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ただ今、人生の仕切り直し中のケアマネ
プロフィール
HN:
かたつむり
性別:
女性
自己紹介:
心と身体を壊し、まだ人生の仕切り直し中のケアマネ。

保有資格:社会福祉士・介護福祉士・介護支援専門員。ついでに日商簿記2級・全商簿記1級
(Twitter@renrinoeda2)
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私が『在宅での看取り』にこだわった理由

癌を再発し、治療方法が事実上ないことを知った父は、私達家族にこう言った。

『俺は、最期は病院でいい、お母さんが大変だから』

それは、裏を返せば、

『本当は、最期まで家にいたいけど、お母さんが大変だから、俺は病院でいいよ』

私はそう受けとめた。


父は、超ワガママ頑固ジジイだが、父個人の希望を言ったのを、私は聴いたことは一度もなかった。

父が、毎週日曜日に、雨が降ろうが雪が降ろうが釣りに行って家にいないことを不満に思ったことは一度もなかった。
毎日仕事しているんだから、日曜日くらいは父だって好きなことをしていいと、こどもの頃から思っていた。
母に『お父さんが働いてくれるから、あんたたちはご飯も食べられるし、学校で必要な物も洋服も買える。だから、休みの日はお父さんが好きなことをしてもいいでしょう』
そう言われて、子どもながらそうだと思ったから、父の釣りバカを不満に思ったことはなかった。呆れたことは数え切れないけれど。

でも、それ以外は、なんだかんだと、姉と私を、そして母の事を優先にして、自分の事は二の次だった。


その父に、残された時間がないとわかったときに、私はその場で決めた。

『父を自宅で看取る』
『父を癌の痛みで苦しませてなるものか』と。

父の癌の治療方法がないと言われたとき、私はケアマネとして38件担当していた。
父のキーパーソンに徹する為に、社長に申し出て、最終的には担当を28件にまで減らした。

父は私が担当件数を減らすことは望んでいなかった。

『俺のために、担当件数を減らすことは絶対にするな。お前の給料が下がる。お前にそこまで迷惑を俺はかけたくない』

父は本気で言っていた。父として娘にそこまで負担をかけるのは嫌だったのだろう。

だから、担当件数を28件にまで減らしたことは、父が危篤になるまで母にさえ言わなかった。

父の癌の痛みを最小限にして、最期まで父らしく過ごせる環境を整えることに必死に動き続けた。
そして、家族3人で父を自宅で看取り、自宅から父を送った。


私は、父のガンの再発がわかった時点で既に自分の身体が悲鳴を上げていた状態だった。しかも仕事で追い詰められていた状態でもあった。
それでも、ここまで無理をしてでも、父の在宅での看取りこだわったのには理由がある。


父は言葉にしなかったが『最期まで家にいたい』と思っているのがわかったかから。

ここに至ってまで、自分の希望を言わない父の『最期の望み』を叶えたいと思った。


父は、決して私にとって良い面だけの父ではなかった。
私は両親から褒めてもらった記憶がない。
『お前になど出来るわけがない』
子どもの頃の両親からこう言われて続けて、何かにチャレンジする機会も与えてもらえずに大人になった。
だから、私は子ども時代10代での成功体験が全くない。
『お前になど出来るわけがない』という言葉は、大人になっても言われ続けた。
その言葉は、フルタイムで働きながら、家に生活費を同じ額を入れ続けながら、通信教育課程の大学を卒業するまで言われ続けた。
両親も、卒業が難しいと言われている、通信教育課程での大学を働きながら卒業した、しかも生活費もきちんと入れた娘に対して、さすがにもう、『お前に出来るわけがない』とは言えなくなったのだろう。
それからは、その言葉は言われなくなった。


大学を卒業し、介護業界に入った私は、その2年後のうつ病になった。

自分で『これはうつ病かもしれない』そう思い、両親に黙って精神科を受診し、そしてうつ病の診断がでた。
今よりも、うつ病に対しての偏見が強かったので、両親がどのように思うかが不安だったが、黙っているわけにもいかなかっので、思い切って両親に話した。

そのときの父の言葉は『そうか、わかった』のひと言だけだった。

私は、うつ病の悪化で2回仕事を退職し、自宅で1年ほど静養していたときがある。
そのときは、父が『病気なんだから生活費は今は入れなくていい。貯金はお前自身の為に使え。ただ、仕事が出来るようになったら、そのときはちゃん家に金は入れろよ』と言って、私を食べさせてくれた。

私が、仕事をしないといけないと焦ったときも、まだ早いと私を止めたのも父だった。
『焦って、仕事をするな、もう少し休め。親元にいるんだから、お前を食わせるくらいは俺だってどうにか出来る。だから、もう少ししっかり休め。』
そういってくれた。

私が、仕事で食事介助中にご利用者様が誤嚥で窒息をしてしまい、亡くなってしまったときに、職場や同僚から『人殺し扱い』されて苦しんでいたとき(詳細は当ブログの別ページ『地獄から這い上がって』をごらん下さい)、父は私にこう言った。
『年寄りはいつか死ぬ。こういう死に方(誤嚥や窒息)だって当然ありえる。そのことで、お前を責めるような施設など辞めてしまえ!!』
そう言ってくれた。
その、父の言葉に背中を押されて、施設を辞めた。
しかし、救急車の音を聞くたびに、私はフラッシュバックを起こしていた。精神的におかしくなっていた。
『いつまでもそんな風でいたら、亡くなったご利用者さんが『うかばれない』ぞ!!』
父は、そんな私をみて、何度も私にこの言葉を繰り返した。

『このまま、介護の仕事を辞めては、亡くなった方に対して申し訳が立たない。』
『介護の仕事を続けることが、亡くなった方への、自分なりの償い。逃げてはいけない』

そう思い、介護の仕事に戻るまでに1年かかった。

それまで、父は私を見守っていてくれていたのだ。

そうやって、うつ病を抱え、自分なりの償いを抱えながら、介護業界に戻って10ヶ月後に今度は重度の貧血で緊急入院になった。
当時は派遣社員で働いていたので、即契約終了になった。
絶望感を抱えて、病棟から自宅へ報告したら、父がタクシーで病室まで来てくれた。
『また、一からやり直せばいい、お父さんもお前と一緒にやるから、大丈夫だ。』
落ち込む私に、父はそう言ってくれた。
私は、父の前で泣いた。


子どもの頃は経済的に苦しい家だったから、友達と同じ事はしてはもらえなかった。
父は月曜日から土曜日まで一日中仕事だったし、釣りキチガイの父は日曜日は夜明け前には出かけてしまっていたので、ほとんど父と過ごす時間はなかった。
ただ、子どもの頃は、夕食は父と一緒に食べることは出来た。今から思えば幸せなことだと思う。
しかし、それは、裏を返せば、それだけ父の仕事をする業界が景気が悪くなっていたということなのだろう。そのことは高校生になって、母からの話で知った。

父と出かけた思い出は、毎年『子ども日』と『正月』だけだった。
そういえば、一度だけだけど、ハゼ釣りに連れて行ってくれたことがあった。
こどもの日は、当時はデパートの屋上に遊園地のコーナーがあったので、そこで遊ばせてもらい、おもちゃ売り場で欲しいもの1品だけ買ってもらった。
正月は、家族4人で父方の祖母宅(自転車で10分)へ行き、祖母や親戚の人達と過ごした。3日の時に初詣にいき、その帰りになぜかいつも『パチンコ屋』にはいり、家族4人でパチンコをしていた(当時はまだ、はじくかたちで『チューリップ』にいれるパチンコ台だった)。



私は、うつ病が寛解するまでに11年かかった。そのうえで、減薬を1年半かけておこない、抗うつ剤を卒業できたときには、父も母も喜んでくれた。

『これで、やっと両親に安心してもらえる』

そう思った矢先の、父の肺がんの再発だった。

5年前に肺がんの手術をしたあと、執刀医から言われた言葉は『再発したら1年』だった。
父はこのことは知らない。
私はあえて父にはこのことは言わなかった。
母も姉もこの言葉を覚えていなかった。

覚悟はしていたけれど、治療する術がないと知ったとき、ショックを受けながらも私は決めた。

『父を自宅で看取る』
『父を癌の痛みで苦しませてなるものか』と。

ずっと、心配かけっぱなしだったから、最初で最後の親孝行をしよう、そう決めた。
絶対に『お父さんを癌の痛みで苦しませてなるものか!!モルヒネ漬けになど絶対にさせない!!』
そう決心した。

幸い、今の私には、ケアマネとしての情報があり、知識がある。それなりの人脈もある。
その全てをつかって、父の残りの時間を守ってみせる。
父が苦しむくらいなら、いっそ自分が壊れたほうがいい。

そう思って、私が父を安心してお願いできる、ガンの終末期医療に特化した在宅医療ができるクリニックに依頼した。
そして、自宅での介護に限界がきたときの為に、悪友看護師が勤める病院の緩和ケア病棟に登録手続きをした。
ケアマネは悩んだ末に、地元のケアマネさんにお願いすることにした。私は地元のサービス事業所の情報を持っていないので、地元のケアマネさんにお願いした方がいいと判断した。それに、キーパーソンとケアマネの両方を担うのは無理だとわかったから。
ケアマネ探しは、あえてケアマネの人に相談せずに、福祉用具のサービス事業所で信頼している方お二人に相談した。
『ウチの地元でターミナルの支援に長けている、ケアマネ事業所を教えて下さい』と。
二人とも同じ事業所を言ってきた。
教えて下さった福祉用具のサービス事業所のかたのうちの一人の方が、その事業所の管理者の方に私をとりついで下さった。
その方のおかげで、本当にウチの両親に合った、訪問看護ステーションさんを紹介して下さった。
これら全てを、必ず父に提案し相談の上、父の結論や了解に従って私が対応や手続きをした。

父が私に言った言葉。
『余命宣告も知りたい。俺の人生だから、最期まで自分で決めたい。』
その言葉に最期まで私はしたがった。
父の意識が朦朧としていた最期の頃も、既に『私が決めたこと』であっても、比較意識がはっきりしているときに、最終判断は父にゆだねた。
そうしないと、父が意識をもうろうとしながらでも、絶対に怒りだすことは、わかっていたから。



多くかたのお力添えのおかげで、父は、癌の痛みを最小限にすることが出来たし、幻覚・幻聴・せん妄はもちろんあったけれど、それでも最期まで父らしく過ごすことが出来て、自宅から彼岸へ旅立つことが出来た。

私は、今の自分が父に出来ることは、全てやり切った。

本当にそう思っている。

今、私は、心も身体も生活も壊れて、職を失ったけれど、それでも、父の事で無理を重ねたことは後悔していないし、無理してでもやって良かったと、今でも心底思っている。

途中で両親とケンカをして、実家を出た。

それでも、やはり父を見捨てることは出来なかった。

なぜなら、
『心配かけ通した私が、父にしてあげられるのは、これが最初で最期なのだ。だから今の自分が出来ることの全てをやろう。』
両親への憤りよりも、この思いのほうが勝ったから。

そう思ったからこその、この無謀な行動だった。

彼岸から父は、多分私を心配してるだろう。
彼岸にいってまで、父親を心配させるとは、父には申し訳ないと思っている。
情けない娘だと思う。

でも、一回くらいは、『親孝行らしいことをさせてもらいたかった』から、お父さん、申し訳ないけど、大目にみてやって下さい。

ちゃんと、立ち直ってみせるから・・・お父さん、がんばるよ。





拍手やコメントをくださったかた、ありがとうございました。
なかなか、コメントのお礼のお返事を書くことができなくて、申し訳ありません。
どうか、ご了承くださいますようお願いいたします。
(本当に、本当に、ずっと書けずにごめんなさいっ)


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