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ただ今、人生の仕切り直し中のケアマネ
プロフィール
HN:
かたつむり
性別:
女性
自己紹介:
心と身体を壊し、まだ人生の仕切り直し中のケアマネ。

保有資格:社会福祉士・介護福祉士・介護支援専門員。ついでに日商簿記2級・全商簿記1級
(Twitter@renrinoeda2)
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大黒柱

私の家は、経済的には苦しい家だと、
幼いころから自分なりに認識はしていた。

3畳と6畳の二部屋、一畳半ほどの台所、もちろん風呂はない。
そんなアパートで家族4人で暮らしていた。
銭湯も冬は1日おき。
家に車など当然ない。
私が大人になるまで、そんな生活だった。


礼儀などに対しては、両親は厳しかった。
それでも、私は両親に甘やかされて育った。
9歳までは・・・。


9歳の冬だった。
6学年上の姉が高校受験で公立高校を落ちてしまい
私立の高校へ進学することになった日に
父が私に言った。

 『親だから高校までは出してやる。
  だが、私立は無理だ。
  高校は公立へ行け。
  大学や専門学校に行きたいのなら、
  自分で働いて、その金で行け』

 『お前が結婚する時も、
  お父さんたちはお金は出さない
  自分でためたお金で嫁に行け』

それは、9歳の子どもに『夢を持つな』と言ったことに等しかった。

その日から、両親が私に対してとても厳しくなった。
甘やかされることがなくなった。

更には、姉が何かを『挫折』するたびに
私に対する両親の締め付けが厳しくなっていった。

姉ができなかったことが『お前にできるわけなない』と
両親は、そう思ったのだろう・・・。

何かをやろうとしても
『お前には無理だ』
『お前にはできるわけがない』
その繰り返しだった。


おかげで、私はいまだに『自信』を持つことができない。
私の、仕事での判断や行動は『自信』からではなく、
全て私なりのケアマネとしての『信念』に従って動いているだけである。


ちなみに、成人式の振袖も自分のお金でレンタルし
髪のセット・着付け・記念の写真代もすべて自分が払った。
ただ、高くはないが、両親が
紺のワンピースをお祝いに買ってくれたことは覚えている。
舞台で手話通訳をすることが何度もあったので、そのスーツは大活躍した。



私は、表向きは、親に反抗しない『いい子』だった。


でも両親は、
姉のわがままに近い行動を止めないで
私には、なぜこれほどまでに厳しいのか、
どうしても納得できなかった。


両親の、私へのあまりに厳しさに我慢できず、
20歳代半ばに家を出ることを考えた。
貯金を元手に、ワンルームマンションを買うことも考えた。


そんなときに父が『胃がん』になった。
とても早期の発見だったので、大事には至らず、
外科手術も1時間半で終わった。

だが、麻酔から覚めた父は
眼がうつろで、状況が全く分からず、
『起きる』と言い出して、看護師さんたちに制止された。

麻酔のせいだとはわかっていた。
でもその姿をみて、60歳の父に『老い』を感じてしまった。

『私は、この家を出てはいけない』

そう思った。

それ以降、家を出ようと思ったのは
介護の仕事に就くために、
通信制の4年制の大学への進学をすることを話した時に
父に反対されたときの1度きりだった。
何度も説得しても、『駄目だ』という父に、
「もう一度言って『ダメだ』と言ったら家を出てやる!!」
と、本気で思った。
そもそもは両親が言ったのだ、
『大学に行きたければ、自分で働いて行け』と。
これが最後の説得で、『ダメなら家を出る』と思いながら父に言ったら、
「やるなら『泣き言』は言うな!最後までやりとげろ!」
と、父に進学を認めてもらった。
仕事が忙しく、1年の半分は勉強の時間をつくれなかったから、
2年留年したけれど、無事に卒業した。

それから、両親は
『お前にできるわけがない』
と、言わなくなった。



大人になってから知ったことがある。

私が中学~高校の頃、
両親ふたりで働いても我が家の年収は、今の私の年収よりも低かった。
(その頃は、姉は親の反対を押し切って家を出ていた。)
生活保護は受けられなかったと思うが、
かなりギリギリの生活だった。
そんな苦しい生活の中で
両親が必死に私を高校まで卒業させてくれたのだと、解った。


母から聴いた。

姉と私が子供の時に、ふたりでお金を出して
ハンカチを父に『プレゼント』したことがあるそうだ。
(私は、その記憶がない。)
父は、そのハンカチをボロボロになるまで使っていたそうだ。
しかし、冬のある日、仕事の帰りにそのハンカチを落としてしまい、
引き返して必死に探したが見つからなくて、落ち込んでいたそうだ。


気が短くて、頑固者の父。
でも、今ならわかる。
長い間、家族を必死に守り続けてきた、
強くて逞しい『大黒柱』だったのだと。

父があまりにも、しっかりしていて、強いひとだから、
私には、自分の同世代の男性が、あまりに頼りなく見えてしまったのだろう。
そんなことに気がついたのは、30歳代後半だった。
それから理想の男性は『たぶん父のようなひと』というようになった。
母は「あんな我儘な男はやめなさい!!」と、言っていたが。
それでも両親は、50年以上連れ添ってきたのだ。
父の半歩後ろを歩くように、母は父と生きてきたのだ。




今日、父に言われた。

『明日、頼むな』と。

明日は、検査の結果が告げられる日。


私は、希望は捨ててはいないが、
それでも、覚悟もしている。
楽観視できるものが、何一つとしてないからだ。


『明日、頼むな』は
言葉通りの意味なのか、
『明日、癌と言われたら、その後も頼むな』
という意味も込められているのだろうか・・・。


父の心のなかは、わからない。


父も心の中では、思うことは、色々あったと思う。
肺の外科手術が『できない』ことは父もわかっているはずだから。
しかし、肺に影があると言われたあの日から、
私の前では、父は、見事なまで『いつもの父』だった。


それは、とても『すごいこと』だと思う。

誰にでもできることではない。



明日、どのような結果がまっているのかわからない。
 
良い結果ととなったときは勿論、
もし悪い結果がでたとしても
どのような結果となろうと、 
これからも、父が父らしく過ごせるように、
娘として私が出来る事はしたいと思っている。


『親孝行 したい時には 親はなし』

そうならなくて済んだ自分は、幸せ者だと思っている。



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あと、1週間

今日、仕事を土曜日に振替にして休みにして、
父の、精密検査に付き添ってきた。


結果が出るのは1週間後の26日(月)。
もちろん、私も一緒に行く。


その結果次第で、我が家の今後の全てが大きく変わる。


もし、癌であれば、
もう父には手術は出来ないのだから、
『抗がん剤治療』か『放射線治療』のどちらかになる。
82歳のわりには体力があり、
釣り仲間からは『妖怪』『化け物』とまで言われている父だが、
でも、82歳は82歳。
化学療法に身体がどこまで耐えられるかもわからない。
父は、もし癌だったら『抗がん剤治療』をしたいと言っていた。
意志の強いに人だから、先生を説得してでも治療をするかもしれない。
5年前の手術の時もそうだった。
バイアスピリンを2週間以上服薬を止めて
脳梗塞など血栓のリスクを覚悟して、
たばこと仕事でボロボロになったしまっていた肺を手術した。
そんな肺だし、手術中の血栓のリスクもあるから
医師は手術に消極的だった。
77歳という年齢もあった。
でも、父は、迷わず医師に言った。
『危険は覚悟の上、それでも悪いところは切ってくれ』と。
私は、父の意志を尊重して、手術の説明の同意書のサインを書いた。



今回の検査の結果、癌であれば、
医師が消極的でも、父は言うだろう。
『可能性があるのなら、抗がん剤治療をしてくれ』と。
私は、父の希望に従うまで。
必要な同意書もサインを書くまで。


再発なのか、別の癌なのかによっても違ってくるだろう。
再発でなく、別の種類の癌細胞であれば、また話が違ってくる。
進行の早いものもあるから。


そこは、父もわかっているようだ。


26日にどのような現実を突きつけられるかわからない。

『全て取り越し苦労であってほしい。』
今でも、そう願っている。それは娘としての想い。
でも、ケアマネとしてのもう一人の私は、
『クロ=癌だと覚悟したほうがいいだろう』
と、言っている。


どちらにしても、現実を受け入れるしかないのだ。


今、父は明日行くの釣りの準備をしている。

どうか、この平穏な日常が一日も長く続いてほしい・・・と、
ただ、願うだけである。



明日からの仕事に、平静で向き合えるか
正直自信がない。
専門職なのだから、切り替えろ、
なんて、そんな簡単なものではない。


こうなってみて、
利用者様とその家族の気持ちが
少しわかったような気がする。

頭や理屈や本で書いてあるような
『甘いもの』ではないのだ・・・と、いうことを。



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『M様へ』ご質問への私なりの返答

M様へ

コメントの質問文、拝見いたしました。

お母様のご逝去、謹んでお悔やみ申し上げます。


お返事を、このようにブロクに載せる形でご返答させていただくこと、
どうかお許しください。
そのため、お名前をアルファベット表示とさせていただきました。
たぶん、同じようなお悩みをお持ちのご家族もおいでだろうと思い、
ブログでの返答をさせて頂きました。

もし、ご不快でしたら、質問時のお名前で
またご連絡を頂ければ、すぐに削除いたします。


M様の立場として、ケアマネージャーに連絡をするとしたら、
電話で「今までありがとうございました」と、
お礼の電話というかたちで区切りを付けるのが良いのでは・・・と、
私は思っております。
事務所まで行く必要もないし、菓子折りなどの贈り物も不要です。




ちなみに、私が、担当させていただいた方がなくなったときは
ケアマネージャとして、かたつむり個人として
次のように行動しました。


亡くなった旨の連絡を頂いたときに、お悔やみのお言葉を伝えたうえで、
『最後の事務処理等の有無を確認の上、
 落ち着いたころにご連絡をさせて頂きます』
と、ご返答しました。


私としては、お通夜に行きたいという気持ちがありました。
でも、それがご遺族ににとって、良いのかどうかわかりませんでした。
ご家族の最後の時間を、ケアマネージャーが行ってもよいのか・・・と。
(私の地域は、家族葬が多くなっているので)
 ですから、社長に相談をしました。


社長の返答は、「最後のお別れに、お通夜等に来てほしい」と
連絡があれば参列するべき。
そうでなければ、
もし、お線香をあげたいという気持ちがあるのなら、
初七日などが終わり、落ち着いたころに、ご遺族に連絡をして
「お線香をあげさせていただきたい」お願いをして
了解を頂いたうえで、伺う方がいよいだろう・・・と。


ですから、私は、葬儀が終わって落ち着いただろうとおもわれる頃
亡くなって2週間くらいしてからだと思います。
ご遺族にご連絡をして、お線香をあげさせていただく機会を頂きました。
最後のごあいさつも兼てお線香をあげさせていただき、
そのうえで、ご遺族と故人の話をしながら、
各事業所の支払いはまだ残っているので、
もし口座が使えなくて(亡くなると口座が使えなくなりますから)
利用料金の支払いが上手くできなかったなど、
何かあればご連絡くださいとお伝えし、
ケアマネージャーの最後の訪問とお別れをしてきました。


私としては、担当させていただいた方がなくなったときは
最後のお別れのご挨拶に伺うのは、当たり前のことだと思いますし、
心情として、『お線香をあげてさせて頂きたい』という
気持ちになるのが普通だと思います。

ですから、私は自分から最後の挨拶に伺いました。

ご支援いただいた、各事業所にも
ケアマネージャーのとしてお礼の電話をしました。


冒頭に申し上げましたように、
もし、ケアマネージャーさんから、何も連絡がなければ、
ご家族の気持ちの区切りとして
電話で「今までありがとうございました」と、
『お礼の電話』というかたちで最後に電話をして
区切りをつけてみてはどうでしょうか?


参考にしていただければ幸いです。


かたつむり



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『面接技術』についての持論

ご無沙汰しております。


父の一件で、少し動揺してましたが、どうにか覚悟はできました。
万が一、『癌』と言われたときに、すぐに次の行動ができるように、
今できることは、やったつもりです。
後は、来週の検査を受けて、26日に結果を聴くのみです。


このところ、仕事がかなりドタバタしていまして、
『twitter』では、騒いでいましたが、ブログを書く余裕がりませんでした。
プライベートのメールの返事さえもなかなか書けない状態です。
今、少し小休止状態ですが、
14日から、また怒涛の毎日が仕事納めまで続きます。
考えると恐ろしいです。



最近、職場の事務所会議の時間に『面接技術』の勉強をしてます。
『アイコンタクト』『あいづち』『うなづき』などなど・・・。
これを身につけて、効果的に行なうと、
クライアントが話やすくなるとか、
大学のスクーリングでも説明があったような気がしますが、
『これだけ(面接技術)をやっても意味ないでしょう』と
斜めにものをみている私がいます。
 
 
例えば、時々『視線をはずす』と書いてますが、
私は、親に『話をするときは相手の目を見て話せ』
をしつけられました。
そういう価値観を持っている人に、
視線をはずすのは果たしてよいのでしょうか?


『アイコンタクト』『あいづち』『うなづき』などなどを
ただ、効果的にやろうとしても、
クライアントからしたら
『わざとらしい』『本当に私の話を聴いてる?』と、
逆に不信感を持たれると思います。
表面上の聴く姿勢だけだと、
クライアントはしっかり見抜きます。
『この人は私の話を聴いていない』と。


やはり、面接場面においては、
クライアントの話を一生懸命聴くことが(傾聴ではないです)
一番大切だと、私は思っています。
そうすれば、『アイコンタクト』『あいづち』『うなづき』等も
自然に出てくると思うのです。


『アイコンタクト』『あいづち』『うなづき』等を
意識することに神経を使うならば、
私はクライアントの話を必死に聴くことに神経を使いたいです。


教科書通りに動かない私としては。
面接技術の『基本』は、クライアントの話を
ひたすら一生懸命に聴く姿勢だと私は思っています。


クライアントが話したくない時は、
あえて聴こうとしない。
緊急性がない限りは。
話してくれるまで待つことも大切だと思います。
ケアマネージャーだから、
なんでも聴いていいわけではなく、聞き出す権利もないのです。
話してくれるまで『待つ』という姿勢も大切だと思います。
『モニタリング』や『アセスメント』『その他の支援』を通して、
クライアントが、ケアマネージャーを受け入ててくれるまで
待つことも大切だと思います。


面接技術についてのことの話を聴いていると、
『技術』という『かたち』ばかりにこだわると、
大切なことを見落としそうな気がしました。


クライアントの話を一生懸命にきき
話しづらいことは、話したくなるまで待つという
私なりの『我流』を通したいと思います。


ひねくれ者だな・・・私・・・と、改めて思いました。




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父の肺に影(3)

今日は11時出勤だった。
勤務時間の調整のために。


父は近所の公園の釣り堀に朝から出かけていた。


だから、出勤前に父のことで母に色々と話した。


実は、5年前の手術が終わった直後、
医師より家族だけに手術の説明があった。
その最後に『万が一、再発した場合』の事を
言われていた。
とても短い言葉だったが、厳しい内容だった。


でも、母も姉も覚えていなかった。

姉には話した。

母には話すべきか迷った。


でも、母が知らないまま、最悪の結果が出た場合、
ショックで動転してしまった母を見たら、
父は余計に辛いだろうと思った。


だから、母に話した。
先生に言われた『厳しい』内容を。


話した直後、母が動揺しているのがわかった。
私が出かける時間までには、落ち着くけるように
時間に余裕をもって話をしたが、
ご利用者様の家族から電話が入ってしまい、
その対応で結局時間がなくなってしまい、
職場へ向かった。


でも、母のことが気になったので、
職場から電話して、もう一度母と話をした。
「ショックで辛い」と母は泣いていた。
残酷なことを告げたことは自覚している。
でも、言わなければ、母に知ってもらっていないと、
もし、悪い結果が出たら、
ショックを受けるであろう父を
家族で支えることができないのだ。

「お母さんにこれを伝えるのは、
   残酷なことだとはわかっている。
 でもね、もし本当に再発だった場合
 お母さんと私が、覚悟を決めていないと
 お父さんを支えることができないんだよ。
 一緒に動揺していてはだめなんだよ。」


私は泣くのを必死でこらえた。

私は両親の前で泣いてはいけない、
そんなことをしたら、
父も母も動揺する。


「ずべて、取り越し苦労であってほしい。
 でも、結果が出る前に
 お母さんと私が覚悟を決めておかないと
 お父さんは、治療に専念できないんだよ。
 私が、なんだかんだ言っても、
   お父さんのそばにいて支えるのは
 やっぱり、お母さんなんだよ。」


母を安心させるには、こういうしかなかった。

「もし、再発だったら
 お父さんが治療に専念できるように、
 お母さんもお父さんを支えることだけに専念できるように
 あとのいろんなことは全部、私が引き受けるから。
 お姉ちゃんは最初からあてにしてない。
 全部私が一人でやる。」


本心の言葉だ、でも、はったりもある。

キーパーソンとして、出来る限りのことはやるつもりだ、
でも、全てを必ずできるかどうかは自信はない。
だけど、私がこれくらいのことを言わないと
母は不安と絶望だけを抱えている状態になると思った。


だから、はったりをかました。

そして、言った以上はやらなけばないけない、娘として。


母が、電話の向こうで
自分を落ち着かせるように
ひとつ大きな息を吐いたのが聴こえた。

「わかった、お母さんも覚悟を決めるよ。
 だから、頼むね、かたつむり。」

母の言葉を聴いて
私は、もういちど、はったりをかました。

「大丈夫、任せて」






両親を少しで安心させるために
高額医療の支援について調べ続けた。

情報を教えてくれた方がいた、
とても助かった。

そして、一か所の病院で一定限度額以上の高額な医療費払えば、
手続きしなくても、会計の時に限度額以上にならないように
会計で対応してくれることがわかった。


最終確認を医療連携室に問い合わせるつもりだが、
両親に言ったら、少し安堵していた。


お金以外のことなら、何でもやる。

だから、お金のことはどうにか解決しそうだから、
私も、少し安心した。


こんなこと全てが
『取り越し苦労だったね』
って笑えることを祈っている・・・。



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父の肺に影(2)

今日は、あえて早く帰ってきた。

連日残業では、さすがにバテる。

今日(29日)・明日(30日)・明後日(1日)は
一度少しペースを落として、
2日から元のペースで仕事をするつもり。


でも、仕事は持ち帰っている

ちなみに3日(土)は、
父の病院付き添いで休む日の振り替えで
半日だけど出勤する。



「検査の時は来なくていい」と、
父は言ったけれど、
母が「不安でひとりで検査中に待っているのが辛い」
と、いってきた。


母はちょっとしたことで混乱してしまうタイプ。
母は父のこと「あの頑固ジジイ!」と私に言うが、
ずっと大黒柱の父に、全てを任せて生きてきたのだ。

だから、何かが起きると混乱するのだ。


もし、父が『クロ』だった場合、
ある意味、父より母のほうが心配かもしれない。




今朝、父に言った。

「とっても、とっても、とっても最悪の場合のこと話すよ」


『クロ』で更に最悪の状態を想定していった。


「最後は家で過ごしたい?」


4年半前にガンで亡くなった大好きな叔父が
病室のベッドの上で言っていた。
『家に帰りたい』と。
2週間だけ戻ったが
生涯独身で、独り暮らしだったから
自宅にいる時も、苦しかったはずだ。
『最後を自宅で過ごしたい』
それを叶えてあげることができなかったことを
いまだに引きずっている。

だから、父に言った。


「もし、そうしたいと思ったら、全部私が手配するから」


頭の中で、依頼する事業所や往診医は決めている。
訪問看護は往診医が連携を取りやすいところに依頼すればいい。


昨晩考えた。
もし父がターミナルになったら
『娘』として私が『父のケアプランをつくる』・・・と。
家族としてつくるのだから、料金は入らない。
それでもいい.
他の人に依頼して、
納得のいかないものになってしまったら、
直す時間がもったいない。
なら、自分が家族としてやろうと思った。



父は、その時になったら考えるといった。


今は、頭の片隅に入れておいてくれればそれでいい。




そして、今は
化学療法になった場合の
お金のやりくりを考えている。


父が60歳に胃がんになった時、
5年前の肺がんになった時、
たいした金額はなかったが、
私は母に、お金を渡した。


しかし、今は
20歳代に貯金したお金は
大学の学費で使い、
うつ病治療中に自宅療養したりフルで働けない時に、
貯金を崩して生活費を入れていた。

そのため、情けないが貯金がない。


だから、『医療費助成』のことを調べている。

高額療養費助成制度は
ウチの地域の『後期高齢者~』は、
戻ってくるのに4カ月かかる。
その間のやりくりを考えなければならない。


医療費の貸付制度や
私の生命保険などで借りることも考えないといけない。


甲斐性のない、自分が情けない。


『フライング』な行動かもしれないが
今のうちに、調べておいたほうがいい。
『クロ』とわかってからでがは、遅いんだ。

でも、どうか、
こんなことが無駄なことになってほしい・・・。
『白』の結果になってほしい・・・。



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父の肺に影

先ほど、仕事から帰ってきたら父から言われた。



「手術したほうと反対の肺に白い影がある。
 レントゲン写真を見せてもらったが、5年前の時と似ている」


「PET検査をすることになった。」



私は父に訊いた。

「検査結果を訊きに行くのはいつ?」と。



父「(12月)26日だ」

私「わかった、26日は一緒に行く」

父「頼む」

私「検査の日はどうする?私も行こうか?」

父「その日は検査だけだ、お前は仕事へ行け」

私「わかった」


父は、約5年前に肺がんの手術をした。

来年の1月で5年を迎えるところだった。


あともう少し・・・もう少し・・5年を迎えれば完治だ・・・そう思っていた。




検査の結果を聴かないとわからないが、
最悪のことは考えておいたほうがいいだろう。



父は、5年前に手術を控えた時の検査で、
肺がタバコと職業病で60%しか機能していないことがわかった。


その肺を、父の肺が機能できる、父が日常生活の維持ができる限界まで切除した。
それでも、転移を防ぐことを考えたら、切除の範囲としては不十分だった。
でも、それ以上の切除をしたら、生活できないといわれた。



つまり、白い影が、万が一『癌』だったとしたら、もう切除は出来ないのだ。



父に訊いた。

「最悪の結果が出た場合、全部知りたい?」

5年前にも同じことを訊いた。返事は同じだった。

「全部知りたい」

ただ、ひとつだけ違った。

「抗がん剤治療を受けたい。5年前と比べて薬が良くなって種類が増えたと聴いたから」


父はもう、最悪のことを考えてくれている。


私「抗がん剤は、お金がかかると訊いたから、
  そうなった時は、病院の医療連携室とかに私が訊きに行くから」


もし、がんだったら、私が『キーパーソン』。


母は、パニックを起こすだろう。
姉はあてにならない。



両親に何かあれば、自分が『キーパーソン』になることは、
すでに5年前に腹は決めている。



取り越し苦労であってほしい・・・そう願っている。


でも、私も、覚悟をしておかなければいけない・・・。




『介護』は他人事ではない・・・いつもそう思いながらこの仕事をしてきた。



それが、現実になるかもしれない・・・と、いうことだ。



それでも、癌でないことを願っている・・・。



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原点に戻って。

先週の月曜日、社長と話し合いをしました。


私が、謝罪しようとしたら、
社長は「その話は、もういいよ」と言いました。

社長が水に流してくれたのですから、
社員である私は、『引くべきだ』と、思いました。


具体的な話は、私のこれからのステップアップについて、
未処理な事務仕事の山、私の体調のこと。
そして会社のこれからのこと・・・でした。

社長からは「これからもかたつむりさんの意見を言ってほしい」
とのことでしたので、今後も自分なりの意見は言い続けます。

ただし、『社員としての立場』を忘れずに。


この会社は、社長が起こした会社であり、
私はあくまでも、雇用されている身。
だから、会社の中では、
会社の経営者である社長の言うことが『正しい』のだ。
たとえそれが、間違っていても。


それに耐えれなければ、辞めるしかない。


ただし、どのような時でも、忘れてはいけないのは、
自分が、ケアマネージャーとして仕事をしているかぎり、
第一優先は『利用者様とそのご家族』である。
自分の言動で、ご迷惑や、余計な心労をかけてはいけない。
ケアマネージャが交代するということは
『利用者様とご家族』には、とても不安なことなのだから。


それを、肝に銘じて、
ケアマネージャーとしての仕事に精進していきたいと
改めて思いました。



社長は、従業員を増やしていきたいと話していた。
以前に私が社長に、
『経営者』の仕事と『管理者』の仕事を兼任するのは
むずかしのではないか、と社長に言ったことがある。


社長として会社の経営のしていくことと
管理者として従業員のケアマネを指導してまとめること
この二つを兼任するのは容易ではないと、常々思っていた。
私みたいに『勝手に動く』従業員は少数派だ。
これを他の人に期待してはいけないと、社長に言ったことがある。
「社長、私が『変わり者』なのですよ、こんな奴は少数派です」と。


このことを社長が、わかってくれたのかはわからないが、
『管理者』として、知人の主任ケアマネを採用するといっている。
その人に会ったことがあるが、
ケアマネとしては仕事が出来る人だとは思った。
でも、『管理者』の力量は、ケアマネ経験とは関係ない。


これでも私は、学歴社会のなかで、当時は高卒だった私は、
20歳代の時は、経理事務のスキルをひたすら身につけて、
一般企業のなかで
高学歴の人達に対等に渡り合えるように努力して仕事をしてきた。
だから『色々な人』を見てきた。


『ケアマネの仕事』が出来る能力と
『人を束ねる』能力は、
全く『違う』のだ。


『きついこと』を言わせてもらえば、
『主任ケアマネ』だかといって、
後輩を指導する能力や
人の束ねる力があるわけではない。


少なくとも、私は、
『スーパービジョン』を受けたいと思った
主任ケアマネに一度も会ったことがない。


これから、職員が増えていって、
職場がどうなるのかは、
正直私にはわからない。
意見の合わないひとや
表裏のある人も入ってくるでしょう。
まあ、何千人もの従業員がいる
一部上場企業で働いていた時のことを思い出せば、
人間関係はどうにかやっていけるかも・・・と、
思ってはいます。


だた、私はこれからも
『利用者様とご家族』をまず第一考えて
ケアマネとして信念をもって仕事をしていきたい・・・。

改めて、思いました。



この土日も、家で事務処理をしています。
仕事の山がなかなか減りません。


現在の担当は35件。
入社当時に課せらえれた件数は持てました。
社長に「かたつむりさんは39件まで行けるよ」と、
言われましたが、
「体調を落ちつかせるのと、書類の山を片付けるのが先です、
 件数を増やすのはそのあとですっ!!」
と、きっぱりと断りました。


皆さまはどうやって、
事務処理と格闘していんだろうか???
そんなことを、時々思います。


では、仕事に戻ります。




拍手やコメントをくださったかた、
ありがとうございました。
コメントのお礼のお返事は 後日書かせていただきます。
ご了承くださいますようお願いいたします。
(本当に、本当に、いつもごめんなさいっ)


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謝罪

先ほど、管理者(=社長)にメールを入れました。


今までの社長の言動に傷ついたし
社長に対して言った言葉も会社のことを考えていってました。
でもその時の発言は、社員の立場での発言であり、
経営者としての社長の立場までは考えていなかったのです。
このことを伝えたうえで、
自分が社長に対して発言するときに
自分が社長から言動を受けたと時に
経営者としての社長の立場や気持ちを
考えることができていなかったこと、
社長の立場を考えることができていなかったことを
謝罪しました。


本来ならば、直接会って頭を下げるのが筋です。

でも、早く謝罪したかったので、
メールをしました。
社長は事務所にいることがほとんどなく、
いても電話対応でドタバタしてます。
だから、普段は時間をとって話をすることができないのです。
そのため、メール謝罪させてもらいました。


社長は、話し合いのときは、
『かたつむりさんの体調のことと、それに合わせた仕事の進め方を話し合いたい』
と返信がきました。



社長としては、たぶん私に言いたいこともあったと思います。
でも、私に対して追及はしませんでした。


社長は譲歩してくれたのだと思います。


私は『ありがとうございます』と返信しました。


生まれた年代も違えば、
育った環境も全く違う。


そのうえ、社長と私は、ある意味で正反対の人生を送ってます。


だから、どうしても個人の価値観が違いすぎるのです。


そのこともあり、そして、互いの性格から、
きつい言葉のやり取りは完全にはなくならないと思います。
それでも、これからは、
社長の立場を考えることを忘れないで、
言葉を選んで自分の考えを言うようにしたいと思います。




明日は、整形外科へ行き、身体のメンテナンスをして、
眼鏡屋さんに行きます。

2日ほど前に、頭がふらついて足がもつれて転倒しました。
事務所の前で。

ひと月前に自転車ごと転倒したばかりだというのに。

頬から出血し、メガネはレンズが外れてしまいました。
(幸いレンズは割れてませんでした)
額を打ちましたが、その前に両手をつくことができたので
頭部の直撃は避けることができました。
社長と新入社員さんに驚かれ、
母親に怒られました、気を付けろと。


このところ食欲がなく、固形物をほとんど食べていないので、
かなりふらついてます。

春先からずっと体調を崩しっぱなしなので、
目標の35件担当を今月達成できたので、
書類の追い上げと体調を戻すことを
どうにかしなければならないと思ってます。


今度こそ、この週末は事務仕事を追い上げたいと思います。



拍手やコメントをくださったかた、
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自分の悪いところを教えていただきました。

(自分への戒めのために、当分の間、トップページへ置かせてください)


今、休憩時間に書いています。


私のネット上の書き込みを見て
『苦言』を下さった方がいました。
 

その方が送ってくださなった文章を読んでいて、
自分が未熟さを
自分の思い上がりを
突き付けられました。


ネット上に書く言葉を自身では
感情的に書いたつもりではありませんが、
誰が見るかわからないものということも
認識していたつもりですが、
それでも、配慮が足りなすぎると気づかされました。
  
 
ひとりひとり、その人のそれぞれの立場があり、
そのうえでの言動であり
その言葉の向こうにその人が抱えている『何かがある』
そのことも気づかされました。
自分は『まだまだ甘いと駄目だ』と思いました。


今後は、もう一度自分の言動を顧みて、
他者を否定する言葉を
ネット上に載せるという安易な行動はやめたいと思います。

 
『苦言』をしてくださったかた、
本当にありがとうございました。


こうして、
自分の悪いところを
教えて下さる方がいることに
感謝したいと思います。



追記:過去の発言について、消すのは簡単ですが、
   消しても自分はすでに言った『言葉』は、もう消せません。
   消せば解決するとも思えません。
   過去のログについては、もう一度読み返して
   「ここは中傷発言でしかない」と思ったところは直したり消していきます
   でも、自身がネット上で発した『言葉』は消えないと思っています。
   


2016年11月18日   かたつむり
   
   
    
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