもって痛感している毎日です。

思うように身体が動かず、とても疲れやすくなり、また、体調も崩しやすくなっています。

自分の思うように動かない、無理がきかなくなってしまった自分の身体が、本当にもどかしいです。

今でも『生もの』は食べられない状態ですし、たぶん『お酒』はもうこの先は身体が受け付けないと思います。

でも、今の壊れたままの自分の身体と付き合っていくしかないので、この身体でどうやって仕事をすれば、自分の心身に負荷がかからないのかを、模索しています。

 

実は、就職してからは、積極的に研修や勉強会に参加しています。

ようやく、研修に参加できる環境になりました。

今は体調を考えて、地元の研修や勉強会のみにしていますが、それでもこの2年間は、とても自己研鑽の勉強や研修を出来る環境ではなかったので、こうして研修や勉強会に参加できることが、とても嬉しいです。

しかし、父が亡くなったから、こうして研修に行けるようになったわけですから、そう思うと正直とても複雑です。

 

介護は大変だったけど、それでも父ともう少し一緒に過ごしたかったです。

父の余命があと2週間といわれても、すぐに父の元へいくことが、仕事の関係で許されない状況だったので、私が父の元へいったときには、もう父は声を出すことができなかった。

そして、その翌日に危篤になり、次の日の早朝に亡くなりました。

しかも、父は亡くなる数日前から私が来るのを待っていたことを後から知りました。

『かたつむりはいつ来るんだ?』と父が何度も繰り返し母に訊いていた。

『もう一度最期にしっかりと父と話をすることができなかった』

そのことは、今でも私のなかで引きずっているのです。

 

まだ、父がいなくなった現実に、気持ち整理がついているわけではありません。

 

でも、前へ進むことが、父が一番望んでいることだと思うので、今はとにかく、仕事のスキルアップと自己研鑽のために、研修や勉強会に積極的に参加しています。

それが出来ることは、やっぱり嬉しいです。

研修や勉強会に参加すると、いつも新鮮な発見があります。

今の私は、学ばなければいけないことは山ほどあります。

介護保険以外にも、他分野の勉強もしたいです。

一応『社会福祉士』の肩書きを持っているわけですから、福祉全般を解っていないと、みっともないと思います。

私の頭の中の情報は、介護業界以外は古いので、全分野の情報の入れ替えもしたいです。

 

それと、私は、父が亡くなった後に『苦しんだ』経験から、グリーフケア(=遺族の心のケア)の勉強をしたいと思っているので、出来れば、通信教育過程の大学で心理学の勉強をしたいと思っています。自分が入学したいと思っている大学では、グリーフケアの勉強もできるのです。

この大学のことは、まだうつ病を抱えていた時に通っていたカウンセラーさんから聴いていたので6年ほど前)、チャンスがあったら入学したいとずっと思っていました。

今は一人暮らしをしているので、通信教育過程の大学の学費は安いとはいえ、自分の給料に生活がかかっているので、学費をつくれるかどうか解りません。

もしかしたら、出来ないかもしれませんが、チャンスがあったら入学して勉強したいと思っています。

 

今まで休んでいた音楽教室も、まだサックスだけですが、レッスンを再開しました。

フルートのレッスンは来月から再開予定です。

少しですが仕事以外の本を読む時間も持てるようになりました。

なにより、以前と違い、土曜日と日曜日が普通に休めるのです。

睡眠も普通にとれるのです。

睡眠時間を削って仕事をしなくて良いのです。

 

 

今、私は、『世間一般の日常生活』を、少しづつではありますが、取り戻し始めています。

 

そして、まだ、担当件数が少ない今のうちに、受けられる研修は受けてみようと思います。

 

今は、貪欲に福祉業界に限らず様々な分野の勉強がしたいです。

まあ、フトコロとも相談しながらになります。

本代にひと月に数万円も使えませんから(笑)

地元の図書館も活用したいですね。



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『仕事マニュアル本』作成中

8月から社会復帰しました。

新しい職場で勤務を始めています。

 

知人・悪友達に『自分の命より大事な仕事はないからな、今度こそ無理は絶対にするな!』と、皆さんに厳しくクギを刺されました。

本気で心配して怒ってくれる人がいることはありがたいものです。

 

私は体重が10kgも落ちたわけですから、本当に楽観視など出来ない状況でした。

あと、数日無理を押して仕事をしていたら、本当に倒れていたかもしれません。

現実に、仕事を辞めてから、電子レンジでものを温めることが出来ない、電気ポットに水を入れてお湯を沸かすこともできないくらいまで、動けなくなりましたので。


私は、太っている方なので、10kg減少しても、まだどうにかなったのかもしれません。

これが、もともと痩せている体型のかたが、10kg落ちたら、とても危険である事は、容易に想像できます。

 

今から考えても背筋が凍ります。

 

家族介護の、当事者以外からは見えない恐ろしい部分を、身をもって経験してしまった・・・そんな気持ちです。

 

 

 

今度の社長さんは、表裏のない人のようで、サバサバしたタイプの人のようです。

女性の集団の中で仕事をすることが苦手な私としては、今度の社長さんの気性はとてもありがたいです。

社長さんいわく『私は瞬間沸騰湯沸かし器な人間』とのこと。

『私も同じです』と社長さんには伝えました。

 

私も今でこそ、若いときよりも沸点が上がりました。

しかし、一度キレたら何をしでかすか解らない人間である事は自分自身も解っています。

ですから、『頼むから私を怒らせないで!!』と、願っているのですが、わざとなのか、私の地雷をしっかり踏んでくれるひとがいます。

実は私は、一定の限度を超えたことをされた場合、かなり根に持つタイプなんですよね。

 

 

 

話はそれましたが、私は今の社長には、採用面接時に、前職場を辞めた経緯と、今の自分の体調をすべて話しました。それでも社長は、それを承知の上で私を採用してくださいました。

そのこともあり、社長は、私の体調に配慮して下さり、とてもありがたくと思っています。

この酷暑なので、正直、身体がついて行きません。

先日、地元のケアマネ協会へ会員の申し込みに行ってきたのですが、移動時間は1時間を少し越えたくらいで、今まで普通に移動していた時間でした。

でも、しっかり熱中症になってしまい、経口補水液や、塩分が含まれる飲み物の500mlのペットボトルを何本も飲む羽目になりました。

 

体力が無いことは自覚していましたが、ここまで落ちているとは思いませんでした。

ものすごいショックを受けました。

社長自身も、さすがにこの酷暑での連続での訪問は堪えたようで、

『かたつむりさん、しばらく、日中は外へ出ない方がいい、具合が悪くなる。現に私が具合悪くなっているから』と、言われました。

かといって、涼しくなるまで担当をもたないわけにもいきません。

今の事業所は、以前の職場よりも営業エリアが狭いので、移動に時間を取られることはあまりないと思います。

(私が、前の職場での担当していた利用者様のエリア範囲を話したら、社長が驚いていました)

ですから、社長には、『暑い間は、訪問が連続で数件になることは避けて、経口補水液常備で訪問に行くので、予定通り引き継ぎをして大丈夫です。』と、伝えました。

 

前職場で右も左も解らない状態の初心者で2ヶ月目に13件引き継ぎしたことを考えれば、今の職場は、私にとっては『幸せ』ですよ。

 



 

私は、引き継ぎが始まる前に、どうしてもやっておきたいことがありました。


 

私は、書類作成そのものは苦手ではありません。

10年間一般企業で仕事をしていましたので、社内文書・社外文書・会議書類など、様々な書類をつくってきましたし、経理畑の人間ですので、数字に関しても全く平気です。

 

しかし、それでも、ケアマネになって一番苦労したのは、書類作成でした。

特に支援経過が苦手でした。

本を読んでも、自分が探している答えが見つからない。

だから、マニュアル本に頼るのをやめました。

ひとりひとり違うのだからそこに『答えはあるはずがない』と私は思いました。

 

前職場では「『必要最低限』の事が書いてあればいい、省けるものは省いていい」と言われましたが、その必要最低限が解らない。

なぜなら、自分は基礎が出来ていないから。

省略というものは、基礎がしっかりと出来て、始めて省略ができるものです。

その『基本』を理解が出来ていない私には、いきなり必要最低限(=減算にならない範囲)を言われても解らないのです。

それを質問すると『運営基準と解釈通知を読んで』との返事が返ってきました。

前社長より例文は受け取りました。しかし、基本中の基本のみで、イレギュラーな部分の書き方が、私にはどうしても掴めなかったのです。

自分で調べて理解するには、当時初心者の私には時間がかかることでした。更に、2年目に入ったときに自分が頸椎ヘルニアを発症して全身の激痛に耐えながら、癌を再発した父の闘病で奔走しなければならなかった私には、自分で調べて勉強することはなど、身体的にも精神的にも時間的にも出来ませんでした。

しかし、それを『いいわけ』とされました。

 

でも、今の社長は、そのことを理解してくれています。

だから、『基礎からのやり直しをしたい』という、私の気持ちも尊重してくださいました。

遠回りだけれど、長い目で見れば、ケアマネとしての力がしっかりとつく。
『急がば回れ』ということです。

そうなれば、会社としても『しっかりとした戦力』にもなります。

そして、会社としても、書類作成が出来なければ、後が大変です。

だからこそ、『社長は私の基礎からのやり直し』を認めて下さったのだと思います。

 

 

今、自分を取り巻く環境が、自分の体調と生活以外は落ち着いたので、冷静に色々と考えられるようになって、ようやく自分がケアマネとして『今、自分がケアマネとして何を身につけなければならないこと』なのかが、解り始めたところです。

 

そのため、引き続き基礎固めを続けています。

 

 

まずは、1ヶ月かけてこんなものをつくりました。




 

自分専用の『仕事マニュアル』です。

インテーク→アセスメント→ケアプラン作成→サービス担当者会議→モニタリング→再アセスメントの流れを、書籍やインターネットから情報を集めて、自分なりの『マニュアル本』を作りました。

とんでもない厚さになりました。

暫くは、この本に頼りながら仕事をしていきます。

 

 

そして、お仕事マニュアルの第二弾として、こんなものをつくりました。


 

 

 

 

自分専用の『支援経過の文例集』です。

 

前職場で自分が入力していた支援経過の文章を思い出しながらもう一度見直して、その上で、『書籍』や『インターネットでの様々な文例集』を参考にして、30年度法改正の内容も自分なりに踏まえながら、つくりました。

 

気がついたら30ページ近くまでになってしまいました。

 

このマニュアルをみながら、またはワードで立ち上げてコピペしながら、試してみたいと思います。必要であればその都度追加や修正をしていきたいと考えています。

 

 

そして、担当者会議の要点の書き方やケアプランの文章等もインターネットの文例を参考にして自分なりのマニュアルを作りました。






 

 

当面は社長のケースを引き継ぐかたちで担当を増やしていき、新規のかたを持つことは当面は避ける方向で、社長と話をしています。

今の保険者や地域のサービスの情報が、私がまだ分らない状態で新規を受けるのは難しいだろうと、社長が判断したためです。

この社長の判断はありがたかったです。

月5件ペースでまずは30件を持つことを目標にしていくことになりました。その期限は特にありません。

当初は、1年後に30件との話でしたが、新規の依頼が多く入っているので、そのようなことも言っていられなくなりました。

社長から『かたつむりさん、話が変わってごめん』と、言って下さいました。

『社員に謝って下さる社長とは、器量が凄いな』と、思いました。

人間、なかなか自分の非を認められず、それを他者になすりつける人もいます。

私も、なぜか全て私が悪いことにされて、酷い目に遭ったことは何度もあります。

だから、謝罪がちゃんと出来る人は信用できる人だと思いました。

 

この会社なら大丈夫。

そう思っています。

 

しかし、社長は、『かたつむりさん、突然来なくなったりしないでね』と、毎日何度も私に言います。

理由を訊いたら、就職したけれど、自分に合わないと思ったら、1週間で突然来なくなるケアマネが多いとのことでした。

その話を訊いたときに、私は開いた口がふさがりませんでした。
そんなことをしているケアマネは、どこに行っても、ケアマネとしてまともな仕事は出来ないと思います。
あまりにも無責任すぎます。


私は、前職場では自分で引き継ぎは出来なかった。
どんな正当な理由であれ、結果的にご利用者様とご家族に、各サービス事業所に迷惑をかけてしまった。
だから、ご利用者様とご家族に、各サービス事業所には、本当に申し訳ないことをしてしまったと思っています。
その謝罪すら、直接することは許されなかった。
混乱を大きくすることを避けるためには仕方がなかった。
でも、ご利用者様とご家族に、各サービス事業所に謝罪できなかったことが、今でも心残りです。
だから、突然会社に来なくなるなんて、私の価値観では考えられませんでした。



私は、医師からドクターストップをかけられたので、仕方がなかったし、それだけの余力はもう無かった。

私は、ずっと自分の壊れた身体を、無理矢理動かして仕事をしていたので、『もしかしたら自分で引き継ぎが出来ないかもしれない』と、すでに父がターミナルになった時点で想定はしていた。その場合に供えて、プラン変更等が必要な利用者は、1人を覗いて全て、プラン変更を終わらせた。

残りの一人は入院中で容態が安定して、在宅へ戻るための支援の方向性が出来たとこまでは、どうにかやった。

本当はそのかたが退院して、新しい支援体制をつくるまではやりたかった。
けれど、もう身体が限界を超えてしまっていた。
悔しかったけど、申し訳無いと思ったけど『もう無理だ』と思った。

だから、万が一引き継ぎが出来なかった場合にそなえて、全てのご利用者様とご家族には、そのときにできる限りの布石は打っておきました。

『もし、万が一こういうことがこの先起きたら、このような方法がある』などの情報提供をしたり、サービス事業者間のつながりをしっかりつくっておく等、思いつく手は全て打ちました。

ご利用者様とご家族にかけるご迷惑を、少しでも少なくするために。


それでも、やはり、どのような理由であれ、この状況になってしまったことに対して、ご利用者様とご家族、サービス事業者のかたには、本当に申し訳ないと思っています。

ただ、もれ聴いた話では、ご利用者様とご家族は逆に私の体調を心配して下さっているとのことで、とてもありがたいと思いました。

同じ、在宅での家族の介護を経験した者同士だからこそ、ご利用者様とご家族のかたには、『私が潰れた理由』を解って下さっている方がいるのだろうと、推察しています。

本当に、ありがたく思っています。

 

同じ失敗は、繰り返さない。

もう、身体は元には戻らないけれど、今の自分の身体状況に合わせながら、『ケアマネージャーとしての責務』に、もう一度真摯に向き合いたいと思います。






拍手やコメントをくださったかた、ありがとうございました。
なかなか、コメントのお礼のお返事を書くことができなくて、申し訳ありません。
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新たなスタートライン

花になれ:指田郁也氏

私は、かつて鬱病で苦しんでいたときに、この曲と、この曲に自身の思いをのせて演技をする羽生選手の姿に励まされました。

 

それからは、私は、つらいことや苦しいことがあるときには、いつもこの曲と、この曲で演技をする羽生選手の姿を見ながら、必死に踏ん張ってきました。

 

そして、今回もこの歌を数え切れないほど聴きながら、今も、這い上がっているところです。

 

 

私は、父を彼岸に送ったあとに、完全に心身を壊し、仕事を失い、どん底まで落ちました。

 

生活費は、父のわずかな生命保険を家族三人で分けたそのお金のおかげで、どうにか繋いで生きていました。

 

父の介護をしている頃から、既にまともな食事は受けつけなくなり、更に3月以降は固形物を受け付けなくなり、昼にパンひとつ食べられればいい方でした。

実際今でも、おかずは軟食状態です。普通に食事が食べられません。

 

体力も落ちるところまで落ちましたので、今年は夏の暑さに耐えられない状態です。

 

それでも、私には『父という庇護者』は、もういないので、今まで以上に自分の力で這い上がるしかありません。

しかも、私が、父の代わりに母を守らなければなりません。

 

 

ですから、体調は戻っていませんが、就職活動をはじめました。

ケアマネとしてもう一度やり直すために。

なりより、生きるために。

 

そして、幸いに、採用先が決まりました。

 

10日以上前に決まっていたのですが、ある人に妨害される可能性があったので、こちらでの報告はギリギリまで控えていました。

この先も、嫌がらせをされる可能性があります。

でも、そのときのための対応は、すでに整えてあります。

 



採用して下さった会社は、小さなケアマネ会社ですが、地に足をついた経営をしている会社でした。

無駄な背伸びはせずに、固定経費は抑えられるところはしっかり押さえています。

でも、必要なところには経費をしっかりかけています。

受け取った名刺は、『外注しているもの』だと、みてすぐに解りました。

名刺は『会社の顔』です。

『会社の事務所』と『社長の名刺』をみて、『この会社の社長は経営者として大丈夫だ』と、確信しました。

 

それまで受けて不採用になった会社は、私のマイナス面のみを見ていました。

しかし、今回の社長は、私のマイナス面もプラス面も両方見て下さいました。

細かく質問を沢山されましたが、全てが的を得ている質問内容でした。

提示された担当件数は『30件』。

一年後に30件持ってくれればいいとのこと。

それなのに、提示された給与は、私にとっては充分すぎる金額でした。

併設がない事業所なので、その条件で大丈夫なのか、私のほうが逆に心配になり、訊いたら、『大丈夫だよ』とのこと。

堅実な会社経営をしている証だと思いました。

 

 

私は、以前の会社の社長とその知人に、半年で30件持てない私に対して『半年で30件持って当たり前!!』と、酷評されました。

その言葉が、ずっと私には『足かせ』になり、『トラウマ』にもなりました。

『半年で30件持てない私は、ダメはケアアネなんだ』・・と。

そして、色々な面でかなり無理をしました。

『普通と言われた35件を持つ』ために。

しかし、採用して下さった社長さんの言葉から、決して『半年で30件ががあたりまえではない』ということが解りました。

そのおかげで、『半年で30件持って当たり前!!』という言葉から、ようやく解放されたような気がしました。

 

 

私自身の体調が崩れていく中で、残された時間がない父の闘病を支え介護した1年3ヶ月。


自分の体調を優先することはやはり出来なかった、

仕事をしながらでも『やるしかなかった。』

父の過ごす残された時間は、あとわずかしかなかったから。




父が今年の正月を迎えられたのは、本当は『奇跡』だった。

なぜなら6年前に肺がんの手術直後に執刀医から『再発したら1年です』と言われていたから。

この言葉は、さすがに父には言えなかった。

だから、タイムリミットの1年を見据えて夢中で奔走した。

父の残された時間を守るために。

途中で、両親とケンカをして、話し合いの末、家を出た。実家とも距離を置いていた時期があった。

でも、やはり、父を見捨てることは出来なかった。

 


無理を重ね続けた私は、完全に心も身体も壊れた。

前職場のことで、何度もフラッシュバックを繰り返した。

精神的に完全におかしくなってしまった。

身体も、ベッドから起き上がることも出来ないくらいに、辛い日々が続いた。

 


『もうダメだ』・・・そう思ったときに、脳裏に浮かんだのは父の顔だった。

 

今の自分の姿を父は悲しんでいる。

そう思ったときに、

『自分の為だけでなく、父の為ににも、もう一度這い上がってやる!!』

そう思ったときに、自分の気持ちを切り替えることが出来た。

 

 

私を助けてくれたのは・・・父だった。

 

 

元々、長い間うつ病を患っていた私が、寛解して、ケアマネの仕事に就けたこと自体が『奇跡』だった。

今回のことで、極限までおかしくなっていた精神状態は、今は薬の力を借りながらだが、どうにか以前に近い状態まで回復した。

しかし、身体は元には戻らなかった。

この酷暑に、既に身体はついていけない。

昨年の酷暑を炎天下のなか自転車で動き回っていた自分と、今の自分では、全く別人なくらいまで、体力が落ちてしまった。
もう、『元の身体』には戻らないだろう。


それでも、この短期間で、ここまで動けるようになったことも『奇跡』だと思っている。

 

だから、今度こそ、自分の身の丈に合った働き方をして、前職場ではできなかった基礎固めを、今度こそ、一から身につけていこうと思っている。

 

 

私は、今まで生きてきて、『平穏な刻』は、ほとんどなかった。

ようやく落ち着いたと思うと、必ずすぐに、谷底に突き落とされた。

それが、私が今まで生きてきた道のり。

そして、これからも、それが続くのだろう・・そう思っている。

それでも、自分なりに精一杯生きてきた。

そして、これからも精一杯生きていくだけだ。

 

 

 

『女ばかり(の家族)だったけど、楽しかったよ』

父がケアマネさんにいった言葉。

そして、最期に家族3人で見届けた『父の穏やかな笑顔』。

 

自分も、人生の最期のときに、父のように後悔はないと思えるような、生き方がしたいと、改めて思った。

 

 

もう、人生の折り返し地点は過ぎている。

自分が自由に使える時間がどれくらいあるのか、解らない。

 

 

だからこそ、これからは毎日を大切に生きていきたいと思った。

 

 

ターミナル期に入ったばかりの時に、釣り仲間の孫を抱いて笑っている父の写真が、私の部屋にある。

既に在宅酸素をつけていて、パジャマ姿の父。

だけど、やせ細るまえの、元気なときと同じ笑顔の写真。

 

父に供える物は、水と、緑茶と、夕方の晩酌の日本酒と、花。

父が最期まで口にしていたのは、『水道水』だった。

 

 

 

『お母さん、水が一番美味しいよ』

 

ほとんど飲めないけれど、水道水を少しだけ飲んだ時には、父は、いつも笑顔で母に言っていたそうだ。

 

 

その話を、父が亡くなった後に私は母から聴いた。

その話をきいたときに

『私でも、父と母がふたりだけですごす最期の時間を、どうにか守りきる事が出来た、と思っていいかな・・・』

と、正直安堵した。

 

 

だから、父には、必ず『水道水』を供えている。

 

花も立派な物は買えないけれど、できる限り花をきらさないように供えている。

その為に、値段が少し高かったけど、花を長持ちさせるために、しっかりした切り花用の鋏も買った。

 


先週買った、切り花の花束のなかの百合の花は、すべで蕾だった。

切り花の蕾って咲くのかな??

そう思いながら買って、父に供えた。

 

3日後に、2輪の百合の花が綺麗に咲いた。

 

現実は、努力しても報われないことの方が多い。

けれど、得るものは必ずある。

そう信じて生きてきた。そしてこれからも、そう信じて生きていきたい。

綺麗に咲いた百合の花をみてそんなことを思った。

 


 

私のこの毒吐きブログに来て下さっている方には、本当にご心配をおかけしました。


これからは、もう一度、前を向いて生きていこうと思います。

それが、父が一番望んでいると思うから。

 

8月1日から勤務が開始になります。


新たな職場で、もう一度やり直します。

 

これからも『ご利用者様とご家族の生活と人生を支えるため』に、ケアマネとして、これからも精一杯やっていきたいと思います。

 

改めて、これからもよろしくお願いいたします。

 

かたつむり






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