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ご無沙汰しています。
8月頃より体調を崩し、それでも仕事をしながら父のことも対応していたため、疲労が溜りすぎて倒れる寸前までいきました。
身体の調子はまだ良くありません。
それでも仕事は、体調をみながら有給休暇を取りつつ、どうにかやっております。
しかし、この一年父のことと仕事を最優先にして動いてきて、結果、ダウン寸前まで行きました。
でも、父をはじめ家族は、そのことに対して、あまり気にしていないことがわかりました。
父に『一日でも長くいつのも生活を続けて欲しい』願って、今の自分が出来る最善の手を打ちつづけてきました。
けれど、私のその想いは、父には伝わっていませんでした。
あえて、父に、『私が体調を崩したことをどう思っているのか』聴きましたが、「俺が頼んだわけではない、お前がやってくれると言ったから、やってもらったんだ」との返事でした。
(でも夏に大げんかした後に父から『俺の病気のことこれからも頼む』言われてます)
家族が私の身体を心配してるのどうかよくわかりませんが、少なくとも私は、心配してもらってるとは思えませんでした。
それを、知ったときに、今まで自分がしてきたことは何だったのか・・・そう思ったら、怒りを通り越して哀しくなりました。
先日の発熱をきっかけに、父が訪問診療に切り替えると決めました。
それに伴い、今までお世話になっていた、近所のかかりつけの医師に、事情の説明とお礼の挨拶に父と共に伺いました。
父はほとんど言わずにすべて私任せ。『長年世話になった先生に『自分で言うべき言葉』があるだろうがっ!』と思いましたが、先生には私から事情を説明してお礼を言いました。
訪問診療に切り替えることで、父のことはひと区切りついたので、私は父のことから、手を引くことにしました。
それでも、病院側のキーパーソンは、私になっていますので、両親と姉だけはどうにもならなくなった場合は私のところへ連絡は来ると思います。
家族で話し合い、病院の付き添いは今後姉がするとのこと。
今まで、親の受診の付き添いどころか、親のことでなにひとつ動いたことのない姉が、なぜ『今』になって、その気になったのか、よくわかりませんが、たぶん『下心』があって『親孝行』をする『フリ』をするだけだと思います。
父の今後の支援の土台は、自宅での看取りも出来るように、私がしっかりと全てつくりましたので、あとは、どうにでもなるはずです。私がいなくても。
まだ依頼の連絡はありませんが、介護保険を使うことになった場合に、依頼するケアマネージャーも探してあります。
ターミナルの仕事に長けた事業所を一緒に仕事している、某サービス事業所に教えていただきました。
仕事の出来るケアマネでないと、私のやることが増えてしまうので。
私のことを『親不孝者』という人もいるでしょう。
でも、娘としての義務は放棄したつもりはありませんし、娘である以上は、親の介護からは逃げられません。
しかし、父の事で色々と動いた結果、体調を崩し、仕事にも支障がでて、社長と相談した結果、私の体調がすぐに戻らなければ担当件数を減らすことになってます。たぶんそうなるでしょう。
担当件数が減ると、給料も減ります。たぶん最低でも3万円。
ひとり暮らしをはじめた者にとっては、痛手です。
それで済めばいいけれど、最悪は、今までの仕事が出来ないと判断されれば、会社を辞めなめればならないかもしれません。
そのことをはなしても、父は『またこの家(実家)に戻ればいい』で終わりです。
私は、父のことの対応で、自分の病院受診もまともに出来ない状態で、いつも頸椎ヘルニアの激痛に耐えながら毎日踏ん張ってました。
でも、父は、自分の事で精一杯なのか、私の身体を気遣う『言葉』も『そぶり』もありません。
母も、『あんたには感謝している』と、いつも言ってますが、仕事上多くの方から、心のこもった『ありがとう』言葉をたくさんいただいてきたので、言葉に心がこもっているかどうかはわかります。
発している言葉が『真実ではない』ことくらいわかっています。
ある『こと』があり、両親や姉とこれ以上一緒に暮らしていたら『私が壊される』。そう思って、予定より20日程早く家を飛び出し、アパートへ移りました。家具などの移動日はまだ先でした。
その日の夜に、叔母(母の末妹)に全て話しました。
叔母に何度も話を聴いてもらいたいと思っていましたが、いつも思いとどまっていました。
叔母は長姉である私の母に育てられたも同然なので、叔母には母の悪い面の話は出来ればしたくなかったのです。
でも、もう限界だと思い、叔母に泣きながら電話をしました。
9歳の時から、両親から課せられ続け来た『我が家の負の荷物』のことから、全てのことを。
叔母は、「お姉ちゃんがあんたにそんなことをしてきたのか!」と、怒っていました。
そして、「もう、お前はこれ以上お父さんとお母さんのことはしなくていい。そこまでやってくれた娘にそんな態度をとる親ならば、もうやらなくていい。これからは自分の事を大切にしなさい。実家のことなど考えるな。」
と、言ってくれました。
その後実家での話し合いの時に、叔母が「あんたの言うことをお父さんもお母さんも聞く耳持たなければ、私が代わりに言ってやるから、電話しなさい。」そう言ってくれました。
当然、私の言うことを聴こうとしない両親に、『叔母さんに今回のことはずっと相談してきた、叔母さんは、とてもお父さんとお母さんのことを怒っている。叔母さんに「あんたの話をお父さんとお母さんが聴かないならば、私に電話をしなさい、私から言ってやるから」といわれているから、今から電話をするから!!』と言いいました
その言葉に、両親は「電話はするな!」と、慌てました。
当然です。
叔母は、亡き叔父と共に祖父母の介護を最後までやりきった人です。
その人が私を擁護しているのだから、両親は反論が出来るはずがありません。
叔母に電話をしないで、話し合いは終わりましたが、父が私に言った言葉が先ほどの「俺が頼んだわけではない、お前がやってくれると言ったから、やってもらったんだ」でした。
その言葉に対して私は、『じゃあ、お父さんは、『私が勝手にやって、勝手に体調を崩して、勝手に仕事をミスして、勝手に減給になって、勝手に怒っている』と、思ってるんだね!』と言い返したら、「そんなことは思っていない」と、言ってきました。
そして、「お前はお父さんに何て言って欲しいんだ?」と聴いてきました。
正直、あきれました。
言われたから言う『言葉』なんて、欲しくないし、意味がありません。
「私が欲しい言葉は、確かにある。でも、それは、私から聴くことでない。今の私を状況をどう感じて、私に何を言うべきなのかは、お父さん自身で考えることだ。」
と、突き放しました。
治療が出来ない病気を抱えているからといって、家族を含めて他者を傷つけていいということは許されません。
こうして、家族は疲れていくのだな・・・たった『ひと言』さえあれば、それだけで、疲れもとれるのに・・・そう身をもって感じました。
叔母に、家族での話し合いの結果を伝えたら、あきれてました。
そして、叔母に「お前はもう、これからは、何も考えずに自分の事だけを考えなさい」と言われました。
そして、「もう充分にお前は、親孝行したから、大丈夫。もういいんだよ」と、言ってくれました。
私の体調を心配していた、会社の同僚は、「もうそこまでやったんだから、充分だよ。もうこれからは、自分の身体を第一にしないと本当に倒れるよ」と、言ってくれました。
悪友達も、私の心情をわかってくれました。
叔母や同僚や悪友達が、『かたつむりはやるべき事はやったのだ、もう充分だ。あんたの心情を理解しない親にこれ以上することはない』そう言ってくれたので、ようやく救われました。
今、気持ちの整理をしているところです。
実家にはその後行ってません。父のかかりつけ医に挨拶に、病院で父と待ち合わせて、先生に挨拶しただけです。
必要なことは電話で最小限にしてます。
声を聴くと具合が悪くなるから。
普段、仲が良さそうな家族でも、誰かが病気になると、その家族の本当の姿が出てくるもの。
私の家族も、そのようになっただけのことだと思います。
これから、両親との関わりのどうしていくか、今は、考えられませんが、とにかく、倒れる寸前まで疲労が重なり、疲弊して体調を崩した心身の回復に努めたいと思います。
ご無沙汰しています。
身辺がかなりドタバタしておりました。
先月下旬から一人暮らしを始めています。
実家から少しづつ荷物を運びだし、先日の日曜日に引っ越し業者にベッドなどの家具や段ボールに詰めた荷物を運んでももらいました。
まだ、実家に少しに物が残っていますし、冷蔵庫と洗濯機とテレビは今週末に納品なので、まだ物はそろってはいませんが、どうにか生活しています。
オバサンになってからの一人暮らし。
いろんな手続きは全て初めての経験。
お金の切り詰め方もまだ手探りで、わからないことだらけです。
でも、不安よりも、『束縛からやっと解放された』という安堵感でいっぱいです。
永い間独りで背負わされてきた『我が家の負の荷物』を、やっと放り投げることができたと思っています。
だから、気持ちはとても落ち着いています。
本当は、引っ越し業者が搬送してくれた、先日の日曜日から『ひとり暮らし』をする予定でした。
しかし、あることがきっかけで早く家を出ました。
先月の下旬に引っ越しの準備をしていたときに、姉の部屋の押し入れに入れている(←私の部屋に押し入れがないのです)洋服ケースをだそうとしました。
しかし、姉の部屋の押し入れの前は、いつも物がたくさん置かれているので、それをどかさなければなりません。
仕方がないので、いつものように姉の荷物を持ち上げようとしたら、あまりの重さに腰をひどく痛めました。
翌日は、歩くことも辛く、でも仕事は休めないため、タクシーで職場へ向かい、割れそうな腰の痛みに耐えながら、長時間自転車に乗り仕事をしました。
家に帰って姉に「あの押し入れの前の物、重すぎるから、片付けろよ!お父さんとお母さんが持ったら身体を壊すぞ!私だってぎっくり腰に寸前までの状態になるほど痛めたんだから!(←整骨院のスタッフに『ぎっくり腰の一歩手前』と言われました)」と、強い口調で言いました。
そうしたら、姉が逆ギレしました。「なんだよ、私が悪いのかよ!(PCの)モニターとプリンターが入ってるんだから、重いに決まってるだろう」と。
「そんな物が入ってるなんて気がつくわけないだろうっ!」と私。
「見ればわかるだろうっ!」と姉。
と、大げんかになりました。
母は私たちを必死に止めようとしていました。
そんな母を見ていて私は不愉快になりました。
ここでも、姉をかばうのか・・・と。
「ったく、お父さんもお母さんも本当にお姉ちゃんに甘いんだからっ!」
と、私があえてこの言葉をわざといいました。
とうぜん、姉がさらに怒ります。
「なに、寝ぼけたことをいってるんだ!!」
私は、このとき完全に姉に対して『キレて』ました。
自分が放置したままの物を家族が持ったことで、腰を痛めたことに、何も感じていなかったからです。
私は、わざと姉を煽って、姉を叩き潰すつもりでいました。
気性の激しい自分が完全に出ていました。
感情的になっていく姉をみて、私の思惑通りの展開になりました。
私が、姉をつぶすために、言い返そうとした瞬間でした。
「お前ら、いい加減にしろっ!!」
父があいだに入ってきました。
まるで、姉を助けるかのような入り方でした。
その言葉を受けて姉は、「じゃあ、引くよっ!」といって、自分の部屋へいってしまいました。
アホらしい姉妹のケンカではあります。
でも、このときに私が感じていたことは、
『私が腰を痛めて辛い思いをしているのに、私の家族は誰も心配してくれないんだ』と、いう絶望感でした。
自分の部屋に戻り、考えた末、
『このひどい腰の状態では、いつも朝に乗っているバス停まで歩いて行けない。無駄にタクシー代がかかる。それなら、すでにアパートを契約しているのだから、アパートで暮らそう。その方が身体への負担は少ないし、何より、もう、この家族と一緒に生活できないっ!』
そう決めました。
すぐに母に『この痛めた腰では、ここからの通勤はできないから、予定より早いけどもう家賃も払っているんだから駅の近くのアパートで暮らす。敷き布団を買って届き次第アパートに移る』と伝え、翌日に購入した敷き布団が届いた2日後に合わせて最低限の荷物をもってアパートでの生活を始めました。
この数週間は、腰の激痛に耐えながらの仕事でした。
あまりの腰の痛みに、途中で自転車を降りて休まなければならない状態が何度もありました。
そのたびに、家族に心配してもらえないことが、なんだか情けなくて哀しくなりました。
生活をアパートに移してから、荷物の搬送のために実家へ行く度に、ようやく両親は私の腰の状態を心配はじめました。
それは私が服の上に『見える場所に腰のベルト2本でしっかりと腰を固定』していたからだと思います。
私は『ベルトを見てから、やっと心配するのか。今更何を言ってるんだ。初めは気にもとめてなかったくせに』と、冷めていました。
引っ越し業者の荷物の搬送の時にも両親は、私の腰のことを心配して手伝ってくれましたが、『今、心配するのなら、一番辛いときになぜ心配してくれかったんだ』と、思いました。
きっと、実家で暮らし続けたら、このような負の感情がこれからも積もっていくだけでしょう。
姉ばかりをかばい、姉ばかりに甘く、でも、私には厳しく、家の大変なことは全部私に頼んでくる両親に対して、私は、憎しみの感情を間違いなく持ってしまう。
姉のことだけではなく、両親とのこともこのままではいけない。
だから、家族と離れて暮らさなくてはいけない・・・と、なおさら思いました。
実家の家は、『大好きな叔父が遺した家』です。
生涯独身だった叔父は、生前よく私に言っていました。
『この家はお前とお姉ちゃんに遺していく』と。
だから、本当は、大好きな叔父が遺したあの『家』で、私は死にたかった。
『孤独死でかわいそうだ』と、言われてもいい。
『腐乱した白骨化した状態』で発見されてもかまわない。
私は、叔父が遺してくれたあの家で死にたかったのです。
私は、自分のこれからの人生を守るため、そんなささやかな『夢』もあきらめるしかありませんでした。
こうして、手に入れた『自由』。
父のキーパーソンはこれからも続けますし、母のことも最期までします。
両親との約束を守り、週末は、実家に顔を出します。
父の病気の進行を考えて、実家でも一時的に生活できるように、今まで使ってきたデスクトップPCは置いてきました。ネット環境もそのままです。
アパートには、借金して新しいノートPCを購入して、別のプロバイダー契約をしました。今のアパートは光通信でないと、インターネットができない環境だったので、こうするしかありませんでした。
ある意味では、両親のために余計な出費をしています。
金銭的に苦しくなったら実家の方はプロバイダー解約も必要なるかもしれませんが、当面はこのままでいきます。
どんなことがあっても、『親』は『親』。
憎みきることはできないし、
娘である以上、親の介護から逃げることはできない。
両親から自分が望むものはもらえなかった。
けれど、両親なりに私に愛情はそそいでいてくれていた。
両親が私を『助けてくれた』ことも何度もあった。
だから、それまで否定してはいけない。
だから、父のことも母のことも最期までやることにしました。
そんな、さまざまなことを想いながらはじめた、新たな生活。
本当に、つながれた鎖から、背負わされてきたものから、ようやく『解放された』という感じでいます。
4月は私にとって特別な月の一つである。
尊敬していた母方の叔父の命日が、4月30日だから。
何度も書いているが、この叔父がいたから、『今の私がある』と言っても過言ではないほど、私にとっては大きな存在だった。
私は、小学生から高校生まで、この叔父と叔母(母の妹)が祖父母を介護している姿を目の当たりにしてきた。
その二人の姿が、ケアマネの私の『原点』である。
20歳代後半と30代前半の兄妹が、父と母のふたりの介護をしてきたのだ。叔母が仕事を辞めて介護に専念し、叔父が一家4人の生活を支えながら、両親を介護している叔母を支えた。
母もできる限りのことはしていたが、なにぶん姉と私がいたので、どうしても限界があった。
だから、母は今でもいう『二人には苦労させた』と。
ケアマネとして様々な仕事をして、少しづつでも経験を積んでいくに従って、叔父と叔母の凄さを改めて思い知らされている。
父の癌の再発で、私もキーパーソンとしてここ数カ月はすさまじく色々と動き回った。
一応ケアマネとしての知識があっても、父のキーパーソンをするのはとても大変だ。
しかもまだ介護はしていないのに。
でも、叔父は若くして、両親のキーパーソンとして、叔母ともとに介護をしながら、そのすべてを6年以上ひとりで背負ったのだ。
改めて、今、叔父の凄さを感じている。
両親の介護で、結果的に結婚の機会を逃してしまったのだろう叔父は、幼いころから私を可愛がってくれた。本気で怒ってくれた。
それは、叔父がその命が終えるまで、変わることはなかった。
その叔父の享年は64歳。
だからこそ、今でも思う。
叔父には、もっともっと・・・もっと、長生きしてほしかった・・・と。
5年前、あの時の私は、まだケアマネージャーの資格すら持ってなかった。
もし、叔父に残された時間がわずかだとわかったあの時に、あの時の私に『今の知識と経験』があったら、叔父にもっと違うことができたはずだった・・・そう思うと悔しくてならない。
叔父が暮らしていたマンションは無理でも、私達が住んでいる家に、叔父が生まれ育った町に連れて帰って、私の母のそばで最期を過ごすことができるようにすることくらいはできた。
今の私であれば・・・だからこそ、今でも本当に悔しい・・・悔しくてたまらない。
叔父からは、沢山の愛情を受けたのに、私は何一つ、恩返しができなかった。
葬儀の時、棺のなかの、あまりにも幸せそうな笑顔の叔父を見つめて、私は、ただただ号泣しつづけた。
今でも、思い出すと涙がでる。
あれから、叔母は、私に会うと必ず最低4回は私にこう言う。
『お母さんを大切にしなさいよ』
『お母さんのこと、頼むよ』
叔母のこの『言葉』の向こうに、叔父を感じるときがある。
叔母の言葉は、叔母だけのものではなく、亡き叔父の想いも含まれているのだろう。
長姉だった母は、生活保護を受けるほど苦しい生活のなか、祖母に替わり、叔父や叔母を育てたも同然だった。
だから、叔父も叔母も母に一目置いているし、母を大切にしている。
だからこそ、私は、叔母の言葉を、毎回重く受けとめている。
明日は、母と叔父の墓参りに行く。
霊園の最寄り駅で叔母と合流する。
4月の墓参りは、叔父の命日の月だから行くことが、当然、一番の理由ではある。
だが、私が、自身のプライベートなことも、なかなかできないほど、自分の仕事が忙しい中、あえて、叔父の墓参りに行くことにこわだるのは、もう一つの大切な理由がある。
『母と叔母を会せたい』ためだ。
これは、私の『勝手なおせっかい』だ。
だから、二人には話したことはないし、話すつもりもない。
5人兄弟だったが、今は、母と叔母のふたりだけだ。
正直、母が一人で叔母のところへ行くことは出来ない。交通機関の乗り換えがややこしいからだ。
叔母も、何か理由がないと、一人で出かけることが難しいのだ。旦那さんの性格上のために(悪いひとではないんですがね、色々と理由がありまして)。
だから、4月は、自分自身が無理をしてでも、母を墓参りに連れて行っている。
母と叔母が1年ぶりの再会を楽しんでくれれば、
天国の叔父がそれをみて、少しでも安心してくれれば、
私はそれで嬉しいと思っている。
それが、不肖な私の
ささやかな、母親孝行と、
そして、私を大切にしてくれた叔父と叔母への、ほんの少しだか、ささやかな恩返しになれば、幸いだと思っている。
拍手やコメントをくださったかた、
ありがとうございました。
コメントのお礼のお返事は 後日書かせていただきます。
ご了承くださいますようお願いいたします。
(本当に、本当に、ずっと書けずにごめんなさいっ)
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父の件が、一応ひと山越えたので、
『この休みは思いっきり遅れている仕事にとりくむぞ!!』と、
結構な量の仕事を持ち帰ったのですが、
昨日は、母と某量販店に買い物に行ってしまい、
今日は、早く起きて仕事するつもりが、目覚ましもダメ、母の『朝ご飯よ¡!』の声でも起きられず、ようやく起きられたのが8時過ぎてました・・・。
父に、「ようやく起きたか」と笑われました。
そんなわけで、仕事は全く進んでいません。
ちなみに、今日はちゃんと音楽教室に行きました。
18日にミニ発表会があるとのことで、しっかり申し込んでおきました。
曲は、昨年の秋の発表会で演奏しようと思っていた、kiroroの『未来へ』にしました。
一応仕上がっているのでどうにかなると思います。
父の癌が再発して、親のありがたみを改めて感じている今、この曲を演奏するのも、何かの縁かもしれません。
しかし、自分の身体が、
思った以上に疲れがたまっているんだな~と、思いました。
この3か月、自分の心と身体に鞭打って、父の事の対応をしていました。
仕事を休む事をせず、父の病院の付き添いで休んだ分は休日出勤して。
たった3か月でしたが、私の心身は限界まで来ていました。
でも、父に悟られまいと、必死に隠したつもりでした。
でも、そんなことは、きっと父は、すべてわかっているのでしょう。
両親から『感謝の言葉』を欲しいと思ったことはありません。
ただ、父が笑って過ごしていてほしい、それだけを願っています。
幸い、父の癌の進行は、今のところみられていませんし、
父は元気に好きなへらぶな釣りに行ってます。
とりあえず、小休止ができる『幸せ』をかみしめています。
私が『命』というものを、本当に意味で意識したのは、30歳代のはじめでした。
私が最初の勤めた会社は、大手の企業でしたので、高卒でも同期がそれなりに多くいました。
そのなかで、業務上でもかかわりが多かった同期の人がいました。
私は、3年で最初の職場を退職していたので、退職後は、彼女とは年賀状のやり取りで近況報告をするくらいになっていました。
でも、彼女の結婚式に招待してもらい、久しぶりの再会を喜びました。
そして、結婚してから数年後の年賀状に『2月に子供が生まれます』と、書いてありました。
だから、その翌年の年賀状に『お母さん業は大変だと思いますが、頑張ってください』と、書きました。
しかし、彼女から年賀状がきませんでした。
毎年年賀状を送ってくれた彼女から・・・。
なにかあったの・・・?
当然、そう思いました。
そして、2月に1通のはがきが届きました。
それは、彼女のご主人からでした。
彼女は、前年に亡くなっていました。
しかも、出産月に・・・。
詳細は書いてありませんでした。
でも、命日が出産月ということが、何を意味するかは解りました。
目に映る文字が、信じられませんでした。
一体何が起きたのか、
何が彼女の命を奪ったのか、
子どもの命はどうなったのか、
知りたいことが沢山ありました。
彼女の仏前に手を合わせたい・・・と、思いました。
でも、それらに対して私が行動を起こしても、
それは、私だけの自己満足でしかなく、
私が何かをすれば、ご主人やご両親などの彼女の親族や。かつての同僚たちの哀しみの傷を抉るだけだと思いました。
だから、私からは、何もしませんでした。
あえて、ご主人にも返信をしませんでした。
これでよかったかどうかは、今でもわかりませんが、
私がご主人に返信をすることで、もし、傷心のご主人の哀しみを煽るようなことになるの可能性があるのならそれは回避したいと思いました。
返信しなかったことで、『不義理な奴だ』と私がののしられるのなら、そのほうがいいと思いました。
妻として幸せな日々を送り、母になる喜びをかみしめていたであろう、彼女が、産み月に命を落とした、この現実。
こんな残酷なことがあるのか・・・と、この世に神仏はいないのか、そう思いました。
彼女の『死』が、私の人生観を変えました。
人の命はいつ終わるかわからない。
だからこそ、その日その日を大切に生きなければいけない、
やりたいこと、チャレンジしたいことは、出来る環境にあるのならするべきだ。
来年があるのが当たり前ではないのだ。
そう思うようになりました。
父の命と向き合いながら、彼女の笑顔を思い出して、
あらためて、『今日』という時間を大切にしようと、思いました。
彼岸にいる彼女が笑顔でいることを祈って・・・。
拍手やコメントをくださったかた、
ありがとうございました。
コメントのお礼のお返事は 後日書かせていただきます。
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