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私は、かつて鬱病で苦しんでいたときに、この曲と、この曲に自身の思いをのせて演技をする羽生選手の姿に励まされました。
それからは、私は、つらいことや苦しいことがあるときには、いつもこの曲と、この曲で演技をする羽生選手の姿を見ながら、必死に踏ん張ってきました。
そして、今回もこの歌を数え切れないほど聴きながら、今も、這い上がっているところです。
私は、父を彼岸に送ったあとに、完全に心身を壊し、仕事を失い、どん底まで落ちました。
生活費は、父のわずかな生命保険を家族三人で分けたそのお金のおかげで、どうにか繋いで生きていました。
父の介護をしている頃から、既にまともな食事は受けつけなくなり、更に3月以降は固形物を受け付けなくなり、昼にパンひとつ食べられればいい方でした。
実際今でも、おかずは軟食状態です。普通に食事が食べられません。
体力も落ちるところまで落ちましたので、今年は夏の暑さに耐えられない状態です。
それでも、私には『父という庇護者』は、もういないので、今まで以上に自分の力で這い上がるしかありません。
しかも、私が、父の代わりに母を守らなければなりません。
ですから、体調は戻っていませんが、就職活動をはじめました。
ケアマネとしてもう一度やり直すために。
なりより、生きるために。
そして、幸いに、採用先が決まりました。
10日以上前に決まっていたのですが、ある人に妨害される可能性があったので、こちらでの報告はギリギリまで控えていました。
この先も、嫌がらせをされる可能性があります。
でも、そのときのための対応は、すでに整えてあります。
採用して下さった会社は、小さなケアマネ会社ですが、地に足をついた経営をしている会社でした。
無駄な背伸びはせずに、固定経費は抑えられるところはしっかり押さえています。
でも、必要なところには経費をしっかりかけています。
受け取った名刺は、『外注しているもの』だと、みてすぐに解りました。
名刺は『会社の顔』です。
『会社の事務所』と『社長の名刺』をみて、『この会社の社長は経営者として大丈夫だ』と、確信しました。
それまで受けて不採用になった会社は、私のマイナス面のみを見ていました。
しかし、今回の社長は、私のマイナス面もプラス面も両方見て下さいました。
細かく質問を沢山されましたが、全てが的を得ている質問内容でした。
提示された担当件数は『30件』。
一年後に30件持ってくれればいいとのこと。
それなのに、提示された給与は、私にとっては充分すぎる金額でした。
併設がない事業所なので、その条件で大丈夫なのか、私のほうが逆に心配になり、訊いたら、『大丈夫だよ』とのこと。
堅実な会社経営をしている証だと思いました。
私は、以前の会社の社長とその知人に、半年で30件持てない私に対して『半年で30件持って当たり前!!』と、酷評されました。
その言葉が、ずっと私には『足かせ』になり、『トラウマ』にもなりました。
『半年で30件持てない私は、ダメはケアアネなんだ』・・と。
そして、色々な面でかなり無理をしました。
『普通と言われた35件を持つ』ために。
しかし、採用して下さった社長さんの言葉から、決して『半年で30件ががあたりまえではない』ということが解りました。
そのおかげで、『半年で30件持って当たり前!!』という言葉から、ようやく解放されたような気がしました。
私自身の体調が崩れていく中で、残された時間がない父の闘病を支え介護した1年3ヶ月。
自分の体調を優先することはやはり出来なかった、
仕事をしながらでも『やるしかなかった。』
父の過ごす残された時間は、あとわずかしかなかったから。
父が今年の正月を迎えられたのは、本当は『奇跡』だった。
なぜなら6年前に肺がんの手術直後に執刀医から『再発したら1年です』と言われていたから。
この言葉は、さすがに父には言えなかった。
だから、タイムリミットの1年を見据えて夢中で奔走した。
父の残された時間を守るために。
途中で、両親とケンカをして、話し合いの末、家を出た。実家とも距離を置いていた時期があった。
でも、やはり、父を見捨てることは出来なかった。
無理を重ね続けた私は、完全に心も身体も壊れた。
前職場のことで、何度もフラッシュバックを繰り返した。
精神的に完全におかしくなってしまった。
身体も、ベッドから起き上がることも出来ないくらいに、辛い日々が続いた。
『もうダメだ』・・・そう思ったときに、脳裏に浮かんだのは父の顔だった。
今の自分の姿を父は悲しんでいる。
そう思ったときに、
『自分の為だけでなく、父の為ににも、もう一度這い上がってやる!!』
そう思ったときに、自分の気持ちを切り替えることが出来た。
私を助けてくれたのは・・・父だった。
元々、長い間うつ病を患っていた私が、寛解して、ケアマネの仕事に就けたこと自体が『奇跡』だった。
今回のことで、極限までおかしくなっていた精神状態は、今は薬の力を借りながらだが、どうにか以前に近い状態まで回復した。
しかし、身体は元には戻らなかった。
この酷暑に、既に身体はついていけない。
昨年の酷暑を炎天下のなか自転車で動き回っていた自分と、今の自分では、全く別人なくらいまで、体力が落ちてしまった。
もう、『元の身体』には戻らないだろう。
それでも、この短期間で、ここまで動けるようになったことも『奇跡』だと思っている。
だから、今度こそ、自分の身の丈に合った働き方をして、前職場ではできなかった基礎固めを、今度こそ、一から身につけていこうと思っている。
私は、今まで生きてきて、『平穏な刻』は、ほとんどなかった。
ようやく落ち着いたと思うと、必ずすぐに、谷底に突き落とされた。
それが、私が今まで生きてきた道のり。
そして、これからも、それが続くのだろう・・そう思っている。
それでも、自分なりに精一杯生きてきた。
そして、これからも精一杯生きていくだけだ。
『女ばかり(の家族)だったけど、楽しかったよ』
父がケアマネさんにいった言葉。
そして、最期に家族3人で見届けた『父の穏やかな笑顔』。
自分も、人生の最期のときに、父のように後悔はないと思えるような、生き方がしたいと、改めて思った。
もう、人生の折り返し地点は過ぎている。
自分が自由に使える時間がどれくらいあるのか、解らない。
だからこそ、これからは毎日を大切に生きていきたいと思った。
ターミナル期に入ったばかりの時に、釣り仲間の孫を抱いて笑っている父の写真が、私の部屋にある。
既に在宅酸素をつけていて、パジャマ姿の父。
だけど、やせ細るまえの、元気なときと同じ笑顔の写真。
父に供える物は、水と、緑茶と、夕方の晩酌の日本酒と、花。
父が最期まで口にしていたのは、『水道水』だった。
『お母さん、水が一番美味しいよ』
ほとんど飲めないけれど、水道水を少しだけ飲んだ時には、父は、いつも笑顔で母に言っていたそうだ。
その話を、父が亡くなった後に私は母から聴いた。
その話をきいたときに
『私でも、父と母がふたりだけですごす最期の時間を、どうにか守りきる事が出来た、と思っていいかな・・・』
と、正直安堵した。
だから、父には、必ず『水道水』を供えている。
花も立派な物は買えないけれど、できる限り花をきらさないように供えている。
その為に、値段が少し高かったけど、花を長持ちさせるために、しっかりした切り花用の鋏も買った。
先週買った、切り花の花束のなかの百合の花は、すべで蕾だった。
切り花の蕾って咲くのかな??
そう思いながら買って、父に供えた。
3日後に、2輪の百合の花が綺麗に咲いた。
現実は、努力しても報われないことの方が多い。
けれど、得るものは必ずある。
そう信じて生きてきた。そしてこれからも、そう信じて生きていきたい。
綺麗に咲いた百合の花をみてそんなことを思った。
私のこの毒吐きブログに来て下さっている方には、本当にご心配をおかけしました。
これからは、もう一度、前を向いて生きていこうと思います。
それが、父が一番望んでいると思うから。
8月1日から勤務が開始になります。
新たな職場で、もう一度やり直します。
これからも『ご利用者様とご家族の生活と人生を支えるため』に、ケアマネとして、これからも精一杯やっていきたいと思います。
改めて、これからもよろしくお願いいたします。
かたつむり
拍手やコメントをくださったかた、ありがとうございました。
なかなか、コメントのお礼のお返事を書くことができなくて、申し訳ありません。
どうか、ご了承くださいますようお願いいたします。
(本当に、本当に、ずっと書けずにごめんなさいっ)
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