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ただ今、人生の仕切り直し中のケアマネ
プロフィール
HN:
かたつむり
性別:
女性
自己紹介:
心と身体を壊し、まだ人生の仕切り直し中のケアマネ。

保有資格:社会福祉士・介護福祉士・介護支援専門員。ついでに日商簿記2級・全商簿記1級
(Twitter@renrinoeda2)
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『命』をみつめた1ヶ月

仕事が休みの朝9時過ぎに、仕事の携帯電話が鳴った。

 

「たった今、Aさんが亡くなりました。」

 

連絡を下さったのは、Aさんが救急搬送された病院のソーシャルワーカーさんからだった。

 

A様は、独居身寄りなしの男性で、多くの疾患を抱えていた。

在宅酸素も必要だったが、本人が強く拒否して使用していなかった。

それどころか、「これが一番の薬だ」と、たばこまで吸っていた。

 

包括から依頼を受けて、私が担当になって約2年ほど。

『他人からの世話』を嫌がるAさんを、包括の担当のかたは、2年以上かけてようやく介護保険の利用まで引っ張ってきて、私が担当ケアマネになった。

当時の私は、まだ、若葉マークの新人ケアマネだった。

自分に本当に出来るのかと、不安でいっぱいだった。

 

 

薬の管理が出来ないAさんは、体調管理のため、訪問看護だけは絶対に必要だった。

嫌がるAさんに「主治医の先生から『訪問看護さんには絶対来て貰うように手続きしてくれ』と、私いわれてるんで、手続きします!!」と、強行しました。

ちなみに、嘘は言ってません、主治医の先生の意見は、『訪問看護は必要』でしたから。

 

初めはかたくなだったAさん、訪問看護さんと私は焦らずに時間をかけて、私たちを受け入れていただけるように努力していった。

そして、少しずつAさんも私たちを受け入れてくれるようなってきた。

ふるさとの話、高度成長期の働き盛りの頃のことなど、少しづつ自分の事を話してくれるようになった。

 

今年の春に体調を崩した。

食事の準備も、預金を下ろすことも、病院へ行くことも出来なくなった。

私は、ここぞとばかりに、Aさんにいった。

「人間は、具合が悪くなることがある。こういうときのために、ヘルパーさんに来て貰おう。体調が良いときは部屋の片付けをてつだってもらって、具合が悪いときは、買い物や食事の準備をしてもらえるから。」

「私たち(訪問)看護師さんややヘルパーさんやケアマネージャーの私は、法律上、Aさんの代わりに、お金を下ろしに行くことが出来ない。だから、そういうお手伝いを出来る方(=社協の自立支援事業)にも、定期的に来て貰おう。」

と、必要性を説明して、訪問介護と社協の自立支援事業の支援を依頼した。

 

この支援は、何度も提案したが、「俺は自分で出来るから、そんなのいらないっ!!」と、頑なに断られ続けていた。

だから、Aさんに必要性をわかって貰えるまで、つまり『体調を崩して、そういう支援が必要だ』と、痛感して貰うまで待つしかなかった。

もちろん、すでに『根回し済み』だったので、すぐにプラン変更をした。

Aさんは拒否をすることなく、ヘルパーさんも社協の職員のかたを受け入れてくれた。

「みんなが来てくれるから、ありがたい」と、何かの折に言葉にしてくれた。

そのときの表情をみて、『本当の気持ちだ』と、私は思った。

 

何度か体調を崩しかけたが、ヘルパーさんの生活支援のおかげで、食事を食べることが出来たので持ち直した。

それでも、外に出るのが辛くなってきていたので、Aさんは自分でクリニックへ行こうとしなかった。

『誰でもいい』というかたではないため、私が、何度も足を運び、説得をしてクリニックへ強制連行した。

先生に、「私も毎回、通院同行が出来るとは限らないんです・・・」と、グチをこぼしたら、「じゃあ、夜になるけど、俺のほうからいくよ、ただレントゲン検査の時だけは、こっちに来て欲しいから、そのときだけ、ケアマネさん頼むよ」と、特別に往診をしてくだることになった。

そのおかげで、今年の酷暑はどうにか乗り切った。

 

しかし、涼しくなってからAさんの様子がおかしくなった。

ヘルパーさんから、「最近横になっているままで起きない。」とのこと。

訪問看護師さんも注意して見ていてくれた。『バイタルは元々良くないかただが、それよりも、やせてしまって、肌のつやがなく、意欲低下の状態になっている』と、訪問看護師さんから報告を受けた。
やがて、食事もとれなくなり、水分摂取も少なくなっていった。

昨年まで、支援者一同『火事になったら困るから、使わないでくれ!!』と、いつもAさんに頼んでいたのに、『気をつけているから大丈夫だ』と、使い続けていた石油ストーブも石油が入れなくなったため、暖房器具が小さな電気ストーブのみになった。
Aさんに、「これから寒くなるから、電気ストーブと電気カーペットを買おうよ」と何度も言うが、「まだいらない」「寒くない」と購入を拒否した。

当然、暖房器具をそろえないといけないが、勝手に買うことは出来ない。

Aさんは、認知症があるといえ、判断力は充分にあった。自分の了解をしていないことを勝手にやったら、Aさんが激怒して、支援者全員拒絶され、出入禁止になることはわかっていた。

 

Aさんの了解を得て購入したいと考える、ケアマネである私を含めた福祉職サイドと、医療の視点で迅速な対応を求める医療職サイドで、ズレが出始めた。

 

本来ならば、中立の立場に立つべき私は、福祉職サイドの視点に完全になっていた。

つまり、完全に自分の立ち位置を見失っていたのだ。

その為、訪問看護の方達の要求が、あのときの私には『あまりにも無理すぎたもの』に感じてしまい、それ故に、訪問看護との衝突も何度かあった。

そのなかで、医療職サイドへの『不信感』が、『あのときの私』には出てきてしまった。

ケアマネとして『大きなミスをした』と、今なら穴があったら入りたいほど、痛いほどわかる。

しかし、あのときの私にはわからなかった。

 

訪問看護のかたからの「Aさんが、タダなら電気カーペット欲しいって言っている」のひと言で、福祉職サイドで気がついたことがあった。

もしかして、お金の残金を気にしているのではないか・・と。

 

だから、社協の職員が本人に預金通帳を見せて、まだお金があるから大丈夫である事を説明したら、「ならば買う」と、言ってくれた。

私はその脚で、飛んで買いに行った。

翌日から更に冷えるのがわかっていたから。

重たかったけれど、バスを使ってAさん宅に持って行った。

電気カーペットのセッティングは社協のかたが手伝ってくれた。

 

そのときに、私は、Aさんの言葉ではなく、その言葉に向こうの『Aさんの本音』がわからないと、何も出来ないと思った。

Aさんの本当の気持ちが知りたい』と、そのときにはじめて本気で思った。

そして、このまま、『自宅で、独りで苦しみながら死なせることだけは、絶対にさせない』と、自分のなかで決めた。

 

 

本人への説得を繰り返して、電気ストーブの追加購入、ブレーカーの交換、そして電気カーペットをそろえた。

暖房設備をそろえることを優先したのは、部屋を暖かくしないと、何かを飲む気にもならないだろうと思ったから。

そうしたら栄養が全く摂れないし、脱水も起こすと思ったからだった。

 
しかし、Aさんはエンシュア一缶も一日で飲めなくなっていた。
ただ、お茶と水分は取ってくれていた・・・生きるためには足りない量ではあったが・・・。

暖房設備が整ったので、急いでプラン変更をしようと視点を切り替えた。
『最期』を考えた上でのプランを。

 

ヘルパーさんが入る回数を増やして、福祉用具や夜間巡回などの支援の追加など、大きくプラン変更することにした。サービス担当者会議の日程も決めた。区分変更をかけることも当然することにしていた。


本来ならば、『生活環境を整える』ことと『プラン変更』を同時進行をするべきだったのはわかっていた。しかし、とにかく命を守るためには、まず、部屋を暖かくすることが最優先だと私は思って動いていた。

それでも、動きながらも、訪問看護スタップからの要求を頭の中で整理しつつ、助言を求めるために訪問間ステーションへ電話をして、助言も貰って、頭の中では、今のAさんに合わせたプランをすでに立てていた。

 

そんなかで、Aさんの状態悪化と意欲低下は更に進み、主治医から「レントゲンを撮りたいから連れてきて欲しい」と、連絡を受けた。

しかし、私が何度も訪問して説得するも、Aさんは「病院へ行きたくないっ!俺は家に居るんだ!!」と、繰り返し受診を拒絶した。
その拒絶ぶりだけは『元気』だった。

見かねた主治医は、クリニックの看護師にさんを自宅へ向かわせて採血だけした。

 

日曜日にヘルパーさんから連絡が入った。

Aさんがトイレに行けないようで、部屋のゴミ箱に排尿している。念の為に尿瓶とリハビリパンツを買いたいけど、いいですか?」と。

 

ヘルパーさんの報告を聴いて、私は『強行で動かなければならない時が来た』と、腹をくくりました。

Aさんの性格からして、私のなかで、自分の事は自分でしようとするAさんが、自力でトイレに行けなくなったら『危険』と、思っていました。

もう猶予はない、明日中に強行しなければ・・・そう決めました。

 

私は、ヘルパーさんに「本人の了解を得られたら買って下さい。それと、少しでも『おかしいな、変だな』と、思ったら、迷わすに訪問看護ステーションへ電話をして下さい」と伝えました。

 

訪問看護への連絡の指示は、介護職は、電話していいのか、ためらってしまう場合があるため、あえて言いました。

間違った判断でも『ケアマネからの指示』とすればいいわけだし、なによりも後で『あのときに電話すれば良かった』と、ヘルパーさんに後悔して欲しくなかったからです。

 

月曜日に、最初にAさん宅に訪問した訪問看護のスタッフから電話がありました。

Aさんの状態が更に悪化している。これじゃクリニックへ連れて行けない、先生に連絡したから、ケアマネさんに連絡が行くと思う」とのこと。

私は、訪問先のモニタリングを早急に終わらせて、Aさん宅へ向かいました。

この日は、元々事務業務をするつもりでいたので、訪問は1件だけにしていました。

でも、頭の片隅にこのようなことも想定はしていました。

訪問して私が目にした、Aさんの姿は、金曜日にあったときと全く違い、介護職出身の私でも、『このままにしては危険』とわかるほどでした。

しかも、私ひとりでの車椅子の移乗は、Aさんの衰弱と苦しそうな様子から危険で無理だと判断し、訪問介護事業所へ電話しました。先方は毎日Aさんの支援にはいっているので、状況はある意味ではケアマネの私よりわかっているので、即動いてくれました。

しかも、来てくれたヘルパーさんは、『くせ者』ご利用者様でも柔軟に対応ができる、私が信頼しているサ責のヘルパーさんだった。

このヘルパーさんとならば、絶対に連れて行ける、たとえ強制連行でも。

そう確信が持てた。

 

か「Aさん、クリニックの先生のところへ行くか、救急車を呼ぶか二つに一つだよ」

A「いやだ、このまま家に居たい、死んだっていい!」

へ「Aさんをこのままにして帰れないよ!」

か「そんじゃ、先生のところへ行こうよ、先生が「脱水を起こしてるから点滴をしたいって。」脱水で死んだらつまらないよ!」

こんな『すったもんだ』を1時間した。

Aさんが「(クリニックの)先生のところへ行って、必ず家に帰ってこれるのならば行く」と、折れてくれた。

クリニックへ電話して、了解をいただいたので、ヘルパーさんとふたりがかりで車椅子へ移乗してクリニックへつれて行った。

そこで、クリニックの看護師さんとバトンタッチして一度事務所へもどった。

 

夕方にクリニックから電話がはいった。「点滴が終わったので迎えに来て欲しい」と。

私は、ヘルパーさんの助けをまた求めた。

『給付の上げかたは、後で考えよう、自費サービス扱いも含めて』と、訪問介護事業所の責任者のかたと即決で決めた。

とにかく『Aさんのことが優先だ』と。

 

クリニックへ行ったら私は診察室へ呼ばれた。

先生はとても深刻な顔をしていた。

見せられた胸部レントゲンの写真で、素人の私でも深刻な状態であることは十分すぎるほどわかった。

先生から、Aさんの状態の説明を受けた(ここでは詳細は書けないのでご了承ください。)

そして、『レントゲンだけではわからないから、設備のある病院へ搬送したいのだが、本人に何度説明しても拒否されているから、困っているんだよ』と、先生の話。
そして『救急搬送するならば、今しかない、その後ではもう遅いんだよ』と先生は言葉を続けた。

 

医師である先生が決められないことは、ケアマネである私は決められない。

それに、ケアマネには、沢山の義務はあるけれど、決定権は一つとして持っていないのだ。

本人と家族の意向に基づいてケアプランを立てるのが、ケアマネージャーの一番の仕事。

しかも、私は、ケアマネの業務を遙かに超えたことまでしているが、それでも、全てはAさんの意思に基づいたものだった。

 

でも、このまま家に帰れば、Aさんは、数日を待たずに、苦しみながら孤独感のなかで死んでいくことになるのは、私にも充分にわかっていた。

だから、私は、最後の賭けに出ることにした。

「先生、私がもう一度だけ、Aさんを説得してみます。それで駄目なら、家に連れて帰ります。」

ケアマネとして、これをしても良いのか、正直わからなかった。

ただ、『このまま自宅で、孤独ななかで苦しみながら死なせなてなるものか!』その想いだけで動いた。

 

別室でAさんとふたりだけになった。

ヘルパーさんは、私がお願いする前に配慮して下さり席を外してくれた。

 

私は、先生から受けた病状の説明をありのままにAさんに伝えた。

「だから、原因を調べないと、先生も対応が出来ない、だから、原因を調べるために大きな病院へ行こう。原因がわかったら一緒にその先のことを考えよう。」

私は、そう繰り返してAさんに言った。いや、訴えていた。

そのときの私は、ケアマネではなく、一個人のかたつむりになっていた。

まだ掴めていないAさんの本心に、ぶつかっていくためには、自分の本心もぶつけなければならない。

『ケアマネの立場』とかそんなことにこだわっている場合ではなかった。

身寄りのない人の在宅の看取りはとても困難だ。難しい条件が全てそろわないと不可能だ。

その時点ではAさんの在宅のターミナルの支援は不可能だった。

だからこそ、とにかくAさんを助けたかった。

Aさんを孤独ななかで死なせたくなかった。

 

『嫌だ』と首をふるAさん。

私は、最後にずっと言うのをためらっていた言葉を、泣くのを堪えながら、なかば叫ぶようにAさんにぶつけた。

もう、それしかなかった。

 

「私はAさんに長生きして欲しいんだよ!お願いだから、自分から生きることをあきらめないで!!」

 

もしかしたら、言ってはいけない言葉だったかもしれない。

でも、これが私の『本当の気持ち』だった。

 

「だから、原因を突きとめるために、大きな病院で検査を受けて、お願いだよ!!」

 

私が言っていたことは『懇願』になっていた。

 

Aさんはうつむきがちに言った。


「わかった、検査を受けにいく。」


その言葉をいってから、ゆっくりと顔を上げた。


その表情から、考えた末のAさんの結論だったことは、私でもわかった。

 

「検査を受けて、その結果が出たら、その後のことは一緒に考えよう」

 

私の言葉にAさんは、「そうだね」と笑って下さった。

 


先生が搬送先の病院を見つけて下さった。


ケアマネでも他人であるため、家族の代わりは出来ないから、私は救急車には乗れなかった。

救急隊員に同乗できない事情を説明し、その代わり名刺を渡して「明日の朝一番に病院へ連絡しますと伝えて下さい」と、お願いした。

そして、出発する救急車を見送った。

 


搬送された翌日と次の日に、事務手続きの関係もあり病院へ行った。

Aさんに頼まれたことを対応した報告がしたいと、その都度、ソーシャルワーカーさんに依頼して、ソーシャルワーカーさん立ち会いのもと、両日ともAさんに会うことが出来た。

 

私の主観が入っているのは自覚しているが、酸素マスクをつけたAさんは、とても穏やかに笑っていた。

私はAさんに、「家に帰るためにしっかり検査をして、原因を調べて貰って下さいよ。そうでないと、私もAさんが自宅で過ごすための対策のしようがないので、協力して下さい。」

そう頼んだ。本気で。

Aさんは「そうだね、その時は宜しく頼むよ」と、サチュレーションがついた左手を上げた。

私は「もちろん、私で良ければ!」と、Aさんに軽く敬礼した。

そういってふたりで笑った。

 

私が帰ってしばらくしてから、Aさんは急変した。

意識どころか心臓も停止寸前だったそうだが、奇跡的に持ち直して、看護師と話ができるまでにはなった。

ただ、私が会ったときよりは、状態が悪くなっていると、病院のソーシャルワーカーさんから連絡を受けていた。

いつ何が起きてもおかしくないと最後に言われた。

 

そして、Aさんは、病院から彼岸へと旅立った。

 

独居身寄りのないご利用者様のターミナル。

これが、ケアマネとして初めての『ターミナル』に関わる支援だった。

 

 

ケアマネとしての私の対応に賛否両論は出るだろう。

でも、今でも、Aさんを救急搬送したことは、私は後悔していない。

Aさんは本当に嫌なら、納得が出来ないのなら、絶対に『検査を受けに行く』とは言わなかったと思う。

でも、それは、私の一方的な考えかもしれない。

このことの、正しい答えは永遠にでないままだ。

 

そして、このひと月の私のAさんへの対応も・・・。

 

 

Aさんが亡くなったことを各事業所へ報告した。

私が不信感を持ってしまっていた、訪問看護の所長へも電話して、Aさんが亡くなったことを報告した。

「医療職のかたから見たら、私の対応はケアマネとして至らないところがあったと思います。」

そのときは、本当に素直に謝るつもりでいた。

多分、本当に『するべき事』が他にあったのかもしれない・・・そう思っていた。

所長ならそれを知っているかもしれない・・・と、思った。

そのときは、なぜか、もう不信感は全くなかった。

 

 

しかし、所長からいわれた言葉は

 

「かたつむりさん、よく頑張ったよ。」

 

そして、クリニックでのAさんの説得をしたときの私が言った言葉を所長に伝えたときに、所長が私にこう言ってくれました。

 

Aさん、そう言ってもらえて、きっと嬉しかったんだよ。」

 

私は、所長のその言葉を聴いて、堪えていた涙があふれた。

 

医療職サイドと意見が違ってぶつかり合っていたけれど、Aさんへ想いは同じだったのだと・・・そんな当たり前のことが、ようやくわかりました。

 

所長のその言葉で、私のなかの医療職サイドへの『わだかまり』が、ようやく溶けました。

 

これからも、視点が違う医療職のかたとは意見がぶつかることがあるだろう。

でも、意見は違えど、『ご利用者様への想いは同じ』なのだと、それは、これからは信じることが出来ると思いました。

 

所長とは「これからも宜しくお願いします。」と互いに言って、電話を切った。

 

 

 

病室でみた、酸素マスクをつけながらも穏やかな笑顔のAさん。

それが私がみた、Aさんの最後の姿でした。


最期は病院だったけれど、身内のかたはいなかったけれど、病院のスタッフのかたに見守られて、息を引き取ったAさん。

自宅で死亡した状態で発見されて、『警察介入される』かたちにならなくて、本当によかったと、それだけは思っています。

 

私は、Aさんが自宅に戻ることは絶望的とわかっていながら、それでも、私は、Aさんが自宅に戻ったときのプランをどうするか、病院から電話を受けるまで、本気で考えていました。

 

Aさんだけでなく、私自身もあきらめたくなかったのです。

もう一度Aさんが自宅に戻ってくることを。

 

Aさんから多くの事を学びました。

 

Aさんと出会えたことに感謝しながら、彼岸へと旅立ったAさんのご冥福をお祈りします。

 

Aさん、本当にありがとうございました。

 

 

合掌



拍手やコメントをくださったかた、ありがとうございました。
なかなか、コメントのお礼のお返事を書くことができなくて、申し訳ありません。
どうか、ご了承くださいますようお願いいたします。
(本当に、本当に、ずっと書けずにごめんなさいっ)


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