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ご無沙汰しています。
身辺がかなりドタバタしておりました。
先月下旬から一人暮らしを始めています。
実家から少しづつ荷物を運びだし、先日の日曜日に引っ越し業者にベッドなどの家具や段ボールに詰めた荷物を運んでももらいました。
まだ、実家に少しに物が残っていますし、冷蔵庫と洗濯機とテレビは今週末に納品なので、まだ物はそろってはいませんが、どうにか生活しています。
オバサンになってからの一人暮らし。
いろんな手続きは全て初めての経験。
お金の切り詰め方もまだ手探りで、わからないことだらけです。
でも、不安よりも、『束縛からやっと解放された』という安堵感でいっぱいです。
永い間独りで背負わされてきた『我が家の負の荷物』を、やっと放り投げることができたと思っています。
だから、気持ちはとても落ち着いています。
本当は、引っ越し業者が搬送してくれた、先日の日曜日から『ひとり暮らし』をする予定でした。
しかし、あることがきっかけで早く家を出ました。
先月の下旬に引っ越しの準備をしていたときに、姉の部屋の押し入れに入れている(←私の部屋に押し入れがないのです)洋服ケースをだそうとしました。
しかし、姉の部屋の押し入れの前は、いつも物がたくさん置かれているので、それをどかさなければなりません。
仕方がないので、いつものように姉の荷物を持ち上げようとしたら、あまりの重さに腰をひどく痛めました。
翌日は、歩くことも辛く、でも仕事は休めないため、タクシーで職場へ向かい、割れそうな腰の痛みに耐えながら、長時間自転車に乗り仕事をしました。
家に帰って姉に「あの押し入れの前の物、重すぎるから、片付けろよ!お父さんとお母さんが持ったら身体を壊すぞ!私だってぎっくり腰に寸前までの状態になるほど痛めたんだから!(←整骨院のスタッフに『ぎっくり腰の一歩手前』と言われました)」と、強い口調で言いました。
そうしたら、姉が逆ギレしました。「なんだよ、私が悪いのかよ!(PCの)モニターとプリンターが入ってるんだから、重いに決まってるだろう」と。
「そんな物が入ってるなんて気がつくわけないだろうっ!」と私。
「見ればわかるだろうっ!」と姉。
と、大げんかになりました。
母は私たちを必死に止めようとしていました。
そんな母を見ていて私は不愉快になりました。
ここでも、姉をかばうのか・・・と。
「ったく、お父さんもお母さんも本当にお姉ちゃんに甘いんだからっ!」
と、私があえてこの言葉をわざといいました。
とうぜん、姉がさらに怒ります。
「なに、寝ぼけたことをいってるんだ!!」
私は、このとき完全に姉に対して『キレて』ました。
自分が放置したままの物を家族が持ったことで、腰を痛めたことに、何も感じていなかったからです。
私は、わざと姉を煽って、姉を叩き潰すつもりでいました。
気性の激しい自分が完全に出ていました。
感情的になっていく姉をみて、私の思惑通りの展開になりました。
私が、姉をつぶすために、言い返そうとした瞬間でした。
「お前ら、いい加減にしろっ!!」
父があいだに入ってきました。
まるで、姉を助けるかのような入り方でした。
その言葉を受けて姉は、「じゃあ、引くよっ!」といって、自分の部屋へいってしまいました。
アホらしい姉妹のケンカではあります。
でも、このときに私が感じていたことは、
『私が腰を痛めて辛い思いをしているのに、私の家族は誰も心配してくれないんだ』と、いう絶望感でした。
自分の部屋に戻り、考えた末、
『このひどい腰の状態では、いつも朝に乗っているバス停まで歩いて行けない。無駄にタクシー代がかかる。それなら、すでにアパートを契約しているのだから、アパートで暮らそう。その方が身体への負担は少ないし、何より、もう、この家族と一緒に生活できないっ!』
そう決めました。
すぐに母に『この痛めた腰では、ここからの通勤はできないから、予定より早いけどもう家賃も払っているんだから駅の近くのアパートで暮らす。敷き布団を買って届き次第アパートに移る』と伝え、翌日に購入した敷き布団が届いた2日後に合わせて最低限の荷物をもってアパートでの生活を始めました。
この数週間は、腰の激痛に耐えながらの仕事でした。
あまりの腰の痛みに、途中で自転車を降りて休まなければならない状態が何度もありました。
そのたびに、家族に心配してもらえないことが、なんだか情けなくて哀しくなりました。
生活をアパートに移してから、荷物の搬送のために実家へ行く度に、ようやく両親は私の腰の状態を心配はじめました。
それは私が服の上に『見える場所に腰のベルト2本でしっかりと腰を固定』していたからだと思います。
私は『ベルトを見てから、やっと心配するのか。今更何を言ってるんだ。初めは気にもとめてなかったくせに』と、冷めていました。
引っ越し業者の荷物の搬送の時にも両親は、私の腰のことを心配して手伝ってくれましたが、『今、心配するのなら、一番辛いときになぜ心配してくれかったんだ』と、思いました。
きっと、実家で暮らし続けたら、このような負の感情がこれからも積もっていくだけでしょう。
姉ばかりをかばい、姉ばかりに甘く、でも、私には厳しく、家の大変なことは全部私に頼んでくる両親に対して、私は、憎しみの感情を間違いなく持ってしまう。
姉のことだけではなく、両親とのこともこのままではいけない。
だから、家族と離れて暮らさなくてはいけない・・・と、なおさら思いました。
実家の家は、『大好きな叔父が遺した家』です。
生涯独身だった叔父は、生前よく私に言っていました。
『この家はお前とお姉ちゃんに遺していく』と。
だから、本当は、大好きな叔父が遺したあの『家』で、私は死にたかった。
『孤独死でかわいそうだ』と、言われてもいい。
『腐乱した白骨化した状態』で発見されてもかまわない。
私は、叔父が遺してくれたあの家で死にたかったのです。
私は、自分のこれからの人生を守るため、そんなささやかな『夢』もあきらめるしかありませんでした。
こうして、手に入れた『自由』。
父のキーパーソンはこれからも続けますし、母のことも最期までします。
両親との約束を守り、週末は、実家に顔を出します。
父の病気の進行を考えて、実家でも一時的に生活できるように、今まで使ってきたデスクトップPCは置いてきました。ネット環境もそのままです。
アパートには、借金して新しいノートPCを購入して、別のプロバイダー契約をしました。今のアパートは光通信でないと、インターネットができない環境だったので、こうするしかありませんでした。
ある意味では、両親のために余計な出費をしています。
金銭的に苦しくなったら実家の方はプロバイダー解約も必要なるかもしれませんが、当面はこのままでいきます。
どんなことがあっても、『親』は『親』。
憎みきることはできないし、
娘である以上、親の介護から逃げることはできない。
両親から自分が望むものはもらえなかった。
けれど、両親なりに私に愛情はそそいでいてくれていた。
両親が私を『助けてくれた』ことも何度もあった。
だから、それまで否定してはいけない。
だから、父のことも母のことも最期までやることにしました。
そんな、さまざまなことを想いながらはじめた、新たな生活。
本当に、つながれた鎖から、背負わされてきたものから、ようやく『解放された』という感じでいます。