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父が亡くなり、10日ほど経ちました。
父の希望で、通夜も告別式をしませんでしたので、父との最期の時間は比較的ゆっくりと過ごせたと思います。
父の遺言
『俺の葬儀に金をかけるな、棺桶の中に花などいらない、通夜も告別式もいらない、お前たち3人だけで送ってくれたらそれでいい』
その言葉に従って、私が葬儀業者との打ち合わせをして葬儀を取り仕切りました。
『火葬式プラン』で依頼し、オプションは母が希望すること以外は、全て『父の遺言ですので』と、即決で断りました。
(今日姉から、「あのオプションの切り捨てるような断り方は、葬儀業者に少し同情した」と言われました。でも、『父の遺言』ですから)
弔問に来てくださった方は、『最期まで自宅で過ごせて、自宅から出棺出来るなんて、幸せね』と、皆さんおっしゃってくださいました。
『釣りに行きたい』
『自分の脚で外を歩きたい』
父が望んだ事は、結果的には何ひとつ叶えてあげる事ができなかった。
けれど、せめて、最期まで自宅で過ごして、自宅から送りだしたいと、それだけは、絶対にするんだと、私は決めていました。
私が暮らす地域では、葬儀を自宅ではなく、セレモニーホール等の場所を借りて行なうことが多いので、自宅から送り出すことどころか、病院で亡くなると、そのままセレモニーホールの安置所へ移される方も多いのです。
でも私は『父を、自宅で看とり、自宅から送る』これだけは、絶対にするんだと、決めていました。
その想いは母も姉も同じでした。
ただ、父の身体を綺麗に保つために、父が眠る部屋は暖房がつけられない為、余りの寒さに長い時間父の部屋にいることは出来ませんでした。
出来る限り、父のそばで過ごすようにしていましたが、特に私は元々体調が悪かったので無理ができませんでした。
その点では、少し父に淋しい思いをさせてしまったかもしれません。
そんななかでも、母はその寒い部屋で出棺まで毎晩いつものように父の隣に布団を敷いて寝ていました。
出棺の前日に、私は父のそばで、生命保険会社や社会保険事務所へ電話しました。
父が自分の葬式代にとかけていた生命保険と、遺族年金の受け取りの手続きを早く始めるためです。
父が一番心配していたであろう、父亡き後の母の生活を早く安定させるために、あえて父の前で行動を始めました。
父に、自分の行動をみてもらうために。
出棺の前日の夜は、父が眠る部屋で、母・姉・私の3人でしゃぶしゃぶを食べました。
今にも、ベッドから父の声がしそうな雰囲気でした。
はたから見たら不謹慎な行動かもしれませんが、最期の夜を、いつものように過ごせるのも、いいな・・・そう思いました。
出棺前の、湯灌の儀も納棺の儀も、通夜や告別式がないので、時間に追われることなく、ゆっくりと出来ました。
父は、亡くなってから出棺まで3日間ありましたが、肌がきれいでした。
湯灌の儀は、「服は訪問看護師さんが『釣りに行くときの服』を着せてくださったので、そのままでいいので顔を整えるだけにしてほしい」と、依頼したのですが、髭剃りと保湿だけで充分でした。化粧をする必要がないほど、それほど綺麗な肌のままでした。
父が息を引き取ってから、何度泣いたかわかりません。
ベッドの上の、ドライアイスの重さから解放された父の身体は冷たく固かった。
その脚をさすり、ドライアイスのかけらをタオルで必死にふき取りながら、声をあげて泣きました。
もうこれで最期なんだと・・・。
いつか、親は自分より先に逝く。
そんなことはわかっていたつもりだった。
けれど、
その現実を、つきつけられて、哀しんでいる自分がいる。
そして、自分にとっての父がどれほど『大きな存在』だったのか、思い知らされた。
昨年、父と衝突を繰り返して、話し合いの末、家を出た。
その後も、私の気持ちをわかってくれないと、実家から、そして父からも、距離を置いた。
今年の初めに実家に来た時に母から聴いた体調を崩した父の様子と、視界に入った父の顔。
そこから、もう一度キーパーソンとして奔走しつづけた。
毎晩姉と連絡をとり、父の事で相談しあった。
会社と掛け合い、土曜日に出勤し代わりに平日に休ませてもらうことで、姉と休みが被らないようにして、両親を少しでも安心できるようにした。
父のがんの再発がわかってから、父に対して、今の自分ができる精一杯のことをしてきた。
だから、父のことでは後悔はない。
あの時のケンカも後悔していない。
なぜなら、あの時に、自分の気持ちをはっきり父にぶつけたからこそ、わだかまりを持つことなく、最期の大事な時間を父のもとで過ごすことができたから。
でも・・・。
やはり、父は私にとって、辛い時や苦しい時に必ず助けてくれた『唯一の頼れる存在』だった。
我が家の大きな大黒柱だったのだ。
その、大きな『よりどころ』を失ったことで、これからは、本当に、自分自身の足で、自分自身の力だけで、生きていかなければならないのだと、思い知らされた。
荼毘に付される前の最期の別れの時に、穏やかな表情の父に誓った。
『お母さんのことは、ちゃんとやるからね』
そう呟いたら、涙があふれた。
父の棺が、扉の奥に移動されて、重い扉が閉められた時に、私は立っていることができず、柱に身体を預けて声をあげて泣いた。
収納の時の父の骨は少なかった。
155センチと男性としては小柄だったし、高齢でもあるから、それが普通なのかもしれないが本当に少なくて、驚いた。
そして、骨が黒くなっている部分がいくつもあり、かなり崩れていた。
それは、父が、『がん』という病気と、正面から闘い続けた証拠。
私は、そう感じた。
自分が知りたいと望んていたこととはいえ、『余命の告知』を受けて苦しんでいたときも、私達家族にいらだちをぶつけることは絶対にしなかった父。
弱音を吐くことはあっても、私達に感情をぶつけたり、八つ当たりすることは絶対にしなかった父。
自分が苦しくて痛くて辛いのに、私の身体を心配していた父。
亡くなる4日前までポータブルトイレを使い続けた父。
父と話す最期の機会と思って、自分の病院受診をせずに父のもとへ行ったとき、父を呼ぶ私の顔を見て安堵したように、痛みをこらえながら微笑んでうなずいてくれた父。
しかし、その時には、父はもう声を出すことができなくなっていた。
それでも、『いつもの父』だった。
幻覚・幻聴・せん妄が酷くなっていく中でも、不穏になることがなかった父。
判断力が落ちていく中でも、父の思考が比較的はっきりしているときを狙って、姉と私は何かをするとき、何かを変更するときは、必ず父の意思を確認した。それが、『すでに私が決めたこと』であっても、必ず最終判断は父にゆだねた。
『自分の人生だから、最期まで自分で決めたい』
それも、父の希望だったから。
最期の時、下顎の呼吸に変わったことに気がついた私は、母と姉に、呼吸が変わったから、あと少しで呼吸が止まることを伝えた。
3人で父のそばにいて、3人で自然と父の腕をさすっていた。
私は、なんと声をかければいいかわからず、ただ、いつものように『お父さん』と、繰り返し呼び続けた。
父がこと切れる寸前に、父の口が動いたが、読み取ることができなかった。
もしかしたら、生理的な動きだったのかもしれないが、もしかしたら、何かを伝えたかったのかもしれない。
末期がんの人は、耳は最期まで聞こえていると聴いたことがあるから。
でも、私には、読み取ることは出来なかった。
そして、静かに、父は永遠の眠りについた。
最期の最期まで、『強い父』だった・・・本当にそう思う。
慶弔休暇が終わり、アパートへ戻った私は、『お父さん!』と、叫びながら泣いた。
母の前では叫べなかったので、ずっと堪えていた。
もう、父の返事がない事はわかっていた。
でも、『お父さん』と泣きながら、繰り返し呼び続けた。
今、実家でこのブログを書いています。
しばらくは、週末は実家で過ごすことにしました。
母の緊張が切れた時が心配なので。
両親の部屋に、白い壺におさまってしまった父がいます。
その横に、どこかの釣り場で撮った『へら鮒を手にして嬉しそうに笑っている父』の写真があります。
本当に楽しそうな笑顔です。
心底『釣りバカ』だったんだな・・・つくづく思いました。
緩和ケア病棟で看護師をしている悪友は、
『哀しいなら、哀しいままでいいんだよ。無理に元気になろうとする必要はない。『大切なひとを失った哀しみ』は、簡単には癒せない。立ち直るまでに何年もかかる人だっている。だから哀しいなら、哀しいままでいいんだよ。後は時間に任せればいい。』
そう言ってくれた。
父を彼岸に送ってようやく気がついたことがある。
『お父さん、私は、あなたの娘で、本当に幸せです』と。
元気な時に、伝えてあげられればよかった・・・とは、思う。
でも、本当に、いなくなって、ようやく気がついたことだった。
父に伝えることは出来なかったけれど、父の娘でよかったと思える私は、幸せだと・・・心から思っています。
お父さん・・・本当に、今までありがとう。
そして、本当にお疲れ様でした。