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私にとって、今年は大きく重い一年でした。
今年も残りわずかとなりました。
私は、新しい職場で、悪戦苦闘し、社長と時々ケンカしながら、それでも、以前と変わらずに『今の自分の全力』で、ご利用者様とご家族と向き合いながら、毎日仕事しています。
一度壊れた身体は、二度と元には戻りませんでした。
ですから、少しでも無理をすると、すぐに体調を崩します。
11月の初めに帯状疱疹になりました。
そのときに、『ここまで、体力も抵抗力もなくなっているのか』と、愕然としました。
前職場時代の自分の体力を『10』としたら、今の私は『4』くらいかもしれません。
今の体力のない身体とのつき合い方を、いまだに模索しています。
毎年自主的にやっていたインフルエンザの予防接種は、今年も体調不良でできませんでした。
あまりにも色々なことがありすぎた1年でした。
年明けからターミナルに入った父の介護と、前年からやっていた父のキーパーソンを、ケアマネの仕事をしながら必死にやった。
その時、自分の身体も本当にボロボロだった。
それでも、『父に残された時間はあとわずか。今動かないでどうする!』と、自分を奮い立たせて、本当に気力だけで必死に動いた。
そして、父は花が枯れていくように、静かに彼岸へ旅立った。
そんな父の最期を、自宅で母と姉と私の家族全員で看取った。
そして、父の遺言に従い、家族だけで静かに送った。
そのあとも、あまりにもいろんなことがありすぎて、私は心も身体も完全に壊れてしまった。
それでも、谷底に突き落とされた私は、今も必死に這い上がっているところです。
今までも、何度も絶望の淵に追い込まれ、谷底に突き落とされてきた。
そのたびに這い上がってきた。
だから、今も、ただ『地上に戻るため』に、空を見ながら這い上がり続けている。
これからも、這い上がってもまた谷底に突き落とされるだろう、何度も。
自分の人生が終わるまで、その繰り返しであろうことは、想像できる。
今までもそうだったのだから。
15歳の時に、家の経済事情で、大学や専門学校の進学をあきらめ、看護師になる夢をあきらめ、ランクを大きく下げて確実に合格する公立の商業高校へ進学した。
当時の我が家は、私が私立の高校に進学することもできない状況だったから。
そして、私は高校卒業後、一般企業に就職した。
そんな私が、今、ケアマネをしている。
そして、ケアマネの資格を取るよりも、もっと早くに、社会福祉士と介護福祉士の資格は、すでに手に入れていた。
高校卒業して一般企業に就職した19歳の私とは、180度違うところに、今、私は立っている。
ここに至るまでの道は、紆余曲折の連続だった。
あえて苦労という言葉は自分では使わない。
なぜなら、もっと苦しい思いをしている人がたくさんいるから。
その人たちに比べたら、私の半生は苦労のうちには入らない。
私は、少ないチャンスを生かして、長い年月をかけて、ケアマネの試験に合格するまでにたどり着いた。
しかし、当時うつ病であったことから、ケアマネの仕事には就くことができなかった。
それでも、カウンセリングを受け、病院をかえた結果、うつ病が寛解した。
自分でも『奇跡』だと思った。
ケアマネというかたちでようやく掴んだ、幼いころからの私の『夢』。
『自分の家の畳の上で死にたい』
祖母のこの言葉を、13歳の時に祖母を彼岸に送ってから、後から母から聞かされた。
そして、我が家と同じアパートの隣に住んでいた祖父母を介護していた叔父と叔母の姿。
それが、今の私の『原点』。
7年前、その叔父が、具合が悪くなり近くの病院に行ったときは、すでに末期がんで、病室で痛みに苦しみ、痛みをとるためにモルヒネ漬けになって死んでいった。
当時、介護職だった私には、持っている情報が無さ過ぎたし、叔父もすでに移送に耐えられる身体ではなかったので、転院も不可能だった。
末期がんの対応が難しい病院だったけど、先生や看護師さんは本当によくしてくださった。
そのことだけが、唯一の救いだった。
最期を自宅で過ごすことができなかった、苦しみながら死んでいった叔父のその姿が、私が『居宅ケアマネを目指す』後押しとなった。
『お母さんが大変だから、俺は、最期は病院でいいよ』
がんの再発がわかった時に父が言った言葉。
そのとき
― 俺は最期まで家にいたいけど、お母さんが大変だから、俺は病院でいいよ -
父の、心の声が聴こえたような気がした。
このときに、私は、クライアントの発する言葉が真実ではなく、その発した言葉の向こうに『本当の真実』が隠れていることを、ようやく知った。
がんの再発がわかってから彼岸に旅立つまでの、父の最期の1年3か月。
私は、父の姿から、父の言葉から、本当にたくさんのことを教えてもらった。
娘として。
ケアマネとして。
決して、私にとっては良い面だけの父ではなかった。
もしかしたら、負の部分のほうが多かったかもしれない。
それでも、私にとって最後にすがれる場所は父だったのだ。
そのことを、棺の中に納められた父の顔を見つめて、私はようやく気が付いた。
父は最期に私にたくさんのことを、自身の闘病を通して私に教えてくれた。
実際に、自分が、ケアマネとしての『ものの考え方が変わった』という自覚はある。
介護と仕事の両立がどれほど過酷かを、キーパーソンとして親の残りの時間とその責任を背負うことの重さを、自分が身をもって経験した。
この経験を、これからはケアマネとして、しっかりと活かしていきたい。
父も、それを望んでいるだろうと、私は思っている。
今でも、父を想って泣くことがある。
余命2週間と言われたときに、すぐに父のもとへ行くことが、仕事の関係上、どうしてもできなかった。
そして、私が行った時の父は、すでに声がでなかった。
それでも父は、安堵したように、私の顔を見て、穏やかに微笑んでくれた。
あの時の『父の穏やかな安堵したような笑顔』がどうしても頭から離れない。
もう一度だけでいいから、父の声を聴きたかった。
もう一度だけでいいから、父と普通の父娘の会話がしたかった。
後悔ではないけれど、それだけが心残り。
父が何度も『かたつむりはいつ来るんだ?』と、母に訊いていたと知ってから、なおさらだ。
『父が私に何かを直接言いたかったのかもしれない』
そう思った時に、父に申し訳ないことをしたと思った。
モニタリング訪問で一番忙しい時期でもあっただけに、私も身動きが取れなかった。
当時の職場に半日休でさえ、お願いできる状況ですらなかった。
でも、それは、私の言い訳に過ぎない。
まだ、私はいろんな想いが整理できないままだ。
だけど、立ち止まっているわけにはいかない。
前を向いて歩いていくしかない。
ケアマネとして、いちからやり直して、あえて自分をさらけ出して、ご利用者様とご家族と向き合い、課題解決のために奔走していく。
壊れた身体との付き合い方を模索しながら、今の自分の身の丈に合った生き方を探していく。
そして、ようやくつかんだ『夢』を手放すことなく、顔をあげて生きていく。
それが、父が私に望んでいることだと思って、これからも、自分の心に正直に生きていきたいと思います。
今、新たにやりたいことがいくつかあります。
実現できるかどうかは、正直わかりません。
でも、今までもそうしてきたように、少ないチャンスを活かして、新たな夢をかなえられるように、頑張ってみたいと思います。
大みそかは実家に泊まります。
父がケアマネさんに言った言葉
『家族3人で、いつまでも明るく笑って、仲良く暮らしてほしい』
私は、この言葉は、『父の遺言』だと思っています。
父のこの『想い』を胸に刻んで、これからも前を向いて生きていきたいと思います。
今年も、私の毒吐きブログにお越しくださり、本当にありがとうございました。
『ご利用者様とご家族の生活と人生を守り支える』ために、これからもケアマネとして精一杯務めさせていただきます。
どうか、これからも、よろしくお願いいたします。
かたつむり