[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
注意:今日はかなりの辛口です。非難と苦情は受け付けません。
そして、自分の発言を撤回する意思はありません。
なぜなら、自分が間違ったことは言っていないと確信しているからです。
このことを踏まえた上でお読み下さい。
今、私は、仕事を辞めてから、日々の体調をみながら、もう一度ケアマネ業務の基礎の基礎から勉強をやり直している。
食事も取れないくらいの状態だったから、本格的に勉強を始められたのは、この2週間くらいからだ。
それでも、出来ないときもある。
ターミナルの父の諸対応と介護で、肝心なときに情報収集ができなかった『30年度法改正』の内容の確認も、今ようやく出来る状況になった。
そして、こんな本からもう一度勉強を始めている。
これが、ケアマネとしての今の私の状態だ。
私は、2年半もケアマネとして仕事をしてきたが、現状は、実務の基本の基本すら身についていなかった。
そのことに気がついたのは、父のケアマネさんとの出会いだった。
職場ではなく、ターミナルの父の介護を通して気がついたのだ。
彼女の仕事をみていて、『自分のやり方は間違っているのでないか?』と、本当にはじめて思った。
ケアマネ一人一人やり方は違うし、ご利用者様とご家族にあわせて柔軟に対応しなければならないので、いろんなパターンは当然ある。
だが、根底となる基盤はひとつ。
そこが出来ていない自分がいることは、気がついてはいた。
なぜなら、ずっと手探りでやっていたから。
これまでの私のケアマネとしての武器は、紆余曲折な自分の人生経験だった。
ケアマネとして本来持つべき知識は、身についていなかった自覚は自分でもあった。
でも、仕事を辞めるまでの約2年間は、自分は自己研鑽をしている時間が本当に無かった。
寝る時間も削り、休日に『休む』ことも出来なかったから。
その理由は、今まで私のブログを読んで下さっている方であれば、ご理解いただけるかと思っています。
私は、砂地に家を建てているような状態で、今までケアマネの仕事をしていたのだ。
ケアマネとしてのしっかりとした基盤を『自分のなか』につくりたくても、ケアマネ2年目になったばかりで頸椎ヘルニアを発病した。
まともに風呂は入れない、シャワーで頭を洗こともできないほどの激痛に常に襲われている日々。
あまりの激痛で仰臥位もとれず、左側臥位でしか臥床が出来ない状態で、まともに寝ることさえできない状態だった
それでも、とにかく仕事をすることで精一杯だった。
その状態の私に、さらに父のがんの再発という『辛いこと』が重なった。
身体の痛みが治まらない自分の身体を、仕事で酷使しながら、更にキーパーソンとして父の対応に追われる日々。
父の予後の方針が決まるまでの4ヶ月の間、両親では医師の説明が理解できないため、私は毎週父の病院の付き添いをしなければならなかった。
そのため、その時期は、ほぼ毎週土曜日に振替出勤をしないと仕事が終わらない状態だった。
職場でも、家庭でも、私の代わりはいなかったから、自分の身体を酷使するしかない状況だった。
毎日身体が悲鳴を上げ続けていた状態では、自己研鑽の勉強をするとか、研修を受けにいくとか、そんな状況ではなかった。そんな余力はまったくなかった。
それでも、自己研鑽の研修に行かない事を前職場の社長や管理者に何度も非難された。
非難されたとき、逆に『あのときの私』に、自己研鑽にいける術があったのなら教えて欲しいくらいだった。
だが、そんな反論が出来る余力さえ私には無かった。
普通に寝ることも出来ずに、ベッドにありったけの毛布と布団を重ねて座位で短い時間で睡眠にしないと、次の日の朝、動けない身体になっていた私に。
そして、食事もまともに受け付けなくなっていた私に。
父の残された時間に対しての、家族としての責務を独りで背負っていた私に。
どうすれば、身体が悲鳴を上げている状態で、仕事をしながら、父のキーパーソンとして奔走しながら、やっとの思いで立っていた私に、自己研鑽の研修に行けと、なぜ平気でいえるのか?
逆に私は、社長と管理者の思考が、どうしても理解できなかった。
このような経験もあり、いろんなところからの情報も踏まえた上で、私はこう思っている。
『ケアマネ業界を含め、介護業界は、新人や後輩に仕事を教えるのは、はっきり言って下手だ』
そう、私は言い切れる。
大体の先輩ケアマネは『私達は、自分で調べて仕事を覚えてきた。だから、あなたも自分で調べて仕事を覚えなさい』という。
確かに、『自身で調べること』自体はとてもは大事だ、異論は無い。
だが、その調べ方が間違っていたら、どうなるだろうか?
私は、それで、何度も失敗した。
解釈間違いをして失敗したこともあった。
そのときは、会社として責任の所在をどうするのだろうか。
仕事を教えてもらえず、自分なりに悪戦苦闘しながら調べて、その結果、間違えた、元新人ケアマネが『悪い』というかたちで終わるのだ。
指導している人が誰もいないから、『指導した者として責任の負う』先輩ケアマネがいないのだ。
誰かが、しっかりと指導しなければ、新人は、大事なところで大きな間違いをする。
それが、結果的には、会社の存続の危機にも繋がりかねない。
その責任を、会社は、その元新人ケアマネ独りに負わせて、『トカゲのしっぽ切り』をすることで、危険を回避するのだ、『全てあなたが悪い』と言って。
私は、同僚達が既にその知識を持っていたのに、教えてくれなかったこともあった。
質問しても『私では解らない』という返事が何度も返ってきた事も少なくなかった。
きちんと教えてくれたことも確かにあった、しかし、頻度としては少なかった。
ちなみに、みなさん主任ケアマネである。
主任ケアマネの責務のひとつには、後進の指導もあったはずだ。
たとえなくても、先輩や上司が後輩や部下に仕事を教えるのは、世間では『当たり前』のことだ。
私は、いろんな職種で、沢山の後輩を育ててきた。
本当に『本気で後輩に仕事の指導』をしているときは、自分の仕事が2倍になる。
そして、一般企業で働いていたときは、私は自分の仕事は後まわしになることもあった。
それだけ、『後輩を育てると言うことは、それほど大変で大きな仕事』だった。
なぜなら、その『社員としての後輩の今後』を、そして何より『これからの会社を大きく左右する大事な仕事』だからだ。
後輩が仕事を覚えられないと、教えた側にも怒られるのが一般企業では普通にある。
『お前の教え方も悪いんだ。指導の仕方をもう一度考えろ』と。
営業部門での後輩の指導は、指導する側も上司にかなり厳しく怒られた。
なぜなら、会社の営業部門は、会社の利益に直結する部門だからだ。
そんな企業で、私は社会人としてスタートしたので、『後輩を育てるという仕事の重要さ』は骨身にしみている。
でも、介護業界では、仕事を教えるという概念すら無いように私は思った。
はっきりいって、私は、私の価値観に当てはめると『介護業界で、まともに仕事を教えてもらえたことが無い』と、言い切れる。
仕事での『指導』というのは、口頭で言うだけのものではない。
後輩や部下の仕事のチェックをして、具体的な助言とサポートをして始めて『指導』というのだ。
でも、今の私は、基礎からやり直している。
主任ケアマネが複数いた職場に在籍していたにもかかわらずだ。
少なくとも会社が『本当に指導をしていた』なら、ここまでの基礎から自分で勉強をし直すことはしないで済んだはずだ。
これが、ケアマネ業界の現状。
ケアマネ業界は、後進の指導が出来ないのだ。
『先輩ケアマネが後輩に仕事を教えないのは、同僚ではなく『ライバル』だから。『ライバル』には自分の手の内は見せない。もし、それを後輩に教えたら、自分の武器がなくなる。そして、利用者を後輩に取られてしまう。だから、先輩ケアマネは、肝心なことは教えないのだ、『ライバル』を減らすために』
こんな文章を目にしたことがある。
そのときに、妙に納得している自分がいた。
職能団体が、専門職としての底上げをしようと頑張っているようだ。
しかし、現場では、後輩を育てるどころか、『潰している』のが現状だ。
はっきり言い切れる。
他の人が私の立場だったら、もう、とっくに潰れている。
私は、ケアマネの仕事に就けるようになるまでに、他の人より乗り越えなければならない『壁』が、あまりにも多すぎた。
父は、病気と闘いながら、それでも、私が『今の状況になること』を恐れていた。
だから、私はどうにか踏ん張れた。
悪友達にも助けられた。
なにより、このままでは父に申し訳ないと思った。
今、私は、本当に貪欲にケアマネとしての自己研鑽の為に勉強がしたい。
一番、ケアマネとしての基盤をつくるのに適した時期に、自分の病気と父の病気で、その機会をつくることができなかった。
そして、『本当の意味』で、そのときに助けてくれる人は、業界にはいなかった。
ケアマネとしての基盤をつくれなかった2年間の遅れを取り戻したい。
まだ、体調が戻りきらない、まだ思うように動ききれない身体だが、その日の体調と相談しながら、基礎からやり直している。
『運営基準の13条』の『意味』も、今なら読んで理解することも出来る。
『介護サービス計画書の様式及び課題分析標準項目の提示』の内容も今なら読んで理解できる。
過去の私には『独りで読んで理解する』のは無理だった。
少なくとも、これらを今読んで理解できるようになったということは、ケアマネとして、その分だけは成長は出来たのだろう。
だから、過去に解らなかったことも、今なら解ることも多いかもしれない。
確認するためには、どこから情報を引っ張ってくれば良いのかも、ようやく解ってきた。
今までの失敗に対して、今後どうすれば良いのか、その答えを今つかみかけているところだ。
3年弱、独りで苦しんだ結果、ここまでようやくたどり着いた。
だから、今までの遅れを少しでも取り戻せるように、全力を尽くしたい。
でも、私のような苦労を、これからケアマネの仕事に就く新人さんには、して欲しくないと、願っている。
本当に、後輩ケアマネさんには、こんな苦労はして欲しくない・・・。
心から、そう願っている。
私は、初めて『本気で主任ケアマネになりたい』と、思っている。
主任ケアマネなって、やりたいことを見つけたからだ。
それは、スーパービジョン以前に、『後輩ケアマネ』を育てたい。
自分が持っているもの全てを、後輩ケアマネに教えて伝えられるようになりたい。
自分と同じような苦しい思いをする新人ケアマネさんをつくりたくないから。
そして、新人ケアマネさんに、理不尽なことで潰れて欲しくないから。
その為にも、ケアマネとして、そしてその前に一人の人間として、もう立派なオバサンだけど、これからもしっかりと自分自身も成長したいと、今、思っている。
前職場の事をかいたので、前職場への非難ととる人もいるでしょう。
ただ私としては『自分の経験をありのままに書いただけ』です。
このことで、私を非難される方は、私を非難する前に、『ご自身がしっかりと責任を持って後輩を育てている』と言い切れるのか、『しっかりとご自身を顧みて』から、その上で私を非難して下さい。
この文章で、私を非難される方は『しっかりと責任を持って後輩を育てた経験が無い方』だろうと、私は推測しています。
ご無沙汰しています。
このひと月は、体調の好調と不調が交互に押し寄せて、自分の体調のコントロールに悪戦苦闘しておりました。
就職活動をはじめる時期については、5月中旬から主治医は『6月から始めていい』と、言っていました。
主治医の見解としては、次のように言っていました。
『あなたが身体を壊した一番の原因は『今まで働いていた会社』にある。その会社を辞めれば一番の原因が取り除かれる。だから、あとは回復していくだけだ』と。
しかし、昨年の11月頃から、毎朝起きると頭がクラクラして動けなくなるので、その症状を少しでも抑えるために、寝るときに臥床出来ず、布団を重ねて座位の姿勢で、半年近く睡眠を取っていました。しかも毎日3~4時間だけです。
また、食事も受け付けなくなり、3月頃からは固形物をほとんど食べることが出来ず、5月末までほとんど水分で生きていました。
これでは、体力も筋力も落ちています。そして身体を壊した状態で、とても6月から就職活動が出来るとは思えませんでした。
そのことを主治医に話したら、このような助言が返ってきました。
『動かないと、体力は戻らない。それに、家にいるとマイナス思考になってしまうから、それも良くない。だからこそ、(主治医としては)仕事をして欲しいんです。とにかく外へ出て、身体を動かして下さい。そうしなければ体力は戻りません。今回に限っては薬の力を借りてでも、とにかく動いて外に出て活動量を増やして下さい。今処方している頓服薬は、今までの薬より強く、依存性も強いです。それでも今は(依存性の高い)その薬を飲んででも、外に出て動いて欲しい。ですから、これらの薬は『ここぞ!!』と言うときに飲んで下さい。今だけは、薬の力を借りて下さい!』
というわけで、下記の3つの薬が処方されました。
○睡眠薬:ブロチゾラムOD 0.25mg(就前薬:鬱病時代に飲んでいた睡眠薬です)
○精神安定剤頓用:リスペリドン0.5mg
(フラッシュバック時・不安時・頭のクラクラが酷いとき)
※これが処方されたときは正直ショックでしたが、この薬に何度も助けられました。
なお、フラッシュバックは既に出なくなっています。
○意欲低下・身体が動かないときの頓用:コンサータ18mg
(発達障害がある人が服用することが多いようです)
※必要時は朝服薬。遅くとも午前中には服薬。
午後に服用すると夜眠れなくなるそうです。
連日の服薬を続けてはいけないとのこと。(説明書が見当たらないっ)
と、臨時で、体調・精神状態・生活そのものが落ち着くまでは、この薬の力も借りることになりました。
ちなみに・・・
『コンサータ18mg』は2回しか服薬していません。
私自身が外へ出る気が、比較的早く持てました。しかし、身体が動かないときに、この薬の力を借りて出かけたことが2回あるのですが、反動が後日に出たのか、余計に動けなくなりました。
先生に報告したら『薬との関係性はないだろう』とは言っていましたが、その後は服薬していません。
本当に、『心も身体が辛いけど、どうしても外出しなければならない』ときだけ、頼ろうと思っています。
『リスペリドン0.5mg』は、初めはフラッシュバック・不安時に服薬していましたが、今は、フラッシュバックもなくなり、比較的精神的には安定してきました。
現時点では、梅雨の影響か頭のクラクラがまた出るようになったので、いつもの精神安定剤を飲んでも無理なときに服薬しています。
『ブロチゾラムOD 0.25mg』は、毎日寝る前に服薬しいてます。この薬も依存性があるとのことなので、一度半錠にして数日様子をみたのですが、眠りが浅く頭の芯から眠れていない感じなので、一錠に戻しています。
先生のお話だと、『発達障害の方は、睡眠をきちんと取らないと、不注意や衝動性といった症状は悪化しますので、~中略~睡眠時間はしっかり確保することをお勧めします。』とのことでした。つまり私は3年間睡眠時間を削っていたので、発達障害持ちとしては、一番いけないことをしていたわけです。
こんな風に、薬の力を借りながら、自分の活動量を増やしていきました。
しかし、目的も意味もなく外出するのは、交通費のお金がもったいないと思いました。
そのため、手っ取り早く、今は休会している音楽教室のレッスン室をレンタルして、フルートやサックスをリハビリを兼ねて吹くことで、体力をつけるようにしています。
楽器を吹くのは体力が要りますし、私の楽器はフルートもサックスも重量のある楽器なので簡単に音は鳴りません。
ですから、自分の楽器を吹くことで、自分の体力がどのくらい戻っているかの判断材料になります。
それに、好きな楽器が吹ければ一石二鳥です。
後は、父の形見で譲り受けた『電動付き自転車』でどこまで行けるかを試しています。これも、自分の体力の戻り具合がわかりやすい方法です。
ケアマネとして、今まで一日中自転車移動していましたので、仕事をしていたときの自分と、今の自分を比較すれば、どこまで体力が戻っているかを確認するのに、わかりやすい方法です。
食事も、食べられるようになっても、初めはお粥だけでした。
しかし、それでは栄養がつかない。
でも、本当に消化の良い物で固形物でないものでないと胃が受け付けつけなったので、おかずは介護食のレトルトを食べています。
今、一般食で、胃に負担のかからないような調理をしているレトルト食品に切り替えをしているところですが、なかなか上手く切り替えができません。
お粥ではなく普通の白米を食べられるようにもなってきたのですが、少し調子がおかしくなると、また食事を受け付けなくなってしまいます。
どうして、こんなに身体の戻りが遅いのか、自分でも解らなかったのですが、先日、実家で体重を量ったら更に体重が落ちていて、『トータルで10kg落ちてしまっていました』。
もともと太っている方なので、痩せた方がいいのでしょうが、この痩せ方は、身体を壊した結果の、身体に一番悪い痩せ方なので、必要な筋肉も筋力を落ちているはずです。
これでは、今までと同じ感覚で動いていたら、身体に無理が来ます。
元の身体に戻すのではなく、今の自分の身体・体力に合った、日常生活の送り方、そして、仕事の仕方を考えないといけないな・・・と、考え方を切り替えました。
まだ、その方法は掴んでいませんが、とりあえず、無理に常食に戻すのは今はやめることにしました。
介護用のレトルト食品でもいいから、必要な栄養を取ることを優先にすることにしました。
この発想は、亡き父が60歳手前で胃がんの手術を受け、静養期間を経て仕事に復帰したときに、お弁当にお粥を入れていたことを思い出したことから、考えたことです。
職人だった父の仕事はとても重労働で、40Kgくらいの物を何度も運ぶこともあったそうです。
病み上がりの身体でお粥のお弁当を持って仕事をしていた父の事を思いだし、『常食が食べられなくても仕事は出来る!』と、考え方を変えることが出来ました。
上記のような前向きな発想が出きるようになる前・・・。
5月の頃は、ほとんど家に籠もり、近所のスーパーやドラックストアへ行く以外は、家の中で寝ていることも多かったです。
裏切られた・見捨てられたという感情と、『強い人間不信』に落ちてしまっていました。
もう何もかも嫌になって、自暴自棄になり『もうどうなってもいい!!』と投げやりな感情になっていたときに、『父』の顔が突然、脳裏に浮かびました。
『今の私を父はどう思っているだろう・・・。』
他にも原因はある。むしろ、そっちのほうの原因のほうが大きい。
けれど、少なくとも父は、『俺がガンになったせいで、娘が心も身体を壊し、職を失い、生活基盤が崩れてしまった・・・俺はどうしたらいいんだ?!』そう思っているかもしれない。
『このままでは、父は、彼岸へはいけない。父が成仏できない』
私は、そう思いました。
自分の為だけでなく、父の為にもこのままではいけない。
『あの父の過酷なターミナルを介護して、看取った娘である私が、ケアマネとしてやるべきことがあるはず。』
『少なくとも父の終末期の介護とキーパーソンをしたケアマネだから、もしかしたら、今までよりも、ご利用者様とご家族の想いに近づけるかもしれない。』
『家族の在宅介護の過酷さは経験した者でないと解らない。少なくとも私はそれを経験したケアマネだ。』
- 父が最期に私に見せてくれたことを、無駄にしてはいけない!! -
そう思ったときに、
『ケアマネとして、もう一度這い上がってやる!!』
そう決心しました。
その夜から身体も動くようになり、フラッシュバックも全く起きなくなりました。
『父が、助けてくれたんだ』と、私は、素直に思いました。
実は、既に、就職活動は始めています。
採用面接の予定も既に入っています。
前会社からまだ離職票が届いていませんが、ハローワークに事情を説明して相談し、正規の手続きをとり、仮ではありますが、失業保険の給付手続きを済ませました。
ケアマネージャーとして就職活動をしますので、『ある人達』から、嫌がらせを受ける可能性があると考えています。
それが解ったときには、それなりの事をするつもりです。その方法は既に考えております。
自分から事を荒立てるつもりはありませんが、『向こうから『何か』をしてきたら』、話は別です。
何度も崖に突き落とされて、そのたびに這い上がってきました。
だから、今回も同じ事をするだけです。
もう若くはないけれど、生きていれば、やり直そうと思えば何度でも出来る。
どうせ、挫折だらけの半生です。今更ひとつやふたつ増えたところで、かわりはありません。
そうやって、繰り返し這い上がってきた経験が、そして、自分が経験した全ての事が、自身の『ケアマネージャーとしての糧』にもなるのです。
仕事が決まるまで、どれほどの時間がかかるか解りませんが、最善を尽くして、現場に戻れるように頑張ります。
ご無沙汰しています。
体調が悪い中、無理矢理仕事をしながら遅れている仕事の追い上げをしています。しかし、体調が悪いため、仕事の進み具合が悪いです。
父亡き後の諸手続きが終わったら、いっきに体調不良が悪化しました。
『疲れはあとで、いっきに出るから気をつけて』と、ご利用者様とご家族に言われていましたが、その通りになりました。
肥満だと健康診断で言われていますが、しかし体重が7kgも落ちて、『顔がやつれた』『顔色が悪い』とご利用者様とご家族に心配をしてもらっている、情けないケアマネです。
先日、父の納骨日が決まりました、と、いうか、私の知らないうちに決まってました。
明日16日が納骨です。
母が独断で決めたのです。
姉にも相談なかったので、姉もかなり激怒したようで、母を『叱った』とメールで書いてました。
私は、間違い電話で私のところへ電話をしてきたので、不審に思い、折り返し電話をして、母に訊いたら
『ああ、決まったわよ。16日に。かたつむりは具合が悪いから(納骨に)行けないって言ってたから、お姉ちゃんと二人で行ってくるから』
と、あっけらかんと言ってました。
母には、父の葬儀が終わったあとに、何度も言ってました。
「私もお姉ちゃんも疲れ果てている。こんなこというのはお父さんに悪いけどさ。だから、取り急ぎの事が終わったら、お願いだから少し休ませてくれ。納骨だってウチは葬式をやってないんだから49日にこだわる必要ないんだ。とにかく少し休ませてくれ、お姉ちゃんも私も身が持たないよ。」
姉も同様のことを言っていました。
でも、母は49日の4月にこだわりました。
私は、だから、こう言うしかありませんでした。
「お母さんが『4月にどうしても納骨』したいなら、今の私の体調では長時間の車の移動に耐えられないから、私は行けない。だから、お姉ちゃんと二人で行ってくれ」と。
そして、母は本当に私抜きで4月に納骨することを、姉にさえ相談せずに決めました。
私の生息地は、葬儀を無宗教でしたり、49日や法事はあまりこだわらない家がかなり多い地域です。
ですから、父の葬儀も、父の遺言に従い、無宗教で通夜も告別式もせずに、家族3人と最低限の父の知人だけで送りました。
ですから、我が家も特に49日にこだわらなくてもいいのです。その前をしていないのですから。
でも、母の中には何らかのこだわりがあったのでしょう。
しかし、今までの父の事全て背負ってきた私には事前の話もなく、私抜きで納骨をすることを、姉にも相談せずに一人で勝手に決めました。
私には事後報告どころか、実家に来たときに伝えるつもりだったようです。
当然、母と電話でケンカになりました。
正直どこかで期待していたことを泣きながら母に訴えました。
『私の体調が戻るのを待ってくれると思ったよ!』と。
そうしたら母は
『具合が悪いから行けないから、お姉ちゃんと二人で行けっていったのは、アンタでしょう!!』
と逆ギレしました。
お母さんは、納骨をなんだと思ってるんだ?!そうおもったら、虚しくなりました。
『これ以上、お母さんと話しても意味がないから電話を切る!!』
そう言って、私は電話を切りました。
そのあと、ずっと泣き続けていました。
必死に父のキーパーソンをして、無理を重ねて、身体壊して、減給になり生活が崩れて、それでも父の闘病を支えるために全てを背負い、父亡き後に母の生活を安定させるために手続きに動き回った娘に対して、納骨は蚊帳の外なのかよ!
そう思ったら、とても哀しくなりました。
その夜から、体調が更に悪化しました。
固形物が食べられなくなり、食事もそのものも取れなくなりました。
当然、動けなくなり、この2週間は何度も仕事を休みました。
明日も実は休みを取りました、体調が悪すぎるから。
食事は、最近お粥がようやく食べられるようになりましたが、一日1食食べるのがやっとで、後は水分で栄養がありそうなものを飲むようにしています。
母には、今の私の感情をぶつけた手紙を送りました。
でも、電話がかかってきたのは、手紙が届いたであろう日の1回だけ。私は電話に出る気になりませんでした。
その後は、電話は全くありません。
母が何を考えているのか、私には解りませんし、解ろうとも思いません。
先程、姉にメールを入れました。
明日納骨に行けなくてごめんなさい。
お母さんに会いたくないから、お父さんにお線香をあげに行けずにごめんなさい。
納骨の件は全部お姉ちゃんに任せきりでごめんなさい。
宜しくお願いします。
姉から返ってきたメールは。
気にしなくていい。
まずは自分の身体を治すことを優先にしなさい。
姉のメールをみて、本音を送りました。
『でも、本当の本当にこれで最期になるから、やっぱりお父さんの納骨に立ち会いたかった』と。
それを姉にメールで送った後に、声をあげて泣きました。
解約手続きのために、私の手元にある父の携帯電話。
形見として引き取らせていただけるようにお願いするつもりでいます。
待ち受けをかえて、病状が悪化した頃の、でも、まだベッドから降りられるときに、釣り仲間の孫を抱いてとって、痩せ細る前の父の笑った写真にしました。
その父の姿を見ながら、励まされたり、泣いたりして、毎日を過ごしています。
明日、何時に父が自宅を最期にするのかも私は知りません。
それでも、明日は、壊れた身体で自宅で仕事をしながら、心の中で父に手を合わせて一日を過ごしたいと思います。
父が亡くなり、10日ほど経ちました。
父の希望で、通夜も告別式をしませんでしたので、父との最期の時間は比較的ゆっくりと過ごせたと思います。
父の遺言
『俺の葬儀に金をかけるな、棺桶の中に花などいらない、通夜も告別式もいらない、お前たち3人だけで送ってくれたらそれでいい』
その言葉に従って、私が葬儀業者との打ち合わせをして葬儀を取り仕切りました。
『火葬式プラン』で依頼し、オプションは母が希望すること以外は、全て『父の遺言ですので』と、即決で断りました。
(今日姉から、「あのオプションの切り捨てるような断り方は、葬儀業者に少し同情した」と言われました。でも、『父の遺言』ですから)
弔問に来てくださった方は、『最期まで自宅で過ごせて、自宅から出棺出来るなんて、幸せね』と、皆さんおっしゃってくださいました。
『釣りに行きたい』
『自分の脚で外を歩きたい』
父が望んだ事は、結果的には何ひとつ叶えてあげる事ができなかった。
けれど、せめて、最期まで自宅で過ごして、自宅から送りだしたいと、それだけは、絶対にするんだと、私は決めていました。
私が暮らす地域では、葬儀を自宅ではなく、セレモニーホール等の場所を借りて行なうことが多いので、自宅から送り出すことどころか、病院で亡くなると、そのままセレモニーホールの安置所へ移される方も多いのです。
でも私は『父を、自宅で看とり、自宅から送る』これだけは、絶対にするんだと、決めていました。
その想いは母も姉も同じでした。
ただ、父の身体を綺麗に保つために、父が眠る部屋は暖房がつけられない為、余りの寒さに長い時間父の部屋にいることは出来ませんでした。
出来る限り、父のそばで過ごすようにしていましたが、特に私は元々体調が悪かったので無理ができませんでした。
その点では、少し父に淋しい思いをさせてしまったかもしれません。
そんななかでも、母はその寒い部屋で出棺まで毎晩いつものように父の隣に布団を敷いて寝ていました。
出棺の前日に、私は父のそばで、生命保険会社や社会保険事務所へ電話しました。
父が自分の葬式代にとかけていた生命保険と、遺族年金の受け取りの手続きを早く始めるためです。
父が一番心配していたであろう、父亡き後の母の生活を早く安定させるために、あえて父の前で行動を始めました。
父に、自分の行動をみてもらうために。
出棺の前日の夜は、父が眠る部屋で、母・姉・私の3人でしゃぶしゃぶを食べました。
今にも、ベッドから父の声がしそうな雰囲気でした。
はたから見たら不謹慎な行動かもしれませんが、最期の夜を、いつものように過ごせるのも、いいな・・・そう思いました。
出棺前の、湯灌の儀も納棺の儀も、通夜や告別式がないので、時間に追われることなく、ゆっくりと出来ました。
父は、亡くなってから出棺まで3日間ありましたが、肌がきれいでした。
湯灌の儀は、「服は訪問看護師さんが『釣りに行くときの服』を着せてくださったので、そのままでいいので顔を整えるだけにしてほしい」と、依頼したのですが、髭剃りと保湿だけで充分でした。化粧をする必要がないほど、それほど綺麗な肌のままでした。
父が息を引き取ってから、何度泣いたかわかりません。
ベッドの上の、ドライアイスの重さから解放された父の身体は冷たく固かった。
その脚をさすり、ドライアイスのかけらをタオルで必死にふき取りながら、声をあげて泣きました。
もうこれで最期なんだと・・・。
いつか、親は自分より先に逝く。
そんなことはわかっていたつもりだった。
けれど、
その現実を、つきつけられて、哀しんでいる自分がいる。
そして、自分にとっての父がどれほど『大きな存在』だったのか、思い知らされた。
昨年、父と衝突を繰り返して、話し合いの末、家を出た。
その後も、私の気持ちをわかってくれないと、実家から、そして父からも、距離を置いた。
今年の初めに実家に来た時に母から聴いた体調を崩した父の様子と、視界に入った父の顔。
そこから、もう一度キーパーソンとして奔走しつづけた。
毎晩姉と連絡をとり、父の事で相談しあった。
会社と掛け合い、土曜日に出勤し代わりに平日に休ませてもらうことで、姉と休みが被らないようにして、両親を少しでも安心できるようにした。
父のがんの再発がわかってから、父に対して、今の自分ができる精一杯のことをしてきた。
だから、父のことでは後悔はない。
あの時のケンカも後悔していない。
なぜなら、あの時に、自分の気持ちをはっきり父にぶつけたからこそ、わだかまりを持つことなく、最期の大事な時間を父のもとで過ごすことができたから。
でも・・・。
やはり、父は私にとって、辛い時や苦しい時に必ず助けてくれた『唯一の頼れる存在』だった。
我が家の大きな大黒柱だったのだ。
その、大きな『よりどころ』を失ったことで、これからは、本当に、自分自身の足で、自分自身の力だけで、生きていかなければならないのだと、思い知らされた。
荼毘に付される前の最期の別れの時に、穏やかな表情の父に誓った。
『お母さんのことは、ちゃんとやるからね』
そう呟いたら、涙があふれた。
父の棺が、扉の奥に移動されて、重い扉が閉められた時に、私は立っていることができず、柱に身体を預けて声をあげて泣いた。
収納の時の父の骨は少なかった。
155センチと男性としては小柄だったし、高齢でもあるから、それが普通なのかもしれないが本当に少なくて、驚いた。
そして、骨が黒くなっている部分がいくつもあり、かなり崩れていた。
それは、父が、『がん』という病気と、正面から闘い続けた証拠。
私は、そう感じた。
自分が知りたいと望んていたこととはいえ、『余命の告知』を受けて苦しんでいたときも、私達家族にいらだちをぶつけることは絶対にしなかった父。
弱音を吐くことはあっても、私達に感情をぶつけたり、八つ当たりすることは絶対にしなかった父。
自分が苦しくて痛くて辛いのに、私の身体を心配していた父。
亡くなる4日前までポータブルトイレを使い続けた父。
父と話す最期の機会と思って、自分の病院受診をせずに父のもとへ行ったとき、父を呼ぶ私の顔を見て安堵したように、痛みをこらえながら微笑んでうなずいてくれた父。
しかし、その時には、父はもう声を出すことができなくなっていた。
それでも、『いつもの父』だった。
幻覚・幻聴・せん妄が酷くなっていく中でも、不穏になることがなかった父。
判断力が落ちていく中でも、父の思考が比較的はっきりしているときを狙って、姉と私は何かをするとき、何かを変更するときは、必ず父の意思を確認した。それが、『すでに私が決めたこと』であっても、必ず最終判断は父にゆだねた。
『自分の人生だから、最期まで自分で決めたい』
それも、父の希望だったから。
最期の時、下顎の呼吸に変わったことに気がついた私は、母と姉に、呼吸が変わったから、あと少しで呼吸が止まることを伝えた。
3人で父のそばにいて、3人で自然と父の腕をさすっていた。
私は、なんと声をかければいいかわからず、ただ、いつものように『お父さん』と、繰り返し呼び続けた。
父がこと切れる寸前に、父の口が動いたが、読み取ることができなかった。
もしかしたら、生理的な動きだったのかもしれないが、もしかしたら、何かを伝えたかったのかもしれない。
末期がんの人は、耳は最期まで聞こえていると聴いたことがあるから。
でも、私には、読み取ることは出来なかった。
そして、静かに、父は永遠の眠りについた。
最期の最期まで、『強い父』だった・・・本当にそう思う。
慶弔休暇が終わり、アパートへ戻った私は、『お父さん!』と、叫びながら泣いた。
母の前では叫べなかったので、ずっと堪えていた。
もう、父の返事がない事はわかっていた。
でも、『お父さん』と泣きながら、繰り返し呼び続けた。
今、実家でこのブログを書いています。
しばらくは、週末は実家で過ごすことにしました。
母の緊張が切れた時が心配なので。
両親の部屋に、白い壺におさまってしまった父がいます。
その横に、どこかの釣り場で撮った『へら鮒を手にして嬉しそうに笑っている父』の写真があります。
本当に楽しそうな笑顔です。
心底『釣りバカ』だったんだな・・・つくづく思いました。
緩和ケア病棟で看護師をしている悪友は、
『哀しいなら、哀しいままでいいんだよ。無理に元気になろうとする必要はない。『大切なひとを失った哀しみ』は、簡単には癒せない。立ち直るまでに何年もかかる人だっている。だから哀しいなら、哀しいままでいいんだよ。後は時間に任せればいい。』
そう言ってくれた。
父を彼岸に送ってようやく気がついたことがある。
『お父さん、私は、あなたの娘で、本当に幸せです』と。
元気な時に、伝えてあげられればよかった・・・とは、思う。
でも、本当に、いなくなって、ようやく気がついたことだった。
父に伝えることは出来なかったけれど、父の娘でよかったと思える私は、幸せだと・・・心から思っています。
お父さん・・・本当に、今までありがとう。
そして、本当にお疲れ様でした。