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ただ今、人生の仕切り直し中のケアマネ
プロフィール
HN:
かたつむり
性別:
女性
自己紹介:
心と身体を壊し、まだ人生の仕切り直し中のケアマネ。

保有資格:社会福祉士・介護福祉士・介護支援専門員。ついでに日商簿記2級・全商簿記1級
(Twitter@renrinoeda2)
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後輩に仕事を『指導』するということ

注意:今日はかなりの辛口です。非難と苦情は受け付けません。
   そして、自分の発言を撤回する意思はありません。
   なぜなら、自分が間違ったことは言っていないと確信しているからです。
   このことを踏まえた上でお読み下さい。


今、私は、仕事を辞めてから、日々の体調をみながら、もう一度ケアマネ業務の基礎の基礎から勉強をやり直している。

 

食事も取れないくらいの状態だったから、本格的に勉強を始められたのは、この2週間くらいからだ。

それでも、出来ないときもある。

 

 

ターミナルの父の諸対応と介護で、肝心なときに情報収集ができなかった『30年度法改正』の内容の確認も、今ようやく出来る状況になった。

そして、こんな本からもう一度勉強を始めている。





これが、ケアマネとしての今の私の状態だ。

 

 

私は、2年半もケアマネとして仕事をしてきたが、現状は、実務の基本の基本すら身についていなかった。


そのことに気がついたのは、父のケアマネさんとの出会いだった。

職場ではなく、ターミナルの父の介護を通して気がついたのだ。


彼女の仕事をみていて、『自分のやり方は間違っているのでないか?』と、本当にはじめて思った。


ケアマネ一人一人やり方は違うし、ご利用者様とご家族にあわせて柔軟に対応しなければならないので、いろんなパターンは当然ある。


だが、根底となる基盤はひとつ。


そこが出来ていない自分がいることは、気がついてはいた。


なぜなら、ずっと手探りでやっていたから。


これまでの私のケアマネとしての武器は、紆余曲折な自分の人生経験だった。


ケアマネとして本来持つべき知識は、身についていなかった自覚は自分でもあった。


でも、仕事を辞めるまでの約2年間は、自分は自己研鑽をしている時間が本当に無かった。

寝る時間も削り、休日に『休む』ことも出来なかったから。

 

その理由は、今まで私のブログを読んで下さっている方であれば、ご理解いただけるかと思っています。

 

私は、砂地に家を建てているような状態で、今までケアマネの仕事をしていたのだ。



 

ケアマネとしてのしっかりとした基盤を『自分のなか』につくりたくても、ケアマネ2年目になったばかりで頸椎ヘルニアを発病した。

まともに風呂は入れない、シャワーで頭を洗こともできないほどの激痛に常に襲われている日々。

あまりの激痛で仰臥位もとれず、左側臥位でしか臥床が出来ない状態で、まともに寝ることさえできない状態だった


それでも、とにかく仕事をすることで精一杯だった。

 

その状態の私に、さらに父のがんの再発という『辛いこと』が重なった。


身体の痛みが治まらない自分の身体を、仕事で酷使しながら、更にキーパーソンとして父の対応に追われる日々。


父の予後の方針が決まるまでの4ヶ月の間、両親では医師の説明が理解できないため、私は毎週父の病院の付き添いをしなければならなかった。

そのため、その時期は、ほぼ毎週土曜日に振替出勤をしないと仕事が終わらない状態だった。


職場でも、家庭でも、私の代わりはいなかったから、自分の身体を酷使するしかない状況だった。


毎日身体が悲鳴を上げ続けていた状態では、自己研鑽の勉強をするとか、研修を受けにいくとか、そんな状況ではなかった。そんな余力はまったくなかった。

 

それでも、自己研鑽の研修に行かない事を前職場の社長や管理者に何度も非難された。


非難されたとき、逆に『あのときの私』に、自己研鑽にいける術があったのなら教えて欲しいくらいだった。

だが、そんな反論が出来る余力さえ私には無かった。


普通に寝ることも出来ずに、ベッドにありったけの毛布と布団を重ねて座位で短い時間で睡眠にしないと、次の日の朝、動けない身体になっていた私に。

そして、食事もまともに受け付けなくなっていた私に。

父の残された時間に対しての、家族としての責務を独りで背負っていた私に。

どうすれば、身体が悲鳴を上げている状態で、仕事をしながら、父のキーパーソンとして奔走しながら、やっとの思いで立っていた私に、自己研鑽の研修に行けと、なぜ平気でいえるのか?
逆に私は、社長と管理者の思考が、どうしても理解できなかった。
 

 

このような経験もあり、いろんなところからの情報も踏まえた上で、私はこう思っている。

『ケアマネ業界を含め、介護業界は、新人や後輩に仕事を教えるのは、はっきり言って下手だ』

そう、私は言い切れる。


大体の先輩ケアマネは『私達は、自分で調べて仕事を覚えてきた。だから、あなたも自分で調べて仕事を覚えなさい』という。

確かに、『自身で調べること』自体はとてもは大事だ、異論は無い。

だが、その調べ方が間違っていたら、どうなるだろうか?

私は、それで、何度も失敗した。

解釈間違いをして失敗したこともあった。

 

そのときは、会社として責任の所在をどうするのだろうか。

仕事を教えてもらえず、自分なりに悪戦苦闘しながら調べて、その結果、間違えた、元新人ケアマネが『悪い』というかたちで終わるのだ。

指導している人が誰もいないから、『指導した者として責任の負う』先輩ケアマネがいないのだ。
誰かが、しっかりと指導しなければ、新人は、大事なところで大きな間違いをする。
それが、結果的には、会社の存続の危機にも繋がりかねない。
その責任を、会社は、その元新人ケアマネ独りに負わせて、『トカゲのしっぽ切り』をすることで、危険を回避するのだ、『全てあなたが悪い』と言って。

 

私は、同僚達が既にその知識を持っていたのに、教えてくれなかったこともあった。

質問しても『私では解らない』という返事が何度も返ってきた事も少なくなかった。

きちんと教えてくれたことも確かにあった、しかし、頻度としては少なかった。

ちなみに、みなさん主任ケアマネである。

主任ケアマネの責務のひとつには、後進の指導もあったはずだ。

たとえなくても、先輩や上司が後輩や部下に仕事を教えるのは、世間では『当たり前』のことだ。


 

私は、いろんな職種で、沢山の後輩を育ててきた。


本当に『本気で後輩に仕事の指導』をしているときは、自分の仕事が2倍になる。

そして、一般企業で働いていたときは、私は自分の仕事は後まわしになることもあった。

それだけ、『後輩を育てると言うことは、それほど大変で大きな仕事』だった。


なぜなら、その『社員としての後輩の今後』を、そして何より『これからの会社を大きく左右する大事な仕事』だからだ。


後輩が仕事を覚えられないと、教えた側にも怒られるのが一般企業では普通にある。

『お前の教え方も悪いんだ。指導の仕方をもう一度考えろ』と。

営業部門での後輩の指導は、指導する側も上司にかなり厳しく怒られた。
なぜなら、会社の営業部門は、会社の利益に直結する部門だからだ。

そんな企業で、私は社会人としてスタートしたので、『後輩を育てるという仕事の重要さ』は骨身にしみている。

 

 

でも、介護業界では、仕事を教えるという概念すら無いように私は思った。

はっきりいって、私は、私の価値観に当てはめると『介護業界で、まともに仕事を教えてもらえたことが無い』と、言い切れる。


仕事での『指導』というのは、口頭で言うだけのものではない。

後輩や部下の仕事のチェックをして、具体的な助言とサポートをして始めて『指導』というのだ。


でも、今の私は、基礎からやり直している。

主任ケアマネが複数いた職場に在籍していたにもかかわらずだ。

少なくとも会社が『本当に指導をしていた』なら、ここまでの基礎から自分で勉強をし直すことはしないで済んだはずだ。

 

これが、ケアマネ業界の現状。

ケアマネ業界は、後進の指導が出来ないのだ。

 

 


『先輩ケアマネが後輩に仕事を教えないのは、同僚ではなく『ライバル』だから。『ライバル』には自分の手の内は見せない。もし、それを後輩に教えたら、自分の武器がなくなる。そして、利用者を後輩に取られてしまう。だから、先輩ケアマネは、肝心なことは教えないのだ、『ライバル』を減らすために』

 


こんな文章を目にしたことがある。

そのときに、妙に納得している自分がいた。

 



職能団体が、専門職としての底上げをしようと頑張っているようだ。

しかし、現場では、後輩を育てるどころか、『潰している』のが現状だ。

 

はっきり言い切れる。

他の人が私の立場だったら、もう、とっくに潰れている。

 

私は、ケアマネの仕事に就けるようになるまでに、他の人より乗り越えなければならない『壁』が、あまりにも多すぎた。

父は、病気と闘いながら、それでも、私が『今の状況になること』を恐れていた。


だから、私はどうにか踏ん張れた。

悪友達にも助けられた。


なにより、このままでは父に申し訳ないと思った。

 


今、私は、本当に貪欲にケアマネとしての自己研鑽の為に勉強がしたい。


一番、ケアマネとしての基盤をつくるのに適した時期に、自分の病気と父の病気で、その機会をつくることができなかった。

そして、『本当の意味』で、そのときに助けてくれる人は、業界にはいなかった。


ケアマネとしての基盤をつくれなかった2年間の遅れを取り戻したい。


まだ、体調が戻りきらない、まだ思うように動ききれない身体だが、その日の体調と相談しながら、基礎からやり直している。


『運営基準の13条』の『意味』も、今なら読んで理解することも出来る。

『介護サービス計画書の様式及び課題分析標準項目の提示』の内容も今なら読んで理解できる。


過去の私には『独りで読んで理解する』のは無理だった。


少なくとも、これらを今読んで理解できるようになったということは、ケアマネとして、その分だけは成長は出来たのだろう。

だから、過去に解らなかったことも、今なら解ることも多いかもしれない。

確認するためには、どこから情報を引っ張ってくれば良いのかも、ようやく解ってきた。

今までの失敗に対して、今後どうすれば良いのか、その答えを今つかみかけているところだ。


3年弱、独りで苦しんだ結果、ここまでようやくたどり着いた。

だから、今までの遅れを少しでも取り戻せるように、全力を尽くしたい。

 

でも、私のような苦労を、これからケアマネの仕事に就く新人さんには、して欲しくないと、願っている。

 

本当に、後輩ケアマネさんには、こんな苦労はして欲しくない・・・。

 

心から、そう願っている。

 

 


私は、初めて『本気で主任ケアマネになりたい』と、思っている。

主任ケアマネなって、やりたいことを見つけたからだ。

それは、スーパービジョン以前に、『後輩ケアマネ』を育てたい。
自分が持っているもの全てを、後輩ケアマネに教えて伝えられるようになりたい。
自分と同じような苦しい思いをする新人ケアマネさんをつくりたくないから。
そして、新人ケアマネさんに、理不尽なことで潰れて欲しくないから。

その為にも、ケアマネとして、そしてその前に一人の人間として、もう立派なオバサンだけど、これからもしっかりと自分自身も成長したいと、今、思っている。




前職場の事をかいたので、前職場への非難ととる人もいるでしょう。

ただ私としては『自分の経験をありのままに書いただけ』です。

このことで、私を非難される方は、私を非難する前に、『ご自身がしっかりと責任を持って後輩を育てている』と言い切れるのか、『しっかりとご自身を顧みて』から、その上で私を非難して下さい。

この文章で、私を非難される方は『しっかりと責任を持って後輩を育てた経験が無い方』だろうと、私は推測しています。






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もう一度『スタートライン』に立つ

ご無沙汰しています。

 

このひと月は、体調の好調と不調が交互に押し寄せて、自分の体調のコントロールに悪戦苦闘しておりました。

 


就職活動をはじめる時期については、5月中旬から主治医は『6月から始めていい』と、言っていました。

主治医の見解としては、次のように言っていました。

 

『あなたが身体を壊した一番の原因は『今まで働いていた会社』にある。その会社を辞めれば一番の原因が取り除かれる。だから、あとは回復していくだけだ』と。

 

しかし、昨年の11月頃から、毎朝起きると頭がクラクラして動けなくなるので、その症状を少しでも抑えるために、寝るときに臥床出来ず、布団を重ねて座位の姿勢で、半年近く睡眠を取っていました。しかも毎日34時間だけです。

 

また、食事も受け付けなくなり、3月頃からは固形物をほとんど食べることが出来ず、5月末までほとんど水分で生きていました。

 

これでは、体力も筋力も落ちています。そして身体を壊した状態で、とても6月から就職活動が出来るとは思えませんでした。

 

そのことを主治医に話したら、このような助言が返ってきました。

 

『動かないと、体力は戻らない。それに、家にいるとマイナス思考になってしまうから、それも良くない。だからこそ、(主治医としては)仕事をして欲しいんです。とにかく外へ出て、身体を動かして下さい。そうしなければ体力は戻りません。今回に限っては薬の力を借りてでも、とにかく動いて外に出て活動量を増やして下さい。今処方している頓服薬は、今までの薬より強く、依存性も強いです。それでも今は(依存性の高い)その薬を飲んででも、外に出て動いて欲しい。ですから、これらの薬は『ここぞ!!』と言うときに飲んで下さい。今だけは、薬の力を借りて下さい!』

 

というわけで、下記の3つの薬が処方されました。

○睡眠薬:ブロチゾラムOD .25mg(就前薬:鬱病時代に飲んでいた睡眠薬です)

○精神安定剤頓用:リスペリドン0.5mg

(フラッシュバック時・不安時・頭のクラクラが酷いとき)

  ※これが処方されたときは正直ショックでしたが、この薬に何度も助けられました。

    なお、フラッシュバックは既に出なくなっています。

○意欲低下・身体が動かないときの頓用:コンサータ18mg

(発達障害がある人が服用することが多いようです)  

  ※必要時は朝服薬。遅くとも午前中には服薬。

午後に服用すると夜眠れなくなるそうです。

連日の服薬を続けてはいけないとのこと。(説明書が見当たらないっ

 

と、臨時で、体調・精神状態・生活そのものが落ち着くまでは、この薬の力も借りることになりました。

 

ちなみに・・・

 

『コンサータ18mg』は2回しか服薬していません。

私自身が外へ出る気が、比較的早く持てました。しかし、身体が動かないときに、この薬の力を借りて出かけたことが2回あるのですが、反動が後日に出たのか、余計に動けなくなりました。

先生に報告したら『薬との関係性はないだろう』とは言っていましたが、その後は服薬していません。

本当に、『心も身体が辛いけど、どうしても外出しなければならない』ときだけ、頼ろうと思っています。

 

『リスペリドン0.5mg』は、初めはフラッシュバック・不安時に服薬していましたが、今は、フラッシュバックもなくなり、比較的精神的には安定してきました。

現時点では、梅雨の影響か頭のクラクラがまた出るようになったので、いつもの精神安定剤を飲んでも無理なときに服薬しています。

 

『ブロチゾラムOD .25mg』は、毎日寝る前に服薬しいてます。この薬も依存性があるとのことなので、一度半錠にして数日様子をみたのですが、眠りが浅く頭の芯から眠れていない感じなので、一錠に戻しています。

先生のお話だと、『発達障害の方は、睡眠をきちんと取らないと、不注意や衝動性といった症状は悪化しますので、~中略~睡眠時間はしっかり確保することをお勧めします。』とのことでした。つまり私は3年間睡眠時間を削っていたので、発達障害持ちとしては、一番いけないことをしていたわけです。

 

こんな風に、薬の力を借りながら、自分の活動量を増やしていきました。

 


しかし、目的も意味もなく外出するのは、交通費のお金がもったいないと思いました。

 

そのため、手っ取り早く、今は休会している音楽教室のレッスン室をレンタルして、フルートやサックスをリハビリを兼ねて吹くことで、体力をつけるようにしています。

楽器を吹くのは体力が要りますし、私の楽器はフルートもサックスも重量のある楽器なので簡単に音は鳴りません。

ですから、自分の楽器を吹くことで、自分の体力がどのくらい戻っているかの判断材料になります。

それに、好きな楽器が吹ければ一石二鳥です。

 

後は、父の形見で譲り受けた『電動付き自転車』でどこまで行けるかを試しています。これも、自分の体力の戻り具合がわかりやすい方法です。

ケアマネとして、今まで一日中自転車移動していましたので、仕事をしていたときの自分と、今の自分を比較すれば、どこまで体力が戻っているかを確認するのに、わかりやすい方法です。

 


食事も、食べられるようになっても、初めはお粥だけでした。

しかし、それでは栄養がつかない。

でも、本当に消化の良い物で固形物でないものでないと胃が受け付けつけなったので、おかずは介護食のレトルトを食べています。

今、一般食で、胃に負担のかからないような調理をしているレトルト食品に切り替えをしているところですが、なかなか上手く切り替えができません。

お粥ではなく普通の白米を食べられるようにもなってきたのですが、少し調子がおかしくなると、また食事を受け付けなくなってしまいます。

 


どうして、こんなに身体の戻りが遅いのか、自分でも解らなかったのですが、先日、実家で体重を量ったら更に体重が落ちていて、『トータルで10kg落ちてしまっていました』。

もともと太っている方なので、痩せた方がいいのでしょうが、この痩せ方は、身体を壊した結果の、身体に一番悪い痩せ方なので、必要な筋肉も筋力を落ちているはずです。

これでは、今までと同じ感覚で動いていたら、身体に無理が来ます。

 


元の身体に戻すのではなく、今の自分の身体・体力に合った、日常生活の送り方、そして、仕事の仕方を考えないといけないな・・・と、考え方を切り替えました。

 

まだ、その方法は掴んでいませんが、とりあえず、無理に常食に戻すのは今はやめることにしました。

介護用のレトルト食品でもいいから、必要な栄養を取ることを優先にすることにしました。

 

この発想は、亡き父が60歳手前で胃がんの手術を受け、静養期間を経て仕事に復帰したときに、お弁当にお粥を入れていたことを思い出したことから、考えたことです。

職人だった父の仕事はとても重労働で、40Kgくらいの物を何度も運ぶこともあったそうです。

病み上がりの身体でお粥のお弁当を持って仕事をしていた父の事を思いだし、『常食が食べられなくても仕事は出来る!』と、考え方を変えることが出来ました。

 




上記のような前向きな発想が出きるようになる前・・・。



5
月の頃は、ほとんど家に籠もり、近所のスーパーやドラックストアへ行く以外は、家の中で寝ていることも多かったです。


裏切られた・見捨てられたという感情と、『強い人間不信』に落ちてしまっていました。


もう何もかも嫌になって、自暴自棄になり『もうどうなってもいい!!』と投げやりな感情になっていたときに、『父』の顔が突然、脳裏に浮かびました。

 



『今の私を父はどう思っているだろう・・・。』

 



他にも原因はある。むしろ、そっちのほうの原因のほうが大きい。


けれど、少なくとも父は、『俺がガンになったせいで、娘が心も身体を壊し、職を失い、生活基盤が崩れてしまった・・・俺はどうしたらいいんだ?!』そう思っているかもしれない。

 



『このままでは、父は、彼岸へはいけない。父が成仏できない』


私は、そう思いました。

 


自分の為だけでなく、父の為にもこのままではいけない。


『あの父の過酷なターミナルを介護して、看取った娘である私が、ケアマネとしてやるべきことがあるはず。』

『少なくとも父の終末期の介護とキーパーソンをしたケアマネだから、もしかしたら、今までよりも、ご利用者様とご家族の想いに近づけるかもしれない。』

『家族の在宅介護の過酷さは経験した者でないと解らない。少なくとも私はそれを経験したケアマネだ。』

 


- 父が最期に私に見せてくれたことを、無駄にしてはいけない!! -

 


そう思ったときに、



『ケアマネとして、もう一度這い上がってやる!!』



そう決心しました。

 



その夜から身体も動くようになり、フラッシュバックも全く起きなくなりました。

 

『父が、助けてくれたんだ』と、私は、素直に思いました。

 





実は、既に、就職活動は始めています。

採用面接の予定も既に入っています。

前会社からまだ離職票が届いていませんが、ハローワークに事情を説明して相談し、正規の手続きをとり、仮ではありますが、失業保険の給付手続きを済ませました。

 


ケアマネージャーとして就職活動をしますので、『ある人達』から、嫌がらせを受ける可能性があると考えています。


それが解ったときには、それなりの事をするつもりです。その方法は既に考えております。

自分から事を荒立てるつもりはありませんが、『向こうから『何か』をしてきたら』、話は別です。

 

 



何度も崖に突き落とされて、そのたびに這い上がってきました。

だから、今回も同じ事をするだけです。


もう若くはないけれど、生きていれば、やり直そうと思えば何度でも出来る。

どうせ、挫折だらけの半生です。今更ひとつやふたつ増えたところで、かわりはありません。

そうやって、繰り返し這い上がってきた経験が、そして、自分が経験した全ての事が、自身の『ケアマネージャーとしての糧』にもなるのです。

 



仕事が決まるまで、どれほどの時間がかかるか解りませんが、最善を尽くして、現場に戻れるように頑張ります。






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必ず這い上がってやるっ!!

    ご無沙汰しております。

  私は、会社を辞めることになりました。
  『ドクターストップ』がかかり、休養が必要との診断書が出ました。
  その結果、休職ではなく会社を辞めることになりました。
  はっきりいって、円満退職ではなく、悪いかたちになりました。

  でも、これで、夜中に自宅で仕事をすることも、
  土日などの休みに自宅で仕事をすることもなくなります。

  そう思えば、『ようやく地獄から解放された』と、思いました。
  やっと、普通の生活に戻ることが出来る・・・そう思いました。
     
     2018.5.5 投稿 『ドクターストップ、そして・・』より抜粋。



父のターミナルは壮絶だった。階段をころげ落ちるように弱っていく父を見るのは辛かった。
ケアマネとしての仕事をしながら、父のキーパーソンと介護をすることは、とても苦しかった。
仕事と父の事で、自分の時間なくなっていった、そして、無理を重ねた身体は完全に壊れた。


私自身の身体が壊れた状態のまま、父は終末期にはいった。
父のキーパーソンとして、全ての判断と責任を私が背負った。
なぜなら、母と姉にはそれが出来ないから、私がやるしかなかった。

元々体力がある父でさえ、階段を転げ落ちるように病状が悪化していった。
全ての判断と対応が、時間との勝負の連続だった。
その現実に、自分の感情と思考が追いつけない、そんな私がいた。
でも、私は取り乱したら、母も姉も動揺してしまう。
そして、何より父が苦しくなる。
父に残された時間を、父も家族も大切に過ごすことが出来なくなる。
だから、辛くても、必死に『はったり』をかまして、『いつもの自分』を無理矢理つくっていた。
でも、本当に苦しかった。

そんな精神状態のまま、私はケアマネとしての仕事を続けていた。

緊急でケアマネが対応する可能性が高い『家族の介護力のない』ご利用者様は、社長に申し出て担当を降ろさせてもらった。
癌終末期の父のキーパーソンと介護をしている自分では、責任を持って担当できないことがわかっていたから。

消えかかった父の命の灯を見つめながら、その月のモニタリング訪問を必死で早く終わらせようと、スケジュールを組んだ。
父と一緒に過ごせる最期の時間を、少しでも長くつくるために。
モニタリング訪問とサービス担当者会議をある程度終わらせて、『やっと、明日から、実家で父の介護に集中出来る』そう思った日の夕方に、父は危篤になり、翌朝、家族で最期を看取った。

一日でも早く、『父の側で最期まで過ごせるように時間をつくろう』と、必死に仕事をしたが、結果的に間に合わなかった。

休日は、父の側で過ごした。
でも、仕事があるから毎日に父のところへ顔を出すことは。どうしてもできなかった。

主治医より、余命2週間と告げられた時、1日でもいいから休みを取ることも考えたが・・・会社に申し出ることは出来なかった。色々な意味で、お願いできる状況ではなかった。

『これが父と話が出来る最期の機会』と、わかっていた週末の日曜日。
父の元へ行った私をみて、父は安堵したように微笑んでくれた・・・でも、もう声が出なかった。
父の声を永遠に聴くことはもう出来ない・・・その現実に愕然とした。
でも、愕然とした自分を隠して、いつもの通りに必死に振る舞った。
そして、その翌日に父は危篤になり、次の日の朝に息を引き取った。

最期の
数日は、父は毎日何度も母に言っていたそうだ。
「かたつむりは、いつくるんだ?」と。
母は、「仕事だから今度日曜日まで来れないんだよ」と答えていたそだ。
その母の言葉に父は
『そうか、仕事じゃ仕方ないな』と、毎回言っていたそうだ。
父は私を待っていたのだ。
多分、私に直接言いたかったこともあったのかもしれない、そう思うと、父に申し訳ない事をしてしまった。
今でも、そう思っている。


けれど
父の最期を家族で自宅で看取り、最期の穏やかな父の笑顔をみて、
『苦しかったけど、全力で父の闘病を支えてきて良かった』
そう思った。


父を送った後も、私は、今も『辛いこと』が沢山続いている。

父の闘病を支え、キーパーソンと介護を必死にやっってきたつもりだ。
けれどその結果、私は、『健康・仕事等・・・多くのものを失った。』
苦しくて・辛くて・哀しいことばかりが毎日続いている。
正直、ケアマネを辞めようと何度も思った。
生きていることも辛く思うことも数え切れないほどあった。
『今、父がいてくれたら』と・・・数え切れないほど思った。
唯一縋れる存在だった父は、もういない。
それでも父に縋りたくて、体調が悪いのに無理をして、片道2時間はかかる、父の墓前まで行った。
そして、雨の中、私は父の墓前で大声で泣きつづけた。

昨日も辛いことが続き、今日は一日寝込んだ。

でも突然
『父と共に癌と闘い続けた日々の苦しさを経験しているからこそ、その経験を知っているケアマネージャーである自分だからこそ、出来ることがあるはずだ』
ふとそんなことを思った。

今はいろんな事で苦しいけれど、その全てから絶対に逃げてはいけない。
私は『家族の立場で介護の壮絶さを経験したケアマネ』。
だからこそ、自分がやるべき何かが、必ずあるはずだ。
そう思った。
父もそれを願っているかもしれない。

だから、『このどん底から必ず這い上がってみせる!』
そう、改めて決心しました。

負けてなるものか!!
絶対に打ち勝って見せてやる!!
そう思っている。


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私が『在宅での看取り』にこだわった理由

癌を再発し、治療方法が事実上ないことを知った父は、私達家族にこう言った。

『俺は、最期は病院でいい、お母さんが大変だから』

それは、裏を返せば、

『本当は、最期まで家にいたいけど、お母さんが大変だから、俺は病院でいいよ』

私はそう受けとめた。


父は、超ワガママ頑固ジジイだが、父個人の希望を言ったのを、私は聴いたことは一度もなかった。

父が、毎週日曜日に、雨が降ろうが雪が降ろうが釣りに行って家にいないことを不満に思ったことは一度もなかった。
毎日仕事しているんだから、日曜日くらいは父だって好きなことをしていいと、こどもの頃から思っていた。
母に『お父さんが働いてくれるから、あんたたちはご飯も食べられるし、学校で必要な物も洋服も買える。だから、休みの日はお父さんが好きなことをしてもいいでしょう』
そう言われて、子どもながらそうだと思ったから、父の釣りバカを不満に思ったことはなかった。呆れたことは数え切れないけれど。

でも、それ以外は、なんだかんだと、姉と私を、そして母の事を優先にして、自分の事は二の次だった。


その父に、残された時間がないとわかったときに、私はその場で決めた。

『父を自宅で看取る』
『父を癌の痛みで苦しませてなるものか』と。

父の癌の治療方法がないと言われたとき、私はケアマネとして38件担当していた。
父のキーパーソンに徹する為に、社長に申し出て、最終的には担当を28件にまで減らした。

父は私が担当件数を減らすことは望んでいなかった。

『俺のために、担当件数を減らすことは絶対にするな。お前の給料が下がる。お前にそこまで迷惑を俺はかけたくない』

父は本気で言っていた。父として娘にそこまで負担をかけるのは嫌だったのだろう。

だから、担当件数を28件にまで減らしたことは、父が危篤になるまで母にさえ言わなかった。

父の癌の痛みを最小限にして、最期まで父らしく過ごせる環境を整えることに必死に動き続けた。
そして、家族3人で父を自宅で看取り、自宅から父を送った。


私は、父のガンの再発がわかった時点で既に自分の身体が悲鳴を上げていた状態だった。しかも仕事で追い詰められていた状態でもあった。
それでも、ここまで無理をしてでも、父の在宅での看取りこだわったのには理由がある。


父は言葉にしなかったが『最期まで家にいたい』と思っているのがわかったかから。

ここに至ってまで、自分の希望を言わない父の『最期の望み』を叶えたいと思った。


父は、決して私にとって良い面だけの父ではなかった。
私は両親から褒めてもらった記憶がない。
『お前になど出来るわけがない』
子どもの頃の両親からこう言われて続けて、何かにチャレンジする機会も与えてもらえずに大人になった。
だから、私は子ども時代10代での成功体験が全くない。
『お前になど出来るわけがない』という言葉は、大人になっても言われ続けた。
その言葉は、フルタイムで働きながら、家に生活費を同じ額を入れ続けながら、通信教育課程の大学を卒業するまで言われ続けた。
両親も、卒業が難しいと言われている、通信教育課程での大学を働きながら卒業した、しかも生活費もきちんと入れた娘に対して、さすがにもう、『お前に出来るわけがない』とは言えなくなったのだろう。
それからは、その言葉は言われなくなった。


大学を卒業し、介護業界に入った私は、その2年後のうつ病になった。

自分で『これはうつ病かもしれない』そう思い、両親に黙って精神科を受診し、そしてうつ病の診断がでた。
今よりも、うつ病に対しての偏見が強かったので、両親がどのように思うかが不安だったが、黙っているわけにもいかなかっので、思い切って両親に話した。

そのときの父の言葉は『そうか、わかった』のひと言だけだった。

私は、うつ病の悪化で2回仕事を退職し、自宅で1年ほど静養していたときがある。
そのときは、父が『病気なんだから生活費は今は入れなくていい。貯金はお前自身の為に使え。ただ、仕事が出来るようになったら、そのときはちゃん家に金は入れろよ』と言って、私を食べさせてくれた。

私が、仕事をしないといけないと焦ったときも、まだ早いと私を止めたのも父だった。
『焦って、仕事をするな、もう少し休め。親元にいるんだから、お前を食わせるくらいは俺だってどうにか出来る。だから、もう少ししっかり休め。』
そういってくれた。

私が、仕事で食事介助中にご利用者様が誤嚥で窒息をしてしまい、亡くなってしまったときに、職場や同僚から『人殺し扱い』されて苦しんでいたとき(詳細は当ブログの別ページ『地獄から這い上がって』をごらん下さい)、父は私にこう言った。
『年寄りはいつか死ぬ。こういう死に方(誤嚥や窒息)だって当然ありえる。そのことで、お前を責めるような施設など辞めてしまえ!!』
そう言ってくれた。
その、父の言葉に背中を押されて、施設を辞めた。
しかし、救急車の音を聞くたびに、私はフラッシュバックを起こしていた。精神的におかしくなっていた。
『いつまでもそんな風でいたら、亡くなったご利用者さんが『うかばれない』ぞ!!』
父は、そんな私をみて、何度も私にこの言葉を繰り返した。

『このまま、介護の仕事を辞めては、亡くなった方に対して申し訳が立たない。』
『介護の仕事を続けることが、亡くなった方への、自分なりの償い。逃げてはいけない』

そう思い、介護の仕事に戻るまでに1年かかった。

それまで、父は私を見守っていてくれていたのだ。

そうやって、うつ病を抱え、自分なりの償いを抱えながら、介護業界に戻って10ヶ月後に今度は重度の貧血で緊急入院になった。
当時は派遣社員で働いていたので、即契約終了になった。
絶望感を抱えて、病棟から自宅へ報告したら、父がタクシーで病室まで来てくれた。
『また、一からやり直せばいい、お父さんもお前と一緒にやるから、大丈夫だ。』
落ち込む私に、父はそう言ってくれた。
私は、父の前で泣いた。


子どもの頃は経済的に苦しい家だったから、友達と同じ事はしてはもらえなかった。
父は月曜日から土曜日まで一日中仕事だったし、釣りキチガイの父は日曜日は夜明け前には出かけてしまっていたので、ほとんど父と過ごす時間はなかった。
ただ、子どもの頃は、夕食は父と一緒に食べることは出来た。今から思えば幸せなことだと思う。
しかし、それは、裏を返せば、それだけ父の仕事をする業界が景気が悪くなっていたということなのだろう。そのことは高校生になって、母からの話で知った。

父と出かけた思い出は、毎年『子ども日』と『正月』だけだった。
そういえば、一度だけだけど、ハゼ釣りに連れて行ってくれたことがあった。
こどもの日は、当時はデパートの屋上に遊園地のコーナーがあったので、そこで遊ばせてもらい、おもちゃ売り場で欲しいもの1品だけ買ってもらった。
正月は、家族4人で父方の祖母宅(自転車で10分)へ行き、祖母や親戚の人達と過ごした。3日の時に初詣にいき、その帰りになぜかいつも『パチンコ屋』にはいり、家族4人でパチンコをしていた(当時はまだ、はじくかたちで『チューリップ』にいれるパチンコ台だった)。



私は、うつ病が寛解するまでに11年かかった。そのうえで、減薬を1年半かけておこない、抗うつ剤を卒業できたときには、父も母も喜んでくれた。

『これで、やっと両親に安心してもらえる』

そう思った矢先の、父の肺がんの再発だった。

5年前に肺がんの手術をしたあと、執刀医から言われた言葉は『再発したら1年』だった。
父はこのことは知らない。
私はあえて父にはこのことは言わなかった。
母も姉もこの言葉を覚えていなかった。

覚悟はしていたけれど、治療する術がないと知ったとき、ショックを受けながらも私は決めた。

『父を自宅で看取る』
『父を癌の痛みで苦しませてなるものか』と。

ずっと、心配かけっぱなしだったから、最初で最後の親孝行をしよう、そう決めた。
絶対に『お父さんを癌の痛みで苦しませてなるものか!!モルヒネ漬けになど絶対にさせない!!』
そう決心した。

幸い、今の私には、ケアマネとしての情報があり、知識がある。それなりの人脈もある。
その全てをつかって、父の残りの時間を守ってみせる。
父が苦しむくらいなら、いっそ自分が壊れたほうがいい。

そう思って、私が父を安心してお願いできる、ガンの終末期医療に特化した在宅医療ができるクリニックに依頼した。
そして、自宅での介護に限界がきたときの為に、悪友看護師が勤める病院の緩和ケア病棟に登録手続きをした。
ケアマネは悩んだ末に、地元のケアマネさんにお願いすることにした。私は地元のサービス事業所の情報を持っていないので、地元のケアマネさんにお願いした方がいいと判断した。それに、キーパーソンとケアマネの両方を担うのは無理だとわかったから。
ケアマネ探しは、あえてケアマネの人に相談せずに、福祉用具のサービス事業所で信頼している方お二人に相談した。
『ウチの地元でターミナルの支援に長けている、ケアマネ事業所を教えて下さい』と。
二人とも同じ事業所を言ってきた。
教えて下さった福祉用具のサービス事業所のかたのうちの一人の方が、その事業所の管理者の方に私をとりついで下さった。
その方のおかげで、本当にウチの両親に合った、訪問看護ステーションさんを紹介して下さった。
これら全てを、必ず父に提案し相談の上、父の結論や了解に従って私が対応や手続きをした。

父が私に言った言葉。
『余命宣告も知りたい。俺の人生だから、最期まで自分で決めたい。』
その言葉に最期まで私はしたがった。
父の意識が朦朧としていた最期の頃も、既に『私が決めたこと』であっても、比較意識がはっきりしているときに、最終判断は父にゆだねた。
そうしないと、父が意識をもうろうとしながらでも、絶対に怒りだすことは、わかっていたから。



多くかたのお力添えのおかげで、父は、癌の痛みを最小限にすることが出来たし、幻覚・幻聴・せん妄はもちろんあったけれど、それでも最期まで父らしく過ごすことが出来て、自宅から彼岸へ旅立つことが出来た。

私は、今の自分が父に出来ることは、全てやり切った。

本当にそう思っている。

今、私は、心も身体も生活も壊れて、職を失ったけれど、それでも、父の事で無理を重ねたことは後悔していないし、無理してでもやって良かったと、今でも心底思っている。

途中で両親とケンカをして、実家を出た。

それでも、やはり父を見捨てることは出来なかった。

なぜなら、
『心配かけ通した私が、父にしてあげられるのは、これが最初で最期なのだ。だから今の自分が出来ることの全てをやろう。』
両親への憤りよりも、この思いのほうが勝ったから。

そう思ったからこその、この無謀な行動だった。

彼岸から父は、多分私を心配してるだろう。
彼岸にいってまで、父親を心配させるとは、父には申し訳ないと思っている。
情けない娘だと思う。

でも、一回くらいは、『親孝行らしいことをさせてもらいたかった』から、お父さん、申し訳ないけど、大目にみてやって下さい。

ちゃんと、立ち直ってみせるから・・・お父さん、がんばるよ。





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『ドクターストップ』そして・・



ご無沙汰しております。

私は、会社を辞めることになりました。
『ドクターストップ』がかかり、休養が必要との診断書が出ました。
その結果、休職ではなく会社を辞めることになりました。
はっきりいって、円満退職ではなく、悪いかたちになりました。

でも、これで、夜中に自宅で仕事をすることも、土日などの休みに自宅で仕事をすることもなくなります。
そう思えば、『ようやく地獄から解放された』と、思いました。
やっと、普通の生活に戻ることが出来る・・・そう思いました。


私の『心』と『身体』は昨年から既に『悲鳴』を上げていました。
しかし、父の病状悪化と看取り、そして葬儀、その後の諸手続が続き、その中でケアマネの仕事を続けてきました。
本当に『壮絶』でした。
ですから、治るどころが、体調は悪化していきました。
しかし、担当のご利用者様とご家族の状態が落ち着いていなかったので、ある程度ご利用者様が落ち着くまではと、ギリギリまで堪え続けました。
ご利用者様とご家族にとって、ケアマネ交代はとても精神的な負担かかります。
だから、ご利用者様とご家族の状態が悪いときに、ケアマネ交代をすることだけは、どうしてもそれだけは避けたかった。
だから、私自身の心と身体のギリギリのところまで踏ん張りました。
そして、『ご利用者様方がある程度落ち着いた、今しかない』と思えたところで、メンタルと内科をみていだいているかかりつけ医へ行き、自分の本当の心身状態を話しました。
当然、即、ドクターストップがかかりました。
メンタルと内科が専門の先生に本当の事を話せば、絶対に仕事を止められるのが解っていたので、今まで先生には黙っていたのです。
先生からは怒られませんでしたが、『無茶をしたな~』という顔はされました。

今は、自宅で静養しています。
壊れた自分の『心』と『身体』と『生活』と立て直す事だけ考えて、焦らずにやっていきたいと思います。

『谷底に突き落とされては、這い上がる』その繰り返しの私の人生です。
また、それをすればいいだけのことです。
だから、必ず『谷底から這い上がってみせます』。
こんなことくらいでは負けません。

そして、必ず、ケアマネージャとして再出発をしたいと思っています。



平成30年5月5日  かたつむり



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立ち会えない『父の納骨』

ご無沙汰しています。

 

 

体調が悪い中、無理矢理仕事をしながら遅れている仕事の追い上げをしています。しかし、体調が悪いため、仕事の進み具合が悪いです。

 

父亡き後の諸手続きが終わったら、いっきに体調不良が悪化しました。

『疲れはあとで、いっきに出るから気をつけて』と、ご利用者様とご家族に言われていましたが、その通りになりました。

肥満だと健康診断で言われていますが、しかし体重が7kgも落ちて、『顔がやつれた』『顔色が悪い』とご利用者様とご家族に心配をしてもらっている、情けないケアマネです。

 



先日、父の納骨日が決まりました、と、いうか、私の知らないうちに決まってました。

 

明日16日が納骨です。

母が独断で決めたのです。

姉にも相談なかったので、姉もかなり激怒したようで、母を『叱った』とメールで書いてました。

 

 

私は、間違い電話で私のところへ電話をしてきたので、不審に思い、折り返し電話をして、母に訊いたら

『ああ、決まったわよ。16日に。かたつむりは具合が悪いから(納骨に)行けないって言ってたから、お姉ちゃんと二人で行ってくるから』

と、あっけらかんと言ってました。

 

母には、父の葬儀が終わったあとに、何度も言ってました。

「私もお姉ちゃんも疲れ果てている。こんなこというのはお父さんに悪いけどさ。だから、取り急ぎの事が終わったら、お願いだから少し休ませてくれ。納骨だってウチは葬式をやってないんだから49日にこだわる必要ないんだ。とにかく少し休ませてくれ、お姉ちゃんも私も身が持たないよ。」
姉も同様のことを言っていました。

 

でも、母は49日の4月にこだわりました。

 

私は、だから、こう言うしかありませんでした。

お母さんが『4月にどうしても納骨』したいなら、今の私の体調では長時間の車の移動に耐えられないから、私は行けない。だから、お姉ちゃんと二人で行ってくれ」と。

 

そして、母は本当に私抜きで4月に納骨することを、姉にさえ相談せずに決めました。

 

私の生息地は、葬儀を無宗教でしたり、49日や法事はあまりこだわらない家がかなり多い地域です。

ですから、父の葬儀も、父の遺言に従い、無宗教で通夜も告別式もせずに、家族3人と最低限の父の知人だけで送りました。

ですから、我が家も特に49日にこだわらなくてもいいのです。その前をしていないのですから。

 

でも、母の中には何らかのこだわりがあったのでしょう。

 

しかし、今までの父の事全て背負ってきた私には事前の話もなく、私抜きで納骨をすることを、姉にも相談せずに一人で勝手に決めました。

私には事後報告どころか、実家に来たときに伝えるつもりだったようです。

当然、母と電話でケンカになりました。

正直どこかで期待していたことを泣きながら母に訴えました。

『私の体調が戻るのを待ってくれると思ったよ!』と。

そうしたら母は
『具合が悪いから行けないから、お姉ちゃんと二人で行けっていったのは、アンタでしょう!!』
と逆ギレしました。

お母さんは、納骨をなんだと思ってるんだ?!そうおもったら、虚しくなりました。

『これ以上、お母さんと話しても意味がないから電話を切る!!』
そう言って、私は電話を切りました。

 

そのあと、ずっと泣き続けていました。

 

必死に父のキーパーソンをして、無理を重ねて、身体壊して、減給になり生活が崩れて、それでも父の闘病を支えるために全てを背負い、父亡き後に母の生活を安定させるために手続きに動き回った娘に対して、納骨は蚊帳の外なのかよ!

 

そう思ったら、とても哀しくなりました。

 


その夜から、体調が更に悪化しました。

固形物が食べられなくなり、食事もそのものも取れなくなりました。

当然、動けなくなり、この2週間は何度も仕事を休みました。

明日も実は休みを取りました、体調が悪すぎるから。

食事は、最近お粥がようやく食べられるようになりましたが、一日1食食べるのがやっとで、後は水分で栄養がありそうなものを飲むようにしています。

 

母には、今の私の感情をぶつけた手紙を送りました。

でも、電話がかかってきたのは、手紙が届いたであろう日の1回だけ。私は電話に出る気になりませんでした。

その後は、電話は全くありません。

母が何を考えているのか、私には解りませんし、解ろうとも思いません。

 

 

先程、姉にメールを入れました。

 

明日納骨に行けなくてごめんなさい。 

お母さんに会いたくないから、お父さんにお線香をあげに行けずにごめんなさい。

納骨の件は全部お姉ちゃんに任せきりでごめんなさい。

宜しくお願いします。

 

姉から返ってきたメールは。

 

気にしなくていい。

まずは自分の身体を治すことを優先にしなさい。

 

姉のメールをみて、本音を送りました。

 

『でも、本当の本当にこれで最期になるから、やっぱりお父さんの納骨に立ち会いたかった』と。

 

それを姉にメールで送った後に、声をあげて泣きました。

 


 

解約手続きのために、私の手元にある父の携帯電話。

形見として引き取らせていただけるようにお願いするつもりでいます。

待ち受けをかえて、病状が悪化した頃の、でも、まだベッドから降りられるときに、釣り仲間の孫を抱いてとって、痩せ細る前の父の笑った写真にしました。

その父の姿を見ながら、励まされたり、泣いたりして、毎日を過ごしています。

 




明日、何時に父が自宅を最期にするのかも私は知りません。

 

それでも、明日は、壊れた身体で自宅で仕事をしながら、心の中で父に手を合わせて一日を過ごしたいと思います。



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働きながらキーパーソンをすることの難しさ③

ご無沙汰しています。

父を彼岸に送ってから、更に体調を崩し、その状態で、父の事で遅れていた仕事の追い上げをしなければらないので、ブログを書くことすら出来ませんでした。
今朝も、父に関する諸手続きがある為(父の諸手続きで何度も有給休暇をとっているので、同僚達から良い目で見られていません)早起きしましたが、具合が悪くなり動けなくなり、4時間ほどベッドで休んでいました。

無理を重ね続けた結果です。

無理を重ねるしかなかったのです。
周囲の理解をもらえなかったから。

父がターミナルになってから、私は減給覚悟で担当件数を減らしました。
長くて3ヶ月と言われた父の介護をする為に。
そして、父のキーパーソンとして更にやる事が増えていくため、今の私が担当するべきではないご利用者様の担当変更を社長にお願いしました。
独居で家族の介護力の弱いかた5名を同僚に引きついでもらいました。
その方達の担当を外してもらったことには理由があります。
ご利用者様が難しいケースでも家族に介護力があれば、どうにか担当をつづけるこはできる。
でも、独居で介護に関わってくれる家族がいないと、その分、ケアマネが家族の代わりに動かなくてはいけない。
その動きは、ターミナルの父の介護をして、キーパーソンもしている私には、とても不可能と判断しました。

引き継ぎが始まった時点で、父の病状は急激に悪化していきました。
毎晩、電話で姉と長い時間相談をして、休みは実家へいき父の介護をする母を手伝い、そして、仕事を続けました。
正直、仕事は、目の前のことをするのが精一杯で、まったく余裕はなく、とにかく必死でした。
父に残された時間をみつめながら、少しでも早く2月分の仕事を終わらせる見通しを立てることで精一杯でした。

『少しでも長く、父のそばにいたい。』

その思いだけで、必死に動いてました。
私自身の身体にも無理が来ていることは、充分に解っていました。
でも、もう父と過ごせる時間はないのです。
だから、あとで倒れてもいいから、父のそばに早くいられるようになりたくて、本当に必死でした。

そんな頃に、引き継ぎで、私が書類がそろいきれていないことで、同僚達から事実上のクレームがでました。

私は、社長から引き継いだとき、まともな引き継ぎをうけたことは一度もしたことがありません。引き続き書類もまともにもらったことがありませんでしたし、最低限の必要な情報を訪問直前に口頭で伝えられただけです。だから、担当になってから苦労もしたし、恥もかきました。
『とっくに、社長さんに話してあるよ』
確認の質問すると、そんな言葉を何度も返ってきました。
聴いていないことを告げるわけにいきませんので、私の勘違いということで、その都度謝りました。
他の社員が、引き継ぎのときに、社長から『アセスメント票』もらっていたのをみて、私から社長に、『私にも引き継ぎの時には、アセスメント票を下さい』と、何度も言って、ようやくもらえるようになりました。
でも、社長は、『自分は、かたつむりさんにきちんと引きつぎをしている』と、私に言いましたので、会社では私が悪者です。このことは、何度もいいましたが、言ってももう無駄だと、もうあきらめました。だから、私が悪者になっています。


話がそれましたが、初心者がそんな状態で引き継ぎをしていたので、アセスメント票があり、必要な情報を文書でまとめて、また口頭で伝えればどうにかなるかと思っていました。なぜなら、同僚はみな主任ケアマネですから、初心者が出来たことは、主任ケアマネなら当然出来るだろうと思ってました。
それが間違いだったのでしょう。
私は引き続きの時に伝え忘れたことが少しでもあったりすると、不快な表情を露わにしました。また、新しくかえたソフトに最低限の情報しか入力できていたかったことで、入力出来ていないことを注意されて、引き継いだ人の分だけでも早く入力するように言われました。

このとき、父に残された時間は2週間を切っていました。

職場には、そのことは伝えていました。
『できる限り、かたつむりさんに協力する』とはいっていました、社長は。

しかし、
死に物狂いで仕事と父の事をやっている私に、父の命の灯が消えかかっている時に、会社は『完璧は引き継ぎ』を求めてきたのです。

『そこまで完璧を求めるのか?!あんた達だってできていないだろうがっ!!』と、怒りにまかせて叫びそうになるのを必死で堪えました。
父と話が出来る最期のチャンスになるのが解っていたその週末の土曜日の訪問を調整して、父の元へいこうかと思っていたのですが、このことがあり、土曜日は一日仕事をしました。指摘された仕事をするために。

翌日の日曜日に、私は自分の病院受診もせずに父の元へいったら、父はもう声を出すことが出来なくなっていました。
その父の姿を見て、私は、心の中で愕然としました。
父に、その動揺を悟られないようにするのに必死でした。
母の話では、前日の土曜日までは、どうにか話せていたとのこと。
私は、父の声を聴いて父と話をする機会を永遠に逃してしまったのです。

母から聴かされました、私が実家へ行けなかった4日間のこと。
『ここ数日、お父さんは、毎日何度も「かたつむりは来るのか?」と言っていたんだ。だから、仕事だから日曜日にならないとこれないんだよ、ってその都度お父さんに言ったんだよ。「そうか、仕事なら仕方ないな」って言っていたけれど、お父さんは、あんたが来るのを待ってたんだよ』
その母の言葉を聴いて、父に申し訳ないことをした・・・そう思いました。

仕事をしている以上、仕事が優先なのは解るし、家族の事は理由にはならない。

これが一般企業なら、仕方がない。
私もそう思える。

だか、私の会社はケアマネ会社だ。
在宅の介護を支援することが仕事だ、だから、『在宅介護』と『ターミナル』というものは、それなりにわかっているものだ。少なくとも私はそう思っていた。
でも、ケアマネからみた『在宅介護』と、家族の立場でみた『在宅介護』は、まったく違う世界だった。
だから、ケアマネ会社といえど、社員の『家族介護』について認識は、一般企業となんら変わりなかった。

会社として『かたつむりさんのお父さんの介護に協力する』と。言っていた。
土曜日出勤にして、平日休みにしていただけた事は、感謝している。
父の事で有給休暇をとったり、早退させいただいたことも、感謝している。
しかし、仕事のフォローはなにひとつなかった。
それどころか、引き継ぎをしたことで、逆に私は、仕事で追い詰められてしまった。
引き継ぎの不備を指摘されていた時が、父に残された時間がもうないと言われていたときだったので、一番精神的に苦しかった。
父に残された時間がもうないところまで来ていたのに、常に完璧以上を求められ続けてきた。

声が出せなくなっていた父の姿に愕然としていた私に、看護師さんが帰るときに玄関先で私にこういった。

『お仕事も忙しいと思いますが、どうか、少しでもお父さんのそばにいて差し上げて下さい』と。

このことばを言われたとき、『自分は何をしてるんだ』そう思った。

ケアマネージャーとして、在宅で介護をしている家族を支援していながら、その一方で、私は自分の父親に寂しい思いをさせているじゃないか?!

私は、何をやっているんだ・・・と、おもったら、看護師さんに何も言えなかった。



ー 『ケアマネージャー』をしている私は、娘として、いったい何なんだ? ー


あの、『私の顔をみて、安堵したように微笑んだ、声を出せなくなっていた父の姿』をみてから、そして、看護師さんの『あの言葉』を聴いてから、どうしても、このことが頭から離れなくなった。


翌日の月曜日の夕方に父の危篤知らせを受けて、その後の予定をいったんキャンセルして実家へ向かった。
実家へ着いて、反応が帰ってこない父にそれでも『聴こえている』と信じて、繰り返し父に話しかけた後に、翌日の火曜日の仕事の調整を自分でした。
父が亡くなった後も、葬儀会社との打ち合わせが終わった後に、気力を振り絞って、全て自分で仕事の調整の連絡をした。
仕事の調整が全て終わったら、その後は、父を亡くした哀しみだけで、もう何も考えられなかった。
それでも、社長にだけは、メールだけでなく電話で報告をしなければと思い、夜に社長に電話をした。

『父が亡くなったので、しばらくご迷惑をおかけします』と。

そのときの社長から言われたのが、仕事の調整のことだった。
サービス担当者会議が父の出棺の翌日に入っていた。
2月中に行なわなければいけない会議。
私の慶弔休暇明けに合わせて組み直おそうとしたら、スケジュールを組むのが難しいことが解っていたので、上司にその旨を話して予定通りやることにしていた。上司の了解は得ていた。
その予定を組み直すようにと社長が私に指示してきたのだ。

『かたつむりさんが大変だから、予定を組み直した方がいい』と。

親が死んだばかりで悲嘆にくれている社員に、会議の日程変更をするために事業所と連絡をとり、一からスケジュールを組み直せというのか、まだ仕事をしろというのか・・・。

ー もう、いい加減にしろっ!! ー

私は、自分を支えていた最期の糸が切れたのが解った。

『もうすでに日中に上司と相談して、私は、仕事の調整をしました。もう、今の私に仕事の調整をする気力なんてありませんよっ!!父の葬儀の打ち合わせまで私はしているんですよっ!!会議の予定を組み直す為に連絡調整をするくらいなら、無理をしてでも予定通りで会議をした方がまだマシですっ!!』

私は電話越しに社長に怒鳴った。

ケアマネージャーの会社でさえ、この有様なのです。


介護離職の問題が大きく、取り上げられているが、会社側の理解がなければ、仕事を辞めるしかないのだろう・・・私は、このとき思った。

私には、まだ、母がいる。
おかげさまで、母は今のところは元気だ。でも、いつどうなるか解らない。
父だって、元々はとても丈夫だった。
唯一、悪い肺に癌が出来て、彼岸に逝ってしまったのだ。

親の介護の問題は、私自身とっても、まだ続く問題なのだ。

母が介護が必要になったとき、この会社で働きながら母の介護をすることは、間違いなく『出来ない』と思った。

そして、私自身の身体も完全に壊れきってしまった。

それでも、娘として、父の事をやりきったので、今の自分の置かれた状況には後悔はない。

私個人としての考えですがは、自分の親の介護が出来ずに、ケアマネージャーの仕事は勤まらないと、私は思っている。あくまでも、これは私の個人的な考えだ。


父を担当して下さったケアマネージャーさんは、ひと月半のおつきあいで終わったが、完璧な仕事をして下さった。
介護と仕事との板挟みになり混乱する私を、何度も励まし諭して下さった。
そして何より、『いつでも柔軟な対応が出来る、気配りの出来る、訪問看護ステーションさんにご支援をお願いしたいのです』という私の依頼をうけて、その通りの訪問看護ステーションさんをご紹介して下さった。
そのおかげで、余命告知を受けて苦しんでいた父は、訪問看護師さんが『一生懸命に傾聴して下さった』おかげで、父は『最大の苦しみ』を乗り越えることが出来た。

ケアマネージャーさんは、父にお線香をあげにきてくださったときに、私に言ってくださった。
『ケアマネの仕事をしながら、お父さんの介護とキーパーソンをするのは大変だったはず。よくがんばりましたね。実は、私も、父を癌で亡くしてるの。ケアマネージャーの仕事をしながら父の介護で実家を行き来した。私は間に合わなかったけれど、家族で自宅で最期まで看取ったの。だから、私もあなたと同じ経験をしてきた。本当に仕事しながらで大変だったはず。お母さんの事も大切にして欲しいけれど、貴方自身の事も大事にしてね。』
なぜ、福祉用具のかたが、私にこのケアマネージャーさんを紹介して下さったのか、そのとき解ったような気がした。

ケアマネの仕事をしながら、親の介護とキーパーソンをするのは過酷だった。
担当しているかたのご家族からクレーム的な相談を受けながら、『うちのほうがもっと過酷だ』と、心の中で思ったことは正直あった。
その葛藤と、親の介護に理解のない会社で働きながら、父の命の見つめて、必死に動き回った。
父の残された時間を大切にしたい、最期まで父らしくいてほしい・・・その一心で。


我が家はどうにか、父との最期の時間を後悔なく、父と一緒に大切に過ごすことが出来た。

でも、我が家のようなケースは、多分まれで、色々な好条件が重なって出来たことだと思っている。


それでも、今の世の中では、『働きながら親の介護をするの本当に難しい』と、自分が経験して痛感させられた。
担当件数を減らした結果、私は7万円の減給となりました。
身体を壊した私には、今担当件数を元に戻すことは不可能です。
時給制の姉も、給料はかなり減ったと言っていた。
こうして、介護の為に、家族は仕事を辞めていくのだろう、事実上は辞めさせられているのと同じなのだと私は思っている。
家族の介護をしながらでは、通常通りの仕事は出来ない。
それが出来ないと、ペナルティーが課せられる。
そうなると必然的に会社にいづらくなる。
そうしたら、会社を辞めるしかない。

これが、現実だ。
私自身がそれを感じた。

そのことを踏まえて、私は、父のガンの再発がわかってから今までの間に感じた現実を直視して、私自身、ケアマネとして、その前に私個人として、これからどうしていくべきか、考えているところです。答えはまだ出ていません。

それほど、働きながら、家族の介護をすること、家族のキーパーソンをすることに対しては、今の我が国は、理解をしてもらえないとても厳しい社会なのだと、痛感させられました。


はたからみたら、私が言っていることは、会社への個人的な文句を言っているとしかおもわれないでしょう。
でも、私が、父のキーパーソンと介護をして、肌身で感じたことを、ありのままに書いただけです。

ケアマネージャーをしている私でさえ思ったのです。
仕事をしながら在宅での介護は、とても厳しいと。

私のこの意見に反論があるかたは、一度、親の介護に正面からむかって、どれだけ大変かをぜひ経験していただきたいものです。
間違いないく、考えかたが、180度かわりますので。



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お父さんの娘で幸せです。


父が亡くなり、10日ほど経ちました。

 

父の希望で、通夜も告別式をしませんでしたので、父との最期の時間は比較的ゆっくりと過ごせたと思います。

父の遺言

『俺の葬儀に金をかけるな、棺桶の中に花などいらない、通夜も告別式もいらない、お前たち3人だけで送ってくれたらそれでいい』

その言葉に従って、私が葬儀業者との打ち合わせをして葬儀を取り仕切りました。

『火葬式プラン』で依頼し、オプションは母が希望すること以外は、全て『父の遺言ですので』と、即決で断りました。

(今日姉から、「あのオプションの切り捨てるような断り方は、葬儀業者に少し同情した」と言われました。でも、『父の遺言』ですから)

 

弔問に来てくださった方は、『最期まで自宅で過ごせて、自宅から出棺出来るなんて、幸せね』と、皆さんおっしゃってくださいました。

『釣りに行きたい』

『自分の脚で外を歩きたい』

父が望んだ事は、結果的には何ひとつ叶えてあげる事ができなかった。

けれど、せめて、最期まで自宅で過ごして、自宅から送りだしたいと、それだけは、絶対にするんだと、私は決めていました。

私が暮らす地域では、葬儀を自宅ではなく、セレモニーホール等の場所を借りて行なうことが多いので、自宅から送り出すことどころか、病院で亡くなると、そのままセレモニーホールの安置所へ移される方も多いのです。

でも私は『父を、自宅で看とり、自宅から送る』これだけは、絶対にするんだと、決めていました。

その想いは母も姉も同じでした。

 

ただ、父の身体を綺麗に保つために、父が眠る部屋は暖房がつけられない為、余りの寒さに長い時間父の部屋にいることは出来ませんでした。

出来る限り、父のそばで過ごすようにしていましたが、特に私は元々体調が悪かったので無理ができませんでした。

その点では、少し父に淋しい思いをさせてしまったかもしれません。

そんななかでも、母はその寒い部屋で出棺まで毎晩いつものように父の隣に布団を敷いて寝ていました。

 

出棺の前日に、私は父のそばで、生命保険会社や社会保険事務所へ電話しました。

父が自分の葬式代にとかけていた生命保険と、遺族年金の受け取りの手続きを早く始めるためです。

父が一番心配していたであろう、父亡き後の母の生活を早く安定させるために、あえて父の前で行動を始めました。

父に、自分の行動をみてもらうために。

 

出棺の前日の夜は、父が眠る部屋で、母・姉・私の3人でしゃぶしゃぶを食べました。

今にも、ベッドから父の声がしそうな雰囲気でした。

はたから見たら不謹慎な行動かもしれませんが、最期の夜を、いつものように過ごせるのも、いいな・・・そう思いました。

 

出棺前の、湯灌の儀も納棺の儀も、通夜や告別式がないので、時間に追われることなく、ゆっくりと出来ました。

父は、亡くなってから出棺まで3日間ありましたが、肌がきれいでした。

湯灌の儀は、「服は訪問看護師さんが『釣りに行くときの服』を着せてくださったので、そのままでいいので顔を整えるだけにしてほしい」と、依頼したのですが、髭剃りと保湿だけで充分でした。化粧をする必要がないほど、それほど綺麗な肌のままでした。

 

父が息を引き取ってから、何度泣いたかわかりません。

ベッドの上の、ドライアイスの重さから解放された父の身体は冷たく固かった。

その脚をさすり、ドライアイスのかけらをタオルで必死にふき取りながら、声をあげて泣きました。

もうこれで最期なんだと・・・。

 

いつか、親は自分より先に逝く。

そんなことはわかっていたつもりだった。

 

けれど、

 

その現実を、つきつけられて、哀しんでいる自分がいる。

 

そして、自分にとっての父がどれほど『大きな存在』だったのか、思い知らされた。

 

昨年、父と衝突を繰り返して、話し合いの末、家を出た。

その後も、私の気持ちをわかってくれないと、実家から、そして父からも、距離を置いた。

今年の初めに実家に来た時に母から聴いた体調を崩した父の様子と、視界に入った父の顔。

そこから、もう一度キーパーソンとして奔走しつづけた。

毎晩姉と連絡をとり、父の事で相談しあった。

会社と掛け合い、土曜日に出勤し代わりに平日に休ませてもらうことで、姉と休みが被らないようにして、両親を少しでも安心できるようにした。

父のがんの再発がわかってから、父に対して、今の自分ができる精一杯のことをしてきた。

だから、父のことでは後悔はない。

あの時のケンカも後悔していない。

なぜなら、あの時に、自分の気持ちをはっきり父にぶつけたからこそ、わだかまりを持つことなく、最期の大事な時間を父のもとで過ごすことができたから。

 

でも・・・。

 

やはり、父は私にとって、辛い時や苦しい時に必ず助けてくれた『唯一の頼れる存在』だった。

我が家の大きな大黒柱だったのだ。

 

その、大きな『よりどころ』を失ったことで、これからは、本当に、自分自身の足で、自分自身の力だけで、生きていかなければならないのだと、思い知らされた。

 

荼毘に付される前の最期の別れの時に、穏やかな表情の父に誓った。

 

『お母さんのことは、ちゃんとやるからね』

 

そう呟いたら、涙があふれた。

 

父の棺が、扉の奥に移動されて、重い扉が閉められた時に、私は立っていることができず、柱に身体を預けて声をあげて泣いた。

 

 

 

収納の時の父の骨は少なかった。

155センチと男性としては小柄だったし、高齢でもあるから、それが普通なのかもしれないが本当に少なくて、驚いた。

そして、骨が黒くなっている部分がいくつもあり、かなり崩れていた。

それは、父が、『がん』という病気と、正面から闘い続けた証拠。

私は、そう感じた。

 

自分が知りたいと望んていたこととはいえ、『余命の告知』を受けて苦しんでいたときも、私達家族にいらだちをぶつけることは絶対にしなかった父。

弱音を吐くことはあっても、私達に感情をぶつけたり、八つ当たりすることは絶対にしなかった父。

自分が苦しくて痛くて辛いのに、私の身体を心配していた父。

亡くなる4日前までポータブルトイレを使い続けた父。

父と話す最期の機会と思って、自分の病院受診をせずに父のもとへ行ったとき、父を呼ぶ私の顔を見て安堵したように、痛みをこらえながら微笑んでうなずいてくれた父。

しかし、その時には、父はもう声を出すことができなくなっていた。

それでも、『いつもの父』だった。

幻覚・幻聴・せん妄が酷くなっていく中でも、不穏になることがなかった父。

判断力が落ちていく中でも、父の思考が比較的はっきりしているときを狙って、姉と私は何かをするとき、何かを変更するときは、必ず父の意思を確認した。それが、『すでに私が決めたこと』であっても、必ず最終判断は父にゆだねた。

 

『自分の人生だから、最期まで自分で決めたい』

 

それも、父の希望だったから。

 

最期の時、下顎の呼吸に変わったことに気がついた私は、母と姉に、呼吸が変わったから、あと少しで呼吸が止まることを伝えた。

3人で父のそばにいて、3人で自然と父の腕をさすっていた。

私は、なんと声をかければいいかわからず、ただ、いつものように『お父さん』と、繰り返し呼び続けた。

父がこと切れる寸前に、父の口が動いたが、読み取ることができなかった。

もしかしたら、生理的な動きだったのかもしれないが、もしかしたら、何かを伝えたかったのかもしれない。

末期がんの人は、耳は最期まで聞こえていると聴いたことがあるから。

でも、私には、読み取ることは出来なかった。

 

そして、静かに、父は永遠の眠りについた。

 

最期の最期まで、『強い父』だった・・・本当にそう思う。

 

 

慶弔休暇が終わり、アパートへ戻った私は、『お父さん!』と、叫びながら泣いた。

母の前では叫べなかったので、ずっと堪えていた。

もう、父の返事がない事はわかっていた。

でも、『お父さん』と泣きながら、繰り返し呼び続けた。

 

 

今、実家でこのブログを書いています。

しばらくは、週末は実家で過ごすことにしました。

母の緊張が切れた時が心配なので。

両親の部屋に、白い壺におさまってしまった父がいます。

その横に、どこかの釣り場で撮った『へら鮒を手にして嬉しそうに笑っている父』の写真があります。

本当に楽しそうな笑顔です。

心底『釣りバカ』だったんだな・・・つくづく思いました。

 

 

緩和ケア病棟で看護師をしている悪友は、

『哀しいなら、哀しいままでいいんだよ。無理に元気になろうとする必要はない。『大切なひとを失った哀しみ』は、簡単には癒せない。立ち直るまでに何年もかかる人だっている。だから哀しいなら、哀しいままでいいんだよ。後は時間に任せればいい。』

そう言ってくれた。

 

父を彼岸に送ってようやく気がついたことがある。

 

『お父さん、私は、あなたの娘で、本当に幸せです』と。

 

元気な時に、伝えてあげられればよかった・・・とは、思う。

 

でも、本当に、いなくなって、ようやく気がついたことだった。

 

父に伝えることは出来なかったけれど、父の娘でよかったと思える私は、幸せだと・・・心から思っています。

 

お父さん・・・本当に、今までありがとう。

 

そして、本当にお疲れ様でした






 
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お父さんお疲れ様でした。

今朝、父は静かに旅立ちました。

母・姉・私の三人で最期は父のそば看取ることができました。

がんの再発がわかった時に父が言った言葉

『お母さんが大変だから、俺は最期は病院でいい』


でも、その言葉の意味するもの
 
 
『俺は、最期まで家にいたいんだ』


私は、そう解釈しました。


そして、その時に『ケアマネージャーは、ご利用者様が言う言葉の向こうにある『本音』を見つめなければいけないのだ』ということを、学びました。


父の肺がんの再発がわかって1年3か月。

父と何度もケンカをし、結果的に、実家を離れて一人暮らしを始めた。

それでも、なんだかんだと結果的に私はキーパーソンを続けてきた。


父の闘病を通して、見えた事、知ったこと、感じた事が沢山あった。


『仕事』と『介護』の両立をすることの地獄のような過酷さ。

『大変』と言う言葉では片づけられない位壮絶であることを、身をもって経験した。


きっと、これは、ケアマネを続ける上で貴重な経験になったはず。


父は、最後に自身の闘病の姿を通して、私に大切なものを教えてくれたのだと思う。

『この経験を、仕事に絶対に活かせよ!』

そんな父の声が聴こえてきそうな気がします。

父からの最初で最後の『大切な贈り物』だと思いました。



もう一度、大好きな釣りに行かせてあげたかった。
 
無理なら、いつも行く釣り堀のそばにある満開のしだれ桜を見せてあげたかった。

それでも無理なら、家の前でもいいから、風を受けながら青空を見せてあげたかった。

何ひとつ、かなえてあげられなった。

けれど、

言葉にしなかったお父さんの希望


『最期まで家にいたい』


これだけは、どうにか希望に添えることができた。



父の遺言、

『俺の葬儀に金をかけるな、やることは最低限でいい。お前たち3人だけで俺を送り出してくれ』

だから、通夜も告別式もせず、家族3人だけで送る。



でも、これだけは姉と私はこだわった。


『家で看とったのだから、家から父を送り出す』


私の住んでいる地域では少なくなった方法にこだわりました。


父の棺は自宅から出棺します。


父は出棺の最期まで、私達と自宅で過ごします。


旅立の服装は、『釣りに行くときの服』です。


ひとつ大きな悩みが出てきました。


父が『俺が死んだら棺桶に入れてくれ』と姉に頼んでいた、へらぶなの竹竿をどうするか。


『竹竿は燃えにくいので、棺には入れられない』と、葬儀業者の方から言われた。


でも、多くを望まなかった父が望んだ、数少ない望みだった。



『へらぶな用の竹竿持ってあの世に行きたい。』



父のこの希望に添えるようにすればよいのか、姉と二人で今頭を抱えている。


『一斗缶で燃やして炭にして、親父の骨壺にいれるか』



そんなことを姉と二人で考えている。
 
 


お父さん、長い間、本当におつかれさまでした。
 
 
 
 
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父の命の灯

昨夕、訪問先をでて携帯電話の着信をみたら、実家からだった。

急いで折り返し電話をした、母が出た。

『お父さん、危篤だって』

弱弱しい母の声。

『スケジュール調整して、すぐ帰るから!』

その日の残りの訪問は、18時からのみ。
先方に事情を説明し、了解を得た。

病院からも電話がったので、折り返しかけた。
父の状態の説明を受けた。
『血圧が下がっている。現在、上が50台です』とのこと。
昨日も訪問看護師さんから、血圧が測れず、触診で70台と報告を受けていたので、『マズい』とは思っていた。母と姉には黙っていたが。

管理者へ電話をし、父が危篤の旨を伝え、今日の予定はキャンセルしたこと、明日はモニタリング2件、短期目標期間満了の担当者会議1件あるが、モニタリングは日程変更は可能であること、担当者会議も短期目標期間満了のものでプラン変更ではなく、本人の状態確認の為のものであることを伝えた。
明日のモニタリングはキャンセル、担当者会議は中止して『照会』ということで、管理者と相談して決めて、そのまま家に帰った。

家に着くと、母は静かに、いつものようにしていた。

私が帰ってきたことがわかると、『お父さん、かたつむり帰ってきたよ』と、父に声をかけた。
私が、お父さんただいま、今日は早く帰ってこれたから、こっちに来た。明日も休めるから、泊まりこんでお父さんにへばりつくよ』と、父に声をかけた。

父は、笑っていた。
少なくとも、私にはそのように感じた。

取り急ぎ、明日の訪問のキャンセルの連絡を入れた。
皆さん、事情を話している方なので、快く承諾をしてくださった。
ありがたく思った。

末期がんの人は、耳は最期まで聴こえるという。

このようなときに、どのようにしていればいいのか私も良くわからないで、父にへばりついていたら、母がいつものように私の夕食を用意し始めた。

その時に思った。
『いつも通りに過ごしていたほうが、いつもの生活の音の中で過ごしていたほうが、父は安心しそうな気がする。』
そう思った。

姉にはメールで父の危篤を知らせていた。
しかし、姉は仕事中電話には出られない。
だから、いつも通りの帰宅になることはわかっていた。
私のようにタクシーを飛ばして帰ってこれるところで働いているわけではない。

母とふたりで父のそばで色々と話した。
あえて親戚は呼ばずに、3人だけで父のそばにいようと母と相談して決めた。

『お前たち(母・姉・私)3人だけで俺を送ってほしい』
それが、父の願いだった。

それに、父は自分が長くない事は自分から妹(私の叔母)に自分で携帯電話で連絡し、伝えてある。一度だけ、叔母夫婦、従姉夫婦、従兄も会ってくれたが、一度だけだ。
少なくとも叔母は、来ようと思えばいつでも来れるところに住んでる。それでも一度だけだった。そんな身内に今更来てもらって、泣いてもらっても、嬉しくない。たぶん父も同じ気持ちだろう。
だから、もう(父・母・姉・私の)家族4人ですごせばいいと、私は思った。

 父が、私のサックスのローンを気にしていたそうだ。
『ローンの残金を払ってやれ、そのほうが、かたつむりも生活が楽になるだろう』そう母に言っていたそうだ。
私が好きで買った楽器で、色々な理由があるとはいえ、私は望んで家を出たのだ。
だから、『受け取れない』と、母に言ったが、『お父さんは、そのことをとても心配してた、だから、お父さんの心の残りにならないように、お金を渡すから、全て返しなさい』母にそう言われた。
その言葉を聴いて、『父の想いは受けとめなければいけない』、そう思って、父の意志にありがたく従うことにした。


『いくつになっても、父は父であり、娘は娘なのだ』
そんなことを思った。


母に初めて、担当件数を減らしたことを話した。病床の父にも聞こえているはず。
今月中に、5件担当を減らして、3月から父の介護を少しでもできるようにするつもりだった・・・と。
『でも、間に合わなかった』と、心の中でつぶやいた。

母に伝わったのか、『お父さんはわかっているよ』そういってくれた。

先週、毎日何度も『かたつむりは(いつ来るのか)?』母に訊いていたそうだ。
母が、『今週は仕事が忙しいんだって』と、母に伝えると、父は『そうか、それじゃ仕方ないな』と答えていたそうだ。

一昨日の日曜日に、自分のメンタルと内科の受診に行かずに、実家に来た。
もう手元に降圧剤は残っていないけれど、それでも父を選んだ。
しかし、実家に行ったときの、状態の悪化した父の姿に愕然とした。
そして、その時は、父はすでに言葉を発することは出来なくなっていた。

『お父さん、ただいま、帰ってきたよ!』

私の言葉に、父は嬉しそうにうなずいてくれた。

その時は、意思表示は『うなずく』ことと、『表情』だけだった。
私は、その父の意志表示で、必死に父の気持ちを汲み取ろうとしていた。
先週の火曜日は、意識ははっきりしていれば、普通に会話は出来ていた。
しかし、4日間の間に、階段を転げ落ちるように悪化した。
先週の木曜日に、主治医から『あと2週間』と告げられた。そう姉から連絡を受けた。
だから、父と会話できる時間はあとわずか、とわかっていた。
先日の日曜日が父と『話せる』最期の機会と思い、降圧剤が切れているのに、病院へ行かずに父のもとへ言った。
まさか、父の声を聴くことができなくなるとは想像もしていなかった。

『もう、二度と父の声を聴くことができない』
その事実に愕然とした。

本当は、今日はケアマネさんのモニタリング日だった。
だから、日曜日のときに父に言った。
『あさってはケアマネさんが、お父さんの様子伺いに来る。その時は私が来て、対応するから。ついでにそのまま、泊まらせて。』

父はもうあと数日しかもたない、と、父の様子から解かっていた。
ケアマネという仕事しているから、どうしてもわかってしまう。
それが辛かった。
父は私の言葉に嬉しそうな表情をして、うなづいてくれた。
母が『泊まり代高いよね、お父さん』と言った。
その言葉にうなづく父。
『なんだよ、お父さん、お金摂るのかよ!』
そんな私の言葉に、少し笑って頷いていた。

父が一番私と話をしたかっであろうその時期に、仕事で実家に行くことができなかった。
仕事だから仕方がない、どうしても仕事が忙しい週だから、実家へ帰ることができなかった。
今月の仕事をはやくメドをつけて、父のそばにいようと必死だった。

でも、間に合わなかった。

父も、直接私に言いたかったことはあったはずだ。
『親に死に目に会えない』覚悟で私はケアマネの仕事に就いた。
ケアマネとして、親よりも優先しなければいけないことがあるはず。
ご利用者様の生活と命がかかっている仕事だ。
親が危篤でも行かなければないこともあるだろう。
今でも、そう思っている。

だから、先週は仕事を優先したことは、後悔していない。

父の再発がわかってから、私が出来うることは、全てやり切った。
年が明けてからの父の病状悪化が早すぎたが、父の在宅の支援体制はぎりぎり間に合った。
父が最期まで言葉にしなかった、本当の希望。
『最期まで家にいたい』
どうにか叶えることができた。

でも、もう一度だけ、父と普通の親子の会話をすることができなかったことが、父に申し訳なかったと思っているし、私自身ももう一度だけ父の言葉で親子の会話がしたかった。
そのことだけ心残りだ。
仕方がないこととはいえ、たぶん、私は一生後悔するだろう。

私にとって、決していい面だけの父ではなかった。
恨んだことも何度もあった。
それでも、我が家の大きな大黒柱だった。
そして、私には『この世でただひとりの父』なのだ。


その父は、今も生きようと必死に闘っている、病とではなく、自分自身と。


その父の生き様を最期まで見届けたいと思う。


今から父の様子を覗いてきます。
 

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