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父は今月に入り急激に悪化した。
父におかしな言動が目立ち始めた。何かが聞こえるのだ、父だけに。つまり幻聴である。
そして、父だけにみえるのだ。そう、幻覚や幻視も出始めたのだ。
また、話すことが現実と過去が一緒になったり、突然話が違う内容になり、話がおかしくなったりすることもでてきた。
そして、手を伸ばして、何かを取ろうとしていた。
今まで、出来ていた薬の管理を始め多くの事が、出来なくなってきた。
ベッド上で過ごすことが多くなり、一日の半分は寝ていることが多くなった。
先週の日曜日に実家へ行くと、父の様子が明らかにおかしかった。
常にイライラしつつ、でも強い不安感にも襲われ、一人でいることが出来なくなり常に誰かがそばにいないといけない状態だった。
一度も『弱さ』を家族に見せたことのなかった父の、この不安定な精神状態の理由はすぐにわかった。
命の期限を切られた人が必ず苦しむ、『死が迫っている恐怖』であり、それを受け入れられない『葛藤』。
何かの本で読んだことがある。
『死期が近づいている現実を受け入れる』前に、みんな必ず苦しむ葛藤。
まさに、それに父が苦しんでいるのだと、思った。
そのような状況でも、父は私達に、その苦しみをぶつけない。
八つ当たりをしたり、物を投げつけるようなことは、一切しなかった。
また、父の『強さ』を思い知らされた。
父が苦しんでいる理由がわかっても、どうすれば良いのか私には解らなかった。
どうにかして父の苦しみを少しでも取り除きたかった。
心は無理でも、せめて身体の苦痛だけでも。
息が苦しそうな父に、私は提案した。
『お父さん、辛そうだから、(訪問)看護師さんに来てもらおうよ』と。
父は『俺には解らない』と言った。
当然だ、今の父に判断が出来るわけがない。
でも、父の意思確認はどうしても必要だった。
父自身の事だけでなく、我が家の大事な事は全て父が決めて来た。
その父が、最期まで『父らしく』いるために、私は、最期まで父の意志を尊重すると決めていた。
常に『今まで通りに父に接する』と決めていた。
いずれ来るであろう、父が意識がなくなるその瞬間まで。
だから、父の支援のサービスに関しても、私は父に必ず事前確認や事前の了解を取ってから依頼をしていた、判断力が鈍くなっていても。
病状の進行で理解力も落ちてきている父に解る言葉で、何度も言葉を換えて、繰り返し父に説明を続けた、『苦しいのなら、看護師さんに来てもらおう』と。
『解らない』と、繰り返していた父が、私に訊いてきた。
『俺にとっての医療とは何だ?』と。
命の期限を切られている父にとって、自分が医療を受ける意味を見いだせないでいることは、すぐに解った。
だから、私は、父にこう答えた。
『お父さんにとっての医療は、(身体の)苦しさや痛みを取り除くためのものだよ』と。
父は、もう一度私に訊いてきた。
『お前から見て、俺はどう見えるんだ?』と。
私は即答した。
『はっきり言う。お父さんはとても苦しそうだ。身体の痛みもあるんでしょう?お父さんは私にはそういうことは言わないから、具体的には解らないけど、痛いのだろうとおもう。私は、せめて、お父さんの、この息の苦しさだけでも取り除きたいんだ。』
何も言わない父に、私は、訴え続けた。
『苦しいとか、痛いとか、辛いとか、どんな理由でもいいんだ、我慢しないで看護師さんに来てらっていいんだよ。そのために(訪問)看護師に来てもらえるようにお願いしたんだから。』と。
父は、苦しそうに言った。
『苦しいこと、痛いこと、辛いことが沢山ある。』と。
やっと、みせてくれた、父の本音のかけら。
『そんなに沢山あるのなら、なおさら来てもらおう。』
そういった私に、父は、怒るように言った。
『じゃあ、呼んでくれっ!!』
『それじゃあ、来てもらうよ!』
私は、父のその言葉を受けて、あえて父の目の前で、携帯電話で訪問看護師さんへ緊急の訪問を依頼した。
30分ほどで看護師さんは来て下さった。
母と私が立ち会った。
姉には報告したが、姉は『私が立ち会うと大ごとになるから、親父にとってよくない。だから私は、あえて行かずに部屋にいるよ』と、言った。
賢明な判断だと思った。
父は、看護師さんに苦しさや痛みを訴え続けた。
初めは、身体的な苦しみや痛みを訴えていたが、途中から話の内容が変っていった。
父の訴えが『心の苦しみや辛さ』にかわっていたのだ。
死期が迫っている父にとって、苦しいのは身体よりも、『こころ』だった。
父の言葉のひとつひとつを、しっかりと受け止めながら、父の言葉にうなずき、最低限の相づちと声掛けを続ける看護師さん。
父は1時間以上、自分の『苦しい想い』を看護師さんに、話し続けた。
やがて、父に変化が見られた。
父の表情が穏やかになり、笑顔も見られるようなった。
1時間以上にわたる父の話を聴く看護師さんの姿に、これが『傾聴』なのだと、私は、強い衝撃を受けた。
みな、『クライアント(=ご利用者様とご家族)の苦しい思いに耳を傾けて聴き、その思いを理解して、クライアントの気持ちに寄り添う』と、『傾聴』が大切だと簡単にいう。
しかし、私は、人間は相手の気持ちを全て理解することは不可能だと思っている。
その不可能である事を踏まえた上で、ご利用者様とご家族の気持ちを少しでも理解をする努力をすることが、福祉専門職として大切だと思っている。
だから、私は、ご利用者様とご家族の苦しい想いを理解しようと努力することを、『傾聴』という、漢字二文字で片付けられることが、とても嫌いだった。
長い時間、父の言葉をしっかり聴き、父の苦しい想いをしっかり受けとめようと、全身全霊で父と向き合う看護師さんの姿は、まさに必死に患者の想いを『傾聴』し、その苦しみに寄り添おうとしている姿だった。
その光景を、私はひたすら見つめていた。
表情が明るくなった父は、『写真を撮りたい』と、言い出した。
「看護師さんとお母さんと一緒に写真を撮りたい」といって、私に自分の携帯電話を渡そうとした。
私は、手ブレが酷いので、「お姉ちゃんに頼むから呼んでくる」といって、姉をよびにいった。
姉に『お父ちゃんが携帯で写真を撮って欲しんだって、私は手ブレが酷いから、姉ちゃん撮ってよ』と、いったら、当然姉は驚いた。
『なんだよ、突然、何が起きたんだよ』と。
私が姉に『看護師さんに話を色々と聴いてもらったら、気持ちが楽になったらしい』と、報告すると、『なるほど』と、姉も理解した。
姉と二人で父の部屋へ行くと、父は母に支えられて、トイレへ行くところだった。
ここ数日は、ベッドのそばのポータブルトイレに行くのがやっとだったのに、母に支えられながらもしっかりと歩いていた。
トイレから戻ってきても、『息が苦しい』と言わなかった。
看護師さんと話をしている途中から、『息が苦しい』とは言わなくなっていた。
看護師さんと母と一緒に写真を撮った父は、『今度は(家族)4人で(写真)を撮りたい』と言い出した。
看護師さんがiPadで家族の4人での写真を撮ってくれた。
それは、私達家族にとって初めての、家族4人で撮った写真でもあった。
父は、『もう一つしたいことがある』と、言い出した。
母に対してである。
父はいままで、母のことを、母の名前か、『お母さん』と呼んできた。
でも、一度でいいから呼んでみたかったそうだ、昔、近隣の人達が呼んでいた母の呼び名で。
その呼び名で母に向かって数回言った父。その表情はとても嬉しそうだった。
数日後、往診の時に立ち会ったケアマネさんが父に訊いたそうだ。
『これからどのように過ごしたいですか?』と。
父は、
『これからも家族が明るく笑顔で仲良く過ごして欲しい』
『女ばかりだったけど、楽しかったよ』
仕事中に、ケアマネさんから電話での報告の中で、父のこの言葉を教えてもらった。
父の希望は、すでに自身の事ではなく、自分がいなくなった後の私達家族の事だったのだ。
「父は、もう、自分がいなくなった後の私達家族の事を想っているのですね」
私は、泣きそうになるのを堪えながら、ケアマネさんに訊いた。
職場で受けた電話でなかったら、泣いていたかもしれない。
「そうだと思います」とケアマネさん。
父は、自分の死に対する恐怖を乗り越えたのだ・・・そう思った。
それが出来たのは、家族の力ではなく、訪問看護師さんが、まさに、苦しんでいる父の想いに必死に寄り添ってくれたからだと思った。
父は、訪問看護師さんが来るときに、『○○さん(父の話を聴いてくれた看護師さん)、くるかな?』と、何度も言う。
私は、『訪問看護師さんは指名制は出来ないんだからね。他の看護師さんの前で、○○看護師さんのことばかり言ったら、他の看護師さんに失礼だからね!』と、釘を刺してます。
父を苦しみのどん底から救ってくれた、○○看護師さん。
きっと、父には『天使』にみえたのかもしれない。
今年初めてのブログ投稿です。
本年もどうか、宜しくお願いします。
父の状態が、急激に悪化しました。
ひと月半ほど実家へ行っていなかったのですが、取りに行きたいものがあり、今月の上旬の朝に実家へ行きました。
正直、両親の顔を見たくなかったのですが、必要な物があったので、行きました。
自分の部屋で、持ち帰るものを選定して、荷物をまとめました。
正直、二度と実家に来なくても良いように・・・と、まで考えての荷物まとめでした。
そのときに、部屋に顔を出したのは、母だけでした。
いつもなら、父もちょっとは覗きに来るはず・・・私が怒っているから顔を出したくないのだろう。
そのときは、そう思っていました。
帰り際に、母に話しかけられて、一応私は話を聴いていました。そのときに「お父さん具合が悪くて寝てるんだ。」と、それだけ言って、別の話を始めました。
反射的に、「お父さんが寝てるってどういうこと!そこで別の話に切り替えるなよ!ちゃんと言えよ!!」
と、私は母に怒鳴りつけていました。
母が「そんな大声出さないでよ」と、言ったので、「大事なことを話さないからだろっ!!何でそれを飛ばすんだ!きちんと話せよ!!」と、更に怒鳴りました。
母の話では、父が食事を半分も食べなくなっていること、毎日入っていた風呂も1日おきで上がると疲れて動けなくなること、このところ寝ていることが多いこと・・・と、母の話を聴いていて、『やばい』と、思いました。
そして、母が話しているときに父がトイレに起きてきました。そのときの父の顔は『真っ白』で『肌につやが全くない』状態でした。
『もう危険だ』と、そう思いました。
母が、『二人で頑張っていくしかない』と、言い出したので、私が『二人ってなに?お姉ちゃんどうしたんだよ、やってくれてないかよ?』と訊いたら、『やってくれてるよ』と母。
そのときは、私はまだ動く気にはなってませんでした。
『私も具合が悪いから、動けないよ。親不孝者と言われるだろうけどね。でも、あれだけやって、身体壊しても、お父さんもお母さんもなんとも思っていないんだからね。』
と、吐き捨てるように、実家を後にしました。
父の事で動き、身体を壊してしまった事に対して、両親からは何も言ってもらえない。
でも、どうしても、『父の顔』が頭から離れない。
それに、父の今の状態を考えたら、いつ急激に悪化してもおかしくない、命にかかわる。
それも、解っていました。
自分がどうすれば良いのか解らず、混乱して、アパートで泣き叫びました。
でも、『今、動かなければ、間に合わない!』そう思いました。
そして、午後になって、姉に電話しました。
11月に家族で話し合ったとき、姉は『お父さんの病院の付き添いくらいは私にも出来る』と言いました。でも、もう、その状態ではないのです。
姉に言いました。
「お父ちゃんのこと、お母さんから聴いた。かなり具合悪そうだね。あのさ、お姉ちゃん、お父ちゃんはもう、病院の付き添いだけで済むレベルではない。いつ急変してもおかしくないよ。はっきり言うけど、かなり『危ない』よ。お姉ちゃん、どこまで出来るんだよ。」と。
私の言葉をうけて、姉が話し始めた父の状態は、思った以上に悪い状態でした。
姉は、『お前に連絡しようかどうか、判断が出来なかった』とのこと。
2日後に、往診があるとのことで、それまでのつなぎで、できる限り栄養のあるもの、食べ物が無理なら薬局に高カロリーの飲み物が売っているからそれでもいいから、とにかく栄養をとること。スポーツドリンクで水分を少しでも多く摂らせること。これを姉に伝えました。
すぐに医師を呼んでもよかったのですが、父が自分で自分の事がまだ出来る状態だったので、姉に伝えたことが出来れば2日後でも持つだろうと思ったのです。
その上で、姉に言いました『何かあったら仕事の携帯電話に連絡してくれ』と。
そうしたら、姉に言われました。
『私には【何か】が、どういう状態か、解らないんだ』と。
そのときに、やっと気がつきました。
私は、仕事柄、状態悪化のポイントが解る。
でも、家族は、『【何かあったとき】と言うのがどういうことか』が解らないんだ・・・と。
だから、姉に説明をしました。
『いつもと違うと思ったとき、いつも出来ていることが出来なかったとき。そういうときは、状態が悪くなっているサインだよ。
今は、お父さんは、とりあえず、一人でトイレに行ける。これが出来なくなったら、本当に危険だからね。』
その後も、何度も姉と連絡を取りました。
姉と相談して、姉から『今、お前が表立って動くと、父が『もう自分はダメなんだ』と、思うんじゃないかな』とのことだったので、『じゃあ、私は影で根回しする。お姉ちゃんが出来ないことを私はするから』と役割を決めました。
姉に、往診の際に、先生に報告すべき事を説明し、クリニックにも私から電話で父の状態を先に報告しました。
姉は、私の、助言を受けて、その通りに対応しました。
その結果、往診を受けたその日のうちに在宅酸素となりました。
姉から、「在宅酸素の機械の設置の立ち会いが一人で出来るか解らない。」と、連絡が入ったので、仕事を早く終わらせて、実家に向かいました。
設置はすでに終わっており、姉でも解ったとのこと。私も機械とボンベを確認しました。
ついでに、父に『身体が楽だから』といって、介護用ベッドのレンタルを提案し、父から頼むと言われて、私が立ち会い、一緒によく仕事をしている福祉用具の方に依頼をして納品してもらいました。
父は介護用ベッドに寝て『すごい楽だ』と、言ってました。
介護保険の申請をしたと、姉から聴いたので、『ケアマネの依頼について、今度家族で相談しよう』と、言うことになっていました。
ただ、私が酷い風邪を引いてしまったので、父のところへ行けないため、先送りになってしまい、今度の日曜日にいくことになっていました。
在宅酸素を使用するようになり、父は食事もとれるようになりました。元々体力のある人なので、もうしばらく大丈夫かも・・・と、思っていました、本気で。
しかし、週末に姉から電話があり、肋骨あたりに痛みがあり、他の先生が来てエコーをとったら水があるとのこと。月曜日(←今日)に主治医へ電話して相談して欲しい。と言われたそうです。
今日、母がクリニックへ電話し、主治医の先生が来て下さったそうです。
姉は仕事で不在でした。両親だけでした。
看護師さんからのメモが姉宛に残っていたそうです。
やはり肺に水が溜まり、それで呼吸苦をおこしている。それと、胸膜に転移があるかもしれないとのことで、酸素量が1Lから2Lに上がりました。
そして、主治医が母を台所へ呼んで、父に聞こえないように言ったそうです。
『あと、2~3ヶ月です』と。
姉から、その報告を聞いたとき、『嘘だ!!』と、思いました。
ベッドの納品のときの父の様子、姉から毎日来る父の状態を教えてくれるメールからは、とても状態は落ち着いており、食欲も戻ってきていました。
数回父と電話で話しましたが、声も元気でした。
でも、同僚が担当した、ターミナルの人達も、皆、初めは元気でした。
余命宣告を受けるときは、こういうものなのだろう・・・そう思いました。
姉が『どうやって親父に伝えれば良い?いや、伝えた方が良いのか?』と、私に訊いてきました。
実は、一昨年の11月に『肺に影がある』と、言われた段階で、私は父に確認をとっていました。
「お父さん、もし、がんだったら、どこまで自分の病気のことを知りたい?」と。
父はいいました。
「全て知りたい。余命宣告を受けたならいつまで生きられるか、それも知りたい。俺の人生だから、全部最後まで自分で決めたい。」と。
だから、姉にこのことを伝え、『お父さんも、知ったらもちろん動転するだろう、でも、お父さんは知りたいと言っていたら、伝えた方が良い。残りの時間をどう過ごすか決めたいと思うから。伝えるのは、お父さんの性格から、家族よりも先生のほうが良いと思うから、明日、私からクリニックに相談してみる』と、話しました。
姉と今後のことを電話で引き続き話し合い、その上で、私は社長に電話をして、父の余命宣告のことの報告と、それに伴い今後の自分の仕事について相談に乗って欲しいと頼みました。
今後のプライベートの予定は全てキャンセルしました。
私は、結局、父を見捨てることは、どうしても出来ませんでした。
父が自分の残された時間を知った時点で、今度は私も全面にでて動くことになるでしょう。
ケアマネを第三者に頼むことにしたのは『正解』だったと思っています。
今の私のケアマネとしての力量では、父の急激な悪化に対応できないと思いましたし、家族とケアマネの両立は『ターミナルでは無理』だと思いました。
二つの役割は私には背負えない。
だったら、プラン作成等は地元のベテランケアマネにお願いして、自分は娘として父を支えようと思いました。
もう、依頼するケアマネは決まっており、内々で承諾は得ています。
後は、父の『頼む』の言葉を受けて、私が正式に依頼をするだけです。
昨年のうちに、できる『根まわし』は全て終わらせてあります。
結果的に、自分の身体を壊したけれど、でも、『あと2~3ヶ月』と言われても、『環境』は全て整えておいたので、そこは慌てずに済みました。
あとは、どうやって父に『残された時間』を伝えるかです。
その為に、明日と明後日で、仕事をしながら必死に動きます。
そして、今度こそ、父の命と向き合います。
娘として、後悔しないように。
父が最後まで、父らしく過ごせるようにするために。
今年も今日で終わりです。
私は29日から3日までが正月休みとなっていますが、昨年からの父のことの対応で、事務仕事がかなり滞っているので、正月休みは、自宅で仕事です。
しかし、事実上の過労で体調がかなり悪いので、どこまで仕事の追い上げが出来るかわかりません。
昨日も、一昨日も、休み休みやっていたので、それほど仕事は、はかどっていません。
今日も午前中は気分が悪くなり、横になっていました。
まだ、無理をすると、本当に倒れてしまうので、その加減が難しいです。
9月頃から身体の不調が顕著に出てきました。
最初は、胸が苦しくなってくることが多くなりました。
これは、若い頃からの、『オーバ-ワークだぞ!』という身体からのサインなので、そういうときは、必ず仕事のペースを落とすようにしてきました。
しかし、今回は昨年の11月から父のことで動き回っていたので、いつものペースの落とし方では、体調は戻りませんでした。
体調が悪ければ、判断力が落ちます。
判断力が落ちた結果、仕事のミスを連発して、社長に迷惑をかける結果になりました。
社長も私の事情を考慮して下さり、大目に見て下さいましたが、ミスはミスです。
このままではまずいな・・・と、思い始めました。
しかし、10月の中頃から別の症状が出始めました。
朝、起きて、1時間くらいたつと、頭がくらくらして動けなくなるようになりました。
動けない時間はあっという間に長くなっていき、大体2時間は、まともに動けなくなりました。
こういうときは、椅子に座ってじっとしているか、辛すぎるときはベッドに横になり、収まるのを待つしかありませんでした。
仕事に遅れないようにするためには、動けない時間も計算して、早く起きるしかありませんでした。
それでも、疲れすぎて起きられないときもあったし、動けない時間が4時間も続いて、結果的に遅刻をすることが何度もありました。
もしかして、この症状は頸椎ヘルニアの影響かも、と思い、いつもの整形外科に受診しました。
先生は、原因は頸椎ヘルニアからでもなく、三半規管からでもないとのこと。
『働き過ぎで、疲れすぎだよ、無理しすぎだよ。本当は少し仕事を休めるといいんだけどね~。』
『頭がくらくらするのは、酷い疲労で身体の筋肉が固まりすぎて、血の巡りが悪くなって、起きているんだ。高齢者によくある『起立性低血圧』のような状態になってるんだよ。』
とのこと。
つまり、遠回しで『過労』と言われたような感じでした。
先生が『仕事を休め』と言わないのは、私の仕事がケアマネである事を知っているから、安易は休めないことを知っているからです。
頸椎ヘルニア発症時に全身の激痛で数ヶ月苦しんだときも、私は仕事を休まなかったので、先生も私に『仕事を休め』と言っても無駄だと思ったのでしょう。
でも、先生の診断を受けて、自分の身体不良の原因が軽視できない状態である事が解りました。
ですから、社長と相談し、今後は『仕事の追い上げ』が終わり『体調が戻る』までは、『担当件数を減らす』ことにしました。
介護30件、予防3件。(今までは、介護35件、予防3件でした)
当面は、この件数で行くので、給与が3万下がります。
生活が苦しくなりますが、職場にかなりの迷惑をかけたので、仕方がありません。
しかし、両親は、私のこの状況を理解する気はないようです。
先ほども、母から『初詣』のことで電話がありました。
毎年、一緒に行っていたので、母はそのつもりでいたのでしょう。
私は、今は実家の家族と距離を置きたいし、それよりも体調が悪いので、初詣どころではありません。仕事の追い上げもしなくてはなりません。
実家には、『体調がとても悪いし、その上で仕事の追い上げをしないといけないから、静養している時間もない、だから、正月休みは自宅で仕事をするので、帰らない』と、言ってあります。
それでも、母は、私の体調より、お札を帰しに行くことばかりを気にしてました。
当然私は『まだ具合が悪いし、その上で休みの間も自宅で仕事しないといけないから、どこにも行ける状態じゃない』と伝えました。
しかし、母から私の体調を気にする言葉は、一切出てきませんでした。
何のために、一年間自分のことを犠牲にして、父のことで奔走してきたのか・・・正直解らなくなりました。
だから、今は、家族と距離を置きたいのです。会いたくないのです。
『今度の正月は父の最後の正月になるかもしれない。』
昨年の今頃も、同じことを思っていました。
今の父は、体力は落ちてきたけれど、癌の進行は今のところ遅く、日常生活に大きな支障は出ていないようです。
ただ、『3度の飯より好きな釣り』に行っていないようなので、それが父の今の体調を全て物語っています。
だから、本当は、娘として正月は実家へ行くべきなのは解っています。
でも、今、両親と会っても、私には、両親とまともな会話は出来ません。
ケンカになるかもしれないし、そうならなくても、普通の会話が出来なければ、後味の悪い正月になってしまうだけです。
それでは、私が正月に実家に行く意味がありません。
そして、間違いなく、私が不愉快な思いをして、気分が悪くなって帰ってきて、精神安定剤を飲んで寝込むだけです。
だから、正月はひとりで過ごすことにしました。
自宅に引きこもって、休み休みしながら、体調を相談しながら、仕事の追い上げをします。
こんな一年間でしたので、ケアマネとしての勉強が、今年は全く出来ませんでした。
もうすぐ、ケアマネになって2年半になります。
そろそろ、『今の自分の『引き出し』の数だけでは、ケアマネ業務を行なっていくことに限界が来ているな』、と思ってます。
『ケアマネとして、もっと知識と視野を広げたい』。
そう思うようになりました。
ですから、来年は『きちんと勉強しよう』と、思っています。
3月までに仕事の追い上げをして(←私を見かねた社長が、1ヶ月期限を延ばしてくれました)、来年度から、勉強が出来る状態にしたいと思ってます。
実家、特に父とのことは、これからどう関わっていくか、まだ私のなかで結論が出ていません。
選択肢のなかに、『縁を切る』ことも、正直あります。
親子の縁を切るなど、そう簡単にできることではありませんが、長い年月の間の色々なことが積み重なり、その結果私のなかで、家族との関係に限界が来ていることも事実です。
叔母には、『お前は充分に親孝行したから、もう、実家のことは考えるな。お前がしてくれたこと何も解っていない両親にこれ以上してやることはない。これからは、自分自身のことを大事にしなさい』と言われました。
自分自身の身の処し方を決められない人間が、ケアマネとしてご利用者様とそのご家族の支援が出来るのかと、自問自答をすることもあります。
そんな未熟者ではありますが、それでもこれからも、ケアマネとしての仕事に真摯に取り組みたいと思います。
この一年、自分が『キーパーソン』をやって、身にしみたことがあります。
『キーパーソン』は、『自分のことを後まわしにしないと、出来ないこと』なのだと、痛感しました。
ケアマネになったばかりの頃、ご利用者様のご家族が、自分の健康を損ねながら、介護をしている姿を目にしたとき、どうして、ご家族が自分の病院へ行かないのか、あのときの私には、わからなかった。
でも、自分が頸椎ヘルニアの激痛に耐えなから、父のことを優先して動き、自分の病院受診を後まわしにして、土曜日に振り替え出勤を、4ヶ月間の間ほぼ毎週していたときに、思いました。
『ああ、介護をしている家族、特にキーパーソンの方は、こうやって身体を壊していくのだ』
そして
『介護と仕事の両立は、とても難しいことなのだ』と。
私は『介護』はまだしていませんが、そのことを、『当事者として経験した』ときに、専門職では解らない、『当事者でしか解らない心情というものがある』ことを知りました。
しょせん、専門職が知っていることは『知識』でしかなく、『実体験』ではありません。
そのことを踏まえて、ご利用者様とご家族と向き合わないと、知らないうちにご利用者様とご家族を傷つけてしまうでしょう。
安易に『貴方の辛いお気持ち解ります』とは、やはり言ってはいけないのです。
相手のことを完全に理解することは、人間にはとうてい出来ないことです。
『自分は、クライアントの気持ちをしっかりと理解している』と言い切れる専門職は、私から見れば、単なる傲慢でしかありません。
『相手を完全に理解することは、人間には出来ないこと』
でも、それを踏まえた上で、『少しでも』ご利用者様とご家族の心情を理解していく努力を続けていくことこそが、専門職として大切なことだと、私は考えています。
そして、もうひとつ。
『謙虚な姿勢で、ご利用者様とご家族と向き合っていく。』
『でも、必要なときは、あえて自分の言動に責任をもち、覚悟を決めて行動を起こす。』
義務と責任ばかりは多いけれど、権限はひとつもないという、ケアマネージャーの立場で、出来ることには限界がある事は、仕方がないことでもあります。
でも、ご利用者様とご家族の人生と生活を守るために、その限界を越えて、行動をする覚悟も必要なときがあることを知りました。
それを、先日彼岸へ旅だったAさんとの最後の1ヶ月間の支援から学ばせていただきました。
『それは私の立場では出来ない』と、支援者がみな、踏み出さないでいたら、打破できないことが沢山ある。
現状の打破の為に、あえて、己の立場の限界から一歩ふみだすことを、支援者の誰かがしないといけないこともある。
そのときに、ご利用者様とご家族を守るために、その行動が出来る専門職になりたいと、私は今、思っています。
教科書通りには、支援は出来ません。
きれい事でも支援は出来ません。
『ご利用者様とご家族』そのケースごとに合わせて、ご支援をしていかなくてはけません。
バイステックのケースワークの7原則の『個別性の原則』であります。
最近、バイステックの7原則の大切さを感じることがあります。
『教科書嫌い』の私にとっては、これは考えられなかった視点です。
これも『専門職としての基礎』となる考え方にもつながるのかもしれません。
それでも、これからも私は、泥臭いままで、『ご利用者様とご家族の人生と生活を守る』ことが出来るケアマネを目指して精進していきたいと思います。
今年は、あまり更新できませんでしたが、毒吐きブログに来て下さり、本当にありがとうございました。
来年も、毒吐きを続けたいと思いますので、気が向いたら、覗きに来てやって下さい。
どうか、皆様も良いお年を、お迎え下さいますように。
かたつむり
仕事が休みの朝9時過ぎに、仕事の携帯電話が鳴った。
「たった今、Aさんが亡くなりました。」
連絡を下さったのは、Aさんが救急搬送された病院のソーシャルワーカーさんからだった。
A様は、独居身寄りなしの男性で、多くの疾患を抱えていた。
在宅酸素も必要だったが、本人が強く拒否して使用していなかった。
それどころか、「これが一番の薬だ」と、たばこまで吸っていた。
包括から依頼を受けて、私が担当になって約2年ほど。
『他人からの世話』を嫌がるAさんを、包括の担当のかたは、2年以上かけてようやく介護保険の利用まで引っ張ってきて、私が担当ケアマネになった。
当時の私は、まだ、若葉マークの新人ケアマネだった。
自分に本当に出来るのかと、不安でいっぱいだった。
薬の管理が出来ないAさんは、体調管理のため、訪問看護だけは絶対に必要だった。
嫌がるAさんに「主治医の先生から『訪問看護さんには絶対来て貰うように手続きしてくれ』と、私いわれてるんで、手続きします!!」と、強行しました。
ちなみに、嘘は言ってません、主治医の先生の意見は、『訪問看護は必要』でしたから。
初めはかたくなだったAさん、訪問看護さんと私は焦らずに時間をかけて、私たちを受け入れていただけるように努力していった。
そして、少しずつAさんも私たちを受け入れてくれるようなってきた。
ふるさとの話、高度成長期の働き盛りの頃のことなど、少しづつ自分の事を話してくれるようになった。
今年の春に体調を崩した。
食事の準備も、預金を下ろすことも、病院へ行くことも出来なくなった。
私は、ここぞとばかりに、Aさんにいった。
「人間は、具合が悪くなることがある。こういうときのために、ヘルパーさんに来て貰おう。体調が良いときは部屋の片付けをてつだってもらって、具合が悪いときは、買い物や食事の準備をしてもらえるから。」
「私たち(訪問)看護師さんややヘルパーさんやケアマネージャーの私は、法律上、Aさんの代わりに、お金を下ろしに行くことが出来ない。だから、そういうお手伝いを出来る方(=社協の自立支援事業)にも、定期的に来て貰おう。」
と、必要性を説明して、訪問介護と社協の自立支援事業の支援を依頼した。
この支援は、何度も提案したが、「俺は自分で出来るから、そんなのいらないっ!!」と、頑なに断られ続けていた。
だから、Aさんに必要性をわかって貰えるまで、つまり『体調を崩して、そういう支援が必要だ』と、痛感して貰うまで待つしかなかった。
もちろん、すでに『根回し済み』だったので、すぐにプラン変更をした。
Aさんは拒否をすることなく、ヘルパーさんも社協の職員のかたを受け入れてくれた。
「みんなが来てくれるから、ありがたい」と、何かの折に言葉にしてくれた。
そのときの表情をみて、『本当の気持ちだ』と、私は思った。
何度か体調を崩しかけたが、ヘルパーさんの生活支援のおかげで、食事を食べることが出来たので持ち直した。
それでも、外に出るのが辛くなってきていたので、Aさんは自分でクリニックへ行こうとしなかった。
『誰でもいい』というかたではないため、私が、何度も足を運び、説得をしてクリニックへ強制連行した。
先生に、「私も毎回、通院同行が出来るとは限らないんです・・・」と、グチをこぼしたら、「じゃあ、夜になるけど、俺のほうからいくよ、ただレントゲン検査の時だけは、こっちに来て欲しいから、そのときだけ、ケアマネさん頼むよ」と、特別に往診をしてくだることになった。
そのおかげで、今年の酷暑はどうにか乗り切った。
しかし、涼しくなってからAさんの様子がおかしくなった。
ヘルパーさんから、「最近横になっているままで起きない。」とのこと。
訪問看護師さんも注意して見ていてくれた。『バイタルは元々良くないかただが、それよりも、やせてしまって、肌のつやがなく、意欲低下の状態になっている』と、訪問看護師さんから報告を受けた。
やがて、食事もとれなくなり、水分摂取も少なくなっていった。
昨年まで、支援者一同『火事になったら困るから、使わないでくれ!!』と、いつもAさんに頼んでいたのに、『気をつけているから大丈夫だ』と、使い続けていた石油ストーブも石油が入れなくなったため、暖房器具が小さな電気ストーブのみになった。
Aさんに、「これから寒くなるから、電気ストーブと電気カーペットを買おうよ」と何度も言うが、「まだいらない」「寒くない」と購入を拒否した。
当然、暖房器具をそろえないといけないが、勝手に買うことは出来ない。
Aさんは、認知症があるといえ、判断力は充分にあった。自分の了解をしていないことを勝手にやったら、Aさんが激怒して、支援者全員拒絶され、出入禁止になることはわかっていた。
Aさんの了解を得て購入したいと考える、ケアマネである私を含めた福祉職サイドと、医療の視点で迅速な対応を求める医療職サイドで、ズレが出始めた。
本来ならば、中立の立場に立つべき私は、福祉職サイドの視点に完全になっていた。
つまり、完全に自分の立ち位置を見失っていたのだ。
その為、訪問看護の方達の要求が、あのときの私には『あまりにも無理すぎたもの』に感じてしまい、それ故に、訪問看護との衝突も何度かあった。
そのなかで、医療職サイドへの『不信感』が、『あのときの私』には出てきてしまった。
ケアマネとして『大きなミスをした』と、今なら穴があったら入りたいほど、痛いほどわかる。
しかし、あのときの私にはわからなかった。
訪問看護のかたからの「Aさんが、タダなら電気カーペット欲しいって言っている」のひと言で、福祉職サイドで気がついたことがあった。
もしかして、お金の残金を気にしているのではないか・・と。
だから、社協の職員が本人に預金通帳を見せて、まだお金があるから大丈夫である事を説明したら、「ならば買う」と、言ってくれた。
私はその脚で、飛んで買いに行った。
翌日から更に冷えるのがわかっていたから。
重たかったけれど、バスを使ってAさん宅に持って行った。
電気カーペットのセッティングは社協のかたが手伝ってくれた。
そのときに、私は、Aさんの言葉ではなく、その言葉に向こうの『Aさんの本音』がわからないと、何も出来ないと思った。
『Aさんの本当の気持ちが知りたい』と、そのときにはじめて本気で思った。
そして、このまま、『自宅で、独りで苦しみながら死なせることだけは、絶対にさせない』と、自分のなかで決めた。
本人への説得を繰り返して、電気ストーブの追加購入、ブレーカーの交換、そして電気カーペットをそろえた。
暖房設備をそろえることを優先したのは、部屋を暖かくしないと、何かを飲む気にもならないだろうと思ったから。
そうしたら栄養が全く摂れないし、脱水も起こすと思ったからだった。
しかし、Aさんはエンシュア一缶も一日で飲めなくなっていた。
ただ、お茶と水分は取ってくれていた・・・生きるためには足りない量ではあったが・・・。
暖房設備が整ったので、急いでプラン変更をしようと視点を切り替えた。
『最期』を考えた上でのプランを。
ヘルパーさんが入る回数を増やして、福祉用具や夜間巡回などの支援の追加など、大きくプラン変更することにした。サービス担当者会議の日程も決めた。区分変更をかけることも当然することにしていた。
本来ならば、『生活環境を整える』ことと『プラン変更』を同時進行をするべきだったのはわかっていた。しかし、とにかく命を守るためには、まず、部屋を暖かくすることが最優先だと私は思って動いていた。
それでも、動きながらも、訪問看護スタップからの要求を頭の中で整理しつつ、助言を求めるために訪問間ステーションへ電話をして、助言も貰って、頭の中では、今のAさんに合わせたプランをすでに立てていた。
そんなかで、Aさんの状態悪化と意欲低下は更に進み、主治医から「レントゲンを撮りたいから連れてきて欲しい」と、連絡を受けた。
しかし、私が何度も訪問して説得するも、Aさんは「病院へ行きたくないっ!俺は家に居るんだ!!」と、繰り返し受診を拒絶した。
その拒絶ぶりだけは『元気』だった。
見かねた主治医は、クリニックの看護師にさんを自宅へ向かわせて採血だけした。
日曜日にヘルパーさんから連絡が入った。
「Aさんがトイレに行けないようで、部屋のゴミ箱に排尿している。念の為に尿瓶とリハビリパンツを買いたいけど、いいですか?」と。
ヘルパーさんの報告を聴いて、私は『強行で動かなければならない時が来た』と、腹をくくりました。
Aさんの性格からして、私のなかで、自分の事は自分でしようとするAさんが、自力でトイレに行けなくなったら『危険』と、思っていました。
もう猶予はない、明日中に強行しなければ・・・そう決めました。
私は、ヘルパーさんに「本人の了解を得られたら買って下さい。それと、少しでも『おかしいな、変だな』と、思ったら、迷わすに訪問看護ステーションへ電話をして下さい」と伝えました。
訪問看護への連絡の指示は、介護職は、電話していいのか、ためらってしまう場合があるため、あえて言いました。
間違った判断でも『ケアマネからの指示』とすればいいわけだし、なによりも後で『あのときに電話すれば良かった』と、ヘルパーさんに後悔して欲しくなかったからです。
月曜日に、最初にAさん宅に訪問した訪問看護のスタッフから電話がありました。
「Aさんの状態が更に悪化している。これじゃクリニックへ連れて行けない、先生に連絡したから、ケアマネさんに連絡が行くと思う」とのこと。
私は、訪問先のモニタリングを早急に終わらせて、Aさん宅へ向かいました。
この日は、元々事務業務をするつもりでいたので、訪問は1件だけにしていました。
でも、頭の片隅にこのようなことも想定はしていました。
訪問して私が目にした、Aさんの姿は、金曜日にあったときと全く違い、介護職出身の私でも、『このままにしては危険』とわかるほどでした。
しかも、私ひとりでの車椅子の移乗は、Aさんの衰弱と苦しそうな様子から危険で無理だと判断し、訪問介護事業所へ電話しました。先方は毎日Aさんの支援にはいっているので、状況はある意味ではケアマネの私よりわかっているので、即動いてくれました。
しかも、来てくれたヘルパーさんは、『くせ者』ご利用者様でも柔軟に対応ができる、私が信頼しているサ責のヘルパーさんだった。
このヘルパーさんとならば、絶対に連れて行ける、たとえ強制連行でも。
そう確信が持てた。
か「Aさん、クリニックの先生のところへ行くか、救急車を呼ぶか二つに一つだよ」
A「いやだ、このまま家に居たい、死んだっていい!」
へ「Aさんをこのままにして帰れないよ!」
か「そんじゃ、先生のところへ行こうよ、先生が「脱水を起こしてるから点滴をしたいって。」脱水で死んだらつまらないよ!」
こんな『すったもんだ』を1時間した。
Aさんが「(クリニックの)先生のところへ行って、必ず家に帰ってこれるのならば行く」と、折れてくれた。
クリニックへ電話して、了解をいただいたので、ヘルパーさんとふたりがかりで車椅子へ移乗してクリニックへつれて行った。
そこで、クリニックの看護師さんとバトンタッチして一度事務所へもどった。
夕方にクリニックから電話がはいった。「点滴が終わったので迎えに来て欲しい」と。
私は、ヘルパーさんの助けをまた求めた。
『給付の上げかたは、後で考えよう、自費サービス扱いも含めて』と、訪問介護事業所の責任者のかたと即決で決めた。
とにかく『Aさんのことが優先だ』と。
クリニックへ行ったら私は診察室へ呼ばれた。
先生はとても深刻な顔をしていた。
見せられた胸部レントゲンの写真で、素人の私でも深刻な状態であることは十分すぎるほどわかった。
先生から、Aさんの状態の説明を受けた(ここでは詳細は書けないのでご了承ください。)
そして、『レントゲンだけではわからないから、設備のある病院へ搬送したいのだが、本人に何度説明しても拒否されているから、困っているんだよ』と、先生の話。
そして『救急搬送するならば、今しかない、その後ではもう遅いんだよ』と先生は言葉を続けた。
医師である先生が決められないことは、ケアマネである私は決められない。
それに、ケアマネには、沢山の義務はあるけれど、決定権は一つとして持っていないのだ。
本人と家族の意向に基づいてケアプランを立てるのが、ケアマネージャーの一番の仕事。
しかも、私は、ケアマネの業務を遙かに超えたことまでしているが、それでも、全てはAさんの意思に基づいたものだった。
でも、このまま家に帰れば、Aさんは、数日を待たずに、苦しみながら孤独感のなかで死んでいくことになるのは、私にも充分にわかっていた。
だから、私は、最後の賭けに出ることにした。
「先生、私がもう一度だけ、Aさんを説得してみます。それで駄目なら、家に連れて帰ります。」
ケアマネとして、これをしても良いのか、正直わからなかった。
ただ、『このまま自宅で、孤独ななかで苦しみながら死なせなてなるものか!』その想いだけで動いた。
別室でAさんとふたりだけになった。
ヘルパーさんは、私がお願いする前に配慮して下さり席を外してくれた。
私は、先生から受けた病状の説明をありのままにAさんに伝えた。
「だから、原因を調べないと、先生も対応が出来ない、だから、原因を調べるために大きな病院へ行こう。原因がわかったら一緒にその先のことを考えよう。」
私は、そう繰り返してAさんに言った。いや、訴えていた。
そのときの私は、ケアマネではなく、一個人のかたつむりになっていた。
まだ掴めていないAさんの本心に、ぶつかっていくためには、自分の本心もぶつけなければならない。
『ケアマネの立場』とかそんなことにこだわっている場合ではなかった。
身寄りのない人の在宅の看取りはとても困難だ。難しい条件が全てそろわないと不可能だ。
その時点ではAさんの在宅のターミナルの支援は不可能だった。
だからこそ、とにかくAさんを助けたかった。
Aさんを孤独ななかで死なせたくなかった。
『嫌だ』と首をふるAさん。
私は、最後にずっと言うのをためらっていた言葉を、泣くのを堪えながら、なかば叫ぶようにAさんにぶつけた。
もう、それしかなかった。
「私はAさんに長生きして欲しいんだよ!お願いだから、自分から生きることをあきらめないで!!」
もしかしたら、言ってはいけない言葉だったかもしれない。
でも、これが私の『本当の気持ち』だった。
「だから、原因を突きとめるために、大きな病院で検査を受けて、お願いだよ!!」
私が言っていたことは『懇願』になっていた。
Aさんはうつむきがちに言った。
「わかった、検査を受けにいく。」
その言葉をいってから、ゆっくりと顔を上げた。
その表情から、考えた末のAさんの結論だったことは、私でもわかった。
「検査を受けて、その結果が出たら、その後のことは一緒に考えよう」
私の言葉にAさんは、「そうだね」と笑って下さった。
先生が搬送先の病院を見つけて下さった。
ケアマネでも他人であるため、家族の代わりは出来ないから、私は救急車には乗れなかった。
救急隊員に同乗できない事情を説明し、その代わり名刺を渡して「明日の朝一番に病院へ連絡しますと伝えて下さい」と、お願いした。
そして、出発する救急車を見送った。
搬送された翌日と次の日に、事務手続きの関係もあり病院へ行った。
Aさんに頼まれたことを対応した報告がしたいと、その都度、ソーシャルワーカーさんに依頼して、ソーシャルワーカーさん立ち会いのもと、両日ともAさんに会うことが出来た。
私の主観が入っているのは自覚しているが、酸素マスクをつけたAさんは、とても穏やかに笑っていた。
私はAさんに、「家に帰るためにしっかり検査をして、原因を調べて貰って下さいよ。そうでないと、私もAさんが自宅で過ごすための対策のしようがないので、協力して下さい。」
そう頼んだ。本気で。
Aさんは「そうだね、その時は宜しく頼むよ」と、サチュレーションがついた左手を上げた。
私は「もちろん、私で良ければ!」と、Aさんに軽く敬礼した。
そういってふたりで笑った。
私が帰ってしばらくしてから、Aさんは急変した。
意識どころか心臓も停止寸前だったそうだが、奇跡的に持ち直して、看護師と話ができるまでにはなった。
ただ、私が会ったときよりは、状態が悪くなっていると、病院のソーシャルワーカーさんから連絡を受けていた。
いつ何が起きてもおかしくないと最後に言われた。
そして、Aさんは、病院から彼岸へと旅立った。
独居身寄りのないご利用者様のターミナル。
これが、ケアマネとして初めての『ターミナル』に関わる支援だった。
ケアマネとしての私の対応に賛否両論は出るだろう。
でも、今でも、Aさんを救急搬送したことは、私は後悔していない。
Aさんは本当に嫌なら、納得が出来ないのなら、絶対に『検査を受けに行く』とは言わなかったと思う。
でも、それは、私の一方的な考えかもしれない。
このことの、正しい答えは永遠にでないままだ。
そして、このひと月の私のAさんへの対応も・・・。
Aさんが亡くなったことを各事業所へ報告した。
私が不信感を持ってしまっていた、訪問看護の所長へも電話して、Aさんが亡くなったことを報告した。
「医療職のかたから見たら、私の対応はケアマネとして至らないところがあったと思います。」
そのときは、本当に素直に謝るつもりでいた。
多分、本当に『するべき事』が他にあったのかもしれない・・・そう思っていた。
所長ならそれを知っているかもしれない・・・と、思った。
そのときは、なぜか、もう不信感は全くなかった。
しかし、所長からいわれた言葉は
「かたつむりさん、よく頑張ったよ。」
そして、クリニックでのAさんの説得をしたときの私が言った言葉を所長に伝えたときに、所長が私にこう言ってくれました。
「Aさん、そう言ってもらえて、きっと嬉しかったんだよ。」
私は、所長のその言葉を聴いて、堪えていた涙があふれた。
医療職サイドと意見が違ってぶつかり合っていたけれど、Aさんへ想いは同じだったのだと・・・そんな当たり前のことが、ようやくわかりました。
所長のその言葉で、私のなかの医療職サイドへの『わだかまり』が、ようやく溶けました。
これからも、視点が違う医療職のかたとは意見がぶつかることがあるだろう。
でも、意見は違えど、『ご利用者様への想いは同じ』なのだと、それは、これからは信じることが出来ると思いました。
所長とは「これからも宜しくお願いします。」と互いに言って、電話を切った。
病室でみた、酸素マスクをつけながらも穏やかな笑顔のAさん。
それが私がみた、Aさんの最後の姿でした。
最期は病院だったけれど、身内のかたはいなかったけれど、病院のスタッフのかたに見守られて、息を引き取ったAさん。
自宅で死亡した状態で発見されて、『警察介入される』かたちにならなくて、本当によかったと、それだけは思っています。
私は、Aさんが自宅に戻ることは絶望的とわかっていながら、それでも、私は、Aさんが自宅に戻ったときのプランをどうするか、病院から電話を受けるまで、本気で考えていました。
Aさんだけでなく、私自身もあきらめたくなかったのです。
もう一度Aさんが自宅に戻ってくることを。
Aさんから多くの事を学びました。
Aさんと出会えたことに感謝しながら、彼岸へと旅立ったAさんのご冥福をお祈りします。
Aさん、本当にありがとうございました。
合掌
ご無沙汰しています。
8月頃より体調を崩し、それでも仕事をしながら父のことも対応していたため、疲労が溜りすぎて倒れる寸前までいきました。
身体の調子はまだ良くありません。
それでも仕事は、体調をみながら有給休暇を取りつつ、どうにかやっております。
しかし、この一年父のことと仕事を最優先にして動いてきて、結果、ダウン寸前まで行きました。
でも、父をはじめ家族は、そのことに対して、あまり気にしていないことがわかりました。
父に『一日でも長くいつのも生活を続けて欲しい』願って、今の自分が出来る最善の手を打ちつづけてきました。
けれど、私のその想いは、父には伝わっていませんでした。
あえて、父に、『私が体調を崩したことをどう思っているのか』聴きましたが、「俺が頼んだわけではない、お前がやってくれると言ったから、やってもらったんだ」との返事でした。
(でも夏に大げんかした後に父から『俺の病気のことこれからも頼む』言われてます)
家族が私の身体を心配してるのどうかよくわかりませんが、少なくとも私は、心配してもらってるとは思えませんでした。
それを、知ったときに、今まで自分がしてきたことは何だったのか・・・そう思ったら、怒りを通り越して哀しくなりました。
先日の発熱をきっかけに、父が訪問診療に切り替えると決めました。
それに伴い、今までお世話になっていた、近所のかかりつけの医師に、事情の説明とお礼の挨拶に父と共に伺いました。
父はほとんど言わずにすべて私任せ。『長年世話になった先生に『自分で言うべき言葉』があるだろうがっ!』と思いましたが、先生には私から事情を説明してお礼を言いました。
訪問診療に切り替えることで、父のことはひと区切りついたので、私は父のことから、手を引くことにしました。
それでも、病院側のキーパーソンは、私になっていますので、両親と姉だけはどうにもならなくなった場合は私のところへ連絡は来ると思います。
家族で話し合い、病院の付き添いは今後姉がするとのこと。
今まで、親の受診の付き添いどころか、親のことでなにひとつ動いたことのない姉が、なぜ『今』になって、その気になったのか、よくわかりませんが、たぶん『下心』があって『親孝行』をする『フリ』をするだけだと思います。
父の今後の支援の土台は、自宅での看取りも出来るように、私がしっかりと全てつくりましたので、あとは、どうにでもなるはずです。私がいなくても。
まだ依頼の連絡はありませんが、介護保険を使うことになった場合に、依頼するケアマネージャーも探してあります。
ターミナルの仕事に長けた事業所を一緒に仕事している、某サービス事業所に教えていただきました。
仕事の出来るケアマネでないと、私のやることが増えてしまうので。
私のことを『親不孝者』という人もいるでしょう。
でも、娘としての義務は放棄したつもりはありませんし、娘である以上は、親の介護からは逃げられません。
しかし、父の事で色々と動いた結果、体調を崩し、仕事にも支障がでて、社長と相談した結果、私の体調がすぐに戻らなければ担当件数を減らすことになってます。たぶんそうなるでしょう。
担当件数が減ると、給料も減ります。たぶん最低でも3万円。
ひとり暮らしをはじめた者にとっては、痛手です。
それで済めばいいけれど、最悪は、今までの仕事が出来ないと判断されれば、会社を辞めなめればならないかもしれません。
そのことをはなしても、父は『またこの家(実家)に戻ればいい』で終わりです。
私は、父のことの対応で、自分の病院受診もまともに出来ない状態で、いつも頸椎ヘルニアの激痛に耐えながら毎日踏ん張ってました。
でも、父は、自分の事で精一杯なのか、私の身体を気遣う『言葉』も『そぶり』もありません。
母も、『あんたには感謝している』と、いつも言ってますが、仕事上多くの方から、心のこもった『ありがとう』言葉をたくさんいただいてきたので、言葉に心がこもっているかどうかはわかります。
発している言葉が『真実ではない』ことくらいわかっています。
ある『こと』があり、両親や姉とこれ以上一緒に暮らしていたら『私が壊される』。そう思って、予定より20日程早く家を飛び出し、アパートへ移りました。家具などの移動日はまだ先でした。
その日の夜に、叔母(母の末妹)に全て話しました。
叔母に何度も話を聴いてもらいたいと思っていましたが、いつも思いとどまっていました。
叔母は長姉である私の母に育てられたも同然なので、叔母には母の悪い面の話は出来ればしたくなかったのです。
でも、もう限界だと思い、叔母に泣きながら電話をしました。
9歳の時から、両親から課せられ続け来た『我が家の負の荷物』のことから、全てのことを。
叔母は、「お姉ちゃんがあんたにそんなことをしてきたのか!」と、怒っていました。
そして、「もう、お前はこれ以上お父さんとお母さんのことはしなくていい。そこまでやってくれた娘にそんな態度をとる親ならば、もうやらなくていい。これからは自分の事を大切にしなさい。実家のことなど考えるな。」
と、言ってくれました。
その後実家での話し合いの時に、叔母が「あんたの言うことをお父さんもお母さんも聞く耳持たなければ、私が代わりに言ってやるから、電話しなさい。」そう言ってくれました。
当然、私の言うことを聴こうとしない両親に、『叔母さんに今回のことはずっと相談してきた、叔母さんは、とてもお父さんとお母さんのことを怒っている。叔母さんに「あんたの話をお父さんとお母さんが聴かないならば、私に電話をしなさい、私から言ってやるから」といわれているから、今から電話をするから!!』と言いいました
その言葉に、両親は「電話はするな!」と、慌てました。
当然です。
叔母は、亡き叔父と共に祖父母の介護を最後までやりきった人です。
その人が私を擁護しているのだから、両親は反論が出来るはずがありません。
叔母に電話をしないで、話し合いは終わりましたが、父が私に言った言葉が先ほどの「俺が頼んだわけではない、お前がやってくれると言ったから、やってもらったんだ」でした。
その言葉に対して私は、『じゃあ、お父さんは、『私が勝手にやって、勝手に体調を崩して、勝手に仕事をミスして、勝手に減給になって、勝手に怒っている』と、思ってるんだね!』と言い返したら、「そんなことは思っていない」と、言ってきました。
そして、「お前はお父さんに何て言って欲しいんだ?」と聴いてきました。
正直、あきれました。
言われたから言う『言葉』なんて、欲しくないし、意味がありません。
「私が欲しい言葉は、確かにある。でも、それは、私から聴くことでない。今の私を状況をどう感じて、私に何を言うべきなのかは、お父さん自身で考えることだ。」
と、突き放しました。
治療が出来ない病気を抱えているからといって、家族を含めて他者を傷つけていいということは許されません。
こうして、家族は疲れていくのだな・・・たった『ひと言』さえあれば、それだけで、疲れもとれるのに・・・そう身をもって感じました。
叔母に、家族での話し合いの結果を伝えたら、あきれてました。
そして、叔母に「お前はもう、これからは、何も考えずに自分の事だけを考えなさい」と言われました。
そして、「もう充分にお前は、親孝行したから、大丈夫。もういいんだよ」と、言ってくれました。
私の体調を心配していた、会社の同僚は、「もうそこまでやったんだから、充分だよ。もうこれからは、自分の身体を第一にしないと本当に倒れるよ」と、言ってくれました。
悪友達も、私の心情をわかってくれました。
叔母や同僚や悪友達が、『かたつむりはやるべき事はやったのだ、もう充分だ。あんたの心情を理解しない親にこれ以上することはない』そう言ってくれたので、ようやく救われました。
今、気持ちの整理をしているところです。
実家にはその後行ってません。父のかかりつけ医に挨拶に、病院で父と待ち合わせて、先生に挨拶しただけです。
必要なことは電話で最小限にしてます。
声を聴くと具合が悪くなるから。
普段、仲が良さそうな家族でも、誰かが病気になると、その家族の本当の姿が出てくるもの。
私の家族も、そのようになっただけのことだと思います。
これから、両親との関わりのどうしていくか、今は、考えられませんが、とにかく、倒れる寸前まで疲労が重なり、疲弊して体調を崩した心身の回復に努めたいと思います。
先日の水曜日の朝、仕事に行こうとしたときに、携帯電話が鳴った。
着信は実家からだった。
嫌な予感がした。
電話に出てみたら父だった。
『かたつむり・・・お父さん、具合が悪いんだ・・・。』
その声は、弱々しくて辛そうだった。
話を訊くと、2~3日前から熱が出て、電話をしてきた時点で38.5度あった。
父は「(癌の方を診てもらっている)クリニック行こうと思ってるんだけど・・・」と言った。
私は父に、
「今日の午前中の訪問は、後日に変更ができるから、今からそっちに行くから、クリニックにいこう!」
そう伝えて、実家に向かいました。
目の前のバスに乗れば、10分ほどで実家にいける。
アパートを借りるときに、ここにして良かったと、そのときに改めて思いました。
38.5度の熱。
普通の人ならば、特に気にする発熱ではない。
しかし、父の肺は『爆弾』を抱えていると同じだ。
肺がん・間質性肺炎・職業病とたばこで、肺がボロボロだ。
父には肺炎は命取り。
元気に釣りに行っているとはいえ、今年にはいってから体力がそれなりに落ちている。
38.5度の発熱を楽観的に考えられる要素は何一つないのだ。
実家に着いて、すぐに父のバイタル測定をした。
SPO2は、いつもの値の安静時92%だったので安心した。
しかし、脈拍は112だった。たぶんこれは高熱の為だろうと思った。
クリニックの留守番電話に、事情を伝えて受診する旨を報告した。バイタル数値と、父の諸症状も留守電に残した。
クリニックにはいつものようにタクシーで行ったが、38.5度あるので父の足取りは危なかった。しかし、身体を支えようとしたら、父は嫌がった。
『この頑固じじい!!』と、腹の中で怒鳴った。
でも、2階にあるクリニックへ行くときは、階段で行きたがる父を怒鳴りつけて、問答無用でエレベーターに乗せた。
その日は、父の主治医の担当日ではなかったが、私が思いつきで留守電で状況報告をしていたため、主治医を連絡を取り、処方する薬については相談してくれていたので、ありがたかった。
先生が父に質問するが、父は面倒なのか、『変わりない』『大丈夫』を連発。
事実と違うので、私が横から何度も父とケンカしながら口を出し続けた。
胸部レントゲンと血液検査をした。
胸部レントゲンは、肺炎は起こしていないとのことで、安堵した。
血液検査は翌日の朝には結果が出ているとのことで、『明日の主治医の受診を受けて欲しい』とのことだった。
薬も処方してもらった。
しかし、困ったことがひとつあった。
父が水分をとらないのだ。
元々水分はとる方ではないが、これだけ熱が出ているので、水分を補給してもらえないと、熱が下がらない。
父に、スポーツドリンク系のものを飲んで欲しいと頼んだが、『甘すぎて嫌だ!』と、拒否。
「そんなこといったって、飲まないと熱が下がらないんだよっ!!先生にも言われただろうがっ!!」
と、クリニックの待合室で言い合いになる。たまたま他に患者さんがいなかったので迷惑は最小限に抑えられたが・・。
しかたがないので、『比較的さっぱりしたスポーツドリンクを知っていたので、仕事が終わったらそれを買って実家へ行く』と、両親に言った。
残業せずに職場をでて、その日は実家に泊まった。
もちろん、買ってきたスポーツドリンクを強制的に父に押しつけた。
しかし、一晩でも500mlの半分の飲んでいなかった。
お茶の方がいいと言う父に、『お茶ばかり飲んでいたら、逆に身体の水分がおしっこで出てしまうから逆効果だ!』と繰り返し説明するが聴いてくれない。
父は、今まで風邪を引いて寝込んだことがなかった人間だけに、高熱が出たときの対応法がわかっていないのだ。
そして、自分の身体が、高熱でダメージを受ける可能性が高いこともわかっていない。
父は、風邪を甘く見ているのだ。
家族で父がいうことをきくのは、私だけなのに、その私の話もだめなのだ。
だから、私は、翌日の木曜日の主治医の先生の受診にもついていって、先生に言った。
「先生、父は水分をとってくれないんです。『水分をとらないと、解熱剤を飲んでも熱は下がらない』と、何度も言っているんです。それでも、だめなんです。それと、『飲むなら、身体に必要な成分が入っているスポーツドリンクをのんでくれ』といってるんですが、でも、父は『甘いから嫌だ』と言って飲んでくれないので困っているんです。」
先生は、困ったように笑って、
「お父さん、水分とらないと、熱は下がらないよ。スポーツドリンクは甘くても薬だと思って飲んでください。口のなかが甘くて嫌だったら、スポーツドリンクと水を交互に飲んでもいいから、とにかくスポーツドリンク系を飲んでください。」
と、父に釘を刺してくださった。
家に帰ってから、父は少しではあるが、先生の言うとおりに、スポーツドリンクを飲んでくれた。
結局私は、実家に2泊して父の様子をみていた。
父の症状が悪化していないことと、自分も体調がおかしくなってしまったので、限界だと思い、昨日はアパートに戻った。
今朝、実家に電話したら、朝の服薬前の時点で、熱は36.9度まで下がったとのこと。
咳や痰は続いているが、一番酷かったときよりは、だいぶ楽になったとのこと。
とりあえず、ひと安心しました。
そんなわけで、今週は父の対応でドタバタして、仕事が思いっきり遅れてしまったので、今日は一日アパートに籠もって、誘惑と闘いながら仕事をします。
ご無沙汰しています。
身辺がかなりドタバタしておりました。
先月下旬から一人暮らしを始めています。
実家から少しづつ荷物を運びだし、先日の日曜日に引っ越し業者にベッドなどの家具や段ボールに詰めた荷物を運んでももらいました。
まだ、実家に少しに物が残っていますし、冷蔵庫と洗濯機とテレビは今週末に納品なので、まだ物はそろってはいませんが、どうにか生活しています。
オバサンになってからの一人暮らし。
いろんな手続きは全て初めての経験。
お金の切り詰め方もまだ手探りで、わからないことだらけです。
でも、不安よりも、『束縛からやっと解放された』という安堵感でいっぱいです。
永い間独りで背負わされてきた『我が家の負の荷物』を、やっと放り投げることができたと思っています。
だから、気持ちはとても落ち着いています。
本当は、引っ越し業者が搬送してくれた、先日の日曜日から『ひとり暮らし』をする予定でした。
しかし、あることがきっかけで早く家を出ました。
先月の下旬に引っ越しの準備をしていたときに、姉の部屋の押し入れに入れている(←私の部屋に押し入れがないのです)洋服ケースをだそうとしました。
しかし、姉の部屋の押し入れの前は、いつも物がたくさん置かれているので、それをどかさなければなりません。
仕方がないので、いつものように姉の荷物を持ち上げようとしたら、あまりの重さに腰をひどく痛めました。
翌日は、歩くことも辛く、でも仕事は休めないため、タクシーで職場へ向かい、割れそうな腰の痛みに耐えながら、長時間自転車に乗り仕事をしました。
家に帰って姉に「あの押し入れの前の物、重すぎるから、片付けろよ!お父さんとお母さんが持ったら身体を壊すぞ!私だってぎっくり腰に寸前までの状態になるほど痛めたんだから!(←整骨院のスタッフに『ぎっくり腰の一歩手前』と言われました)」と、強い口調で言いました。
そうしたら、姉が逆ギレしました。「なんだよ、私が悪いのかよ!(PCの)モニターとプリンターが入ってるんだから、重いに決まってるだろう」と。
「そんな物が入ってるなんて気がつくわけないだろうっ!」と私。
「見ればわかるだろうっ!」と姉。
と、大げんかになりました。
母は私たちを必死に止めようとしていました。
そんな母を見ていて私は不愉快になりました。
ここでも、姉をかばうのか・・・と。
「ったく、お父さんもお母さんも本当にお姉ちゃんに甘いんだからっ!」
と、私があえてこの言葉をわざといいました。
とうぜん、姉がさらに怒ります。
「なに、寝ぼけたことをいってるんだ!!」
私は、このとき完全に姉に対して『キレて』ました。
自分が放置したままの物を家族が持ったことで、腰を痛めたことに、何も感じていなかったからです。
私は、わざと姉を煽って、姉を叩き潰すつもりでいました。
気性の激しい自分が完全に出ていました。
感情的になっていく姉をみて、私の思惑通りの展開になりました。
私が、姉をつぶすために、言い返そうとした瞬間でした。
「お前ら、いい加減にしろっ!!」
父があいだに入ってきました。
まるで、姉を助けるかのような入り方でした。
その言葉を受けて姉は、「じゃあ、引くよっ!」といって、自分の部屋へいってしまいました。
アホらしい姉妹のケンカではあります。
でも、このときに私が感じていたことは、
『私が腰を痛めて辛い思いをしているのに、私の家族は誰も心配してくれないんだ』と、いう絶望感でした。
自分の部屋に戻り、考えた末、
『このひどい腰の状態では、いつも朝に乗っているバス停まで歩いて行けない。無駄にタクシー代がかかる。それなら、すでにアパートを契約しているのだから、アパートで暮らそう。その方が身体への負担は少ないし、何より、もう、この家族と一緒に生活できないっ!』
そう決めました。
すぐに母に『この痛めた腰では、ここからの通勤はできないから、予定より早いけどもう家賃も払っているんだから駅の近くのアパートで暮らす。敷き布団を買って届き次第アパートに移る』と伝え、翌日に購入した敷き布団が届いた2日後に合わせて最低限の荷物をもってアパートでの生活を始めました。
この数週間は、腰の激痛に耐えながらの仕事でした。
あまりの腰の痛みに、途中で自転車を降りて休まなければならない状態が何度もありました。
そのたびに、家族に心配してもらえないことが、なんだか情けなくて哀しくなりました。
生活をアパートに移してから、荷物の搬送のために実家へ行く度に、ようやく両親は私の腰の状態を心配はじめました。
それは私が服の上に『見える場所に腰のベルト2本でしっかりと腰を固定』していたからだと思います。
私は『ベルトを見てから、やっと心配するのか。今更何を言ってるんだ。初めは気にもとめてなかったくせに』と、冷めていました。
引っ越し業者の荷物の搬送の時にも両親は、私の腰のことを心配して手伝ってくれましたが、『今、心配するのなら、一番辛いときになぜ心配してくれかったんだ』と、思いました。
きっと、実家で暮らし続けたら、このような負の感情がこれからも積もっていくだけでしょう。
姉ばかりをかばい、姉ばかりに甘く、でも、私には厳しく、家の大変なことは全部私に頼んでくる両親に対して、私は、憎しみの感情を間違いなく持ってしまう。
姉のことだけではなく、両親とのこともこのままではいけない。
だから、家族と離れて暮らさなくてはいけない・・・と、なおさら思いました。
実家の家は、『大好きな叔父が遺した家』です。
生涯独身だった叔父は、生前よく私に言っていました。
『この家はお前とお姉ちゃんに遺していく』と。
だから、本当は、大好きな叔父が遺したあの『家』で、私は死にたかった。
『孤独死でかわいそうだ』と、言われてもいい。
『腐乱した白骨化した状態』で発見されてもかまわない。
私は、叔父が遺してくれたあの家で死にたかったのです。
私は、自分のこれからの人生を守るため、そんなささやかな『夢』もあきらめるしかありませんでした。
こうして、手に入れた『自由』。
父のキーパーソンはこれからも続けますし、母のことも最期までします。
両親との約束を守り、週末は、実家に顔を出します。
父の病気の進行を考えて、実家でも一時的に生活できるように、今まで使ってきたデスクトップPCは置いてきました。ネット環境もそのままです。
アパートには、借金して新しいノートPCを購入して、別のプロバイダー契約をしました。今のアパートは光通信でないと、インターネットができない環境だったので、こうするしかありませんでした。
ある意味では、両親のために余計な出費をしています。
金銭的に苦しくなったら実家の方はプロバイダー解約も必要なるかもしれませんが、当面はこのままでいきます。
どんなことがあっても、『親』は『親』。
憎みきることはできないし、
娘である以上、親の介護から逃げることはできない。
両親から自分が望むものはもらえなかった。
けれど、両親なりに私に愛情はそそいでいてくれていた。
両親が私を『助けてくれた』ことも何度もあった。
だから、それまで否定してはいけない。
だから、父のことも母のことも最期までやることにしました。
そんな、さまざまなことを想いながらはじめた、新たな生活。
本当に、つながれた鎖から、背負わされてきたものから、ようやく『解放された』という感じでいます。