[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
社長から、相談を受けた。
「新規の依頼が来てるんだ。末期ガンなんだけど、若い人なんだ。ごめん、私にはできない。かたつむりさん出来るかな?」
最初、なぜ、ベテランの社長が出来ないのか理解できなかったが、社長の話を聴いて、『そりゃそうだ、社長が無理だと思うのは当然だよ』と、納得した。
社長は私よりもひと回りほど上。
そのご利用者様は、社長と同世代。
『同世代だから、担当するのが辛い』と、社長。
社長の気持ちを非難するのは簡単だ。
しかし、自分と同世代で、自身が末期ガンと認識しているご利用者様を前にして、『冷静にいられる自信が自分にはない』と、社長は判断したのだ。
そして、ご利用者様側も、自分の同世代の『元気なケアマネ』をみて、どのように感じるか解らない。これも個人差がある。
私が、介護職時代に、派遣社員として半年間勤務した某有料老人ホームに入居してきた、進行性難病の女性がいた。
私と同世代のかただった。
その方は、若い職員には優しく接していたが、自分と同世代の職員にはとても厳しかった、拒絶に近い言動だった。当然私は『標的のひとり』となった。
最初は、『なんだ、この我儘ぶりはっ!!』と、思ったが、拒絶されている職員が、私と同世代かその上だと解り、納得した。
『同じ年代の人は元気に動けるのに、なんで私だけ、寝たきりなんだよ!!』
もし、彼女がそう思っていたら、辛くて悔しいのかもしれない。
もし、私が、彼女の立場だったら、どう思うだろか?
そう思ったら、結果的に他人に『八つ当たり的な言動が出てしまうのも当然かもしれない』と、あくまでも私の主観的な考えであるが、そう思ったら、ご利用者様の言動にも納得した。
だから、社長が『出来ない』という気持ちは理解できた。
では、今の自分が『末期がんのかた』の在宅支援の仕事が出来るのだろうか?
正直、一瞬だが、ためらった。
自分も父をがんで亡くした、自宅で父を介護して看取ってから、まだ8ヶ月だ。
自分のなかにある『娘としての感情』をコントロールできるだろうか?
感情移入しすぎて、流されてしまわないだろうか?
私も迷った。
しかし、ケアマネである以上、末期がんのかたの在宅支援の仕事は、いつかやらなければならない。
逃げているわけにはいかない。
今、そのときが来たのだ。
そう思い、引き受けることにした。
でも、私の考えは・・・甘すぎた。
病院側やキーパーソンの娘さんと連絡を取り合っていくうちに、まだお会いしていないのに『重なって』しまったのだ。
ご利用者様が『父』と・・・
キーパーソンの娘さんが『自分』と・・・
いつもなら、当たり前に出来ることが出来ない。
『ご本人を不安にさせてしまわないだろうか』と、考えすぎて、ケアブランの文章どころが、単語ひとつ選ぶのにも、迷いすぎている自分がいた。
社長に、『切り離して考えないと駄目だ、私だって同じだよ』と、言われた。
社長も、お父様を亡くされて一年経っていない。
しかし、言葉が悪いが、実家の近くに住む兄弟がキーパーソンをしていた社長と私では、立ち位置が違う。
だから、私は社長に言った。
「社長、申し訳ありませんが、私はキーパーソンとして、父の残りの時間と父の命を背負い続けたんです。だからこそ、ご本人が父と、娘さんが自分と重なってしまうんです」
そう言って、私は、頭を抱え込んでしまった。
どうしたらいいのか解らない・・そんな心境だった。
そう、まさに父の命を背負い続けた・・・そのくらいの気持ちで、キーパーソンとして踏ん張ってきた。
自分が、どんなに辛くても、自分が取り乱すことは『許されなかった』。
家族が、決断すべき事は、全て私が決断してその責任を背負った。
私が『キーパーソン』だったから。
社長は、すぐに自分が発した言葉を撤回してくれた。
そして、「無理なら私がやろうか?」と、いってくれた。
しかし、末期がん(ターミナル)は、時間との勝負。
特に、家族側はそれを痛切に感じる。
『社内でもケアマネ交代に費やす時間がもったいない』とそれだけは私にもわかった。
頭を抱え込んでいる場合でないだろう!
そう、自分のハッパをかけた。
そして、社長に即答した。
『この先の依頼をどうするかは、もう一度考えますが、今回の方だけは私が最期までやります』と、言い切った。
そして、自分の感情をどうやってコントロールしたらいいのか、答えが出ないまま、自宅を訪問した。
緊急で予定を早めて、同日に、介護用ベッドの納品と、初回訪問とアセスメントから担当者会議までを全てする事になったのだ。
お会いしたご利用者様は、とても気丈な方だった。
いや、たぶん、気丈に振る舞っているのだ・・・家族を心配させないために。
私は、そう感じた。
その姿さえも、『最期まで強かった父』と重なった。
しかし、その、気丈に振る舞っている、ご利用者様の姿をみて、すぐに『冷静になれた』自分がいた。
『ご本人がこれほど、気丈に振る舞っているのに、ケアマネの私が、動揺している場合じゃないだろう!!』
まるで、横っ面を張り倒されたような、衝撃を受けた。
そう、私はまた、ご利用者様に助けられたのだ。
私は、ケアマネとして末期がんのかたの支援をするのは、本当に初めてだった。
ケアマネになって、2年目に入り間もなく、父が肺がんを再発し根治不可能といわれてしまった。そして、私が父のキーパーソンとなった。
そのため、あえて、末期がんの方の担当は断っていた。
『絶対に、ご利用者様とご家族が、父と自分に重なるだろうし、娘としての感情に引きずられて、冷静な判断は絶対に出来ない』と、わかっていたから。
私は、ケアマネとしての冷静さを取り戻したところからは、逆に『がんの父を自宅で看取った体験』が、ケアマネとしての私の判断を支えてくれた。
訪問看護師さんが、詳細をいつも本当に細かく、私に報告をして下さった。
おかげで、お会いしてなくても、ご利用者様の状態が私でも把握できた。
その判断材料のひとつが、父が悪化していく状態をこの眼で見てきたことだった。
訪問看護師さんの話の内容から、父以上に悪化が早いことがわかった。
父でさえ早かったのに、それ以上の早さだった。
残された時間がもう無いことは私でもわかった。
実は、介護用ベッドの納品を早めたのは、訪問看護師さんからの助言をうけてのことだった。
福祉用具の方に頼み込んで、納品予定を早めて、すぐ納品し、その場で初回訪問と初回アセスメントから担当者会議まで一気にやった。
なぜなら、私が自宅訪問する日よりも先に入った訪問看護師さんが、電話で私に状態を説明して下さり『この方の状態は、とても厳しい』と、訪問看護師さんから助言を受けた。また、私自身お会いする前から、それまで通院していた病院側からの情報や、電話での家族との仮アセスメントを通して、急がないと駄目だとわかっていた。ただ、家族が都合がつかないといってすぐに動けなかった。多分家族はまだ時間ある、まだ大丈夫と思っていたのだろう。
しかし、私から家族に『時間が無い』とは言うわけには行かなかった。
なぜなら、私は医師でも看護師でもないのだ。
その5日後に、再度訪問をしたら、5日にしかたっていないのに、ご本人の状態が急激に悪化していることが、介護職出身の私でさえ、すぐにわかった。
ベッドのサイドテーブルに、みたことがあるお弁当箱大の容器があった。
ものは違うが、それが何であるかは、すぐにわかった。
父も使っていた『痛み止め』。それは、腹部に針を刺して固定して、点滴のようにして、痛み止めの薬を身体に入れるのだ。
それを使用しているということは、薬が飲めなくなっていることを示しているも同然だった。
ここまできたら、『もう、ケアマネが主体で出来ることは何もない』ということもわかった。
これは、私の逃げ口実ではない。本当の事だ。
もう、この先は、訪問診療の先生と訪問看護師さんが主体で動く状況である事は、娘として経験済みだったから。
だから、私は、訪問看護師さんの後方支援で、介護保険を含む福祉関係を全てを整える『脇役』に徹することに決めた。
幸い、訪問看護師さんは、本当に細かく私にもご本人の状態を電話で報告して下さり、訪問看護師さんの『医療職として視点での見解』と、『ケアマネに動いて欲しいこと』をはっきりを依頼して下さったので、私は、その依頼を受けて動いた。
先生と訪問看護師さんが、仕事をしやすくするために。
そして、ご本人とご家族が安心できるように。
訪問看護師さんから、こんな依頼がきた。
『介護用ベッドを、リビングに移してほしい。』
理由は、隣の部屋に置いたベッドに寝ていると寂しいのか、どうしても無理をしてリビングに来てしまうみたいだ。とのこと。
ベッドを置いてある部屋と隣のリビングは仕切りの襖は全て外しており、事実上繋がっている。
しかし、私達からすると、短い距離でも、ご本人にとっては『とても遠く』に感じるのだろう。
私は、最期の頃の『母の姿が見えないと不安がる父』を思いだした。
訪問看護師さんも同じ意見で、『きっとご家族が集まるリビングで過ごしたいのでしょうね』ということで、福祉用具の方に電話で再び頼み込んだ。受話器を持ったまま頭を何度も下げた。
福祉用具の方は快く承諾して下さり、その日のうちに対応して下さった。
実は、福祉用具の方は、父の時にお世話になった方でもある。
訪問診療の先生と訪問看護師さんは、今まで通院していた病院の相談員さんが手配して下さったが、福祉用具の事業所は、この方の会社にするとすぐに決めていた。
ご家族も、事業所の選択はケアマネに一任して下さっていた。
ターミナルの支援が初めての私には、サービス事業所の方のお力をいつも以上にお借りしなければならかった。
ターミナルの支援に未熟なケアマネに助言と苦言を、いつも以上にはっきり言ってくれるくらいの、経験豊富な担当者でないと、今の私では無理なことはわかっていたから。
福祉用具の方が介護用ベッド一式を納品したあとに、私におっしゃった。
『かたつむりさん、納品した福祉用具一式は、最期まで交換しないで済むものを納品しました。マットレスも褥瘡が出来ても、よほどの悪化がおきない限りは交換不要の物を納品しました。途中でマットレスの交換することは、更に状態が悪化しているご利用者様には、あまりにも負担が大きすぎます。マットレスの交換だけもです。だから、今回の納品の商品で最期まで過ごせますから、その点は安心して下さい』
この説明は、私にとって、とても大きな勉強になった。
このかたの支援をしているときに、『やはり、自分は父の死から全く立ち直っていないんだ』と、気づかされた。
そして、がん患者や家族の支援団体である『マギーズ東京』のドアを叩いた。
ここは、悪友看護師から、父の死から早い段階で教えてもらっていた。
しかし、それなりの距離があり、当時、心も身体もボロボロになりすぎていた私には、あまりに遠い場所だった。
そこまで行ける体力すら無かったのだ。
今回、臨床心理士さんに長い時間話を聴いてもらった。たぶん、2時間は話していたと思う。
自分が頭に浮かんだもの、思い出したことをそのまま言っていたので、自分が発する言葉は、全く整理されていなかっただろう事は、自分でもなんとなくわかっていた。
そして、涙があふれて止まらなくなった。
臨床心理士さんは私にこう言って下さった。
『今までのように、最期までお父さんが家長として一家の大黒柱であり続けられるように、最期までお父さんらしく過ごすことが出来るようにと、あなたは頑張ったのですね。そしてやり遂げたのですね』
家族や親類にも、わかってもらえなかったことだった。
ここに、私の『父への想いをわかってくれる人はいた』そのことに、私の心が初めて救われたような気がした。
そう・・私は、『最期の瞬間まで父のままでいて欲しい』と願っていた。
父はまさに、我が家の大きな大黒柱だった。
家の大事は全て父が決断して、家を、そして家族を守ってきた。
決して父と私の関係は、良好ではない部分も多かったが、それでも、私にとって父は家族を守り続けてきた『家長』だった。
だから、父は釣り三昧の釣りバカではあったが、基本的に自分の事を優先にすることは殆ど無かった。
自分の再発したがんが治らないと分っても、家族を優先にした。
『お母さんが大変だから、俺は最期は病院でいい』と父は言った。
その、父の言葉が私には辛かった。
なぜ、この状態になっても、父は自分の望みを言ってくれないのか?
『俺は最期までこの家にいたい。俺はこの家で死にたい』と。
それは、父が『家長』であるが故に、自分の個人的希望を口にすることを、『父が自分で許さなかった』のだろう。
だから、私は、父の残された時間を、父が一家の大黒柱のままでいられるように、そしで父らしく過ごせるように、奔走しつづけた。
それと同時に、父が『最期まで自宅で過したい』と選択がいつでも出来るように、その環境も整えた。
自分が出来ることは全てやった、全て整えた。
あとの判断は、父と母に任せることにした。
ここからは、父が自身で決めて欲しいと思った、『父が父でいるために』。
そして、父は最期まで自宅で過ごした。
父が亡くなった後に母から聴いた。
私には言わなかったが、父は母にこう言ったそうだ。
『お母さん、俺、最期まで家にいてもいいか?』と。
母は『もちろん、家にいていいよ』と、その場で返事をしたそうだ。
臨床心理士さんは、私の父への想いをわかって下さった・・・。
そう思ったら、胸のつかえが少しだけだが、楽になった。
来て良かった、話を聴いていただけて、本当に良かった・・・そう思えた。
臨床心理士さんから、
『お父さんの闘病を支えてきたこと、今回のケアマネとして初めてのターミナルの支援をしたことで、これからケアマネとして、末期がんの方の支援にどう関わるべきを、考えていくきっかけになったかもしれませんね』
そう言われた。
そのとき既に、自分のなかで、『末期がんの方の支援は、『主体は訪問看護師さん』である。そして、ケアマネを初めとした『福祉職は脇役』として、訪問看護師さんと患者さんと家族を支えるのが役目である』と、今の時点ではあるが、ケアマネとしての自分のやり方を見つけていた。
マギーズ東京に行ってから数日後のことだった。
帰宅途中に、訪問看護師さんから電話があった。
『もう、意識が混濁している、排泄もベッドでおむつ交換です。もう長くないです』
私は、早い段階でベッドの使用状況の確認も兼ねて、一度モニタリング訪問はしていた。だから、看護師さんにこう言った。
『私は、モニタリング訪問は済んでいます。ですから、ご本人とご家族の大事な時間を邪魔したくないので、私からはあえて訪問はしません。ですから、何かあれば連絡を下さい。すぐに対応しますので』と。
褥瘡ができかけていると、看護師さんが言っていたので、福祉用具の方がそのことも視野に入れて、褥瘡ができてもよほどのことがない限りは、最期まで交換しないで済むマットレスを入れて下さっています』と、お伝えした。
すぐに娘さんに電話して意思確認だけした。
『私達家族で、最期まで自宅で介護して看取ります』と、しっかりとした返事が帰ってきた。
私が担当を引き受けたときは、自宅での看取りにするのか、最期を病院にするのか、全く決まっていなかった。
けれど、『家族で自宅で看取る』と、どのような選択であれ、最期の時間をどうすごすのかを、しっかりと本人と家族で決めることが出来たことに、私は、とても安堵した。
いつ依頼があるかわらないと思い、常に持ち歩いていた『ストレッチャーでの移動が可能な介護タクシーのリスト』の出番は、結局一度もなかった。
ご本人が他界されたのは、その4日後だった。
訪問看護師さんから電話で報告を受けた。
私が担当を引き受けてから、2週間ほどのことだった。
落ち着いた頃をみはからって、私から娘さんに電話をした。
最期の挨拶をしたいので、お線香をあげさせていただけないかと、お願いした。
しかし、ご家族は既に仕事に戻っているため、互いの日程が合わないため、娘さんから『お気持ちだけで充分です、本当にありがとうございます』と、私を気遣って下さった。
大切なひとを看取った家族がこの後どうなるのかは、痛いほどよくわかっている。
娘さんが、再び自分と重なった。
この方も、私と同じように、これから苦しむのだろう・・・と。
娘さんに『今は、まだ気が張っていると思いますが、何かの節目でその緊張がきれてしまうことがこの先、あると思います・・・』と、話したら、娘さんは私にこう訴えてきた。
『もう、私、哀しくて辛いんです』と。
だから、私は娘さんに、マギーズ東京の存在を伝えた。
遺族を支援する制度は今の日本にはないこと。
その活動をしているのが、NPOやボランティアや一部の病院と・・とても少ないこと。
だから、『どうしても辛くて苦しかったらここに行ってみて欲しい』と、伝えた。
私が、最期の挨拶をしたかった理由のもうひとつが『この話を伝えたかった』からだった。
そして、少しでも娘さんに安心してもらえるように、あえて私は、自分の個人的な事を話した。ケアマネは『自分の個人的な話はするべきではない』という人も多いだろう。
しかし、正論が常に正しいわけではないし、正論とケアマネの基本的な立ち位置にこだわりすぎたら、逆にご利用者様とご家族の苦しみを解決できないことも多々ある。
だから、私は、『ケアマネ』であるとともに『父をがんで亡くした娘』としても話した。
専門職の言葉よりも、素人でも同じ立場の人(当事者)の言葉のほうが、相手の心に響くことは沢山あるのだ。
それを、専門職は、あまりにも知らなすぎる。
だから、あえて私は自分と父の事を娘さんに話した。
『私も今年の2月に父をがんで亡くしました。家族で父を自宅で介護して自宅で父を看取りました。実は、私も娘さんと同じなんです。実は私はマギーズ東京に行き、父の話を聴いていただいて、気持ちが少し楽になりました。だから、娘さんもご家族もおひとりで抱えないで、このようなところへ足を運んでみて下さい』
余計なお世話という人もいるだろう。
だが、ある意味では、家族は看取った後のほうが『苦しい』し『辛い』のだ。
本人が亡くなったことで、ケアマネの支援も訪問看護師さんの支援も終わりになる。
そのあとの遺族への支援は、遺族の心のケアは全くないのだ。
(一部の病院では遺族向けの外来があるそうだが、私も調べたが本当に少ないのだ)
残された家族は、『心の中の大きく開いてしまった空洞』と『深い哀しみ』と『喪失感』を抱えたまま生きなければらない。
その哀しみがいつ癒えるのか、心に空いた空洞がいつ小さくなりふさがるのか、全く解らない。
出口のないトンネルのなかを歩いているような、そんな気持ちにもなるだろう。
そして、相談するところがなく、苦しくて哀しい胸の内をはき出す場所がないのだ。
それとともに、『あれで本当に良かったのか?』『もっと出来ることがあったのではないか?』と、永遠に答えが出ない問いを自分の中で繰り返し続けていくのだ。
今の自分が、まさにそうだから。
かつて、私はケアマネになったら『末期がんの方の支援が出来る』ケアマネになりたい。
そう思っていたし、それは今でも変わらない。
介護職時代に、大好きだった叔父が、末期がんで病院で苦しみ続け、モルヒネ漬けになって死んでいった。
誤解の無いように言っておくが、病院は悪くない。
逆に、先生にも看護師さんにも、本当によくしていただいた。
ただ、がんに関しては、打てる手が少なすぎる病院だったのだ。
すでに、叔父は転院できるだけの体力も時間も無かった。
医者嫌いの叔父は、ギリギリまで病院いいかなかったから、結果的になんの手も打てなかったのだ。
真面目に生きてきた叔父が、なぜ、最期にあんなに苦しまなければならなかったのか・・・今でも、納得できない自分がいる。
そして、あのとき、ケアマネとしての今の自分の知識と経験があれば、何か手を打つことも出来ただろうに・・・と思うと、今でも悔しくてならない。
この『叔父への想い』が、父のときも、今回の担当ケースでも原動力になったのだ。
ケアマネとして、今の自分が出来ることはやったつもりだ。
でも、これで本当によかったのかどうか・・・その答えは、まだでていないが。
甘い判断で引き受けた、末期がんの方の支援。
ご利用者様本人から、ご家族から、一緒に支援をした支援者の方々から、私は沢山の事を教えていただいた。
そのことに感謝しながら、ご利用者様のご冥福をお祈ります。
そして、残されたご家族の方の哀しみと苦しみが少しでも軽くなることを祈りたいと思います。
合掌