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ただ今、人生の仕切り直し中のケアマネ
プロフィール
HN:
かたつむり
性別:
女性
自己紹介:
心と身体を壊し、まだ人生の仕切り直し中のケアマネ。

保有資格:社会福祉士・介護福祉士・介護支援専門員。ついでに日商簿記2級・全商簿記1級
(Twitter@renrinoeda2)
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私の原点(ケアマネまでの道のり③)

昨日、毎週身体のメンテナンスに行くお店で
熱を測ったら、なんと、38度ありました。
自覚症状は、全くなしで、
発熱以外は何の症状もないのです。

今朝は、37.4度まで下がっていましたが、
午前中の担当者会議が終わったら
早退してきました。
何せ、明日から1週間は、
とてつもなく忙しくなります。
ほぼ同時に3件新規を受けたので、いつもより忙しくなります。
現在の担当件数は28件。
担当件数30件まであと二人です。
でも、近日中に入所などで2人が終了のなる予定なので、
あと4件は持ちたいです。
やっぱり5万円の減給は痛いです(><)。


昨日は、片道2時間かけて母と墓参りに行ってきました。
母方のお墓参りです。
以前は、家の近くのお寺にお墓があったのですが、
叔父が亡くなった時に、後を継ぐ者がいないため、
母と叔母が相談して、叔母の家の近くの(といっても車で30分)
霊園の共同納骨堂に移しました。


先日も書きましたが、母方の祖父母と叔父・叔母は、
家の近くに住んでいたため、
姉も私もかわいがってもらいました。
そのことに気がついたのは、
祖父のお通夜の時でした。大叔母が
「かたつむりちゃんは、おじいちゃんとおばあちゃんがいれば
 お父さんとお母さんいらないくらいだったよね」
と、言われ、その時に、
祖父母に大切にしてもらっていたことに気がつきました。
その時は私は16歳。
思春期の真っただ中で、色々なことがあって祖父と距離を置いていました。
気づいたときは、すでに遅く、
祖母も私は13歳の時に亡くなっているので、
私は、取り返しのつかないことをしてしまったと思いました。
何も恩返しができなかったと、今でも後悔しています。


その祖父母を介護していたのが、
叔父と叔母(母の弟と妹)です。
ふたりにもかわいがってもらいました。
子どもの頃は忙しい両親に代わって、
私を色々なところへ連れて行ってくれました。
そして、本気で怒ってくれます。
だから、私は二人には頭が上がりません。

昭和50年中ごろから60年の初めくらいまで
在宅介護に関しては何の制度のない時代に、
祖父母の介護ははじまりました。

ふたりの介護は、まず、祖母の癌から始まりました。
まだ小学生だった私は事情を知らず、
両親から「リウマチ」ときかされていました。
外科治療はできない状態だったようで、
入院中には、当時主流の『コバルト照射』をしていました。
当時の私は、『コバルト照射』=『癌の治療』と
子どもながらにわかっていたのですが、
祖母の病名に何の疑いも持っていませんでした。
あとからきいた話ですが、
姉も本当の病名は聴かされていませんでしたが、
たまたま、祖母の診断書類をみてしまって、
とてもショックを受けてたそうです。
姉は当時高校生。
どうしたらいいかわからなくて、
祖母の見舞いに行くことができなかったと言っていました。


やがて、祖母は退院して、自宅で過ごすようになりました。
しかし、横になって過ごすことが多く、
思うように歩くこともできなくなり
介助が必要になった為、叔母が仕事を辞めて
祖母の介護をするようになりました。
祖父ももちろん介護していましたが、
祖父一人では大変だったのだろうと思います。
30歳前後の年齢で叔父が一人で
一家4人の生計を支えることになりました。

そんな矢先に、祖父が交通事故にあいました。
頭部を打ち、脳挫傷となり、手術を受けました。
叔父と叔母は、同時に二人を介護することになりました。
母も祖父の病院に泊まって介護をしてました。
当時の病院では、24時間完全看護のところは少なく、
家族か家政婦さんが付き添っている時代でした。
そのため、叔父と叔母と母で協力して
ふたりを介護していました。
そのかいもあって、少し時間はかかりましたが、
祖父はリハビリをして、ひとりで歩けるまでに回復しました。

祖父が回復するにしたがって、
祖母の病状は悪化していきます。
右か左か忘れましたが、
半身が異常に浮腫んでしまっていたことを記憶しています。
それでも、祖母はいつも私に笑ってくれていました。
(ただ、祖母も怒るとかなり恐い人でした)
祖母は脚が痛いと言っていた時に、
私は少しでも良くなってほしいと、足をさすったことがありました。
祖母は「ありがとう、お前がさすってくれたから痛くなくなったよ」と、
言ってくれました。
今から思えば、本当はまだ痛かったはずです。
私をがっかりさせないように言ってくれたのだろうと思います。
また、悪化する前に、祖母と母と私で銭湯に行った帰りに
母に「お母さんは先に帰るから、おばあちゃんと二人で
   ゆっくり歩いて帰ってきなさい」
といわれ、普通だったら10分もかからない距離を
祖母と二人でゆっくり歩いて帰ってきました。
その時に祖母は私に「一緒に歩いてくれてありがとう」
と言ってくれました。

昭和50年代に、がんの進行も進み、
歩くこともままならない状態の祖母が
自宅でぎりぎりまで過ごせたのは、
往診に来てくれた医師がいたからです。
その先生夫妻(奥様も医師)は私も診てもらっていましたが、
人情味のあるかたで、
しかも、眼科・耳鼻科・歯科以外は、
ほとんどに診療科目をみれたし、
診療所にでしたが手術の腕もある先生でしたので、
その先生の存在があったことも大きかったと思います。
私は、その先生夫妻以上に信用できる先生に
いまだに会ったことがありません。

そんな祖母も、自宅で看るのが限界になり、
近所の病院へ入院しました。
祖母は最後まで意識はしっかりしていたようです。
最後は、心不全を起こし、祖父に見守られて
永遠の眠りにつきました。


本当のことを知らされていなかった私には、
祖母の死は突然過ぎたので、
とてもショックを受けて、泣き続けました。
中学1年の冬でした。


祖母亡き後、祖父は生きる気力を無くしてしまいました。
体調を崩し、独りで歩くこともできなくなりました。
さらには認知症も発症しました。
記憶があいまいになり、
叔父が近所に一戸建てを購入して
祖父と叔父と叔母が移ったのですが、
新しい家を自分の家と認識できず、
前に住んでいたアパート(私の家の隣)に
不自由な脚で帰ってくることが何度もありました。
徘徊することもあり、通りがかった近所の人が
家まで連れてきてくれたこともありました。
食事も自分で食べることができなくなりました。
そんな祖父の口癖は「ばあさんのところへ早く逝きたい」でした。

当時は、認知症の人への対応など浸透してませんでしたから、
叔母は祖父によく怒っていました。
私も、強い口調で祖父に言った覚えがあります。
今なら、もっと違うことを言えたのにと思うことがあります。

そんななか、叔父は、祖父が家の中を
少しでも自由に歩けるようにと
自分で手すりを取り付けていました。
また、後からきいた話ですが、叔父は
夜勤明けでも(24時間稼働の工場に勤務していました)
祖父を近くの公園に連れれ行って、
煙草を吸わせていたそうです。
祖父は趣味が無く、酒とたばこが大好きだったのですが、
医者から両方とも止められてしまったので、
祖父には何もなかったのだと思います。
そんな祖父に叔父は
散歩の時にせめて1本だけでもと
思ったのかもしれません。
近所のかたが母に、
「あなたの弟さんはすごいわね」
と、言っていたそうです。
お風呂も叔父が介助して入れていたそうです。
 
 
叔母も大変だったと思いますが、
叔父は仕事の合間に祖父の介護をしていたにもかかわらず、
 いつも穏やかでした。(怒らせると恐いですが)
実は、祖母は3回結婚しています。
最初・2度目の夫とは死別です。
ですから、母と叔父と叔母は父親が違います。
母も叔父も、祖父には『何もしてもらっていない』といっていました。
それでも叔父が祖父を介護したのは
「おふくろ(祖母)を最後まで看てくれたから、おれは親父も看たんだ」
と、よく言っていました。


祖父は、自宅の階段を最後の2~3段を踏み外し、頭部を打ち、
数時間後に意識を失いました。
交通事故で脳挫傷をしたところを再び損傷したそうです。
手術をしましたが、意識が戻ることなく、
私の両親・叔父・叔母に見守られて、
祖母のもとへ旅立ちました。
私がもうすぐ高校2年生になる春でした。


祖父母が亡くなると、ほどなくして、
叔父は遠方へ転勤になりました。
叔父と叔母は結婚適齢期に両親の介護をしていました。
叔母は、35歳の時に叔父の親友と結婚して、
ジュビロ磐田のサポーターをしている息子が一人います。
よく旦那さんの悪口を聴かされますが、
それなりに幸せな生活を送っているように見受けられます。

しかし、叔父は、結婚の機会に
巡り合うことはなかったようで独身のままでした。
定年退職後は、購入した家に私の一家が留守番していたこともあり、
何よりも私の母を大切にしてくれていたので、
私たち一家をそのまま住まわせてくれて、
自分は隣の県にワンルームマンションを購入して
マイペースに生活していました。
叔父も叔母も長姉の母が幼いころは面倒をみていたそうなので、
ふたりとも母には一目置いています。
 
妻子のいない叔父の老後については
私は出来るだけのことはしようと考えていました。
祖父母を看ていた叔父の姿をみていたことや、
私が大人のなっても、幼い時と同じように
相談に乗ってもらったり
本気で怒ってくれたりして、
大切にしてもらっていたので、
そうすることが当然のことと思っていました。
私にとって叔父は、歳の離れた兄貴のような存在でした。
そして、頼りになる大きな大きな存在でした。


しかし、想像をしていなかった展開になりました。


叔父が電話で、食べても吐いてしまうと言い出したのです。
母も私も電話で何度も「病院へ行ってくれ」と言ったのですが、
大の病院嫌いの叔父は行こうとしませんでした。
当時、私の父が肺がんになり、
手術が受けられるかどうか通院で何度も検査をしてた時でした。
その時に、叔父は母に
「兄さんの治療代に使って、足りなくなったらいつでも言って」と
30万円のお金を渡したそうです。
私の父は、手術を受けることができました。
しかし、叔父の体調は悪化し、
管理人さんに付き添われて近所の診療所へ行ったときは、
そこでは看れないと、大きな病院を紹介され、
翌日、叔母と親友(叔母の夫ではない人)とその病院へ行き、
検査をして手術を受けましたが、
胃がんで手の施しようがないほど進行していました。
2週間だけ、マンションへ帰ることができましたが、
再入院し、食べることも飲むこともできず、
歩くこともできなくなり
癌の痛みに苦しみだしました。
その病院の痛みの緩和方法は『モルヒネ』でした。
私は、『時代遅れ過ぎるっ!』と思いましたが、
叔父には緩和ケアのある病院へ移す手筈を整えるのを
まっているだけの時間がなく、
例え出来たとしても、車での移送に叔父が耐えられないのは
叔父を看ていてわかりましたので、
残された時間を穏やかに過ごせるようにしてあげることが
出来なかったことが、とても悔しかったです。
私は、休みの日は必ず叔父のところへ行っていました。
飲みたがっていた『いろはすオレンジ』を持って
少し口にふくませてあげることしか、
私にできることはありませんでした。
休日にたまたま休みだった私は、母と叔母を休ませようとして、
二人の代わりに姉と二人で叔父の病室へ行きました。
 叔父はすでに、意識がもうろうとして、うわごとを言ってました。
酸素マスクをしてお腹も腹水で膨れ上がって、
テープ式の紙おむつをしていました。
パジャマのズボンははいてませんでした。
腹水でお腹が膨れ上がって、パジャマのズボンのゴムがきついと言っていたので、
数日前からはいていませんでした。
介護職として様々な方の介護をしてきましたが、
叔父の姿にとてもショックを受けました。
それでも、
 「おじちゃん、かたつむりだよ、いろはすオレンジ持ってきたよ。飲む?」
と、大きな声で話しかけたら、私の顔をみて笑ってくれました。
「おお、来たか、飲む」
と言ったので、吸い飲みに少量いれて、少し口に含ませました。
しかし、飲むことは出来ないので、
ほどんど口元のつけたガーグルベーズのなかに流れていきました。
「もういい、ありがとう」
それが、叔父が私にかけてくれた最後の言葉でした。
ガーグルベースを洗って戻ると、叔父はうわごとを言い続けていました。
ベッドのそばで立ち尽くした姉が、
『おじちゃん、仕事してるみたいだよ』と言いました。
叔父は、うわごとで仕事のことをずっと言い続けて、
時折、『苦しい』とか『痛い』と言うので、
そのたび、声をかけたり、痛いというところをさすっていました。
もう、叔父とは話ができないんだ・・・と、
覚悟をしなければならないと思いました。
翌日、叔父は急変し、職場の好意で私も病院へ行くことができ、
みんなに見守られて、叔父は旅立っていきました。
最後の叔父は素敵な笑顔でした。

叔父が旅立って来月で4年になります。
いまだに『いろはすオレンジ』をみると
病床の叔父を思い出します。
 
 
叔父を見送った時に、
『在宅を仕事をしたい、ケアマネの仕事をしたい』と、
本気で考えるようになりました。
祖父母と介護する叔父と叔母の姿、叔父の末期の姿が、
それらが、私のケアマネとしての原点なのだと思っています。


とても長すぎる文章になってしまいましたが、
書かせていただきました。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

では、仕事します。(おいっ!熱はっ!!)




拍手やコメントをくださったかた
ありがとうございました。
コメントのお礼のお返事は
後日改めて書かせていただきます。
ご了承くださいますようお願いいたします。
いつも、お返事が書けず、本当に申し訳ありません。
(また今回も書けなくて、本当にごめんなさい。
             いつになったら書けるんだ??)
 
 
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