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ただ今、人生の仕切り直し中のケアマネ
プロフィール
HN:
かたつむり
性別:
女性
自己紹介:
心と身体を壊し、まだ人生の仕切り直し中のケアマネ。

保有資格:社会福祉士・介護福祉士・介護支援専門員。ついでに日商簿記2級・全商簿記1級
(Twitter@renrinoeda2)
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『余命宣告』

今年初めてのブログ投稿です。

 

本年もどうか、宜しくお願いします。

 

 

父の状態が、急激に悪化しました。


 

ひと月半ほど実家へ行っていなかったのですが、取りに行きたいものがあり、今月の上旬の朝に実家へ行きました。

正直、両親の顔を見たくなかったのですが、必要な物があったので、行きました。

 

自分の部屋で、持ち帰るものを選定して、荷物をまとめました。

正直、二度と実家に来なくても良いように・・・と、まで考えての荷物まとめでした。

そのときに、部屋に顔を出したのは、母だけでした。

いつもなら、父もちょっとは覗きに来るはず・・・私が怒っているから顔を出したくないのだろう。

そのときは、そう思っていました。

帰り際に、母に話しかけられて、一応私は話を聴いていました。そのときに「お父さん具合が悪くて寝てるんだ。」と、それだけ言って、別の話を始めました。

反射的に、「お父さんが寝てるってどういうこと!そこで別の話に切り替えるなよ!ちゃんと言えよ!!」

と、私は母に怒鳴りつけていました。

母が「そんな大声出さないでよ」と、言ったので、「大事なことを話さないからだろっ!!何でそれを飛ばすんだ!きちんと話せよ!!」と、更に怒鳴りました。

母の話では、父が食事を半分も食べなくなっていること、毎日入っていた風呂も1日おきで上がると疲れて動けなくなること、このところ寝ていることが多いこと・・・と、母の話を聴いていて、『やばい』と、思いました。

そして、母が話しているときに父がトイレに起きてきました。そのときの父の顔は『真っ白』で『肌につやが全くない』状態でした。

 

『もう危険だ』と、そう思いました。

 

母が、『二人で頑張っていくしかない』と、言い出したので、私が『二人ってなに?お姉ちゃんどうしたんだよ、やってくれてないかよ?』と訊いたら、『やってくれてるよ』と母。

 

そのときは、私はまだ動く気にはなってませんでした。

『私も具合が悪いから、動けないよ。親不孝者と言われるだろうけどね。でも、あれだけやって、身体壊しても、お父さんもお母さんもなんとも思っていないんだからね。』

と、吐き捨てるように、実家を後にしました。

 

父の事で動き、身体を壊してしまった事に対して、両親からは何も言ってもらえない。

 

でも、どうしても、『父の顔』が頭から離れない。

 

それに、父の今の状態を考えたら、いつ急激に悪化してもおかしくない、命にかかわる。

 

それも、解っていました。

 

自分がどうすれば良いのか解らず、混乱して、アパートで泣き叫びました。

  

でも、『今、動かなければ、間に合わない!』そう思いました。

 

そして、午後になって、姉に電話しました。

 

11月に家族で話し合ったとき、姉は『お父さんの病院の付き添いくらいは私にも出来る』と言いました。でも、もう、その状態ではないのです。

 

姉に言いました。

「お父ちゃんのこと、お母さんから聴いた。かなり具合悪そうだね。あのさ、お姉ちゃん、お父ちゃんはもう、病院の付き添いだけで済むレベルではない。いつ急変してもおかしくないよ。はっきり言うけど、かなり『危ない』よ。お姉ちゃん、どこまで出来るんだよ。」と。

 

私の言葉をうけて、姉が話し始めた父の状態は、思った以上に悪い状態でした。

姉は、『お前に連絡しようかどうか、判断が出来なかった』とのこと。

 

2日後に、往診があるとのことで、それまでのつなぎで、できる限り栄養のあるもの、食べ物が無理なら薬局に高カロリーの飲み物が売っているからそれでもいいから、とにかく栄養をとること。スポーツドリンクで水分を少しでも多く摂らせること。これを姉に伝えました。

 

すぐに医師を呼んでもよかったのですが、父が自分で自分の事がまだ出来る状態だったので、姉に伝えたことが出来れば2日後でも持つだろうと思ったのです。

 

その上で、姉に言いました『何かあったら仕事の携帯電話に連絡してくれ』と。

 

そうしたら、姉に言われました。

『私には【何か】が、どういう状態か、解らないんだ』と。

 

そのときに、やっと気がつきました。

私は、仕事柄、状態悪化のポイントが解る。

でも、家族は、『【何かあったとき】と言うのがどういうことか』が解らないんだ・・・と。

 

だから、姉に説明をしました。

『いつもと違うと思ったとき、いつも出来ていることが出来なかったとき。そういうときは、状態が悪くなっているサインだよ。

今は、お父さんは、とりあえず、一人でトイレに行ける。これが出来なくなったら、本当に危険だからね。』

 

その後も、何度も姉と連絡を取りました。

姉と相談して、姉から『今、お前が表立って動くと、父が『もう自分はダメなんだ』と、思うんじゃないかな』とのことだったので、『じゃあ、私は影で根回しする。お姉ちゃんが出来ないことを私はするから』と役割を決めました。

姉に、往診の際に、先生に報告すべき事を説明し、クリニックにも私から電話で父の状態を先に報告しました。

姉は、私の、助言を受けて、その通りに対応しました。

 

 

その結果、往診を受けたその日のうちに在宅酸素となりました。

姉から、「在宅酸素の機械の設置の立ち会いが一人で出来るか解らない。」と、連絡が入ったので、仕事を早く終わらせて、実家に向かいました。

設置はすでに終わっており、姉でも解ったとのこと。私も機械とボンベを確認しました。

ついでに、父に『身体が楽だから』といって、介護用ベッドのレンタルを提案し、父から頼むと言われて、私が立ち会い、一緒によく仕事をしている福祉用具の方に依頼をして納品してもらいました。

父は介護用ベッドに寝て『すごい楽だ』と、言ってました。

 

介護保険の申請をしたと、姉から聴いたので、『ケアマネの依頼について、今度家族で相談しよう』と、言うことになっていました。

ただ、私が酷い風邪を引いてしまったので、父のところへ行けないため、先送りになってしまい、今度の日曜日にいくことになっていました。



 

在宅酸素を使用するようになり、父は食事もとれるようになりました。元々体力のある人なので、もうしばらく大丈夫かも・・・と、思っていました、本気で。



 

しかし、週末に姉から電話があり、肋骨あたりに痛みがあり、他の先生が来てエコーをとったら水があるとのこと。月曜日(←今日)に主治医へ電話して相談して欲しい。と言われたそうです。

 

今日、母がクリニックへ電話し、主治医の先生が来て下さったそうです。

姉は仕事で不在でした。両親だけでした。

看護師さんからのメモが姉宛に残っていたそうです。

やはり肺に水が溜まり、それで呼吸苦をおこしている。それと、胸膜に転移があるかもしれないとのことで、酸素量が1Lから2Lに上がりました。

 

そして、主治医が母を台所へ呼んで、父に聞こえないように言ったそうです。

『あと、23ヶ月です』と。

 

姉から、その報告を聞いたとき、『嘘だ!!』と、思いました。

ベッドの納品のときの父の様子、姉から毎日来る父の状態を教えてくれるメールからは、とても状態は落ち着いており、食欲も戻ってきていました。

数回父と電話で話しましたが、声も元気でした。

 

でも、同僚が担当した、ターミナルの人達も、皆、初めは元気でした。

 

余命宣告を受けるときは、こういうものなのだろう・・・そう思いました。

 

姉が『どうやって親父に伝えれば良い?いや、伝えた方が良いのか?』と、私に訊いてきました。

実は、一昨年の11月に『肺に影がある』と、言われた段階で、私は父に確認をとっていました。

「お父さん、もし、がんだったら、どこまで自分の病気のことを知りたい?」と。

父はいいました。

「全て知りたい。余命宣告を受けたならいつまで生きられるか、それも知りたい。俺の人生だから、全部最後まで自分で決めたい。」と。

だから、姉にこのことを伝え、『お父さんも、知ったらもちろん動転するだろう、でも、お父さんは知りたいと言っていたら、伝えた方が良い。残りの時間をどう過ごすか決めたいと思うから。伝えるのは、お父さんの性格から、家族よりも先生のほうが良いと思うから、明日、私からクリニックに相談してみる』と、話しました。

 

姉と今後のことを電話で引き続き話し合い、その上で、私は社長に電話をして、父の余命宣告のことの報告と、それに伴い今後の自分の仕事について相談に乗って欲しいと頼みました。

 

今後のプライベートの予定は全てキャンセルしました。

 

私は、結局、父を見捨てることは、どうしても出来ませんでした。

 

父が自分の残された時間を知った時点で、今度は私も全面にでて動くことになるでしょう。

 

ケアマネを第三者に頼むことにしたのは『正解』だったと思っています。

今の私のケアマネとしての力量では、父の急激な悪化に対応できないと思いましたし、家族とケアマネの両立は『ターミナルでは無理』だと思いました。

二つの役割は私には背負えない。

だったら、プラン作成等は地元のベテランケアマネにお願いして、自分は娘として父を支えようと思いました。

もう、依頼するケアマネは決まっており、内々で承諾は得ています。

後は、父の『頼む』の言葉を受けて、私が正式に依頼をするだけです。

 

昨年のうちに、できる『根まわし』は全て終わらせてあります。

結果的に、自分の身体を壊したけれど、でも、『あと23ヶ月』と言われても、『環境』は全て整えておいたので、そこは慌てずに済みました。

 

あとは、どうやって父に『残された時間』を伝えるかです。

 

その為に、明日と明後日で、仕事をしながら必死に動きます。

そして、今度こそ、父の命と向き合います。

 

娘として、後悔しないように。

父が最後まで、父らしく過ごせるようにするために。




拍手やコメントをくださったかた、ありがとうございました。
なかなか、コメントのお礼のお返事を書くことができなくて、申し訳ありません。
どうか、ご了承くださいますようお願いいたします。
(本当に、本当に、ずっと書けずにごめんなさいっ)


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