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この数か月、あまりにも忙しすぎて、身体が悲鳴をあげました。
今週の月曜日の朝、全身の痛みと激しい頭痛と、吐き気を催す胃部不快感に襲われました。
その日は午前中は訪問を日程を変更させていただき、午後から出勤しました。
本当は、休みたかったけど、午後はどうしても訪問しなければならないご利用者様がいましたので、無理やり出勤しました。
その後も、どこかで休みたかったのですが、予定変更ができない状況だったので、無理やり出勤して、やっと今日有給休暇をとりました。
午前中に、鍼灸接骨院へ行き、施術をしてもらいました。
当分は毎週土曜日に通院して、身体全身の異常な筋肉の凝りと痛みを時間をかけてとってもらいながら、体調を少しづつ戻していこうと思ってます。
こんな不調状態なので、固形物が食べられませんでした。
ウ○○ーイ○○リとスポーツドリンクで、栄養補充をしてました。
今、夕食でやっと、おじやを食べることができました。
整骨院からの帰りに、ネットで『小林麻央さん』の訃報を眼にしました。
しかし、公式発表は夫の市川海老蔵さんが午後の記者会見をするということのみでした。
海老蔵さんのブログを読めば、何が起きたは、解かりました。
在宅医療に切り替えた時点で『そういうことか』ということも、自分の職業柄、そして『がんの治療不可能』な父のキーパーソンをしている立場からも、麻央さんの状況はわかりました。
でも、公式な報告が出ていない前に、ひとの生死を安易に出すということに、とても怒りを感じました。
涙をながしながら、記者会見に臨んでいる、海老蔵さんの姿みていて、とてもつらかったです。
私は正直、以前は海老蔵さんには良いイメージは持っていませんでした。
でも、昨年麻央さんのがんとの闘病が、本人と家族が意としないまま、世間に公になった時に、記者会見を開き、現状を説明していた海老蔵さんから、『家族を守ろうとしている夫であり父親』というのを感じました。
あの記者会見で、麻央さんもご家族も、心の持ちようが変わっただろうと思います。
海老蔵さんの記者会見で、麻央さんは全力で病気と闘うことができる環境が整ったのだろうと、私は感じていました。
在宅医療に切り替えたことを知った時、『ターミナルなのだな』と、思いました。
私が、父の転院先を探しているときに、在宅医療をしっかりとできるクリニックを選んだのは、父が自宅で最期を過ごせる環境を整えるためだったのですから。
海老蔵さんの記者会見を観ていて思いました。
麻央さんは、最期の大切な時間を、二人のお子さんやご両親やお姉さんと、夫に守られながら、自宅で過ごすことができたことは、間違いなく『幸せ』だったと思います。
それでも、幼い二人のお子さんを残して逝かなければならない事は、悔しかっただろうし、心残りだっただろうと思います。
でも麻央さんの『想い』を、海老蔵さんはしっかりと受け止めていることは、記者会見の言葉からも良くわかりました。
きっと、夫婦で多くのことを話し合ってきたのだろうと思います。
『親の死に目にあうことができない』とまで言われている『歌舞伎役者の夫』を持ちながら、その夫が最期に間に合い、家族みんなに見守られて、彼岸に旅だった麻央さん。
34歳の若さでの逝かなければならない事は、とても哀しいことですが、でも、残された日々を夫や子供と自宅で最期まで過ごせたことは、幸せだったろうと思います。
苦しい息のなか、意識は最後まであった様子が、海老蔵さんの記者会見の内容で伺えました。
自分の全ての想いを込めて夫に伝えたのであろう『愛してる』という言葉。
その言葉を麻央さんが海老蔵さんに伝えることができたことは、麻央さんにとっても、海老蔵さんにとっても幸せだっただろうし、海老蔵さんもその言葉を受け取れたことで、哀しみのどん底にあっても、妻からこれ以上にない『もの』を受けとった事が、これからの支えになると思います。
海老蔵さんが、麻央さんのことを『自分を変えてくれた存在』と言っていた言葉。
それが海老蔵さんの、妻麻央さんへの想いを全てを込めた言葉だと思います。
妻を亡くした哀しみを抱えながら、でも、哀しみだけではない『何か』を海老蔵さんの中にはあると思います。
『おふくろと親父に対して、自分ができることは全てやった、後悔はない』
5年前に亡くなった母方の叔父が、30年前に祖父を送った後に、私に言った言葉です。
親を亡くした哀しみはあるけれど、全力で介護をしたからこそ言える『言葉』だと、私は当時高校生でしたが、そう思いました。
終末期の在宅医療は、様々な条件が整わないとできないことです。
一番必要なのは『家族の覚悟』だと、私は思っています。
自分が、ケアマネとしてターミナルの方を担当する力量をつける前に、父が癌を再発し、自分が父のキーパーソンをすることになった際に、『父を自宅で最期まで過ごせるようにしたい』と、すぐに決めました。
父はそれを望んでいたとしても、絶対に言葉にはしないことはわかっていました。
父は、家族とりわけ『母の負担』をとても気にしていました。
「お母さんが大変だから、俺は病院でいい」
そう父は何度も言っていました。
『俺は病院でいい』という、父の言葉通りに受け取った母に、
「お父さんは、お母さんのことを心配して、自分は病院でいいと言ってるんだ!本当の希望は違うんだ!」
「お父さんを送った後で、あの時『こうしておけばよかった』と思っても遅いんだ!お母さんも後悔しないようにしないとダメなんだ!」
と、母に何度も言いました。
父に我慢を、母に後悔をさせたくない、その一心で。
私も、後悔はしたくないと思ったから。
だから、父に
「今回の病気(がんの再発)に関しては、お父さんは我慢しないで、遠慮しないで、何でも言ってほしい。本当にできないことだったら『お父さんごめん、それは出来ない』と正直にいうから」
と伝えて、ようやく父が、言いはじめてくれました。
「ギリギリまで自宅にいたい。お母さんが限界になったら、病院へ入れてくれ」と。
でも、私が仕事量を減らして介護することは、父は頑なに拒みました。
『お前にこれ以上の迷惑はかけたくない』と。
これは父親としての本音だと、私は思いました。
『私に対して、父に負い目は持ってほしくない』と、再発がわかった時点で、私は常にそのことを意識してましたので、その父の想いは受け入れることにしました。
近日中に両親は自分達の部屋を畳からフローリングに替えるそうです。
介護用ベッド入れることになっても大丈夫なように、父が『元気』でいる今のうちに床を直すことを、両親で話して決めたそうです。
母曰く『マサ(5年前に亡くなった母方の叔父)が遺してくれたお金(=母が相続で受け取った叔父のお金)は、もうこれで無いわ』とのこと。
大切にしていた姉とその亭主の為に使ってくれたら、亡き叔父も『本望』だろうと思ってます。
そんな、我が家の状況から、麻央さんの闘病は他人事ではありませんでした。
『最期の時間を自宅で家族と過ごす』というかたちで過ごせたのは、ある意味では終末期の方にとっては最高の過ごし方でもあります。
妻の闘病を支えて、残された日々を妻と子どもたちが共に過ごせるように環境を整えたこと、そして妻を守り抜くことを、『夫』として『父』としてやり切った、海老蔵さんは、見事だと思いました。
これから、妻の想いを胸に、妻が残してくれたふたりの子どもという宝物を慈しみながら、海老蔵さんは生きていくのだろうと思います。
ふたりの子どもと、麻央さんの最期の言葉が、これからの海老蔵さんの支えとなるのだと思います。
そして、最期まで病魔と闘い通した麻央さんのご冥福をお祈り申し上げます。
合掌
拍手やコメントをくださったかた、
ありがとうございました。
なかなか、コメントのお礼のお返事を書くことができなくて、申し訳ありません。
どうか、ご了承くださいますようお願いいたします。
(本当に、本当に、ずっと書けずにごめんなさいっ)
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4月は私にとって特別な月の一つである。
尊敬していた母方の叔父の命日が、4月30日だから。
何度も書いているが、この叔父がいたから、『今の私がある』と言っても過言ではないほど、私にとっては大きな存在だった。
私は、小学生から高校生まで、この叔父と叔母(母の妹)が祖父母を介護している姿を目の当たりにしてきた。
その二人の姿が、ケアマネの私の『原点』である。
20歳代後半と30代前半の兄妹が、父と母のふたりの介護をしてきたのだ。叔母が仕事を辞めて介護に専念し、叔父が一家4人の生活を支えながら、両親を介護している叔母を支えた。
母もできる限りのことはしていたが、なにぶん姉と私がいたので、どうしても限界があった。
だから、母は今でもいう『二人には苦労させた』と。
ケアマネとして様々な仕事をして、少しづつでも経験を積んでいくに従って、叔父と叔母の凄さを改めて思い知らされている。
父の癌の再発で、私もキーパーソンとしてここ数カ月はすさまじく色々と動き回った。
一応ケアマネとしての知識があっても、父のキーパーソンをするのはとても大変だ。
しかもまだ介護はしていないのに。
でも、叔父は若くして、両親のキーパーソンとして、叔母ともとに介護をしながら、そのすべてを6年以上ひとりで背負ったのだ。
改めて、今、叔父の凄さを感じている。
両親の介護で、結果的に結婚の機会を逃してしまったのだろう叔父は、幼いころから私を可愛がってくれた。本気で怒ってくれた。
それは、叔父がその命が終えるまで、変わることはなかった。
その叔父の享年は64歳。
だからこそ、今でも思う。
叔父には、もっともっと・・・もっと、長生きしてほしかった・・・と。
5年前、あの時の私は、まだケアマネージャーの資格すら持ってなかった。
もし、叔父に残された時間がわずかだとわかったあの時に、あの時の私に『今の知識と経験』があったら、叔父にもっと違うことができたはずだった・・・そう思うと悔しくてならない。
叔父が暮らしていたマンションは無理でも、私達が住んでいる家に、叔父が生まれ育った町に連れて帰って、私の母のそばで最期を過ごすことができるようにすることくらいはできた。
今の私であれば・・・だからこそ、今でも本当に悔しい・・・悔しくてたまらない。
叔父からは、沢山の愛情を受けたのに、私は何一つ、恩返しができなかった。
葬儀の時、棺のなかの、あまりにも幸せそうな笑顔の叔父を見つめて、私は、ただただ号泣しつづけた。
今でも、思い出すと涙がでる。
あれから、叔母は、私に会うと必ず最低4回は私にこう言う。
『お母さんを大切にしなさいよ』
『お母さんのこと、頼むよ』
叔母のこの『言葉』の向こうに、叔父を感じるときがある。
叔母の言葉は、叔母だけのものではなく、亡き叔父の想いも含まれているのだろう。
長姉だった母は、生活保護を受けるほど苦しい生活のなか、祖母に替わり、叔父や叔母を育てたも同然だった。
だから、叔父も叔母も母に一目置いているし、母を大切にしている。
だからこそ、私は、叔母の言葉を、毎回重く受けとめている。
明日は、母と叔父の墓参りに行く。
霊園の最寄り駅で叔母と合流する。
4月の墓参りは、叔父の命日の月だから行くことが、当然、一番の理由ではある。
だが、私が、自身のプライベートなことも、なかなかできないほど、自分の仕事が忙しい中、あえて、叔父の墓参りに行くことにこわだるのは、もう一つの大切な理由がある。
『母と叔母を会せたい』ためだ。
これは、私の『勝手なおせっかい』だ。
だから、二人には話したことはないし、話すつもりもない。
5人兄弟だったが、今は、母と叔母のふたりだけだ。
正直、母が一人で叔母のところへ行くことは出来ない。交通機関の乗り換えがややこしいからだ。
叔母も、何か理由がないと、一人で出かけることが難しいのだ。旦那さんの性格上のために(悪いひとではないんですがね、色々と理由がありまして)。
だから、4月は、自分自身が無理をしてでも、母を墓参りに連れて行っている。
母と叔母が1年ぶりの再会を楽しんでくれれば、
天国の叔父がそれをみて、少しでも安心してくれれば、
私はそれで嬉しいと思っている。
それが、不肖な私の
ささやかな、母親孝行と、
そして、私を大切にしてくれた叔父と叔母への、ほんの少しだか、ささやかな恩返しになれば、幸いだと思っている。
拍手やコメントをくださったかた、
ありがとうございました。
コメントのお礼のお返事は 後日書かせていただきます。
ご了承くださいますようお願いいたします。
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先日、知人からメールが来た。
以前、ブログに書いた、『訪問介護事業所』を経営している、古い知人である。
用件は
『うち(知人の事業所)に来てほしい、給与等の待遇は出来る限り考慮するから』
という、引き抜きである。
彼の会社も人手不足らしい。
確かに彼には、若いころ世話になった。
だからと言って、仕事で公私混同するほど、私も馬鹿ではない。
古くからの知人であればなおさらだ。
彼は、リーダーシップもとれる。
経営者には向いているとは思う。
普通の会社であれば・・・。
彼に、こんなメールを送った。
私は、訪問介護の経験はありませんので、サ責はできません。
※サ責=サービス提供責任者
ヘルパーさんを取りまとめて、
ケアマネと連絡を取り合う管理職的な立場の人。
昨年に頸椎ヘルニアをしていますので、介護の仕事はできません。
今、私はケアマネとして、37件担当しています。難しい状況にあるかたも少なくありません。私はケアマネとして、この37人のかたとそのご家族に対して責任があります。安易に転職は即決はできません。
A(知人)さんは、私をどのような位置付けで、必要と考えているのでしょうか?
私は、まだ2年足らずのケアマネです。
それでも、自分なりに目指しているケアマネ像というのがあります。
それは、間違いなく、営利追及とは相反します。
ケアマネ事業所を立ち上げるつもりならば、私だけでは経験不足です。
それに、私の父が肺癌を再発しています。目立った進行はみられませんが、治療は打つ手がなく、ターミナルを見据えて、転院先の病院の手続きをとったところです。
父のキーパーソンとして動き回っている状態であり、今後の事をかんがえると、給料がさがるのは大変困ります。
父のことを抱えたケアマネでいいのか、そのことも含めて、Aさんがヘルパー会社の経営者として、何を目指しているのか、お聞きしてから、父のことを含めて、考えさせていただきたいとおもっています。
彼から、翌日にメールが来た。
色々書いてあったが、つまりこの話は白紙にしてほしいということだった。
利益追求する社長としては、今の私は『考え方の相違』や『給与待遇面』『家庭事情]』を考えると、雇えないそうだ。
思った通りの返事が来た。
最初から、そう思っていた。
伊達に若いころからの付き合いではない。
彼に、今度はこんなメールを送った。
ご連絡ありがとうございます。
思った通りの返事がかえってきたというのが、正直なところです。
経営者として利益追及は当然のこと。
しかし、介護保険事業所であるなら、利用者さんの立場にたった質の高い支援ができないと、淘汰されます。
その相反するものを、どこに落としどころをつけるかが、大切だとおもいます。
利益追及で走りすぎると、間違いなく、職員は辞めていきます。
私がケアマネとして一番信頼しているヘルパー事業所は、小さな会社です。社長が、専門職として確固たる信念をもって仕事をしているので、ヘルパーさんの専門職としてのレベルが高いです。
私は、そこの会社には絶対の信頼を持ってお願いができます。
介護保険事業所は、利益追及の為には、まず、ケアマネが安心して依頼できる事業所でいられるかという事が大前提です。
一般企業と同じ感覚で経営をしていたら潰れます。
生意気なことを書きましたが、私も若いころのままのかたつむりではありません。
介護職として10年以上、様々な方のご支援をしてきました。
ある夜勤中に私は、心肺停止になったご利用者様の心臓マッサージをしながら、同僚たちに指示だしをしたこともあります。
私もそれなりに、介護職として経験を積んできました。
その上での、『専門職』としての私の意見だと思って、受けとめて頂ければ、幸いです。
彼が、この文章に対してどう思ったかは、わからない。
返事が来ないから。
まあ、まさか私から頭ごなしに言われるとは思っていなかっただろう。
こっちも伊達に、介護職や相談員を合わせて10年以上やってきたわけではない。
介護業界は、売り上げのあげにくい業界だと思っている。
特に株式会社にとって、介護保険での商売は、とてもやりにくい業界だと思う。
なぜなら、自分たちで、商品(サービス)の単価を決められないから。
介護保険で、加算項目があるとはいえ、基本的には一律で決められている。
そのなかで、経営者はどうやって、経費を賄い、人を雇い、売り上げをあげて、利益を出していくか。
利益を積み重ねていかなければ、株式会社としての『体力』がつかない。
会社に危機的な何かがあった時に、『利益積立金』がなければ、会社はすぐに倒産する。
介護業界での利益追求は、本当にやりにくい。
でも、客(ご利用者様)に来てほしならば、それなりに満足できるサービス(支援)ができなければ、客は来ない。
また、安心してケアマネが依頼できる会社でなければ、客(ご利用者様)は、紹介してもらえない。
たぶん、彼がそれがわかっていないのだろう。
ヘルパー会社として、仕事を依頼が来るようにするにはどうしたらいいのか。
そして、人材確保のためにはどうすればいいのか。
それを、もう一度考え直さなければ、ダメだと思う。
そして、何よりも・・・
彼自身が、『何をしたくて』ヘルパー会社を立ち上げたのか。
これが、ご利用者様を支援することとつながっていなければ、間違いなく会社は潰れる。
そのことに、彼が、自分自身で、早く気がついてほしいと思う。
頭が切れる男だけに、余計にそう思う。
拍手やコメントをくださったかた、
ありがとうございました。
コメントのお礼のお返事は 後日書かせていただきます。
ご了承くださいますようお願いいたします。
(本当に、本当に、ずっと書けずにごめんなさいっ)
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