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ただ今、人生の仕切り直し中のケアマネ
プロフィール
HN:
かたつむり
性別:
女性
自己紹介:
心と身体を壊し、まだ人生の仕切り直し中のケアマネ。

保有資格:社会福祉士・介護福祉士・介護支援専門員。ついでに日商簿記2級・全商簿記1級
(Twitter@renrinoeda2)
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腫瘍マーカー『CEA』が22

ご無沙汰しています。

今日は仕事を休んで、父がガンの治療で元々かかっていた病院の受診に付き添ってきました。

先日(7/31)も受診したのですが、その時はどうしても私が付き添えませんでした。
そんなとき限って、良くないことがでてしまいました。

『腫瘍マーカー『CEA』が22』となっていたのです。

ちなみに5月の時は、11.5でした。

私は医療の専門家ではないので、この数値が何を意味するのかわかりません。

でも、5月の診察の時に私が先生に訊きました。
「先生、もし、転移した場合、先生はどのように判断するのですか?」
そう訊いた先生はこう答えてくれました。
「レントゲンで肺の腫瘍が大きくなっていたり、腫瘍マーカーの数値が急に高くなっていたら、転移を疑い、『全身のPET検査』を行ないます」
そう説明をしてくれました。

しかし、父は、先生が提案したPET検査を断ってしまったのです。

父に私は、『転移であったら、逆に、お父さんは『放射線治療を受けられる可能性が残っている』。肺は、たばこと職業病でボロボロで、放射線治療は出来なけれど、他の臓器は今のところは問題がない。転移の仕方にもよるけど、転移したものに関しては、治療ができる可能性は残っているんだよ』と、素人判断ではありますが、父に話しました。

すると、父が、『やっぱりPET検査を受けたい、今からでも間に合うかな?』と、私に聴いてきたので、病院の医療相談室へ電話して、ソーシャルワーカーさんに相談して、今日、改めて受診となりました。

先生は、『積極的治療はしない緩和ケアをお父さんは希望されている。でも、例えば、骨に転移した場合に、そのままにしておくと、骨が弱くなり、折れてしまう。それを防ぐためには、やはり『放射線治療』が必要になる。その為にも、どこかに転移があるのかは、しっかり調べたほうがいい』とのことでした。

先生と父と私とで相談して(母は黙って話を聴いていましたが、理解していませんでした)、今週16日(水)にPET検査をして、21日(月)にその検査結果を聴きに行くことになりました。
16日は、私がどうしても、調整がつかない訪問ばかりがはいっているので、付き添うことができませんので、父と母の二人で行ってもらいます。
でも、21日(月)は、サービス担当者会議が午後にあるので、私は、午前中父の受診に付き添い、その後に仕事に向かいます。
21日の私は、結構ハードなスケジュールです。

この検査の結果次第で、また、私達家族の状況が変わってきます。

結果を待つしかありませんが、今後訪問診療をお願いすることになるクリニックの先生も、月に1度の受診の父を診て『そろそろ、何かが出てくるころです』と、相談員さんを通して私に伝えてきたので、父も私達家族も、それなりの心の準備が必要だろうと、考えています。

『家族のキーパーソン』をやりながら『ケアマネージャーの仕事』をする難しさを、最近強く感じるようになってます。

体調的にも精神的にも、『個人として』も、『専門職として』も、自分をコントロールするのが難しいものですね。


キーパーソンの大変さを毎日感じている、今日この頃です。




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ありがとうございました。
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『地獄』から這い上がって

ご無沙汰しています。

この2週間は首と全身の痛みがひどすぎて、辛すぎる毎日を送ってます。
ヘルニアが悪化したわけではなく、
家族の私の頸椎ヘルニアの無理解から
無理をして部屋の掃除をさせられた結果、
首と身体の痛みが増したのです。
そのことが原因で、両親とただいま大喧嘩中です。
(約2週間口をきいてません)


twitterで、『ある施設の入居者が誤嚥性肺炎が死亡したことで、施設を相手に遺族が訴訟を起こした』という記事をみた。


ご高齢のかたは、身体機能が低下していくことはどうしても避けられない。
施設や介護スタッフが必死に気を付けても、結果的に『避けられない事』として、このようなことは起きてしまう。
そのたびに訴訟をおされたら、介護の仕事は出来なくなる。
人間は生きている以上、『老い』は避けられない。
『老いていく』以上、命にかかわる危険は増えていく。
これを100%確実に回避するのは、どんなに努力しても不可能だ。

なぜ、家族はそれをわかってくれないのか・・・このような記事を見るたびにいつも思う。


そして、このようなことが取り上げられるたびに、私はいつも『自分の過去の出来事』を思い出す。

もう、10年以上たっているので、あえて、『過去の自分の出来事』を、ここで書かせていただく。

 
私が介護の仕事をはじめて、3年程たった頃のことだった。
当時働いていた施設で、ある男性が入居していた。
身体機能が急激に低下しており、嚥下力もかなり落ちていた。
夕食は毎日近所に住む家族が来てくださって、食事を介助してくださっていた。
あれほど、嚥下力が落ちて、常にむせ込んでいる身内の食事介助をすのは、家族としても恐かっただろうと思った。
それでも、毎日夕方に食事の介助に来る家族の姿に、その入居者様とご家族との強い絆を感じた。

常にむせ込みながらの食事介助は、当然危険を伴う。
だから、怖がって、その方の食事介助をしない(=逃げている)介護スタッフも多かった。
正直、私も恐かった。

でも、みんなして逃げていては、その方は食事ができなくなる。
なにより、介護を仕事としている者が、そのような理由で逃げるのは『みっともない』と、私は思った。
だから、私はその方の食事介助をした。
皆逃げているから、当然、私が介助をする機会が増えてしまった。
それでも、私はその方の食事介助を続けた。

ある日、とろみをつけた水分を介助で飲んでいただいていた時だった。
ご利用者様が突然苦しみだした。
気管に入ったことがすぐにわかった。
他の職員に状況を説明して、すぐに看護師に来てもらうように頼んだ。
しかし、看護師はなかなか来なかった。
  

後から知ったが、看護師に連絡をした職員が『誤嚥を起こして窒息している』という肝心はことを、看護師に伝えて居たかったのだ。
そのため、看護師は緊急性がわからず、結果的に来るのが遅くなったのだ。


当時は、まだ黙認されていた時代だったので、私が吸引器で、必死にのどに詰まったとろみの水分を取ろうした。
しかし、私の力では出来ない事はわかってはいた。
それでも、必死に吸引した。
そして、ご利用者様の動きがとまった。
その後に看護師たちが来た。
私が事情を説明すると、看護師がベッドに乗り心臓マッサージを開始して、他の職員が救急車要請をして、救急車が到着するまでにベッドごとご利用者様を1階までお連れした。
その時も看護師は心臓マッサージを行なったままだった。

救急車が来て搬送される時、私は当然自ら救急車に同乗した。看護師のひとりも同乗してくれた。
その時その看護師は、『この仕事をしている以上、こういうことはある』と言ってくれた。
その時は・・・。

ご利用者様は、結局搬送先の病院で死亡確認をされた。

そのあと私は、施設長と看護師とともに警察署へ行った。
 『事情聴取』を受けるために。
私はかなり長い時間事情聴取を受けた。

警察のかたが、最初に言った。
「介護の仕事をしている以上、こういうことは必ずある。だから、貴方は悪くない。でも、あとから家族が何を言ってくるかわからない、そのために、事実を説明する必要がある。だから、事情聴取をしなけばいけない。辛いだろうが、話してほしい」と。

私は、気力で、ありのままを説明し、警察の質問に必死で答えた。
事情聴取が始まったのが午後の1時位だったと思うが、終わったのは夕方の4時をとっくに過ぎていた。

取り調べをした警察のかたが、私にもう一度言った。
『介護の仕事をしている以上、こういうことは避けて通れないことだ。どうか、今日のことを乗り越えて、これからも頑張ってほしい』と。


遺族の方から、責められることは全くなかった。
毎日夕方食事介助に来ていたから、誤嚥の危険性は、ご家族なりにわかってくださっていたのだと思いう。
だから、表向きは病気で亡なったことにしてくださっていた。
息子さんは、私に『どうか、ご自分を責めないでください』と何度もおっしゃってくださった。
本当に、ありがたかった。


だから、私は、逃げずに仕事を続けた。

しかし、職場の人達の私へ向ける言動が、残酷すぎた。

施設長をはじめ、ほとんどの同僚に、私を『人殺し』扱いされた。

副主任からこう言われた。
「あなたしたことは、『過失致死』だ」と。
数人の同僚から、何の説明もないとはどういうことだと責められたが、説明をする会議や報告の場を施設側で作る様子もなかったし、自分でセッティング余力などあるはずもなかった。
味方ががいない中で、仕事をすることだけで精いっぱいだった。
同僚たちから責められ続ける中で、仕事をすることで精いっぱいだった。

事故報告書を何度書いて出しても、『書き直し』と言われて返された。
その意図は、『私かたつむりの過失である』と書かせたいことは、最初からわかっていた。
でも、最後まで『自分の過失である』とは書かなかった。
自分が悪いところは、全くないとは思っていない。
でも、事故が起きた原因を、施設全体で考えもせずに、全てを私の責任に押し付けようとする、施設側の考えが許せなかったし、辛かった。

私を擁護してくれる人はほとんどいなかった。
一緒に救急車に乗ってくれた看護師さえも態度と変えて私を非難する側についた。

当時、うつ病を患っていた私は、完全に追い詰められたことで、病状が急激に悪化した。
父は『年寄りはいつか死ぬ。こういう死に方だって当然ありえる。そのことで、お前を責めるような施設など辞めてしまえ!』と、言ってくれた。
父のその言葉に背中を押されて、退職届を出した。
退職届は当然受理された。


そんな、打ちのめされた状態の中で、介護福祉士の試験を初めて受けた。
1次試験のときも、2次試験のときも、終わって家に着いたら、動けなくなって、両親の部屋の床で2時間以上寝たままになっていた。
満身創痍で受けた国家試験だった。
そんな最悪の状態で受けた試験だったが・・・合格した。
自分でも『奇跡』だと思った。



仕事を辞めてから、自分の部屋に籠ることが多くなった。
救急車の音を耳にするたびに、『あの時』のことを思い出して、耳を塞いで泣いていた。
暗い部屋で、膝を抱えて過ごすことも多かった。
何度もカッターの刃を見つめたこともあった。

そんななかで、私が唯一外に出ることができたのが、フルートのレッスンを受けるため音楽教室に行くときだった。
フルートを吹いているときだけ、現実から逃げられた。
また、悪友看護師が、電話でいつも私の話を聴いてくれた。
私の話を聴いてくれていた彼女は何度も言った。
『アンタの身に起きたことはの他人事でなはない、私もいつ、その立場になるかわからない』と。



本気で介護の仕事を辞めようと思った。

色々な事と引き換えにして、働きながら大学へ行き福祉学の勉強をして、介護業界に飛び込み、働きながら社会福祉士の国家試験に合格して、最悪の中で介護福祉士も試験も合格した。

でも、もう、この仕事は続けられない、あまりにも辛すぎる・・・と思った。
 


しかし、ある日、なぜか、こんなことを考えた。

『このまま、私が介護の仕事を辞めたら、亡くなったご利用者様はどう思うだろう・・・』と。

その方が結果的ではあるが、その命と引き換えに『私に教えてくれた事』があるような気がした。

このまま逃げては、亡くなったご利用者様に、顔向けできない。

あの事故にたいして、過失責任が問われることはなかった。
けれど、自分の介助中にひとりの方の命が消えたことは事実なのだ。
そのことに対して、刑事責任や民事の責任はなくても、その事実を重く受け止める責務は自分自身にはある。

皆が忘れても、私自身は一生忘れてはいけないことだ。

そして、あえて『これからも介護の仕事を続けること』が、『その方に対しての私が出来る唯一の償い』でもある。




そう思えた時に、『もう一度介護の仕事に戻ろう』と、迷わずに決心ができた。



前を向けるようになるまでに1年かかった。
 
 
 
 
 
その辛く哀しい経験と、苦悩の日々のことは、すぐに活かされることになった。





就職した施設での夜勤中のことだった。

私が休憩時間に入り、仮眠をとろうとしたときだった。

仮眠室のドアを同僚が強くたたいた。

『○○さんが、息をしていない!!』

同僚がそう叫んだ。
 
 
私が、その方の部屋へ行くと、第一発見者の同僚が心臓マッサージをしていた。

しかし、その後、どうしたらいいのか、同僚たちはわからず、みんな動揺していた。

だから、私が動いた。

第一発見者の同僚に言った。

『私が心臓マッサージをする!!だから、救急車要請をして施設長に連絡をして!!』

救急搬送要請をする際に、発見時の説明が必要だとおもい、第一発見者の同僚に指示した。

私は、心臓マッサージをしながら、同僚たちに指示を出しつづけた。

『救急車がきたらすぐに入れるように、施設の玄関を開けて待機していて!!』

『一人で大変だけど、ナースコールの対応はあなたひとりで対応して!!』

同僚が、それぞれ諸対応の為に部屋を出て行ったあと、私はひとりで心臓マッサージを続けた。
 腕が折れそうに痛かった。
それでも、今日の夜勤のスタッフで心臓マッサージをしながら指示だしを出来るのが自分しかいなければ、やるしかなかった。
とにかく必死だった。

救急隊が到着して部屋に来た時に、第一発見者の同僚に再度指示だしした。

『発見時の状況を救急隊員に伝えて!』

他の同僚にも同時に指示を出した。

『利用者様の情報を救急隊の人に伝えて!』
 
私は、救急隊員に『このまま私が、心マ(=心臓マッサージ)をしたほうがいいですか?!』ときいたら、『お願いします!!』と、すぐに返答が来た。

私が心臓マッサージをすることで、救急隊員が他の対応ができるのなら、そのほうがいい。
そう思って、腕の痛みを堪えて必死に心臓マッサージを続けた。
電気ショックをかけるときだけ、救急隊員の指示通りに手を離し、再度指示に従い、心臓マッサージを続けた。

それは、ご利用者様がストレッチャーに移乗するまで続いた。

ご利用者様がストレッチャーに乗った時に時計をみたら、発見から30分以上経っていた。

両腕のあまりの痛みと重さで自分の腕ではないような気がした。



救急車に職員の同乗を求められた時に、私が、第一発見者の同僚に同乗するように促した。
『医師に発見時の説明が必要だから、貴方がいかなくてならない』と。

状況は違えど『あの時』の私と同じだった。
しかも、同僚は一人で救急車に同乗するのだ。
まだ若い彼女には残酷すぎることはわかっていた。
でも、彼女が行くしかなった。
私は、彼女に、『財布と自分の携帯電話を持って行ったほうがいい、タクシーで戻ってくことになるかもしれないし、誰かと連絡を取ることになった時に、携帯電話がないと困るから』
そう彼女に伝えて、同乗する彼女を送った。

搬送先の病院が決まり、救急車が病院へ向かったところで、急変をすでに伝えている家族電話して、搬送先の病院を伝えて、向かっていただいた。
同時に、施設長にも電話で伝えた。
施設に向かっている途中だった施設長は、そのまま病院へ向かった。

ご利用者様は病院で死亡が確認された。

心肺停止で発見されたが、病院で死亡確認をしていただけたことで、警察が介入するという最悪の事態だけは避けられた。



第一発見者の同僚は施設に戻ってから、ずっと泣いていた。

まだ、若い彼女には残酷な経験だったろう。

『あの時』の自分と重なった。

しかし、私の時とは全く違う。

彼女は、『「見まわり中に、息が止まっているご利用者様を発見』したのだ。 
しかも、彼女は、『決められた時間に、きちんと各部屋を巡回していた』うえでのことだったのだ。
彼女には、『一点の非もない』のだ。

だから、私は彼女に言った。
『あなたは、夜勤中にちゃんと決められた時間に巡回をしていた。
 だからこそ、あの時点で発見ができた。
 もし、もう少し遅かったら、その場で救急隊員が『亡くなっているから救急搬送ができない』といわれて、変死扱いされて、警察が入れば、ご利用者様の遺体は警察に運ばれて検死されていた。
 それは、ご本人にも、ご家族にも、とてもつらい事。
 あなたが、きちんと仕事をしていたからこそ、救急搬送ができた。
 あなたは、やるべきことはしっかりやっていた。
 あなたは、何一つ悪くない。
 辛いだろうけれど、高齢者を支援する仕事をしている以上、このようなことはどうしても避け
 て通れない。
 私も同じような経験がある。
  だから、どうか、このことに負けないで、立ち直って、介護の仕事を続けてほしい』
 


しかし、彼女は、その後退職をした。


彼女には、時間がかかってもいいから、立ち直って、また、介護の仕事に戻ってきてほしいと、心から願った。




あの時のことが、今でも私の教訓となっている。


だからこそ、ケアマネとなった今、ひとりひとりのご利用者様の身の上に起こりうる可能性がある『事故』を予測して、少しでも回避できるよう努力している。
だからこそ、認知症のない判断力があるご利用者様で、無茶なことをするかたには、私は本気で怒る。
ご利用者様とそのご家族の生活をその身の安全を守るために、必要であれば、嫌われようとも、あえてご利用者様を怒る。
それでも、絶対に危険は完全には回避はできない。
だからこそ、リスク(=危険なこと)の話は、包み隠さずにご利用者様とご家族に話すことにしている。

ご利用者様とそのご家族はもちろん。
そして、現場で支援をしてださっているスタッフの方たちを守るために。


高齢者の支援に携わる人が、私のような辛い経験をしないで済むようにと願いながら・・・。



この私の文章を読んで非難するひともいるだろう。

だが、『ひとの命』を『ひとの人生』を背負って仕事をするということがどういうことか、本当に理解しているかたならば、安易な非難に言葉は言わないはずだ。
介護に携わる者がこのようなことと背中あわせで、ご利用者様と向き合って、懸命に仕事に取り組んでいることは、ご理解下さっているかたならば、非難の言葉はいわないと、私は確信している。

非難をしているひとは、『自分は安全な場所にいて、現実を知らずに安易に他人を非難している、無責任な人間』であると、私は思っている。

それでも、非難をするならば、自分で誤嚥と窒息などのリスクの高い高齢者の介護を半年、いや、ひと月24時間付ききりで、介護をしてから言ってほしい。


介護現場で頑張っている人たちが、どれだけ『多くの重いもの』を背負って仕事をしているか、わかれば、安易な非難は絶対にできない。
私はそう確信している。



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私の『幸せの象徴』

今月から、音楽教室でアルトサックスのレッスンを再開した。

昨年の8月に頸椎ヘルニアとなってから、ずっと休んでいたので、約1年ぶりになる。


まだ、吹く段階までは程遠い状態だが、とにかく再びサックスが吹けることが嬉しかった。
曲を吹けるようになるまでに戻るには、とても時間がかかるかもしれない。
でも、そんなことは苦にならない。
楽器が吹けるだけで、本当に幸せだと思っている。



私は、今まで生きてきて3回『贅沢』をした。


一つ目の贅沢は、『働きながら通信制の大学で勉強』したこと
二つ目の贅沢は、今吹いている『総銀製のフルート』を買ったこと
三つ目の贅沢は、今吹いている(?)『アルトサックス』を買ったこと

この3つです。


この3つの贅沢は、『私のちから』だけでは、すべて手が届かないものだった。
通信制の大学に行くことも、高額な楽器を買う事も、本来の私の置かれた状況では、すべて不可能だった。
3つとも『いろんな幸運が重なって』手にすることができたものだった。
だからこそ、本当にありがたいと思った。


先日、サックスの先生から『ソプラノサックス』を遠回しに薦められたが、丁重にお断りした。
正直、ソプラノサックスも欲しい。でも、流石にそこまでは買えない。
4つ目の贅沢に手を伸ばしたら、間違いなく『破産』する。
もっとも破産する『財産』は、贅沢で買った、『フルートとサックス』のこのふたつ。これを差し押さえられるということになる。
とてもとても、私には、もう、新しい楽器は買うことは出来ない。
父の病気のことがある以上、今の私は、もう、それができる環境ではない。
それに、すでに分不相応の楽器を持っている。これ以上のことを望んだら罰が当たる。


今、持っているアルトサックスは、おととしの11月にローンで購入した。
今もローンの支払い中です。

購入の3年ほど前から、先生方に新しい楽器を勧められていた。
「かたつむりさんは、今の楽器では、レベルが合わない。もっと上の楽器で演奏したほうがいい」と。

私も、先生方に言われる前から、本当はすぐにでも、アルトサックスを買いたかった。
でも、現状はそれを許さなかった。

『もっと上の楽器』というのは、それなりの金額になる。
つまり、それだけの金額を支払うことができる、お給料がもらえてなければ買えない。

当時の私は、うつ病の闘病中で、収入がとても不安定だった。

仕事が出来ず療養していることも多く、貯金を切りくずして、家に生活費を入れながら、入ってくる少ないお給料の不足分を若い時に蓄えていた貯金で辛うじて補って長年過ごしてきた。
だから、とても新しい楽器を買える状態ではなかった。

フルートを買ったときも、すでに鬱病だったけど、まだ辛うじて、そこそこ安定した給料がもらえていたから買えたのだ。

当時通院していた精神科医からは、『かたつむりさんは一生うつ病は治らない』と、言いきられていた。

将来が真っ暗だった。
この暗くて苦しい出口のないトンネルが続くのだ・・・と。  
 
  
だから、
 「無理かもしれないけれど、もし、うつ病がなおって、人並みに働けるようになったら、『病気が治ったお祝い』と『自分への頑張ったご褒美』として、その時こそ、自分が欲しいアルトサックスを買おう。」
そんなことを願っていました。

そう思いながら、別のことも思ってました

「でも、そんな日は来ないよな・・・」と。



ずっと通院していた精神科医にある不信感をもち、病院をかえたら、劇的にうつ病が寛解しました。

そして、ケアマネージャーの仕事に転職しました。


人並みまでは行かないけれど、それなりのお給料をもらえるようになり、『快気祝い』と『うつ病を治した自分へのご褒美』として買ったのが、今、手元にある、『セルマーのアルトサックス』です。



頸椎ヘルニアになって、一度はあきらめらけれど、幸いにも、フルートもサックスも続けることができた。

でも、以前のようには吹けないのです。

ブランクがあるからではありません。

以前のような、演奏の時の姿勢が、
以前のような、指の動きが
以前のような、腹式呼吸が

全てできないのです。

首を痛めたことで、それまでできたことが、出来ないのです。

フルートを再開して、それをすぐに感じた時に、正直動揺しました。


それでも、「吹けるだけ幸せだ、これ以上望んだら、『それこそ罰が当たる』」と、そう思いました。


父が癌を再発した時点で、本来ならば、音楽教室を、場合によってはフルートとサックスそのものをやめなければいけないと、思ってました。
それくらい、私にとっては、フルートとサックスは贅沢なものです。


でも、父が変わらず元気に過ごしているから、まだ当面は続けることができます。
正直、それほど長くは続けられないと思います。
父の病状が進んだ時は、『音楽教室を辞めるとき』だと、私は思っています。

2コースのレッスン料を、父の医療費その他にまわせば、随分両親の負担が違います。
このことは、父の発病の時に決めていました。


もともと、私にとっては、縁がないはずの贅沢な趣味だったのです。


でも、せっかくこうして楽器が吹けるのですから、それまでは、フルートとサックスを思いっきり楽しんで過ごしたいと思います。


好きなことができる幸せを、もう一度かみしめたいと思います。





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妻を守り抜いた夫~海老蔵さんの記者会見を観て~

この数か月、あまりにも忙しすぎて、身体が悲鳴をあげました。

今週の月曜日の朝、全身の痛みと激しい頭痛と、吐き気を催す胃部不快感に襲われました。
その日は午前中は訪問を日程を変更させていただき、午後から出勤しました。
本当は、休みたかったけど、午後はどうしても訪問しなければならないご利用者様がいましたので、無理やり出勤しました。
その後も、どこかで休みたかったのですが、予定変更ができない状況だったので、無理やり出勤して、やっと今日有給休暇をとりました。
午前中に、鍼灸接骨院へ行き、施術をしてもらいました。
当分は毎週土曜日に通院して、身体全身の異常な筋肉の凝りと痛みを時間をかけてとってもらいながら、体調を少しづつ戻していこうと思ってます。
 
こんな不調状態なので、固形物が食べられませんでした。
ウ○○ーイ○○リとスポーツドリンクで、栄養補充をしてました。
今、夕食でやっと、おじやを食べることができました。



整骨院からの帰りに、ネットで『小林麻央さん』の訃報を眼にしました。
しかし、公式発表は夫の市川海老蔵さんが午後の記者会見をするということのみでした。
海老蔵さんのブログを読めば、何が起きたは、解かりました。
在宅医療に切り替えた時点で『そういうことか』ということも、自分の職業柄、そして『がんの治療不可能』な父のキーパーソンをしている立場からも、麻央さんの状況はわかりました。

でも、公式な報告が出ていない前に、ひとの生死を安易に出すということに、とても怒りを感じました。

涙をながしながら、記者会見に臨んでいる、海老蔵さんの姿みていて、とてもつらかったです。


私は正直、以前は海老蔵さんには良いイメージは持っていませんでした。

でも、昨年麻央さんのがんとの闘病が、本人と家族が意としないまま、世間に公になった時に、記者会見を開き、現状を説明していた海老蔵さんから、『家族を守ろうとしている夫であり父親』というのを感じました。

あの記者会見で、麻央さんもご家族も、心の持ちようが変わっただろうと思います。

海老蔵さんの記者会見で、麻央さんは全力で病気と闘うことができる環境が整ったのだろうと、私は感じていました。

在宅医療に切り替えたことを知った時、『ターミナルなのだな』と、思いました。

私が、父の転院先を探しているときに、在宅医療をしっかりとできるクリニックを選んだのは、父が自宅で最期を過ごせる環境を整えるためだったのですから。

海老蔵さんの記者会見を観ていて思いました。
 
麻央さんは、最期の大切な時間を、二人のお子さんやご両親やお姉さんと、夫に守られながら、自宅で過ごすことができたことは、間違いなく『幸せ』だったと思います。

それでも、幼い二人のお子さんを残して逝かなければならない事は、悔しかっただろうし、心残りだっただろうと思います。
 
でも麻央さんの『想い』を、海老蔵さんはしっかりと受け止めていることは、記者会見の言葉からも良くわかりました。

きっと、夫婦で多くのことを話し合ってきたのだろうと思います。

『親の死に目にあうことができない』とまで言われている『歌舞伎役者の夫』を持ちながら、その夫が最期に間に合い、家族みんなに見守られて、彼岸に旅だった麻央さん。

34歳の若さでの逝かなければならない事は、とても哀しいことですが、でも、残された日々を夫や子供と自宅で最期まで過ごせたことは、幸せだったろうと思います。

苦しい息のなか、意識は最後まであった様子が、海老蔵さんの記者会見の内容で伺えました。

自分の全ての想いを込めて夫に伝えたのであろう『愛してる』という言葉。
その言葉を麻央さんが海老蔵さんに伝えることができたことは、麻央さんにとっても、海老蔵さんにとっても幸せだっただろうし、海老蔵さんもその言葉を受け取れたことで、哀しみのどん底にあっても、妻からこれ以上にない『もの』を受けとった事が、これからの支えになると思います。

海老蔵さんが、麻央さんのことを『自分を変えてくれた存在』と言っていた言葉。

それが海老蔵さんの、妻麻央さんへの想いを全てを込めた言葉だと思います。

妻を亡くした哀しみを抱えながら、でも、哀しみだけではない『何か』を海老蔵さんの中にはあると思います。
 


『おふくろと親父に対して、自分ができることは全てやった、後悔はない』
5年前に亡くなった母方の叔父が、30年前に祖父を送った後に、私に言った言葉です。
親を亡くした哀しみはあるけれど、全力で介護をしたからこそ言える『言葉』だと、私は当時高校生でしたが、そう思いました。
 


 
終末期の在宅医療は、様々な条件が整わないとできないことです。
一番必要なのは『家族の覚悟』だと、私は思っています。

自分が、ケアマネとしてターミナルの方を担当する力量をつける前に、父が癌を再発し、自分が父のキーパーソンをすることになった際に、『父を自宅で最期まで過ごせるようにしたい』と、すぐに決めました。
父はそれを望んでいたとしても、絶対に言葉にはしないことはわかっていました。
父は、家族とりわけ『母の負担』をとても気にしていました。
「お母さんが大変だから、俺は病院でいい」
そう父は何度も言っていました。
 『俺は病院でいい』という、父の言葉通りに受け取った母に、
「お父さんは、お母さんのことを心配して、自分は病院でいいと言ってるんだ!本当の希望は違うんだ!」
「お父さんを送った後で、あの時『こうしておけばよかった』と思っても遅いんだ!お母さんも後悔しないようにしないとダメなんだ!」
と、母に何度も言いました。
父に我慢を、母に後悔をさせたくない、その一心で。
私も、後悔はしたくないと思ったから。
だから、父に
「今回の病気(がんの再発)に関しては、お父さんは我慢しないで、遠慮しないで、何でも言ってほしい。本当にできないことだったら『お父さんごめん、それは出来ない』と正直にいうから」
と伝えて、ようやく父が、言いはじめてくれました。
「ギリギリまで自宅にいたい。お母さんが限界になったら、病院へ入れてくれ」と。
でも、私が仕事量を減らして介護することは、父は頑なに拒みました。
『お前にこれ以上の迷惑はかけたくない』と。
これは父親としての本音だと、私は思いました。
『私に対して、父に負い目は持ってほしくない』と、再発がわかった時点で、私は常にそのことを意識してましたので、その父の想いは受け入れることにしました。

近日中に両親は自分達の部屋を畳からフローリングに替えるそうです。
介護用ベッド入れることになっても大丈夫なように、父が『元気』でいる今のうちに床を直すことを、両親で話して決めたそうです。
母曰く『マサ(5年前に亡くなった母方の叔父)が遺してくれたお金(=母が相続で受け取った叔父のお金)は、もうこれで無いわ』とのこと。
大切にしていた姉とその亭主の為に使ってくれたら、亡き叔父も『本望』だろうと思ってます。

そんな、我が家の状況から、麻央さんの闘病は他人事ではありませんでした。
 


『最期の時間を自宅で家族と過ごす』というかたちで過ごせたのは、ある意味では終末期の方にとっては最高の過ごし方でもあります。
 


妻の闘病を支えて、残された日々を妻と子どもたちが共に過ごせるように環境を整えたこと、そして妻を守り抜くことを、『夫』として『父』としてやり切った、海老蔵さんは、見事だと思いました。


これから、妻の想いを胸に、妻が残してくれたふたりの子どもという宝物を慈しみながら、海老蔵さんは生きていくのだろうと思います。

ふたりの子どもと、麻央さんの最期の言葉が、これからの海老蔵さんの支えとなるのだと思います。
 

そして、最期まで病魔と闘い通した麻央さんのご冥福をお祈り申し上げます。

合掌



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『恩を仇で返す』ご利用者様

このところ、キーパーソンが外国にいる方や、身寄りのない方などが、相次いで体調が悪化してしまい、家族が対応すべきことを、私が動く結果となったため、5月はかなりハードな1か月となりました。

おかげで、土日は疲れ果てて、仕事の追い上げができませんでした。

6月こそは、事務仕事の遅れを少しでも巻き上げたいものです。


私が最近担当することになったご利用者様(Aさん)は、身寄りのない女性です。

急激に具合が悪くなり、動けなくなって、あともう少し遅かったら死んでいただろうという状態で、近所の人に助けられました。

しかし、近所の人は誰に相談したらいいかわからず、ヘルパーをしていたと聴いたことがある、やはり近隣に住む女性(Bさん)に相談に行きました。

Bさんは、介護保険の申請手続きから、病院の対応、取り急ぎの自費ベッドの手配、ゴミ屋敷と化した自宅の片づけなど、無償の善意ですべてしました。

顔しか知らなかったAさんの為に。

そして、色々な経緯を経て、私がAさんの担当ケアマネージャーとなりました。


Bさんは、ヘルパー会社でサービス提供責任者をしていただけあり、とてもテキパキして、『今Aさんに何の支援が必要か』もしっかり把握していて、初めは私はBさんの意見に乗っかる形で、計画書を作成して支援のスタートをしました。
なぜなら、Bさんが必要と考えている支援内容が、私と同じことだったので、当然異論がなかったからです。

Aさんは『Bさんが神様のように見える』と、いっていました。
『Aさんがいなければ、私は死んでいた』と。
事実、本当に死んでいたと思います。

サービスもスタートして、Aさんも薬の効果が出てきたのか、最初に会った時よりも、随分状態が良くなってきました。
具合が悪くて動けないことのほうが多かったのに、自分で出かけることもできるようになりました。

すると、Bさんに対すAさんの態度が変わってきました。

はっきりいって、Aさんは、Bさんが『うっとうしく』なってきたのです。
Aさんの中でBさんが『ただのうるさいひと』に変わってしまったのです。
Bさんがはっきりとものを言う人だから、自分の痛いところや苦言を言われることが不愉快になってきたのでしょう。

AさんはBさんを避けるようになり、私に「これはBさんには言わないでほしい」と、いうことが増えてきました。

Bさんに対する否定的な言葉も出てきました。
 
 
2か月ほど前までは、BさんがいないとAさんは、『生きていけない』状態でした。

 それをBさんは、無償で善意で毎日、Aさんのことで数か月一生懸命に動いてくれていたのです。

それを、自分が動けるようなったとたんに、手のひらを返すような行動をはじめたのです。

たぶん、Bさんは、今までAさんの為してきた事にたいして、恩着せがましいことを言う人ではないでしょう。
介護業界で働く者として、状況を知っていて、そのままにしておくことができなったのでしょう。
介護専門職として、当たり前の、でも、簡単には出来なことを、Bさんは、当然のことのようにやってきたのです。

でも、最近はあからさまに、Aさんからは、Bさんを嫌悪する言動が見えてきました。


私は、Aさんの担当ケアマネージャーです。
だから、Aさんの意向を汲んだ支援をするのが仕事です。

しかし、かたつむり個人としては、AさんのBさんに対する態度が許せませんでした。
『Bさんは、アンタの命の恩人だろう!恩を仇で返す事をするのか!アンタは人として最低だ!』
そう、何度も怒鳴りそうになりました。
とりあえず、今は、抑えていますが、Aさんの『人として許せない言動』に、いつか、この言葉が口から出る可能性はあるとおもいます。


先日の定期訪問で、Aさんは私に不愉快そうに言いました。

「あなたは、私の担当のケアマネージャーでしょう?私が困ってることは何かわかっているはず。それなのに、なんで今日来るときに調べて持ってこないの?」

具体的な相談事は、Aさんからは、何ひとつとして聞いてません。

それで、自分の思うように動けと言うのです。

お金に困っていることはわかっていました。

しかし、Aさんは『働いていた時に税金滞納』をしているので、助成制度は使えません。
病気などで仕事が出来ずに滞納したということであれば、色々な手はあります。
しかし、元気に働いているときの滞納です。

義務を怠っている人間には、権利を使う資格はありません。

AさんはBさんに最初に言われています。
『滞納分を払わなければ、助成はうけられない』と。



利用者が何に困っているのかは、訊かなくても把握するのがケアマネージャーです。

だから、ある程度は、困っていることは何かは、私もわかっています。

しかし、Aさんが払う能力があったにも関わらず、税金滞納した以上、ケアマネージャーとして手が打てないのです。

はっきり言って、Aさんの自業自得なのです。

税金を納めずに、色々な助成制度だけは使わせろとは、虫がいい話です。



ですから、私は、Aさんに、こう答えました。

「私は、Aさんから、『こういうことに困っている』とか、『こういうことで何かあるか調べてほしい』とか、貴方から『相談を受けた』ことは一度もありません。
 その状態で、ここで、貴方が求めるものを提示できないことをたいして、御立腹されても、はっきり言って困ります。
 貴方が何を求めているのか、言っていただけなければ、私にはわかりません。
 福祉関連の制度は、とても情報量が多く、全てを頭の中に収めることは、少なくとも私には不可能です。
 ですから、私は、即答できなことが多いので、ご相談を受けた場合に即答ができないときは『調べてお返事します』というかたちで、他のご利用者様とはやっています。
 今までの色々な流れで、今は私がAさんの担当ケアマネージャーになっていますが、ケアマネージャーを選ぶ権利はAさん、貴方にあります。
 その場での質問に常に即答できる能力は、今の私にはありません。
 すべての質問に即答できるケアマネージャーがいいというのであれば、私ではなく、どうぞ、そういうケママネージャーさんをご指名してください。
 貴方に、ケアマネージャーを選ぶ権利がありますので。
 それと、税金滞納している以上、ペナルティはあります。
 ですから、様々な支援制度はありますが、税金滞納があるので、使えないもののほうが多いでしょう。」

そう言いました。

はっきり言って、きつい言葉です。
でも、人は、『国民の義務を果たした』うえで、『国民の権利を主張』することができるのです。
そして、世の中はAさん中心には、まわっていないのです。
さらには、ケアマネージャーは『御用聞き』ではありません。
専門職として、『その考えは間違っている』と言うことも、責務のひとつです。
 少なくとも、わたしは『言いなりケアマネ』ではありません。
『人の道として』間違っていることは、遠慮なくはっきりと言わせていただきます。
『それは、間違っている』と、はっきり言います。
たとえ、担当を降ろされようとも。
 

Aさんは、私の言葉に慌てました。

「かたつむりさんが、嫌だとか、不満だとか、そういうことではないのよ!」

と、必死に否定してきました。


私は、『困ったこととか、知りたいことは事前に教えて頂けますか、即答できなければ、調べてお返事しますので』と、Aさんに伝えました、笑顔で。


しかし、その一方で、そんなAさんを冷めた眼でみている、『かたつむり個人』がいました。


Aさんが、なぜ、兄弟と『絶縁状態』になっていることが、このことでよくわかりました。

これでは、兄弟は、Aさんとは、かかわろうとはしないだろうと思います。
  
  
  
担当ケアマネージャーとして善処はします。

しかし、かたつむり個人としては、Aさんは『許せない』分類の人間です。

『ケアマネージャーとしての立場』と『かたつむり個人の価値観』のはざまで、どうやって仕事をしていくべきか。


『個人の価値観』と『専門職としての価値観』の大きな隔たりの中で、どう自分をコントロールして、クライアントの支援をしていくのか
、という、専門職として、大切な、そして難しい『課題』と、初めて向き合うことになったようです。






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働きながらキーパーソンをする難しさ②

ドタバタしてまして、しばらくブログを書くこともできませんでした。

実は、今、左手半分が痺れてます、小指側のほうです。
時々痺れに痛みが伴ったり、指が震えます。
これは、初めてのことです。
身体の凝りからきているのかもしれませんが、首からきている可能性もあります。
なにせ、整形外科が29日からしっかりGWの休みに入っていて、明日まで休みなんです。
勤務調整して4/24に受診したのが最後です。
2週間近く首の牽引をしてません。かなりきついです。

来週は結構忙しく、救急搬送で入院してしまった独り暮らしの利用者様の対応があるので、平日に仕事の調整をして受診をするのは無理だと思います。
あと、1週間持つのか、私の首???
 ちなみに、GWも普通に仕事してました。
社長が『祝日だから休めるようだったら休んでいい』と言ってましたが、私はすでに訪問予定を組んでいたので、休まずに出勤しました。
同僚は皆休んでましたが・・・。

そして、今日は休みでしたが、朝の6時半に仕事用の携帯電話が鳴りました。
私が担当している方の娘さんからでした。
内容はご利用者様が救急搬送されたとのこと。
ご本人は独り暮らし。唯一の身内の娘さんは外国でくらしてますので、病院へ駆けつけることができません。
あれやこれやと、娘さんと連絡をとりつつ、各支援者へも連絡をとりつつ、今日できる対応が全て終わったら、10時をとうに過ぎてました。
ご利用者様の様子は大事なく、週明けに退院のようですので、週明けにまた、その方の色々な対応をしなければならないと思います。
ケアマネである以上、自分に『休み』はないと思ってます。本当に。
でも、本音をいえば、正直、休日の日の朝から、3時間半かけて緊急対応をするのは、やっぱり、きついです。
でも、そのことはいい、ケアマネである以上、やらなければならない。

しかし、今は動けるから、こうやって対応できたのだ。

父の病状が落ち着いているから。

先日、もともとかかっていた大きな病院の定期受診に行った。
実は、当面は、もともとかかっていた大きな病院と、最期まで看てくれるクリニックと両方の受診となっている。
最初は4/28の予定だったが、先生が手術が入ってしまったため、5/1に変更になった。
父は「お前も仕事があるだろうから、お母さんとふたりで行ってくる」
と、言ってくれましたが、
もし、悪い結果が出た時に、両親が冷静に先生の話を聴けると思えなかった。

父には『前科』がある。

昨年の夏に父は血便がでた。
父は、私が検査に付き添うからと言ったのを断り、一人で行き、その場で入院となり、父が一人で先生の説明を聴いた。
何かあったら連絡をしてほしいと、父に頼んでいたが、いっこうに連絡がないので、しびれを切らして私から電話をした。
電話で、『先生から言われた話』を私に説明した時の父の言葉。
「小腸から出血している。『エス何とか結腸から出ているんだと』、それと検査は終わったから、先生の説明があると思う」とかいっていた。
まったく先生の説明を理解していないのは、話を聴いてわかります。
『親父!S状結腸は『大腸』だから!!』と、腹の中で思った。
当然、その場で病院に問い合わせた。
病棟看護師からの説明は、こうだった。
「大腸のS状結腸からの出血と思われるが、大腸内視鏡はこれからなのです。」
当然、看護師さんに頼んだ。
「父は先生の説明を正しく理解していません、認知症はないですが、年相応の理解力と判断力の低下はあります。しかも、耳が遠いです。父に関することは、私が対応しますので、何かあれば連絡をください」と。
その場で、先生の説明の日時を決めてしまった。
そして、後日父に説教した。
『先生の説明を間違って理解して、同意書を書いたら、病院に迷惑がかかるんだから!私のことを気遣ってくれことはありがたいけど、後でごちゃごちゃになってから、『かたつむり、何とかしてくれ』と言われる方がこまるから!病気の時はちゃんとできることはするから言ってくれ!!』と。

そんなわけで、またまた、その時点では5月の訪問スケジュールを入れる前だったので、5/1は当然ついていった。
両親だけで行かせたら、心配で仕事にならない。
 
大きな病院のほうへ付き添う時は、仕事を『休む』ことにしている。
何時に検査と診察が終わるか見通しがつかないからだ。
何かあれば、その場で緊急に検査が入ることがある。
5年前もそのようなことが何度もあり、結果的に一日がかりになったこともたびたびあった。
そのため、職場には、その病院へ行くときは『まず日中は携帯電話に出られないと思ってほしい』と言ってある。
重篤な方もいるので、携帯電話の電源は必ず切っておくことにしている。
社長も、その日は、私に利用者様のことは、事務所で対応すると言っていた。

でも、病院からでて、電源を入れると、メールや留守番電話が入っていることがある。
ご利用者様からの直接の者は仕方がない。
 しかし、同僚からのメールがあるのだ、しかも『折り返し○○へ電話してほしい』と。

結局対応が遅くなってしまうが、私が先方へ連絡を取り対処することになる。

正直かなり大変です。
大きな病院の付き添いは、時間がかかるので、とても疲れます。
その後での、仕事の対応です。
それで、一日終わります。
はっきりいって、出勤しているときよりも疲弊しています。


私は、遊びでやすんでいるのではない。

『がんの治療ができない苦しい思いを抱え、自分の命を見つめて生きている』父の受診に付き添っているのだ、キーパーソンとして。
 
 
今は、まだいい。
父の『がんの進行』がみられていないから。
父も一応『元気』に過ごしているから。

でも、もし進行してしまったときに、
ターミナルになっていったときに、
仕事を調整して、時間をつくって父の対応で奔走している私に、
こうやって、同僚たちは遠慮なく連絡をしてくるのか、折り返し電話するようにと。

同僚たちは皆結婚しているので、自分が仕事しなくても、少しの間はどうにかなるのかもしれない。
旦那さんがいるから。
お金の苦労も知らないから。

でも、私は、仕事を辞めるわけにはいかない。
養ってくれる夫はいないのだ。
逆に、私が両親の人生を背負っているのだ。

父に言われている。
「俺に何があっても、仕事の量は絶対に減らすな。担当件数が減ると、また減給になるのだろう。そうしたらお前が苦しくなる。俺は、これ以上お前に迷惑をかけたくない」と・・・。

昨年、入社して半年で30件の担当を持つことができなかった私は、月5万円の減給になった。
減給の理由はわかる、私なら、ケアマネだから。
しかし、一般の人達には理解できない。
両親は激怒した。
毎晩睡眠時間を削って、家で事務仕事の追い上げをしている私を見ていたから。
私が家にいれる生活費にも大きく影響した。
家族の生活にも関わってくる問題だった。
だから正直かなり無理をして、苦しかったけど、2か月で30件までに増やして、給料を元に戻した。
生活に響くから。

今は、父の病気のことがあり、家にいれる生活費の金額をわずかだが増やした。

父の病気が進行しだしたら、尚更お金がいる。

だから、余計に働かなくてはいけない。
 
 
しかし、
『病人や介護を必要とする家族いる人たち』は、職場に理解と協力を求めるのは、現実的は無理なのだろう。
実際、ケアマネ事業所でもこれなのだ。


職場の理解が得られないとなると、今後父の病気が進行した時は、どうすればいいのか。
 
 
また、途方に暮れてしまっている私がいる。


これだから、介護をしている家族が疲弊していくのだ。


自分がその立場になって、また、改めて、痛感している。



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『5年目の命日』

4月は私にとって特別な月の一つである。

尊敬していた母方の叔父の命日が、4月30日だから。



何度も書いているが、この叔父がいたから、『今の私がある』と言っても過言ではないほど、私にとっては大きな存在だった。

私は、小学生から高校生まで、この叔父と叔母(母の妹)が祖父母を介護している姿を目の当たりにしてきた。

その二人の姿が、ケアマネの私の『原点』である。

20歳代後半と30代前半の兄妹が、父と母のふたりの介護をしてきたのだ。叔母が仕事を辞めて介護に専念し、叔父が一家4人の生活を支えながら、両親を介護している叔母を支えた。

母もできる限りのことはしていたが、なにぶん姉と私がいたので、どうしても限界があった。
だから、母は今でもいう『二人には苦労させた』と。

ケアマネとして様々な仕事をして、少しづつでも経験を積んでいくに従って、叔父と叔母の凄さを改めて思い知らされている。

父の癌の再発で、私もキーパーソンとしてここ数カ月はすさまじく色々と動き回った。

一応ケアマネとしての知識があっても、父のキーパーソンをするのはとても大変だ。
しかもまだ介護はしていないのに。

でも、叔父は若くして、両親のキーパーソンとして、叔母ともとに介護をしながら、そのすべてを6年以上ひとりで背負ったのだ。

改めて、今、叔父の凄さを感じている。



両親の介護で、結果的に結婚の機会を逃してしまったのだろう叔父は、幼いころから私を可愛がってくれた。本気で怒ってくれた。
それは、叔父がその命が終えるまで、変わることはなかった。

その叔父の享年は64歳。

だからこそ、今でも思う。

叔父には、もっともっと・・・もっと、長生きしてほしかった・・・と。

5年前、あの時の私は、まだケアマネージャーの資格すら持ってなかった。

もし、叔父に残された時間がわずかだとわかったあの時に、あの時の私に『今の知識と経験』があったら、叔父にもっと違うことができたはずだった・・・そう思うと悔しくてならない。

叔父が暮らしていたマンションは無理でも、私達が住んでいる家に、叔父が生まれ育った町に連れて帰って、私の母のそばで最期を過ごすことができるようにすることくらいはできた。
今の私であれば・・・だからこそ、今でも本当に悔しい・・・悔しくてたまらない。

叔父からは、沢山の愛情を受けたのに、私は何一つ、恩返しができなかった。

葬儀の時、棺のなかの、あまりにも幸せそうな笑顔の叔父を見つめて、私は、ただただ号泣しつづけた。

今でも、思い出すと涙がでる。




あれから、叔母は、私に会うと必ず最低4回は私にこう言う。

『お母さんを大切にしなさいよ』

『お母さんのこと、頼むよ』


叔母のこの『言葉』の向こうに、叔父を感じるときがある。

叔母の言葉は、叔母だけのものではなく、亡き叔父の想いも含まれているのだろう。


長姉だった母は、生活保護を受けるほど苦しい生活のなか、祖母に替わり、叔父や叔母を育てたも同然だった。
だから、叔父も叔母も母に一目置いているし、母を大切にしている。

だからこそ、私は、叔母の言葉を、毎回重く受けとめている。




明日は、母と叔父の墓参りに行く。

霊園の最寄り駅で叔母と合流する。


4月の墓参りは、叔父の命日の月だから行くことが、当然、一番の理由ではある。

だが、私が、自身のプライベートなことも、なかなかできないほど、自分の仕事が忙しい中、あえて、叔父の墓参りに行くことにこわだるのは、もう一つの大切な理由がある。

『母と叔母を会せたい』ためだ。

これは、私の『勝手なおせっかい』だ。
だから、二人には話したことはないし、話すつもりもない。

5人兄弟だったが、今は、母と叔母のふたりだけだ。

正直、母が一人で叔母のところへ行くことは出来ない。交通機関の乗り換えがややこしいからだ。

叔母も、何か理由がないと、一人で出かけることが難しいのだ。旦那さんの性格上のために(悪いひとではないんですがね、色々と理由がありまして)。

だから、4月は、自分自身が無理をしてでも、母を墓参りに連れて行っている。


母と叔母が1年ぶりの再会を楽しんでくれれば、
天国の叔父がそれをみて、少しでも安心してくれれば、
私はそれで嬉しいと思っている。


それが、不肖な私の
ささやかな、母親孝行と、
そして、私を大切にしてくれた叔父と叔母への、ほんの少しだか、ささやかな恩返しになれば、幸いだと思っている。



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何を目指して、介護保険事業所を立ち上げたの?

先日、知人からメールが来た。


以前、ブログに書いた、『訪問介護事業所』を経営している、古い知人である。



用件は

『うち(知人の事業所)に来てほしい、給与等の待遇は出来る限り考慮するから』

という、引き抜きである。

彼の会社も人手不足らしい。



確かに彼には、若いころ世話になった。

だからと言って、仕事で公私混同するほど、私も馬鹿ではない。

古くからの知人であればなおさらだ。



彼は、リーダーシップもとれる。

経営者には向いているとは思う。



普通の会社であれば・・・。






彼に、こんなメールを送った。



私は、訪問介護の経験はありませんので、サ責はできません。

    ※サ責=サービス提供責任者
         ヘルパーさんを取りまとめて、
         ケアマネと連絡を取り合う管理職的な立場の人。

昨年に頸椎ヘルニアをしていますので、介護の仕事はできません。

 

今、私はケアマネとして、37件担当しています。難しい状況にあるかたも少なくありません。私はケアマネとして、この37人のかたとそのご家族に対して責任があります。安易に転職は即決はできません。

 

A(知人)さんは、私をどのような位置付けで、必要と考えているのでしょうか?

 

私は、まだ2年足らずのケアマネです。

それでも、自分なりに目指しているケアマネ像というのがあります。

それは、間違いなく、営利追及とは相反します。

 

ケアマネ事業所を立ち上げるつもりならば、私だけでは経験不足です。

 

それに、私の父が肺癌を再発しています。目立った進行はみられませんが、治療は打つ手がなく、ターミナルを見据えて、転院先の病院の手続きをとったところです。

父のキーパーソンとして動き回っている状態であり、今後の事をかんがえると、給料がさがるのは大変困ります。    

 

父のことを抱えたケアマネでいいのか、そのことも含めて、Aさんがヘルパー会社の経営者として、何を目指しているのか、お聞きしてから、父のことを含めて、考えさせていただきたいとおもっています。

 




彼から、翌日にメールが来た。

色々書いてあったが、つまりこの話は白紙にしてほしいということだった。

利益追求する社長としては、今の私は『考え方の相違』や『給与待遇面』『家庭事情]』を考えると、雇えないそうだ。

思った通りの返事が来た。

最初から、そう思っていた。

伊達に若いころからの付き合いではない。

 

 






彼に、今度はこんなメールを送った。



ご連絡ありがとうございます。

 

思った通りの返事がかえってきたというのが、正直なところです。

 

経営者として利益追及は当然のこと。

 

しかし、介護保険事業所であるなら、利用者さんの立場にたった質の高い支援ができないと、淘汰されます。

 

その相反するものを、どこに落としどころをつけるかが、大切だとおもいます。

 

利益追及で走りすぎると、間違いなく、職員は辞めていきます。

 

私がケアマネとして一番信頼しているヘルパー事業所は、小さな会社です。社長が、専門職として確固たる信念をもって仕事をしているので、ヘルパーさんの専門職としてのレベルが高いです。

 

私は、そこの会社には絶対の信頼を持ってお願いができます。

 

介護保険事業所は、利益追及の為には、まず、ケアマネが安心して依頼できる事業所でいられるかという事が大前提です。

 

一般企業と同じ感覚で経営をしていたら潰れます。

 

生意気なことを書きましたが、私も若いころのままのかたつむりではありません。

介護職として10年以上、様々な方のご支援をしてきました。

ある夜勤中に私は、心肺停止になったご利用者様の心臓マッサージをしながら、同僚たちに指示だしをしたこともあります。

私もそれなりに、介護職として経験を積んできました。

その上での、『専門職』としての私の意見だと思って、受けとめて頂ければ、幸いです。





彼が、この文章に対してどう思ったかは、わからない。

返事が来ないから。

まあ、まさか私から頭ごなしに言われるとは思っていなかっただろう。


こっちも伊達に、介護職や相談員を合わせて10年以上やってきたわけではない。









介護業界は、売り上げのあげにくい業界だと思っている。



特に株式会社にとって、介護保険での商売は、とてもやりにくい業界だと思う。

なぜなら、自分たちで、商品(サービス)の単価を決められないから。

介護保険で、加算項目があるとはいえ、基本的には一律で決められている。


そのなかで、経営者はどうやって、経費を賄い、人を雇い、売り上げをあげて、利益を出していくか。


利益を積み重ねていかなければ、株式会社としての『体力』がつかない。

会社に危機的な何かがあった時に、『利益積立金』がなければ、会社はすぐに倒産する。



介護業界での利益追求は、本当にやりにくい。



でも、客(ご利用者様)に来てほしならば、それなりに満足できるサービス(支援)ができなければ、客は来ない。

また、安心してケアマネが依頼できる会社でなければ、客(ご利用者様)は、紹介してもらえない。


たぶん、彼がそれがわかっていないのだろう。


ヘルパー会社として、仕事を依頼が来るようにするにはどうしたらいいのか。

そして、人材確保のためにはどうすればいいのか。

それを、もう一度考え直さなければ、ダメだと思う。


そして、何よりも・・・

彼自身が、『何をしたくて』ヘルパー会社を立ち上げたのか。



これが、ご利用者様を支援することとつながっていなければ、間違いなく会社は潰れる。



そのことに、彼が、自分自身で、早く気がついてほしいと思う。



頭が切れる男だけに、余計にそう思う。




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私が結婚しなかった理由~ケアマネまでの道のり5~

注意:この話は、個々の価値観もあると思います。
   抵抗感を持つ方もいるかもしれませんが、
   私がケアマネの仕事にたどり着くまでに、抱えた葛藤と理解してただければ幸いです。


今日は休みでしたが、今月中旬に社員が一人増える為(社長のお仲間)、今まで私が広々と使っていた棚を2段空けることなり、それに伴なって、棚の片づけと、もろもろを整理整頓するために、午後事務所に行ってました。

その時に、社長がいました。

社長が、私に子どもたちの話を始めました。

「早く、子どもたちが自立してくれるといいのに」

正直、なにをいってるんだと思いました。

「社長、一番下のお子さんは小学生になったばかりだし、一番上の子は、これから思春期で、一番難しい歳頃になるんですよ。まだまだお母さんが必要な年齢ですよ。」

そう私は答えました。

社長は三人の子どもの母親です。一番上が今春中学に入学し、一番下が同じく小学校に入学したそうです。2番目の子は小学4年生だと思います。

「子どもたちは、『家にはお金がないといいながら、お母さんは何だか楽しそうに仕事している』ように見えているようで・・・」

社長は世間話をするような口調で話を続けます。

「うちの子どもたちは、私がいなくなってしまうような気がしているらしい」


まあ、子どもたちに、そうみられて当然だろうと思いました。

だって、家にほとんどいないのだから。


2月に入社した社長の仲間から、社長が最近、事務所の近くにアパートを借りたと聴きました。
忙しくて家に帰る余裕がないのでしょう。

しかし、これは、母親としてしてはいけないことです。
社長は、アパートを借りていることを私には言いません。
私が、何度か社長に『カマ』をかけましたが、社長は言いません。
たぶん、私に言ったら、怒られることがわかっているんだと思います。

だから、はっきりと言いました。

「家にお母さんの姿がなければ、お子さんは当然そう思いになるのは当たり前ですよ」

出産すれば、生物学的には『母親』になれます。

しかし、真に母親となれるかは、その先、『子どもとともにどうやって生きていくか』そして『どのように子どもを育てていくか』にかかっていると、私は思います。

子どもを産んでいない私が、なぜ、偉そうにそんなことをいうのか・・・。
 
 
私は、社長に、私の子どもの頃の経験を話しました。


「社長、ご存知の通り、私の両親は共働きでした。私が物心ついたときには、母は内職をしていました。
私が幼稚園に入ると、結婚前に勤めていた、小さな町工場で働き始めました。
それでも、母の勤め先は、家に近くであり、母が若いころ(たぶん中学生の時)から働いていたところなので、学校の帰りは、母の職場にランドセルを置いて遊びに行きました。
だから、ほかの共働きの両親を持つ同級生たちよりは恵まれていたと思います。
小学生の時は『鍵』を持たずに済んだので。
母が働かないと、私の家族は生きていけないことは、私も子どもなり理解していました。
だから、そのことに不満をもったことはありません。
でも、同級生の家に行くと、お母さんがいて、お菓子とかを出してくれるのをみていると、やっぱり淋しかったです。
学校の帰りは、母の職場へ向かう為、登下校で決められた道を使わないので、同級生にいじめられたこともありました。『お母さんが働いてる工場へ行くんだから。仕方ないでしょう!』と反論しましたけど、何度もいじめられました。母には言いませんでしたけどね。」

社長は、私の話をどこまで聴いているかはわかりません。
都合の悪いことは、聞き流す癖があることは、とっくに知ってます。

それでも、私は、話を続けました。

「社長、他の人は知りませんが、私には『仕事』と『子育て』の両立は出来ないと思ったから、結婚をしなかったんです。」


社長は『女は結婚して子どもを産んで一人前』という価値観をどこかに持っています。


だから、一人の女としての私の生き方をどう思っているか、正直わかりません。


「生きていくために働かなけれならないのなら、母親も働くしかありません。
しかし、私は、自分が経験した『さびしい思い』を自分の子どもにさせたくなかった。
30歳を過ぎて、自分が就きたかった介護業界の仕事に入り、そのうえで子どもを育てるとなると、夜勤もあるので子供に淋しい思いをさせます。」

このことは、本当に何度も悩み考えました。

「でも、自分の夢を諦めて、結婚して母親になって子どもを育ると選択した時に、自分の子どもたちに『お母さんは、あなた(自分の子ども)にために、自分の夢を諦めたのよ』と、『絶対に自分が死ぬまで言わない』と、確信を持つことができなかった。何かの拍子にくちばしってしまうかも、と思ったら、その選択もできなかったんです。
生活の為に母親が働いているということであれば、子どもも理解してくれます。
でも、自分の『夢』の為に、私は、子どもを犠牲にしたくなかったんです。」


介護業界で働くことと、そのために大学に行くことを決心をする前に、このことを何度も繰り返し考え続け悩み続けました。


『二兎追う者は、一兎をも得ず』

私だって、人並みに結婚して、平凡でもいいから母親になりたかった。

だって、『平凡は当たり前』ではないから。


でも・・・


両方望んでは、両方とも失う・・・その時の私は、それがわかっていました。



「だから、私は『結婚』をしなかったのです」


私は、社長に言いました。


私の話を、社長はどう受け止めたかはわかりません。


それでも、そのまま私は、社長に厳しいこといいました。


社長の為、お子さん方の為。


「子どもは、小さいころは、いい子にして、とにかく我慢します」

幼い子供が、親の言うことに反論ができるわけがない。

「でも、成長するにつれて、我慢していたことが爆発します。」

我慢を続けた分だけ、その反動は間違いなく大きい。

そのことを、私は知っている。


「そうなってからでは、遅いんですよ」


私の言葉を、社長がどう受け止めたかはわからない。



たとえ母親になっていなくても、子ども時代は私にもあった。
 

経済的に高校も行けるかどうかという、生活環境の中で私は育ったので、我慢の連続だった。

私は公立の中堅の普通科の高校に行ける学力は一応あった。
でも実際には4~5ランク下げた公立商業高校を受験した。
私立の滑り止めの受験などできなかった。私立の高校に進学するお金がないから。
だから、試験会場に行けば、必ず絶対に受かる公立高校を受験するしかなかった。

小学校低学年の頃、友達がみんな当たり前に持っているおもちゃさえも、両親に買ってもらえなかった。
それを見かねた祖父が、私に買ってくれたものがあった。
昭和52年頃で、2500円ほどのおもちゃだった。

小学2年生の時に、父が子供用の自転車を買ってくれた。『月賦』で・・・。
そのとき私は素直に喜んだが、今考えるとそれが家の家計にどれだけ響いていたのだろう、両親が色々と切り詰めてくれたのだと思う。

思春期に、たまには両親に反抗もしたことはあったが、それでも、生活が厳しいことは、常に頭にあった。

もしかしたら、『あの頃』の我が家は、生活保護が受けられたのでは・・・と、今になって思う時がある。
しかし、母が自身が子どもの頃に生活保護を受けて、辛い経験をたくさんしたらしく、『アンタたちに辛い思いはさせたくないと思って、絶対に生活保護は受けたくないと思って、アンタたちがいたけれど、私は働いたんだ』と、大人になってから、母に言われたころがある。

姉と私を思っての、母なりの『母としての愛情と意地』だったのだろう。
 

私は、家の事情が分かっていたから、『爆発』はなかった。


でも、社長のお子さん方は違う。

社長は自分の『夢』のために働いてるのだ、家の家計の為の仕事ではない。
 
お子さん方は成長してある程度のことがわかるようになった『そのとき』に、社長は、どう説明するのか・・・。
 
いや、子どもたちは、母親は何もしてくれなかったと言うかもしれない。


幾ら、盛大に誕生日のお祝いをしても、
家族サービスで、どこかへ外出しても、
本当に子どもが求めているのは『それ』ではない。

子どもは『ただいま』と、家に帰ってきたときに、『お帰り』とむかえてくれる『お母さん』がほしいのだ。

だれもいない暗い家に帰ってくることは、子どもにとって、とても寂しいものなのです。
 
母親がそうしなければらない理由があれば、子どもなりに我慢ができる。

『お母さんは、自分たちの為に働いてくれているのだ』と、そう思える理由があれば。

 
でも、それを我慢しければいけない、まっとうな理由はなければ、子どもの心に傷が残る。

あるいは、それを充分に補って余りある『愛情』を母親から受けていると、子どもが感じることができなければ、同じく、子どもの心に傷が残ります。

親は「これだけやってあげた」と言っても、子どもがそう感じなければ、やっていないと同じなのです。


それがわかっていたから、『夢』を捨てられなかった私は、『結婚』をしなかったのです。
『母親』としての責任を果たせないことがわかっていたから。


それをあきらめたから、私は、今の仕事にたどり着けたのです。


何かを得るためには、何かを諦めなけらばいけない・・・。


もしかしたら、そのことは、子どもの時に自然に学んだことだったのかもしれません。




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羽生結弦選手

この週末も仕事をするつもりでしたが、
フィギアスケート世界選手権の男子フリーで興奮しすぎて、仕事が手につきませんでした。

羽生選手のあの『演技』を、リアルタイムで観てしまったから。


私は、昔からフィギアスケートのファンでした。

それを、しっかり意識したのは『伊藤みどり選手』のあの『トリプルアクセル』からです。
今女子選手でも、トリプルアクセルを飛ぶ選手が出てきましたが、彼女ほど飛躍の高いトリプルアクセルジャンプを飛べる女子選手はいません、あのジャンプは男子並みでした。

ミッシェルクワンも好きでしたし、男子ではキャンデロロも好きでした。
佐藤優香選手のステップも素敵でした。

ここ近年は、日本の選手のレベルも上がり、とても面白くなってきました。私には高橋大輔さんのあの表現力と特に『色気』がたまりませんでした。

でも、それ以上に、私をフィギアスケートにどっぷりはめたのが『羽生結弦選手』でした。

彼が注目されはじめたころは、私はうつ病が一番ひどい時期で、フィギアスケートの試合を観ている余裕がありませんでした。

始めて羽生選手の演技をしっかりと見たのは、2012年の全日本選手権で初優勝したときのエキシビションでした。
曲は指田文也さんの『花になれ』でした。
日本語の曲とは珍しいと思ったし、生演奏だったので、ちよっとびっくりしました。
 
歌詞にあわせたしっとりとした演技におもわず引き込まれていました。

絶望のどん底にいた私は、あの歌詞と羽生選手の演技に心を打たれたのです。

その演技で、完全に彼のファンになりました。

東日本大震災で、仙台で暮らしている将来を有望されているフィギアスケート選手が、練習もままらなない環境で頑張っていると何かで聴いたことがありましたが、それが羽生選手だと知ったのは後のことでした。


一般的には彼は『ジャンプ』に注目されています。
もちろん彼のジャンプは芸術的で美しいと思います。
中でも特に美しいトリプルアクセルは彼の『代名詞』。

 
でも、私は彼の『スピン』と『ステップ』のほうが好きです。


彼のスピンは『軸』が全くずれないのです。
遠心力で軸足がずれてしまう選手が多いのですが、彼は全くずれません。
ずれているときは、体調が万全でない時だと私は勝手に思ってますが、スピンの軸が大きくずれているのを観たことがありません。
しかも、やっているスピンがまた高難度。
更にスピンをしながら、難しい腕の動きもつけて表現をしているです。
 
また、『ステップ』ですが、彼は何気に足の動きで難しいことをやってるんです。そして、そのまま自然にジャンプを飛んでしまうんです、軽々と。
 
他の選手と比較するとわかると思いますが、彼は常に身体を動かしています。身体の動かし方が、他の選手よりも、細かいです。

演技中に休むところが無いのです。

彼は、シニアに上がってしばらくは『スタミナ不足』が課題と言われ続けていたのですが、それもしっかり克服したということです。

だから、転倒しても、4回転ジャンプが1回位パンク(2回転などになる)しても、点数が高いんです。

彼は演技のプログラムでは、いつも自身の極限以上の構成で挑んでます。
それは、大きなリスクを伴います。
それでも、彼は、常に『上の更に上』を目指します。
彼には『限界』という言葉がないのではないか、と、思うくらいです。

それくらい、自分に対して、厳しく向き合っている青年です。


彼は、決して健康な身体ではありません。
喘息を持っているので、健康管理が大変です。
お母さんが一緒にカナダで暮らしているのはそのためだと思います。
母親と暮らしていることに批判的は発言もあるようですが、
持病があれば、独りで暮らしていては、健康管理までは、さすがにできないでしょう。
当然の何らかのサポートが必要であり、幼いころから彼をみてきた母親がそばにいるのが一番の選択だと思います。


それでもカナダに渡ったのも、フェルナンデスとともに練習することで、世界のレベルを常に意識できる環境に身を置きたかったからだと思います。
4回転ジャンプに磨きをかけるために。


彼は、大学生でもあります。
早稲田大学通信教育課程の4年生。
普通は4年で卒業が当たり前・・と、思っている方も多いと思いますが、
通信教育課程は、大半の学生が挫折します。
私も大学は通信教育課程で2年留年して卒業してますが、卒業できない人のほうが圧倒的に多いです。
それは、授業を受けて試験を受けて単位をとれる通学生とは、全く違うシステムだからです。
自分を律して、勉強のスケジュールを自分で考えて組み立て、常に勉強の時間をつくらないと、どんどん遅れていきます。
普段は独りで勉強です。
意志を強く持たないと、卒業までたどり着けないのです。
ネットで彼が卒業できたのか??などど書いている人もいますが、4年で卒業できたとしたら、『お見事!!』と、称賛したいくらいです。

文武両道でフィギアスケート以外の勉学もしっかりをやっているということは凄いと思います。


何事も自分に厳しい彼は、自身の演技に満足することなく、いつもその上をみています。

課題が見つかると、それを克服するために全力でぶつかっていく。

その貪欲なまでの『あくなき向上心』には、いつも感服してます。

彼の、フィギアスケートへの愛情と熱意、そして、常に自分の限界のその上を目指す、その姿に、自分よりもはるかに若いけれど、学ぶことが沢山あります。


彼が、ほぼベストな状態で、世界選手権に出場したのは、ソチオリンピック後の2014年の優勝した時以来だと思います。
2012・2013は脚を痛めていました。
2015は手術を受けた後で練習がほとんどできませんでした。
2016も脚を痛めており、その後靭帯を痛めていたことがわかり、長期療養してました。
それでも2013年以外は全てメダルをとっています。(2013年も4位くらいだったと思います)
これは、彼の精神力の強さを物語っています。
しかも、彼はけがを体調不良を言い訳にしない。
そこもすごいと思ってます。

そんな彼が、絶対にノーミスすると望んだ昨日のフリーの演技。

本当に美しかったと思います。

ジャンプだけでなく、演技全体が見事でした。

彼以外には誰にもできないであろう、超高難度のプログラム構成。

それをあえて自分に課して立ち向かう強さ。

現状に満足せず、常に上を目指す、『アスリート』であり『芸術家』。

まだ22歳の若者ですが、『人』として、とても魅力のある青年だと思ってます。


そんな彼が、来年のオリンピックシーズンをどう戦うのか、今から楽しみにしています。

まだ、興奮がさめませんが、私も彼を見習って頑張りたいと思います。




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