昨夕、訪問先をでて携帯電話の着信をみたら、実家からだった。
急いで折り返し電話をした、母が出た。
『お父さん、危篤だって』
弱弱しい母の声。
『スケジュール調整して、すぐ帰るから!』
その日の残りの訪問は、18時からのみ。
先方に事情を説明し、了解を得た。
病院からも電話がったので、折り返しかけた。
父の状態の説明を受けた。
『血圧が下がっている。現在、上が50台です』とのこと。
昨日も訪問看護師さんから、血圧が測れず、触診で70台と報告を受けていたので、『マズい』とは思っていた。母と姉には黙っていたが。
管理者へ電話をし、父が危篤の旨を伝え、今日の予定はキャンセルしたこと、明日はモニタリング2件、短期目標期間満了の担当者会議1件あるが、モニタリングは日程変更は可能であること、担当者会議も短期目標期間満了のものでプラン変更ではなく、本人の状態確認の為のものであることを伝えた。
明日のモニタリングはキャンセル、担当者会議は中止して『照会』ということで、管理者と相談して決めて、そのまま家に帰った。
家に着くと、母は静かに、いつものようにしていた。
私が帰ってきたことがわかると、『お父さん、かたつむり帰ってきたよ』と、父に声をかけた。
私が、お父さんただいま、今日は早く帰ってこれたから、こっちに来た。明日も休めるから、泊まりこんでお父さんにへばりつくよ』と、父に声をかけた。
父は、笑っていた。
少なくとも、私にはそのように感じた。
取り急ぎ、明日の訪問のキャンセルの連絡を入れた。
皆さん、事情を話している方なので、快く承諾をしてくださった。
ありがたく思った。
末期がんの人は、耳は最期まで聴こえるという。
このようなときに、どのようにしていればいいのか私も良くわからないで、父にへばりついていたら、母がいつものように私の夕食を用意し始めた。
その時に思った。
『いつも通りに過ごしていたほうが、いつもの生活の音の中で過ごしていたほうが、父は安心しそうな気がする。』
そう思った。
姉にはメールで父の危篤を知らせていた。
しかし、姉は仕事中電話には出られない。
だから、いつも通りの帰宅になることはわかっていた。
私のようにタクシーを飛ばして帰ってこれるところで働いているわけではない。
母とふたりで父のそばで色々と話した。
あえて親戚は呼ばずに、3人だけで父のそばにいようと母と相談して決めた。
『お前たち(母・姉・私)3人だけで俺を送ってほしい』
それが、父の願いだった。
それに、父は自分が長くない事は自分から妹(私の叔母)に自分で携帯電話で連絡し、伝えてある。一度だけ、叔母夫婦、従姉夫婦、従兄も会ってくれたが、一度だけだ。
少なくとも叔母は、来ようと思えばいつでも来れるところに住んでる。それでも一度だけだった。そんな身内に今更来てもらって、泣いてもらっても、嬉しくない。たぶん父も同じ気持ちだろう。
だから、もう(父・母・姉・私の)家族4人ですごせばいいと、私は思った。
父が、私のサックスのローンを気にしていたそうだ。
『ローンの残金を払ってやれ、そのほうが、かたつむりも生活が楽になるだろう』そう母に言っていたそうだ。
私が好きで買った楽器で、色々な理由があるとはいえ、私は望んで家を出たのだ。
だから、『受け取れない』と、母に言ったが、『お父さんは、そのことをとても心配してた、だから、お父さんの心の残りにならないように、お金を渡すから、全て返しなさい』母にそう言われた。
その言葉を聴いて、『父の想いは受けとめなければいけない』、そう思って、父の意志にありがたく従うことにした。
『いくつになっても、父は父であり、娘は娘なのだ』
そんなことを思った。
母に初めて、担当件数を減らしたことを話した。病床の父にも聞こえているはず。
今月中に、5件担当を減らして、3月から父の介護を少しでもできるようにするつもりだった・・・と。
『でも、間に合わなかった』と、心の中でつぶやいた。
母に伝わったのか、『お父さんはわかっているよ』そういってくれた。
先週、毎日何度も『かたつむりは(いつ来るのか)?』母に訊いていたそうだ。
母が、『今週は仕事が忙しいんだって』と、母に伝えると、父は『そうか、それじゃ仕方ないな』と答えていたそうだ。
一昨日の日曜日に、自分のメンタルと内科の受診に行かずに、実家に来た。
もう手元に降圧剤は残っていないけれど、それでも父を選んだ。
しかし、実家に行ったときの、状態の悪化した父の姿に愕然とした。
そして、その時は、父はすでに言葉を発することは出来なくなっていた。
『お父さん、ただいま、帰ってきたよ!』
私の言葉に、父は嬉しそうにうなずいてくれた。
その時は、意思表示は『うなずく』ことと、『表情』だけだった。
私は、その父の意志表示で、必死に父の気持ちを汲み取ろうとしていた。
先週の火曜日は、意識ははっきりしていれば、普通に会話は出来ていた。
しかし、4日間の間に、階段を転げ落ちるように悪化した。
先週の木曜日に、主治医から『あと2週間』と告げられた。そう姉から連絡を受けた。
だから、父と会話できる時間はあとわずか、とわかっていた。
先日の日曜日が父と『話せる』最期の機会と思い、降圧剤が切れているのに、病院へ行かずに父のもとへ言った。
まさか、父の声を聴くことができなくなるとは想像もしていなかった。
『もう、二度と父の声を聴くことができない』
その事実に愕然とした。
本当は、今日はケアマネさんのモニタリング日だった。
だから、日曜日のときに父に言った。
『あさってはケアマネさんが、お父さんの様子伺いに来る。その時は私が来て、対応するから。ついでにそのまま、泊まらせて。』
父はもうあと数日しかもたない、と、父の様子から解かっていた。
ケアマネという仕事しているから、どうしてもわかってしまう。
それが辛かった。
父は私の言葉に嬉しそうな表情をして、うなづいてくれた。
母が『泊まり代高いよね、お父さん』と言った。
その言葉にうなづく父。
『なんだよ、お父さん、お金摂るのかよ!』
そんな私の言葉に、少し笑って頷いていた。
父が一番私と話をしたかっであろうその時期に、仕事で実家に行くことができなかった。
仕事だから仕方がない、どうしても仕事が忙しい週だから、実家へ帰ることができなかった。
今月の仕事をはやくメドをつけて、父のそばにいようと必死だった。
でも、間に合わなかった。
父も、直接私に言いたかったことはあったはずだ。
『親に死に目に会えない』覚悟で私はケアマネの仕事に就いた。
ケアマネとして、親よりも優先しなければいけないことがあるはず。
ご利用者様の生活と命がかかっている仕事だ。
親が危篤でも行かなければないこともあるだろう。
今でも、そう思っている。
だから、先週は仕事を優先したことは、後悔していない。
父の再発がわかってから、私が出来うることは、全てやり切った。
年が明けてからの父の病状悪化が早すぎたが、父の在宅の支援体制はぎりぎり間に合った。
父が最期まで言葉にしなかった、本当の希望。
『最期まで家にいたい』
どうにか叶えることができた。
でも、もう一度だけ、父と普通の親子の会話をすることができなかったことが、父に申し訳なかったと思っているし、私自身ももう一度だけ父の言葉で親子の会話がしたかった。
そのことだけ心残りだ。
仕方がないこととはいえ、たぶん、私は一生後悔するだろう。
私にとって、決していい面だけの父ではなかった。
恨んだことも何度もあった。
それでも、我が家の大きな大黒柱だった。
そして、私には『この世でただひとりの父』なのだ。
その父は、今も生きようと必死に闘っている、病とではなく、自分自身と。
その父の生き様を最期まで見届けたいと思う。
今から父の様子を覗いてきます。
拍手やコメントをくださったかた、ありがとうございました。
なかなか、コメントのお礼のお返事を書くことができなくて、申し訳ありません。
どうか、ご了承くださいますようお願いいたします。
(本当に、本当に、ずっと書けずにごめんなさいっ)
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