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ただ今、人生の仕切り直し中のケアマネ
プロフィール
HN:
かたつむり
性別:
女性
自己紹介:
心と身体を壊し、まだ人生の仕切り直し中のケアマネ。

保有資格:社会福祉士・介護福祉士・介護支援専門員。ついでに日商簿記2級・全商簿記1級
(Twitter@renrinoeda2)
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二兎追う者は一兎をも得ず(ケアマネへの道のり④)

ご無沙汰してます。

相変わらず、書類の山に埋もれております。
先週は、鎮痛剤を飲んでも頭痛がとれず
とてもつらかったです。
その為、昨日はマッサージを2時間受けてきました。
少しは楽になったような気がします。
身体が疲れすぎたので、
最近は徹夜をすることができません。
睡魔に負けて寝てしまいます。
しかも、目覚まし時計をかけても、起きられないのです。
時計が鳴って止めるのですが、気がついたらまた寝てるのです。
あまりその辺の記憶がありません。
相当疲れてますね~。


さて、みなさん、
もし、『やりたい仕事』と『結婚』と
どちらか一つしか選べなかったらどうしますか?
ブロクを読んでくださっているかたのなかには、
『やりたい仕事』と『結婚』も両方を手にしている方も
多いかと思います。
何を言っているんだ??と、思っている人も多いかと思います。


でも、私は、どちらかしか選べないという状態でした。


以前に書いた通り、親の反対と家の経済的事情で
私は高校を卒業後、主に経理事務の仕事をしてました。
自分の与えられた環境で自分なりに
精一杯やっていこうと思っていました。


しかし、リストラにあいました。


親の敷いたレールに乗って、その結果うまくいかなかった。

この悔しさをどこに持っていったらいいのかわかりませんでした。

そして、これからどうしたらいのか考えました。

そして、考えた結論は

『親の敷いたレールに乗ってうまくいかなかった。
 だったら、自分のやりたことをやろう。
 やらないで後悔するより、やって失敗して納得したほうがいい』

でした。


そして、ヘルパー2級の講習を受けました。

しかし、その知識だけで、介護業界に入るのには、
とても不安がありました。

『しっかりと勉強したい』と思いました。

そして、大学の通信教育課程で学ぶことを考えました。

そのとき、私は29歳でした。
当時の結婚適齢期でした。

私が大学に入り勉強するということは、
働きながら、大学の勉強をしなければなりません。
それも、フルタイムで働かないと、
家に入れる生活費と学費が作れないのです。
さらに、プライベートをすべて大学の勉強に充てなければ
とても卒業はできないと思いました。


つまり、恋愛をしている時間は持てないのです。


当時、特定の男性はいませんでしたが、
私は、自分の人生で最大の選択を
しなければなりませんでした。


『大学・仕事』も『結婚』も両方を求めたら
両方ともうまくいかないと思いました。


どちらかを選ばなけれはならない。
自分はそういう境遇に生まれたのだと
自身を納得させるしかありませんでした。


そして『大学・仕事』を選びました。

それまで貯めていた貯金だけは足りなかったので、
1年さらに貯金をしてから
大学の通信教育課程に入りました。


実際、仕事以外の時間のほとんどは、勉強に当てました。

初心者の介護職よりも経験者の経理事務のほうが
給料もよいだろうと思い、
実習で仕事を辞めるまでは、経理事務の仕事をしてました。
経理事務は、忙しい時期も1年のなかに何度かあるので、
1年の半分は仕事に追われて、勉強もできませんでした。

大学で出会った人のなかには、
仕事と勉強の両立ができず、
やめていく人も少なくありませんでした。
 
 
 2年留年したものの、
無事に大学を卒業することができました。
社会福祉士の受験資格も得ることができました。


初めからあきらめていましたが、
やはり、恋愛や結婚を考えている余裕はありませんでした。


何かを得るためには
何かをあきらめる。


その結果、ケアマネの仕事に就くことできたのです。


結婚して、子どもを授かり、
女としての幸せも欲しいと思ったことが
なかったといえば、嘘になります。

それでも、あのとき、選択をしなければ
どちらも手に入らなかったと思っています。

あの時の選択は、後悔していません。


『二兎追う者は一兎をも得ず』が
私の人生のなかでの指針でもあります。


こんな私は、おかしいですか?


では、仕事します。



手やコメントをくださったかた
ありがとうございました。
コメントのお礼のお返事は
後日改めて書かせていただきます。
ご了承くださいますようお願いいたします。
いつも、お返事が書けず、本当に申し訳ありません。
(また今回も書けなくて、本当にごめんなさい。
             いつになったら書けるんだ??)
 
 
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私の原点(ケアマネまでの道のり③)

昨日、毎週身体のメンテナンスに行くお店で
熱を測ったら、なんと、38度ありました。
自覚症状は、全くなしで、
発熱以外は何の症状もないのです。

今朝は、37.4度まで下がっていましたが、
午前中の担当者会議が終わったら
早退してきました。
何せ、明日から1週間は、
とてつもなく忙しくなります。
ほぼ同時に3件新規を受けたので、いつもより忙しくなります。
現在の担当件数は28件。
担当件数30件まであと二人です。
でも、近日中に入所などで2人が終了のなる予定なので、
あと4件は持ちたいです。
やっぱり5万円の減給は痛いです(><)。


昨日は、片道2時間かけて母と墓参りに行ってきました。
母方のお墓参りです。
以前は、家の近くのお寺にお墓があったのですが、
叔父が亡くなった時に、後を継ぐ者がいないため、
母と叔母が相談して、叔母の家の近くの(といっても車で30分)
霊園の共同納骨堂に移しました。


先日も書きましたが、母方の祖父母と叔父・叔母は、
家の近くに住んでいたため、
姉も私もかわいがってもらいました。
そのことに気がついたのは、
祖父のお通夜の時でした。大叔母が
「かたつむりちゃんは、おじいちゃんとおばあちゃんがいれば
 お父さんとお母さんいらないくらいだったよね」
と、言われ、その時に、
祖父母に大切にしてもらっていたことに気がつきました。
その時は私は16歳。
思春期の真っただ中で、色々なことがあって祖父と距離を置いていました。
気づいたときは、すでに遅く、
祖母も私は13歳の時に亡くなっているので、
私は、取り返しのつかないことをしてしまったと思いました。
何も恩返しができなかったと、今でも後悔しています。


その祖父母を介護していたのが、
叔父と叔母(母の弟と妹)です。
ふたりにもかわいがってもらいました。
子どもの頃は忙しい両親に代わって、
私を色々なところへ連れて行ってくれました。
そして、本気で怒ってくれます。
だから、私は二人には頭が上がりません。

昭和50年中ごろから60年の初めくらいまで
在宅介護に関しては何の制度のない時代に、
祖父母の介護ははじまりました。

ふたりの介護は、まず、祖母の癌から始まりました。
まだ小学生だった私は事情を知らず、
両親から「リウマチ」ときかされていました。
外科治療はできない状態だったようで、
入院中には、当時主流の『コバルト照射』をしていました。
当時の私は、『コバルト照射』=『癌の治療』と
子どもながらにわかっていたのですが、
祖母の病名に何の疑いも持っていませんでした。
あとからきいた話ですが、
姉も本当の病名は聴かされていませんでしたが、
たまたま、祖母の診断書類をみてしまって、
とてもショックを受けてたそうです。
姉は当時高校生。
どうしたらいいかわからなくて、
祖母の見舞いに行くことができなかったと言っていました。


やがて、祖母は退院して、自宅で過ごすようになりました。
しかし、横になって過ごすことが多く、
思うように歩くこともできなくなり
介助が必要になった為、叔母が仕事を辞めて
祖母の介護をするようになりました。
祖父ももちろん介護していましたが、
祖父一人では大変だったのだろうと思います。
30歳前後の年齢で叔父が一人で
一家4人の生計を支えることになりました。

そんな矢先に、祖父が交通事故にあいました。
頭部を打ち、脳挫傷となり、手術を受けました。
叔父と叔母は、同時に二人を介護することになりました。
母も祖父の病院に泊まって介護をしてました。
当時の病院では、24時間完全看護のところは少なく、
家族か家政婦さんが付き添っている時代でした。
そのため、叔父と叔母と母で協力して
ふたりを介護していました。
そのかいもあって、少し時間はかかりましたが、
祖父はリハビリをして、ひとりで歩けるまでに回復しました。

祖父が回復するにしたがって、
祖母の病状は悪化していきます。
右か左か忘れましたが、
半身が異常に浮腫んでしまっていたことを記憶しています。
それでも、祖母はいつも私に笑ってくれていました。
(ただ、祖母も怒るとかなり恐い人でした)
祖母は脚が痛いと言っていた時に、
私は少しでも良くなってほしいと、足をさすったことがありました。
祖母は「ありがとう、お前がさすってくれたから痛くなくなったよ」と、
言ってくれました。
今から思えば、本当はまだ痛かったはずです。
私をがっかりさせないように言ってくれたのだろうと思います。
また、悪化する前に、祖母と母と私で銭湯に行った帰りに
母に「お母さんは先に帰るから、おばあちゃんと二人で
   ゆっくり歩いて帰ってきなさい」
といわれ、普通だったら10分もかからない距離を
祖母と二人でゆっくり歩いて帰ってきました。
その時に祖母は私に「一緒に歩いてくれてありがとう」
と言ってくれました。

昭和50年代に、がんの進行も進み、
歩くこともままならない状態の祖母が
自宅でぎりぎりまで過ごせたのは、
往診に来てくれた医師がいたからです。
その先生夫妻(奥様も医師)は私も診てもらっていましたが、
人情味のあるかたで、
しかも、眼科・耳鼻科・歯科以外は、
ほとんどに診療科目をみれたし、
診療所にでしたが手術の腕もある先生でしたので、
その先生の存在があったことも大きかったと思います。
私は、その先生夫妻以上に信用できる先生に
いまだに会ったことがありません。

そんな祖母も、自宅で看るのが限界になり、
近所の病院へ入院しました。
祖母は最後まで意識はしっかりしていたようです。
最後は、心不全を起こし、祖父に見守られて
永遠の眠りにつきました。


本当のことを知らされていなかった私には、
祖母の死は突然過ぎたので、
とてもショックを受けて、泣き続けました。
中学1年の冬でした。


祖母亡き後、祖父は生きる気力を無くしてしまいました。
体調を崩し、独りで歩くこともできなくなりました。
さらには認知症も発症しました。
記憶があいまいになり、
叔父が近所に一戸建てを購入して
祖父と叔父と叔母が移ったのですが、
新しい家を自分の家と認識できず、
前に住んでいたアパート(私の家の隣)に
不自由な脚で帰ってくることが何度もありました。
徘徊することもあり、通りがかった近所の人が
家まで連れてきてくれたこともありました。
食事も自分で食べることができなくなりました。
そんな祖父の口癖は「ばあさんのところへ早く逝きたい」でした。

当時は、認知症の人への対応など浸透してませんでしたから、
叔母は祖父によく怒っていました。
私も、強い口調で祖父に言った覚えがあります。
今なら、もっと違うことを言えたのにと思うことがあります。

そんななか、叔父は、祖父が家の中を
少しでも自由に歩けるようにと
自分で手すりを取り付けていました。
また、後からきいた話ですが、叔父は
夜勤明けでも(24時間稼働の工場に勤務していました)
祖父を近くの公園に連れれ行って、
煙草を吸わせていたそうです。
祖父は趣味が無く、酒とたばこが大好きだったのですが、
医者から両方とも止められてしまったので、
祖父には何もなかったのだと思います。
そんな祖父に叔父は
散歩の時にせめて1本だけでもと
思ったのかもしれません。
近所のかたが母に、
「あなたの弟さんはすごいわね」
と、言っていたそうです。
お風呂も叔父が介助して入れていたそうです。
 
 
叔母も大変だったと思いますが、
叔父は仕事の合間に祖父の介護をしていたにもかかわらず、
 いつも穏やかでした。(怒らせると恐いですが)
実は、祖母は3回結婚しています。
最初・2度目の夫とは死別です。
ですから、母と叔父と叔母は父親が違います。
母も叔父も、祖父には『何もしてもらっていない』といっていました。
それでも叔父が祖父を介護したのは
「おふくろ(祖母)を最後まで看てくれたから、おれは親父も看たんだ」
と、よく言っていました。


祖父は、自宅の階段を最後の2~3段を踏み外し、頭部を打ち、
数時間後に意識を失いました。
交通事故で脳挫傷をしたところを再び損傷したそうです。
手術をしましたが、意識が戻ることなく、
私の両親・叔父・叔母に見守られて、
祖母のもとへ旅立ちました。
私がもうすぐ高校2年生になる春でした。


祖父母が亡くなると、ほどなくして、
叔父は遠方へ転勤になりました。
叔父と叔母は結婚適齢期に両親の介護をしていました。
叔母は、35歳の時に叔父の親友と結婚して、
ジュビロ磐田のサポーターをしている息子が一人います。
よく旦那さんの悪口を聴かされますが、
それなりに幸せな生活を送っているように見受けられます。

しかし、叔父は、結婚の機会に
巡り合うことはなかったようで独身のままでした。
定年退職後は、購入した家に私の一家が留守番していたこともあり、
何よりも私の母を大切にしてくれていたので、
私たち一家をそのまま住まわせてくれて、
自分は隣の県にワンルームマンションを購入して
マイペースに生活していました。
叔父も叔母も長姉の母が幼いころは面倒をみていたそうなので、
ふたりとも母には一目置いています。
 
妻子のいない叔父の老後については
私は出来るだけのことはしようと考えていました。
祖父母を看ていた叔父の姿をみていたことや、
私が大人のなっても、幼い時と同じように
相談に乗ってもらったり
本気で怒ってくれたりして、
大切にしてもらっていたので、
そうすることが当然のことと思っていました。
私にとって叔父は、歳の離れた兄貴のような存在でした。
そして、頼りになる大きな大きな存在でした。


しかし、想像をしていなかった展開になりました。


叔父が電話で、食べても吐いてしまうと言い出したのです。
母も私も電話で何度も「病院へ行ってくれ」と言ったのですが、
大の病院嫌いの叔父は行こうとしませんでした。
当時、私の父が肺がんになり、
手術が受けられるかどうか通院で何度も検査をしてた時でした。
その時に、叔父は母に
「兄さんの治療代に使って、足りなくなったらいつでも言って」と
30万円のお金を渡したそうです。
私の父は、手術を受けることができました。
しかし、叔父の体調は悪化し、
管理人さんに付き添われて近所の診療所へ行ったときは、
そこでは看れないと、大きな病院を紹介され、
翌日、叔母と親友(叔母の夫ではない人)とその病院へ行き、
検査をして手術を受けましたが、
胃がんで手の施しようがないほど進行していました。
2週間だけ、マンションへ帰ることができましたが、
再入院し、食べることも飲むこともできず、
歩くこともできなくなり
癌の痛みに苦しみだしました。
その病院の痛みの緩和方法は『モルヒネ』でした。
私は、『時代遅れ過ぎるっ!』と思いましたが、
叔父には緩和ケアのある病院へ移す手筈を整えるのを
まっているだけの時間がなく、
例え出来たとしても、車での移送に叔父が耐えられないのは
叔父を看ていてわかりましたので、
残された時間を穏やかに過ごせるようにしてあげることが
出来なかったことが、とても悔しかったです。
私は、休みの日は必ず叔父のところへ行っていました。
飲みたがっていた『いろはすオレンジ』を持って
少し口にふくませてあげることしか、
私にできることはありませんでした。
休日にたまたま休みだった私は、母と叔母を休ませようとして、
二人の代わりに姉と二人で叔父の病室へ行きました。
 叔父はすでに、意識がもうろうとして、うわごとを言ってました。
酸素マスクをしてお腹も腹水で膨れ上がって、
テープ式の紙おむつをしていました。
パジャマのズボンははいてませんでした。
腹水でお腹が膨れ上がって、パジャマのズボンのゴムがきついと言っていたので、
数日前からはいていませんでした。
介護職として様々な方の介護をしてきましたが、
叔父の姿にとてもショックを受けました。
それでも、
 「おじちゃん、かたつむりだよ、いろはすオレンジ持ってきたよ。飲む?」
と、大きな声で話しかけたら、私の顔をみて笑ってくれました。
「おお、来たか、飲む」
と言ったので、吸い飲みに少量いれて、少し口に含ませました。
しかし、飲むことは出来ないので、
ほどんど口元のつけたガーグルベーズのなかに流れていきました。
「もういい、ありがとう」
それが、叔父が私にかけてくれた最後の言葉でした。
ガーグルベースを洗って戻ると、叔父はうわごとを言い続けていました。
ベッドのそばで立ち尽くした姉が、
『おじちゃん、仕事してるみたいだよ』と言いました。
叔父は、うわごとで仕事のことをずっと言い続けて、
時折、『苦しい』とか『痛い』と言うので、
そのたび、声をかけたり、痛いというところをさすっていました。
もう、叔父とは話ができないんだ・・・と、
覚悟をしなければならないと思いました。
翌日、叔父は急変し、職場の好意で私も病院へ行くことができ、
みんなに見守られて、叔父は旅立っていきました。
最後の叔父は素敵な笑顔でした。

叔父が旅立って来月で4年になります。
いまだに『いろはすオレンジ』をみると
病床の叔父を思い出します。
 
 
叔父を見送った時に、
『在宅を仕事をしたい、ケアマネの仕事をしたい』と、
本気で考えるようになりました。
祖父母と介護する叔父と叔母の姿、叔父の末期の姿が、
それらが、私のケアマネとしての原点なのだと思っています。


とても長すぎる文章になってしまいましたが、
書かせていただきました。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

では、仕事します。(おいっ!熱はっ!!)




拍手やコメントをくださったかた
ありがとうございました。
コメントのお礼のお返事は
後日改めて書かせていただきます。
ご了承くださいますようお願いいたします。
いつも、お返事が書けず、本当に申し訳ありません。
(また今回も書けなくて、本当にごめんなさい。
             いつになったら書けるんだ??)
 
 
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利用者様の気持ちに『共感』できるのか?

先週はずっと体調が悪くて
身体がだるくて倦怠感がひどくて
とてもつらかったです。
家で仕事の追い上げが全くできませんでした。
昨日は訪問があり出勤となったので
昨日の代わりに、水曜日に休みを取ったのですが、
『呼吸器科』と『神経科+内科』の受診で出かけた以外は
ずっと寝てました。
まあ、5か月も平均3時間睡眠の生活をしていたら
身体もおかしくなりますよね。
私は『神経科+内科』『呼吸器科』『整形外科』と
3か所病院通いしてまして、
基本、身体は丈夫ではないんです。
だから、今回はかなりの無理をしています。
サプリメントもろもろいろんなもので
身体をごまかしながらやっています。

とりあえず、少し身体が落ち着いたので
また追い上げ再開です。
事務処理のコツをつかんで早く30件担当しないと、
減給のままなので、自己破産してしまいますんで。

今日は追い上げに加えて、
姉の確定申告の計算があるので
また徹夜覚悟です。
そんなわけで、またコメントの返事が書けません。
本当にごめんなさい。


コメントをくださった方々から
身体のことを心配していただきまして
本当にありがとうございます。
今後のことは、ご指摘の通りと思っております。
そのことも視野にいれて、
今後のことは考えていきたいと思います。
本当にありがとうございます。


前置きが、かなり長くなりましたが、
先日、責任者(=社長)から
「かたつむりさんは、ご利用者のことを
 客観的に観ることができるからすごいよね。
 でも、ご利用者の気持ちに
 もっとよりそうことが必要だよ」
と、言われました。

正直、「はあ?」って思いました。


援助技術の本などにも載っていますが、
『ご利用者様の気持ちに寄り添う』とか
『ご利用者様の気持ちに共感する』とか
よく言いますが、
これって、本当にできると思いますか??


私、これってとても難しいことだと思ってます。
っていうか、私は、現実的は出来ないと思います。


こんなことを書くと、『お前は、ケアマネ失格だっ!!』と
言われそうですが、それでも書きます。
私は『クライアント』『患者』の立場にも立ったことがあります。
その経験上からも感じてます。


以前にも書きましたが、私は11年間うつ病でした。
仕事ができなくなり
2度自宅での療養生活をしたこともあります。
『この世から消えてしまいたい』とまで
思ったことがあります。
希死願望も出たことがあります。
精神的不安が身体に出てしまい、仕事に行けない時もありました。
そういう、うつ病患者の苦しさを、
看護師さんを含めて患者でない人に
「辛いよね、苦しいよね」と
簡単に言われると、かえって不快になりました。
「あなたに、この苦しさの、何がわかるっ!」
て、本気で思いました。
逆に、うつ病であっても、
昔通りに変わらずの接してくれた
親友たちのやさしさに慰められました。


重度の貧血や大量下血で緊急入院した経験もあります。
入院して数日は絶対安静なので、
トイレはポータブルトイレで、看護師さん付き添いでした。
部屋は多床室です。
そんな状態で、人の前で、ポータブルトイレで
用をたすことがこんなに辛いことなのかと
実際に自分が経験してわかりました。
移動も車いすです。
長い時間車いすに座っていると腰やお尻が痛くなります。
車いすに長時間座っていることは
こんなに大変で苦痛なのだと知りました。


そんなことから、その人の辛い思いを経験していない人間が
たとえ、福祉専門職であっても
その人のおもいに『共感』することは
現実的には不可能だと私は思っています。
安易に「お辛いですよね、そのお気持ちわかります。」
なんて、私は口が裂けても言えません。
たぶん、私たちが想像を絶する
苦しさや辛さを利用者様やその家族は抱えていると思います。
そこを認識せずに、
『利用者様の気持ちに寄り添う』とか
『利用者様の気持ちに共感する』なんて、
支援者の思い上がりだと思います。


あえてきつい言い方をします。
当たり前のように高校に進学し、
当たり前のように大学に進学し
当たり前のように希望の福祉業界の支援者の仕事に就職した人が
明日の食べ物の心配をして生活する人の気持ちがわかるのでしょうか?
経済的理由で高校に進学することができない人も沢山いるんです。


昭和50年代、『寝たきり老人』と言う言葉が出始めたころです。
『痴呆症』と言う言葉もこのころから出てきたように思います。
居宅での介護の支援制度は全くありませんでした。
当時小学生高学年~中学生だった私は、
今のような社会資源のない時代に
同じアパートの隣に住んでいた
祖父母を自宅で介護していた、叔父と叔母(母の弟と妹)を
子どもながら、間近でみてきました。
その時の叔父と叔母の姿が
今の支援者としての私の原点だと思っています。


最近、とても大きな誤解をしている『支援者』を
たくさん見てきたので、書いてしまいました。
かなり、辛口ですが、本音です。
訂正する気は全くありません。


では、仕事します!!



拍手やコメントをくださったかた
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コメントのお礼のお返事は
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誰も信じられないけれど、利用者様は裏切りたくない。

土曜日は、職能団体の研修に行ってきました。
やっぱり、研修は参加してみるものですね。
とても勉強になりました。


でも、会場が遠いところだったし、
元々疲れがたまっていたので、
今日は午前中は体調が悪くてずっと寝てました。
音楽教室も休みました。
午後から少し仕事をしようかと思ったら、
従姉が遊びに来たので仕事はできませでした。
こんばんは徹夜をしようかと思っていますが
さて、できるのか???


11月から3時間睡眠で事務仕事をしてきましたが、
どうやら身体が限界を超えてしまったようで、
先週は夜は起きていることができませんでした。
仮眠して、夜起きて仕事をしようかと思ったのですが
記憶にないのですが、目覚まし時計を止めて寝てしまったようで、
気がついたら朝だったということが何度もありました。
目覚まし時計で必ず目が覚めていたのですが、
こんなことは初めてです。
だけど、 こんな生活を続けていたら
身体も悲鳴をあげますよね。
よくここまで持ったと我ながら思うけど、
書類の山は減ってません。
みんな、どうやってるんだろう????



先日、管理者(=社長)と衝突しました。

以前に書いたメールのことを再度言いましたが、
管理者は
「あのときは、かたつむりさんが
 精神的に追い詰められていたからあのメールを送った。
 でも、そのあとの『大丈夫です』といったから
 書類の追い上げを指示した」
とのこと。
そのうえで、逆切れされました。


共通の知人に愚痴を言ったら、
一度会って話をしようを言われたので
会ってみたら、一方的に私が悪いと
2時間半怒られました。


全部、私が悪いそうです。


正直、とても傷つきました。


私は、『管理者の言葉を信じてはいけないのだ』と
しみじみ思いました。
また、知人は、前職場で一緒に仕事していから、
私の性格をわかっているだろうに、
100%管理者が正しいという前提で物事を判断しているので、
彼女も信じてはいけないのだと、思いました。


ケアマネとしての私は、
信頼できるひとがいない状態になりました。


信じられるのは自分自身だけ。
管理者に仕事の相談をして、その通りに動いても
また2転3転し、結果、私のミスになるんだ、と、
その前提で仕事をしなければいけないのだと
思うことにしました。


転職することも考えました。
でも、利用者様やその家族と離れたくないし、
利用者様のことを無責任に
放り投げることはしたくありませんでした。
どんな理由であれ、退職することは
担当している利用者様とそのご家族のことを
途中で放棄することと同じだと思ったのです。


だから、今の職場でもう少しがんばることにしました。


だれも、信じられませんが、だからといって、
利用者様とその家族を裏切るような行動だけは
取りたくありません。
なぜなら、私は、その人たちの人生を左右しかねない
立場にいるからです。


それが、ケアマネージャーの立場なのだと、知ったから。


その想いと、利用者様の笑顔に支えられて
今の私はどうにか立っているような状態です。


我ながら、馬鹿だと思いますが、
自分なりの信念がなければ、ケアマネの仕事は続けられないと、
ケアマネの仕事に就いて初めて知りました。




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静かに祈りたい

土日で事務処理の追い上げをするつもりでしたが、
体調の限界が来たようで、
ヘトヘトになりまして、金曜日の夜は仕事はせずに寝ました。
土曜日は病院とカウンセリングとマッサージに行きましたが、
睡魔に負けてしまいまして、それ以外は寝てました。

今週の前半はあまり外出予定が入っていないので、
そこで少しでも巻き返しができればと思っています。


昨晩、あるご利用者様(A様)の娘さんから連絡ありました。
A様が金曜日に他界されたとのことでした。


ケアマネになって、利用者様とのはじめの永遠の別れです。



今月の上旬にAさんのモニタリング訪問で、自宅に伺ったのですが、
チャイムを何度鳴らしても応答が無く、
ドアは鍵がかかっています。
電話を何度もかけても話し中。
Aさんは進行性の難病で、体調があまりよくなかったので、
一人で外出することは絶対できない状態だったので、
とても嫌な予感がしました。
近所に住む娘さんに連絡をとり、状況を説明したところ、
外出中の娘さんの代わりに、お孫さんが来てくれて
ドアのカギを開けてくれました。
部屋に入ると、ベッドで倒れているAさんを見つけました。

意識はありましたが、苦しい、声が出ないとおっしゃり、
娘さんと連絡を取り、救急搬送しました。


後日、お見舞いに行こうと娘さんに連絡を取ったら
集中治療室にいるので、家族以外面会ができないとのことでした。

その後、全く娘さんから連絡が来なかったので
心配になって私から連絡を取ってみたら、
深刻な状況になっていて、
尿が出なくなってきているとの話を聴いたとき、
もう無理だと、思いました。


Aさんには、サービスの追加を何度か提案しましたが、
『今のままで大丈夫よ』と言って、
サービスを増やそうとしませんでした。
自分でできると言ってましたが、
とても出来る状態ではありませんでした。
でも、自分でできることは自分でするという意思が強いかたで、
それ以上に、サービスが増えることを恐れていたように感じていました。
サービスが増えるということは、
自分でできることは少なくなっていくことであり、
それはつまり、自分の病気が進んだことになるからです。
だから、Aさんはサービスが増えることがこわかったんだと思います。


ある日訪問した私に、Aさんは、
「何年かぶりにおはぎをつくったの、まだ、自分でつくれたのよ」と
とてもうれしそうに話されていました。
その時、私は、
『Aさんは、自分のことを自分ですることで、私はまだ大丈夫と思いたいのだ』
と、受け止めました。
それからは、訪問のたび
「Aさん、無理はしないで、辛くなったらいつでも言ってください。 
 ヘルパーさんも、看護師さんも、すぐに調整しますから」
とは言いましたが、積極的にはサービス追加の提案はしませんでした。
Aさんの気持ちを尊重しようと決めたのです。

私の支援の方法がよかったのかはわかりません。
他に良い対応があったのかもしれません。
ただ、だれもいない家で、独りで最後を迎えるのではなく、
病院ではあったけれど、娘さんに見守られて旅立たれたので
良かったと思っています。


訪問のたびに、たわいのない話をたくさんして、
笑って私に付き合ってくださったAさん。
5か月という短い間でしたが、Aさんの生きざまから
沢山のことを教えていただきました。

感謝の気持ちでいっぱいです。

Aさん、ありがとうございました。



拍手やコメントをくださったかた
ありがとうございました。
コメントのお礼のお返事は
後日改めて書かせていただきます。
ご了承くださいますようお願いいたします。
いつも、お返事が書けず、本当に申し訳ありません。
(また今回も書けなくて、本当にごめんなさい。)
 
 
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上司が信じられなくなったとき

こんばんは。


ただいま徹夜中です。

ここ1週間は身体が『いいかげんにしろっ!』と言ってきまして、
徹夜したくても、睡魔に負けてしまい、
追い上げが全くできませんでした。
いつもなら目覚まし時計で起きることができるのですが、
夜中の1~2時に起きて仕事をしようと思っても
気がついたら目覚まし時計を止めて寝てしまって、
朝になっていたということが
毎日続いていました。

今日は、1時間の仮眠をとって、どうにか起きることができました。
カフェインいっぱい入れながら仕事してます。
この1週間の遅れを取り戻さなければっ!


これは、ケアマネに限りませんが、
仕事をするうえで、職場の人との信頼関係は
とても大切だと思っております。
職人の両親の気質を受け継いだようで、
古くからの友人たちから見ると、
私は、自分にとても厳しいらしいです。
私自身は、意識はしていないのですが、
仕事を共にしていくうえで、
どうしても受け入れられないタイプの人がいます。
以前にも書きましたが、
『自分の発言に責任を持てない人』はまずダメです。
また、もうひとつのタイプは、特に上司や先輩ですが、
『命令や指示が二転三転して、毎回言うことが変わり
 しかも、以前に言った言葉を忘れているのか、
 棚に上げているのかわからないけれど、
 前の指示で動いた部下や後輩に、
 間違っていると、注意する(怒る)人』
です。

この2つのタイプは大体あわせもっていて、
周囲を混乱させます。

ちなみに、そういう先輩や上司に対しては
私は、大体毎回衝突していました。
結果、クビになったこともあります。
まあ、あんな会社はこっちから願い下げですがね。

とにかく、仕事に支障が出るので迷惑です。


今の職場の責任者(=社長)が
残念ながらそういうタイプで、とても困っています。

自分にも責任はあると思いますが、
事務処理はたまってしまった要因のひとつには
経験3か月の頃に、事務処理がたまって
家に持ち帰って仕事をしていた私が、
責任者にメールで弱音をはいたら、
「仕事は家に持ち帰らないで。
 事務処理はあとから追い上げられます。
 何とかなります。っていうか、何とかします。
 かたつむりさんの体調が第一です。
 だから、事務処理で無理して体調を崩さないでください」
と、メールで返信してきました。
責任者の言葉を信じて、無理をするのをやめました。
しかし、一月後、あることで、某利用者様の書類一式が必要になりました。
責任者の言葉通りにしたので、とうぜん、書類作成はたまった状態です。
私は、書類作成ができていないことを伝えると、責任者は
「書類作成は、ケアマネの義務です。今日中に書類をそろえて。」と
夕方に言われました。
ひと月の間で、言っていることが180度変わりました。
仕方がないので、その夜は徹夜してそのかたの書類を作成しました。
私が、言っていることが違うといっても、
「書類作成はケアマネの義務だから」と言うだけです。
そこから、連日の睡眠3時間の生活が始まりました。
そして、今、体調を崩しています。
だましだましで仕事をしています。
そんな私に、責任者は、
「かたつむりさんの体調が心配。無理しないで」
と、言ってきます。
もとはと言えば、てめえの無責任な発言がもとでこうなったんだぞ!!
と、正直頭にきています。


たまった書類を片付けていくとそれ以上の仕事が来ます。
担当件数が増えていくのですから当然です。
11・12・1月と担当者会議が
10件あったので、初心者にはきついです。
今から思えば、
件数の少ないうちに、効率よく事務処理をする方法を
つかんでおけばよかったと後悔していますし、
責任者の言うことを聴かずに、
毎日残業してでも、家に持ち帰ってでも
事務処理をしておけばよかったと後悔しています。


他の仕事のことでも、このようなことが多くて、
私の仕事に支障が出ています。
責任者の指示で処理をしたので、
言うことが変わってしまって、また注意される。
こんなことの繰り返しなので、とても疲れました。

このまま、ここで働いていていいのか・・・。
これから先のことを、考えないといけないな・・・と、
思ってます。

利用者様と離れるのがさびしいですが、
自分がつぶれないようにするためには
自分で自分を守るしかありませんので。

母が言ってました。
「一生懸命仕事をして、それであんたが倒れても
 会社はあんたの面倒は見てくれないんだから」と。

では、また、徹夜に戻ります。



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ケアマネ不要論

おはようございます。

今日は土曜日で、本来ならば休みなのですが、
訪問が1件入ってしまったため、
病院の定期受診後に仕事に行きます。
午後出勤として、別の日に半休を摂ろうとしたのですが、
スケジュール上難しそうなので、
今日中にやるべき仕事を終わらせたら帰ってきて、
他の出勤時に時間調整をしようと思ってます。
なぜなら、ウチは実質残業代が出ないからです。
ウチの管理者(=社長)曰く、
「きちんと、効率よく仕事をすれば残業はせずに仕事ができる」
とのことです。
就職時には、そういうものかと思ってましたが、
実際に仕事をしてみると、きちんと仕事やろうとすればするほど、
時間が足りなくなります。
その結果、今の手つかずの事務処理が山盛り状態です。



よく、『ケアマネ不要論』と言う言葉を聴きます。

介護職時代は、どうしてそんなことを言うのか不思議でした。
しかし、自分はケアマネになって、仕事をして、
言われる理由がよくわかりました。
『ケアマネが専門性を持って仕事をしていない』
現状がよくわかりました。


何件か他事業所から引きついだケースがありますが、
モニタリングに行き、話を聴くと問題が山積で、
でも前任のケアマネからは、そのことについて
何の情報もありませんでした。
伝えるの忘れていたのか、知らなかったのかよくわかりませんが、
どうして、こんな大切なことを放置していたのかと
怒りを通り越してあきれてしまいます。


また、引き継いだ利用者様が、介護保険のことを全く理解していないし、
ケアマネの役割も理解していないことをよくあります。
これは、一から説明が必要だと思うこともしばしばです。


各サービス事業所が連携をとれていなかったということもあります。
そんなわけで、情報共有作りから始めるわけです。

これって、全部ケアマネがそれなりに仕事をしていれば
クリアできることばかりです。

これじゃ、『ケアマネは要らないよ』という声が上がっても仕方がないと思います。

ちなみにこれらのケースはすべて、
ウチの管理者曰く『仕事ができる人』から引き継いだものです。

わたし、先日、やっと経験半年になったばかりですがっ!!


先日の新任者実務研修で、講師の先生が
「ケアマネ不要と言われているが、
 本当に要らないと判断されることになりかねない現状がある。
 それだけ、皆さんは、専門性を意識して
 仕事に取り組んでほしい。」
と、言ってました。
ここまでは、いろんな人が言ってますが、この先生が違うのは、
「皆さんにお願いしたいことはあります。 
 今後、自分の職場に後輩が入ってきたときは、
 その後輩が悩んでいるときは一緒に考えてあげてください。
 そうすることで後輩は孤立感もなくなります。
 そして、仕事の仲間が増えていきます。」
とのことでした。
私がずっと思っていた、
事業所で人材を育てる力をつける必要性を
はっきりと言ってくれた人に初めて出会いました。
 

これから利用者になる団塊の世代は
ある程度のことはインターネットで調べることができます。
鋭い質問も多くなるでしょう。
人によっては、自分でプランを立ててしまうかもしれません。
そんななかで、ケアマネージャーどうあるべきなのでしょう?


ケアマネージャーは、制度のことだけではなく
専門家として、その人の本当のニーズを知ることができるか、
そして、専門家として、具体的な提案ができるかが
求められていると思います。
その為にも、しっかりとしたアセスメント力が必要になってくるのでしょう。


そのことを常に意識しながら、仕事をしなければならないと
感じている今日この頃です。


では、これから、病院に行って、仕事してきます。
 
 
 
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何様のつもりだ!某包括!!

昨晩は徹夜するつもりだったのですが、
もう、身体が限界で、途中途中で寝てしまい、
朝食後も寝てしまい、気がついたら10時でした。
そんなわけで、たまった事務処理は、
昨晩から午前中はあまり進みませんでした。

今日は音楽教室はあきらめました。
行きたかったなぁ~(><)


先日救急搬送されたのおばあちゃまの病院への書類持参は、管理者が
「必死に治療しているときに、在宅復帰の話はおかしいから、
 病院と連絡を取って話を聴いて、
 持っていくタイミングは、かたつむりさんに任せる」
と、話が変わりました。
たぶん、また、変わると思います。


ウチの管理者は、指示や助言の内容が二転三転します。
本人が自覚があるのかどうかよくわかりませんが、
話がその都度かわるので、仕事で困ることが多々あります。

しかし、ケアマネとしては優秀らしいので、
「○○さんから色々を教えてもらえるからいいわね」
と、みんなに言われます。
私は笑って、あいまいに答えていますが、
『指導』らしい指導は、受けたことがありません。
基本は、『私が質問すると答える』と言う形です。
だから、私が疑問に思わず、質問しなければ、そのままです。
はっきり言って恐いです。


金曜日に某包括の所長から電話があったそうです。
『スーパービジョンの研修があるから、
 Aさんの資料を提供してほしいとのこと』

Aさんは、その包括もかかわっている方なんですが、
初心者一か月で担当になった時から、私には
色々と大変でどこから手を付けたらいいかわからない状態でした。
そんな直後から、某包括は、早く対応するように、
私をけしかけてきました。
私が、あることを家族に提案して、その返事を待っている間も
「かたつむりさんは何もしていない」
と、言われ、更には、
私の知らないところで、色々と動き、
介護保険のことなのに、
家族やサービス事業所にとって、
二か所から話が来るような
異常な状態になっていました。
混乱した状態を立て直すのに必死になっていたら、
今度は、某包括から困難ケースとして
Aさんのことを地域ケア会議で話し合うと言い出しました。
正直『困難な状態にしたのはお前らだろうっ!!』
と、思いました。
私のケアマネとしての支援の方向性はすでに決まっていたし、
担当者会議でも話して、了解を得ていたのに、
かき回されたわけですから。
ずっと、私が対応していないと遠回しに何度も言われましたが、
『私は自分の信念をもって利用者様とその家族をみて支援している』
と自信が持てるようになったので、
何を言われても、その都度ぶった切るようになってました。
そして、地域ケア会議で、某包括の所長から
あれやこれやと言われましたが、
私は、「こう思うので、この支援をしてきます」と、
間を入れずに、ぶった切るように、
自分の考えを言い続けました。
たぶん、私が一番話をしていたと思います。
地域ケア会議というより、私のケアプランの説明と質問に答える時間
となっていたよう思います。


そんなわけで、私としては、スーパービジョンを
まったく受けていないですし、
逆に、一方的に非難されて足を引っ張られたという、
嫌な記憶しかないのですが、
某包括の所長はスーパービジョンをしたつもり満々で
私に資料提出求めてきたようです。



何様のつもりなんでしょうね。


今日、管理者に、メールで
スーパービジョンを受けていないのに
なんで資料提供しなければならないか?
納得できないし、不愉快です。
という内容のメールを送りましたが、
『期限内に提出しなさい』
との返事でした。


私が、某包括の対応に苦しんでいるのを
管理者も見ていたはずなんですがね・・・。
忘れてしまったんでしょうね。


まだ、某包括の所長に連絡をしていませんが、
今の私は、何を口走るかわかりません。
プライベートなら、立ち直れないくらいまで
叩き潰すんですけどね。
仕事だから、ほどほどにしておきます。


そんなわけで、某包括の所長のおかげで、
貯めてしまっていたAさんの書類作成を
今晩中にやらなければなりません。
ほかに急ぎの仕事がいっぱいあるんですが・・・。


なんで、あの某包括の為に
徹夜しなけりゃならないんだよっ!!
まったく、頭にきます。


こんな包括ばかりではないことを信じたいです。


では、仕事に戻ります。


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何のための医療連携加算??

最近は、徹夜したくても、
身体が言うことを聴いてくれず、
睡魔に襲われて寝てしまったり、
目覚ましをかけても起きられない状態が続いています。
書類の追い上げをしたいのに
身体がついてきてくれません。
ウチの責任者(=社長)は
「かたつむりさんのペースでゆっくりとやって」
と、言ってますが、
5万円も減給されては、死活問題です。
このような状態が何カ月も続いたら
自己破産してしまいます。
だから、かえって追い詰められています。


昨日も、新任者研修でした。
同じグループの人達は、
先輩の訪問に同行して、
どのようにアセスメントやモニタリングをしているか
実際に見せてもらっているそうです。
また、アセスメントを取り方などの指導をしてもらっているそうです。
私は、そういうことは一切なく、
すべてぶっつけ本番でやってきたことを話すと
みんな驚いていました。
最初は同席してもらっていましたが、すべて自分で聞き取りでした。
ウチの責任者がどのようにアセスメントやモニタリングをしているのか
みたことがありませんので、イメージがわかず、
自分なりに模索しながら、やっている状況です。

事業所でずいぶん差があるものだと思いました。
 

おととい、ある独居のおばあちゃまのお宅にモニタリングに伺いました。
しかし、インターホンを何度も押しても応答なし。
電話をしてみても話し中。
そんな状態が15分続きました。
とても嫌な予感がしました。
そのかたは、進行性の難病で、今体調が悪く
一人で外出することは考えられないのです。
そのため、近所に住む娘さんに電話をして、状況を説明しました。
娘さんは、外出中で、すぐにはいけないとのこと。
私が「私は、あと15分くらいはいます。娘さんもお帰りになったら、
一度様子をみにきてもらえませんか」
とお願いして電話を切りました。
しばらくすると、若い男の人がやってきました。お孫さんでした。
娘さんが、自宅にいる息子さん(孫)に連絡をして
様子をみるように言ったようです。
お孫さんがカギを開けて一緒に家に入ったら、
おばばちゃまがベッドで倒れていました。
意識はありましたが、身体を動かすことは出来ず、
声掛けに小さな声で答えるのがやっと。
「胸が苦しい」「声が出ない」と言っていました。
訪看に連絡を取ろうとしましたが、電話は休日対応でつながらず、
緊急加算がついているのに家のどこにも緊急連絡先がありません。
娘さんに再度連絡して状況を説明して、訪看の連絡先をうかがうも
知らないとのこと。
娘さんと相談して、救急搬送することにしました。
119番通報から、救急隊のとのやりとり、本人の情報提供などを
全て対応して、
お孫さんは救急車に乗るだけのという段取りをして、
某病院へ搬送していただきました。

そして、朝、娘さんから電話があり『入院』とのことでした。

ウチの責任者にメールで報告し、今後の対応を助言を依頼しました。
助言の依頼をしないと、責任者からは、
何の指示もアドバイスもいただけないからです。


責任者からは、
『医療連携加算がつくから、必要な書類を調べて、
 書類をそろえて明日にでも病院へ行って』
とのことでした。
明日、もう今日ですが、土曜日は本来は休みですが
私は、土曜日指定の訪問があり、午後半日出勤となっていましたが、
病院の地域連携室が空いていたとしても、訪問時間が取れないのです。
それでも、管理者は、時間を作って病院へ行ってとのこと。
午前中は、私自身の整形外科(腰と右足付根に持病あり)の受診日で
それをのがすと次の2週間後にならないといけないのですが、
仕方がないのであきらめることにしました。
しかし、書類の作り方がわかりません。
インターネットで調べましたが、書式は決まっていないけれど
書かないといけない項目が多いようで途方にくれました。
何せ、書き方がわからないんですから、本当に困りました。

そんなことを考えながら、娘さんと連絡を取りました。
病院にいくなら、おばあちゃまの見舞いをしたいと思ったからです。
しかし、おばあちゃまは容体急変で
ICUかCCUか聞き取れませんでしたが、
一般病棟から集中治療室に移り
家族以外の面会ができないそうです。

責任者にメールでその旨を伝えて、自分の受診をあきらめて
病院へ行く旨を伝えたら、
「かたつむりさんの病院受診を変更してまで、
 行かなくていい、本人の容体をみてかたつむりさんの
 タイミングで行ってください」
と、言われました。
そんなわけで、月曜日に昼食抜きで病院へ行く時間をつくるしかないかなと
おもいました。

しかし、集中治療室に入り、家族も駆けつけていている状態で、
ケアマネが、在宅の資料を持って行っても、
今はそれどころではないと思ったんです。
持病や病歴・主治医・服薬している薬は、
すべて救急隊員に持っていた書類や、
本人のお薬手帳を渡していますので、
今必要な最低限の情報はすでに伝えました。
あとは、娘さんの対応で十分できると思います。
資料が本当に今必要ならば行きますが・・・。

なんのための医療連携加算なのでしょうか??
確かに加算がつけば、事業所の売り上げになりますが、
集中治療室にいる患者さんの
居宅サービス計画書を持って行っても
失笑されるような気がします。
今は、ケアマネの出番は無いような気がするんですけどね。


わけがわからなくなってきました。


では、また仕事に戻ります
 
 
 
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なぜ私が踏ん張れるのか(ケアマネまでの道のり~私の遍歴2)

先日私が
『新人が入社4~5か月で30件持つのは本当?!』と
ぼやいたことに対して、ご助言をいただき
ありがとうございました。


すぐに上限を持たされるのは『普通』なんですね(^^;
いや~~~、おそろしい業界だと思いました。
居宅介護支援事業所は、
持っている件数が直接の売り上げになるのですから
まあ、当然と言えば当然ですが、
それでも、あえて言いますが、
段階を踏んで仕事を覚えなければ、
質の良い仕事はできません。
質の良い仕事ができなければ
専門性は高くなりません。
今の新人への一般的な事業所の対応は、
砂地に家を建てているような状態です。
基盤ができていない家は簡単に崩れます。
それが、今のケアマネ業界の新人に対する対応なんですね。


新人が、生き残れるかどうかは、自分次第ということなのでしょうね。


そんなことを書くと、
これからケアマネになろうとしている人は、
絶対に怯みますよね。
私も、かなりの覚悟をして
ケアマネの仕事に飛び込んだのですが、
ここまできついとは思いませんでした。
でも、ケアマネを辞めようと思ったことは
今のところは1度もありません。


それはなぜか・・・。


ケアマネの仕事に就くことは
私にとっては『当たり前』のことではなかったんです。

私は、11年間うつ病に苦しんでいました。
ある理由で医者をかえて、
「治った」と言われたのが、昨年の6月でした。
今も、少量ですが、抗うつ剤を飲んでますし、
精神安定剤も2種類服薬しています。

介護福祉士は、一番うつ病で苦しんでいた時期に
取得した資格でもあります。

ケアマネの試験の時も、体調は最悪でした。
それでも、行かなければ受からない、と思って
試験を受けて、受かることができました。

しかし、試験に受かっても、
『うつ病』であることで
ケアマネの仕事に就くことができませんでした。

ケアマネになって、うつ病になってしまう人もいると
聴いたことがあります。
だから、最初からうつ病の人は雇いませんよね。
一度目の転職にチャレンジした時は、
電話で病気のことを話したら、
面接もしてもらえずに断られました。

当時通院していた医師には
「かたつむりさんは、うつ病が完治することはない。
 だから、ケアマネの仕事に就くのは無理だ」
と、はっきりと言われました。


ケアマネの仕事に就くことは、私には
『叶わない夢』なのだと諦めたこともありました。

しかし、それまで、通院していた医師に
あることで不信感を持つようになり、
思い切って病院をかえました。
そして、その病院で「もううつ病は治っているよ」
と、言われました。
ただ、『(自閉症ではない)発達障害』と
『アダルトチルドレン』であると言われました。

『発達障害』の人の特徴を調べると、
どうやらケアマネは不向きの仕事のようでしたが、
医師から、
「かたつむりさんは、発達障害の人が不得意としてる部分を
 自分なりに工夫して克服しているんですね、とてもすごいことです。」
と、言われました。
そんなことを意識して生きてきたわけではありませんが、
みんなが1回で覚えられることを、
私は5回くらいはやらないと覚えられないし、
みんなと同じように何かをするためには
自分なりに工夫しないとついていけないから
その努力を続けてきただけなのです。

とにかく、うつ病が治ったことで、
ケアマネへの転職の大きな障壁がなくなり、
無事に転職をすることができました。


だから、私にとって、ケアマネの仕事に就けたのは
『奇跡』に近いのです。

一度はあきらめた『夢』が叶ったのです。
だから、多少のことではあきらめるつもりはありません。
私にとって、就きたい仕事をすることを
当たり前ではないからなのです。


だから、このあと、また仕事します。
住宅改修の理由書を書き上げなけれな・・・。


ただ、さすがに3時間睡眠は、
身体が持たなくなってきました。
4カ月もそんな生活してたら当然ですよね。

では、仕事に戻ります。


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