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ただ今、人生の仕切り直し中のケアマネ
プロフィール
HN:
かたつむり
性別:
女性
自己紹介:
心と身体を壊し、まだ人生の仕切り直し中のケアマネ。

保有資格:社会福祉士・介護福祉士・介護支援専門員。ついでに日商簿記2級・全商簿記1級
(Twitter@renrinoeda2)
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家族と『距離』を置くことにしました

ご無沙汰しています。

8月頃より体調を崩し、それでも仕事をしながら父のことも対応していたため、疲労が溜りすぎて倒れる寸前までいきました。

身体の調子はまだ良くありません。

それでも仕事は、体調をみながら有給休暇を取りつつ、どうにかやっております。


しかし、この一年父のことと仕事を最優先にして動いてきて、結果、ダウン寸前まで行きました。
でも、父をはじめ家族は、そのことに対して、あまり気にしていないことがわかりました。

父に『一日でも長くいつのも生活を続けて欲しい』願って、今の自分が出来る最善の手を打ちつづけてきました。

けれど、私のその想いは、父には伝わっていませんでした。


あえて、父に、『私が体調を崩したことをどう思っているのか』聴きましたが、「俺が頼んだわけではない、お前がやってくれると言ったから、やってもらったんだ」との返事でした。
(でも夏に大げんかした後に父から『俺の病気のことこれからも頼む』言われてます)

家族が私の身体を心配してるのどうかよくわかりませんが、少なくとも私は、心配してもらってるとは思えませんでした。


それを、知ったときに、今まで自分がしてきたことは何だったのか・・・そう思ったら、怒りを通り越して哀しくなりました。


先日の発熱をきっかけに、父が訪問診療に切り替えると決めました。

それに伴い、今までお世話になっていた、近所のかかりつけの医師に、事情の説明とお礼の挨拶に父と共に伺いました。

父はほとんど言わずにすべて私任せ。『長年世話になった先生に『自分で言うべき言葉』があるだろうがっ!』と思いましたが、先生には私から事情を説明してお礼を言いました。


訪問診療に切り替えることで、父のことはひと区切りついたので、私は父のことから、手を引くことにしました。

それでも、病院側のキーパーソンは、私になっていますので、両親と姉だけはどうにもならなくなった場合は私のところへ連絡は来ると思います。

家族で話し合い、病院の付き添いは今後姉がするとのこと。

今まで、親の受診の付き添いどころか、親のことでなにひとつ動いたことのない姉が、なぜ『今』になって、その気になったのか、よくわかりませんが、たぶん『下心』があって『親孝行』をする『フリ』をするだけだと思います。


父の今後の支援の土台は、自宅での看取りも出来るように、私がしっかりと全てつくりましたので、あとは、どうにでもなるはずです。私がいなくても。

まだ依頼の連絡はありませんが、介護保険を使うことになった場合に、依頼するケアマネージャーも探してあります。

ターミナルの仕事に長けた事業所を一緒に仕事している、某サービス事業所に教えていただきました。

仕事の出来るケアマネでないと、私のやることが増えてしまうので。

 

私のことを『親不孝者』という人もいるでしょう。

でも、娘としての義務は放棄したつもりはありませんし、娘である以上は、親の介護からは逃げられません。

しかし、父の事で色々と動いた結果、体調を崩し、仕事にも支障がでて、社長と相談した結果、私の体調がすぐに戻らなければ担当件数を減らすことになってます。たぶんそうなるでしょう。

担当件数が減ると、給料も減ります。たぶん最低でも3万円。

ひとり暮らしをはじめた者にとっては、痛手です。

それで済めばいいけれど、最悪は、今までの仕事が出来ないと判断されれば、会社を辞めなめればならないかもしれません。

そのことをはなしても、父は『またこの家(実家)に戻ればいい』で終わりです。


私は、父のことの対応で、自分の病院受診もまともに出来ない状態で、いつも頸椎ヘルニアの激痛に耐えながら毎日踏ん張ってました。

でも、父は、自分の事で精一杯なのか、私の身体を気遣う『言葉』も『そぶり』もありません。

母も、『あんたには感謝している』と、いつも言ってますが、仕事上多くの方から、心のこもった『ありがとう』言葉をたくさんいただいてきたので、言葉に心がこもっているかどうかはわかります。

発している言葉が『真実ではない』ことくらいわかっています。

 

ある『こと』があり、両親や姉とこれ以上一緒に暮らしていたら『私が壊される』。そう思って、予定より20日程早く家を飛び出し、アパートへ移りました。家具などの移動日はまだ先でした。

その日の夜に、叔母(母の末妹)に全て話しました。

叔母に何度も話を聴いてもらいたいと思っていましたが、いつも思いとどまっていました。
叔母は長姉である私の母に育てられたも同然なので、叔母には母の悪い面の話は出来ればしたくなかったのです。

でも、もう限界だと思い、叔母に泣きながら電話をしました。

9歳の時から、両親から課せられ続け来た『我が家の負の荷物』のことから、全てのことを。

叔母は、「お姉ちゃんがあんたにそんなことをしてきたのか!」と、怒っていました。

そして、「もう、お前はこれ以上お父さんとお母さんのことはしなくていい。そこまでやってくれた娘にそんな態度をとる親ならば、もうやらなくていい。これからは自分の事を大切にしなさい。実家のことなど考えるな。」

と、言ってくれました。

その後実家での話し合いの時に、叔母が「あんたの言うことをお父さんもお母さんも聞く耳持たなければ、私が代わりに言ってやるから、電話しなさい。」そう言ってくれました。

当然、私の言うことを聴こうとしない両親に、『叔母さんに今回のことはずっと相談してきた、叔母さんは、とてもお父さんとお母さんのことを怒っている。叔母さんに「あんたの話をお父さんとお母さんが聴かないならば、私に電話をしなさい、私から言ってやるから」といわれているから、今から電話をするから!!』と言いいました
その言葉に、両親は「電話はするな!」と、慌てました。

当然です。

叔母は、亡き叔父と共に祖父母の介護を最後までやりきった人です。

その人が私を擁護しているのだから、両親は反論が出来るはずがありません。

 

叔母に電話をしないで、話し合いは終わりましたが、父が私に言った言葉が先ほどの「俺が頼んだわけではない、お前がやってくれると言ったから、やってもらったんだ」でした。

その言葉に対して私は、『じゃあ、お父さんは、『私が勝手にやって、勝手に体調を崩して、勝手に仕事をミスして、勝手に減給になって、勝手に怒っている』と、思ってるんだね!』と言い返したら、「そんなことは思っていない」と、言ってきました。

そして、「お前はお父さんに何て言って欲しいんだ?」と聴いてきました。

正直、あきれました。

言われたから言う『言葉』なんて、欲しくないし、意味がありません。

「私が欲しい言葉は、確かにある。でも、それは、私から聴くことでない。今の私を状況をどう感じて、私に何を言うべきなのかは、お父さん自身で考えることだ。」

と、突き放しました。

治療が出来ない病気を抱えているからといって、家族を含めて他者を傷つけていいということは許されません。

 

こうして、家族は疲れていくのだな・・・たった『ひと言』さえあれば、それだけで、疲れもとれるのに・・・そう身をもって感じました。

 

叔母に、家族での話し合いの結果を伝えたら、あきれてました。

そして、叔母に「お前はもう、これからは、何も考えずに自分の事だけを考えなさい」と言われました。
そして、「もう充分にお前は、親孝行したから、大丈夫。もういいんだよ」と、言ってくれました。

私の体調を心配していた、会社の同僚は、「もうそこまでやったんだから、充分だよ。もうこれからは、自分の身体を第一にしないと本当に倒れるよ」と、言ってくれました。

悪友達も、私の心情をわかってくれました。

 

叔母や同僚や悪友達が、『かたつむりはやるべき事はやったのだ、もう充分だ。あんたの心情を理解しない親にこれ以上することはない』そう言ってくれたので、ようやく救われました。

 

今、気持ちの整理をしているところです。

実家にはその後行ってません。父のかかりつけ医に挨拶に、病院で父と待ち合わせて、先生に挨拶しただけです。

必要なことは電話で最小限にしてます。

声を聴くと具合が悪くなるから。

 

普段、仲が良さそうな家族でも、誰かが病気になると、その家族の本当の姿が出てくるもの。

私の家族も、そのようになっただけのことだと思います。

 

これから、両親との関わりのどうしていくか、今は、考えられませんが、とにかく、倒れる寸前まで疲労が重なり、疲弊して体調を崩した心身の回復に努めたいと思います。



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『負の鎖』を断ち切って・・・

ご無沙汰しています。

 

身辺がかなりドタバタしておりました。

 



先月下旬から一人暮らしを始めています。


実家から少しづつ荷物を運びだし、先日の日曜日に引っ越し業者にベッドなどの家具や段ボールに詰めた荷物を運んでももらいました。

まだ、実家に少しに物が残っていますし、冷蔵庫と洗濯機とテレビは今週末に納品なので、まだ物はそろってはいませんが、どうにか生活しています。

 

オバサンになってからの一人暮らし。


いろんな手続きは全て初めての経験。
お金の切り詰め方もまだ手探りで、わからないことだらけです。

でも、不安よりも、『束縛からやっと解放された』という安堵感でいっぱいです。

永い間独りで背負わされてきた『我が家の負の荷物』を、やっと放り投げることができたと思っています。


だから、気持ちはとても落ち着いています。

 



本当は、引っ越し業者が搬送してくれた、先日の日曜日から『ひとり暮らし』をする予定でした。


しかし、あることがきっかけで早く家を出ました。

 

先月の下旬に引っ越しの準備をしていたときに、姉の部屋の押し入れに入れている(←私の部屋に押し入れがないのです)洋服ケースをだそうとしました。

しかし、姉の部屋の押し入れの前は、いつも物がたくさん置かれているので、それをどかさなければなりません。

仕方がないので、いつものように姉の荷物を持ち上げようとしたら、あまりの重さに腰をひどく痛めました。


翌日は、歩くことも辛く、でも仕事は休めないため、タクシーで職場へ向かい、割れそうな腰の痛みに耐えながら、長時間自転車に乗り仕事をしました。


家に帰って姉に「あの押し入れの前の物、重すぎるから、片付けろよ!お父さんとお母さんが持ったら身体を壊すぞ!私だってぎっくり腰に寸前までの状態になるほど痛めたんだから!(←整骨院のスタッフに『ぎっくり腰の一歩手前』と言われました)」と、強い口調で言いました。

そうしたら、姉が逆ギレしました。「なんだよ、私が悪いのかよ!(PCの)モニターとプリンターが入ってるんだから、重いに決まってるだろう」と。

「そんな物が入ってるなんて気がつくわけないだろうっ!」と私。

「見ればわかるだろうっ!」と姉。

と、大げんかになりました。


母は私たちを必死に止めようとしていました。

そんな母を見ていて私は不愉快になりました。


ここでも、姉をかばうのか・・・と。


「ったく、お父さんもお母さんも本当にお姉ちゃんに甘いんだからっ!」

と、私があえてこの言葉をわざといいました。

とうぜん、姉がさらに怒ります。

「なに、寝ぼけたことをいってるんだ!!」


私は、このとき完全に姉に対して『キレて』ました。


自分が放置したままの物を家族が持ったことで、腰を痛めたことに、何も感じていなかったからです。


私は、わざと姉を煽って、姉を叩き潰すつもりでいました。

気性の激しい自分が完全に出ていました。

感情的になっていく姉をみて、私の思惑通りの展開になりました。

私が、姉をつぶすために、言い返そうとした瞬間でした。


「お前ら、いい加減にしろっ!!」


父があいだに入ってきました。


まるで、姉を助けるかのような入り方でした。


その言葉を受けて姉は、「じゃあ、引くよっ!」といって、自分の部屋へいってしまいました。


アホらしい姉妹のケンカではあります。


でも、このときに私が感じていたことは、

『私が腰を痛めて辛い思いをしているのに、私の家族は誰も心配してくれないんだ』と、いう絶望感でした。


自分の部屋に戻り、考えた末、

『このひどい腰の状態では、いつも朝に乗っているバス停まで歩いて行けない。無駄にタクシー代がかかる。それなら、すでにアパートを契約しているのだから、アパートで暮らそう。その方が身体への負担は少ないし、何より、もう、この家族と一緒に生活できないっ!』

そう決めました。

すぐに母に『この痛めた腰では、ここからの通勤はできないから、予定より早いけどもう家賃も払っているんだから駅の近くのアパートで暮らす。敷き布団を買って届き次第アパートに移る』と伝え、翌日に購入した敷き布団が届いた2日後に合わせて最低限の荷物をもってアパートでの生活を始めました。

 


この数週間は、腰の激痛に耐えながらの仕事でした。

あまりの腰の痛みに、途中で自転車を降りて休まなければならない状態が何度もありました。

そのたびに、家族に心配してもらえないことが、なんだか情けなくて哀しくなりました。

 


生活をアパートに移してから、荷物の搬送のために実家へ行く度に、ようやく両親は私の腰の状態を心配はじめました。
それは私が服の上に『見える場所に腰のベルト2本でしっかりと腰を固定』していたからだと思います。

私は『ベルトを見てから、やっと心配するのか。今更何を言ってるんだ。初めは気にもとめてなかったくせに』と、冷めていました。

引っ越し業者の荷物の搬送の時にも両親は、私の腰のことを心配して手伝ってくれましたが、『今、心配するのなら、一番辛いときになぜ心配してくれかったんだ』と、思いました。

 


きっと、実家で暮らし続けたら、このような負の感情がこれからも積もっていくだけでしょう。

姉ばかりをかばい、姉ばかりに甘く、でも、私には厳しく、家の大変なことは全部私に頼んでくる両親に対して、私は、憎しみの感情を間違いなく持ってしまう。



姉のことだけではなく、両親とのこともこのままではいけない。


だから、家族と離れて暮らさなくてはいけない・・・と、なおさら思いました。

 



実家の家は、『大好きな叔父が遺した家』です。


生涯独身だった叔父は、生前よく私に言っていました。


『この家はお前とお姉ちゃんに遺していく』と。


だから、本当は、大好きな叔父が遺したあの『家』で、私は死にたかった。

『孤独死でかわいそうだ』と、言われてもいい。

『腐乱した白骨化した状態』で発見されてもかまわない。

私は、叔父が遺してくれたあの家で死にたかったのです。

 

私は、自分のこれからの人生を守るため、そんなささやかな『夢』もあきらめるしかありませんでした。

 


こうして、手に入れた『自由』。

 


父のキーパーソンはこれからも続けますし、母のことも最期までします。

両親との約束を守り、週末は、実家に顔を出します。

父の病気の進行を考えて、実家でも一時的に生活できるように、今まで使ってきたデスクトップPCは置いてきました。ネット環境もそのままです。

アパートには、借金して新しいノートPCを購入して、別のプロバイダー契約をしました。今のアパートは光通信でないと、インターネットができない環境だったので、こうするしかありませんでした。

ある意味では、両親のために余計な出費をしています。

金銭的に苦しくなったら実家の方はプロバイダー解約も必要なるかもしれませんが、当面はこのままでいきます。

 

どんなことがあっても、『親』は『親』。

憎みきることはできないし、

娘である以上、親の介護から逃げることはできない。

両親から自分が望むものはもらえなかった。

けれど、両親なりに私に愛情はそそいでいてくれていた。
両親が私を『助けてくれた』ことも何度もあった。

だから、それまで否定してはいけない。

だから、父のことも母のことも最期までやることにしました。

 

 

そんな、さまざまなことを想いながらはじめた、新たな生活。

 

本当に、つながれた鎖から、背負わされてきたものから、ようやく『解放された』という感じでいます。





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我が家の『負』の存在

ご無沙汰しています。

私の生息地はどうやら台風のピークは過ぎてくれたようす。

世間は休みですが、私はこれから33時間の更新研修に行ってきます。
研修は今月と来月にかけて受けます。
正直、父のがんの再発がわかった時、この研修を受けられるかどうかわかりませんでした。
父の病気の進行次第では、研修を受けるどころではなかったでしょう。

でも、父は、ありがたいことに、一応今まで通りの生活を送っています。大好きはへらぶな釣りにも行っています。
「釣りに行きたいから頑張ってる」そうクリニックに先生に言っていました。
がんの進行がみられたけれど、痛みがでる段階ではない説明をうけ、以前から診ていただいていた病院の先生に『心置きなく釣りに行って下さい』と言われた父。

再発当初は、5年前の執刀医から言われていた『再発したら1年です』と言う言葉があったので、来年の正月はないだろうと思っていました。
でも、そんな言葉を吹き飛ばすくらい、父は、傍目にはいつも通りの毎日を過ごしてます。

そのことに、感謝の言葉しかありません。


周囲の方々に、『かたつむりさんとご両親は仲がいいわね』と、よく言われます。
でも、正直、それだけはない、両親に対する『負の感情』は私も持っています。
働きながら大学を出て、就きたい仕事に就いたことで、自分なりに、『両親に対する負の感情』に折り合いをつけたつもりでしましたが・・・。
でも、自分でも気がつかなかったのですが、私の奥底でまだ渦巻いていたのです。

とうとう、私の『負の感情』が爆発してしまいました。
40年間抑えていたことが、一気に出てしまいました。
生まれて初めて、父と大喧嘩をしました。
『お姉ちゃんにはあんなに甘いのに、私にはどうしてこれほど厳しいのか』
このことを幾度と両親に言いましたが、全く自覚がない両親の頭にきて、ずっとこらえていた感情を両親にぶつけてしまいました。

私は、このままこの家にいたら、
自分で何も努力せず、全てを周囲の所為にしているくせに、周囲に依存して生きている姉の犠牲になる。
周囲に迷惑をかけても好き勝手に生きてきた姉に、巻き込まれるのはごめんだ。

そう思って、両親とケンカしつつ、話し合い、家を出ることにしました。

11年のうつ病の闘病を支えてくれたのは、間違いなく両親です。
少しでも症状が良くなると、『怠けていないで働け』と言うのがほとんどの親ですが、
父は逆に『無理をしないでもう少し養生しろ』と、焦る私を何度も止めてくれました。

でも、私は両親に褒めてもらった記憶はないのです。

『お前になど出来るわけがない』

この言葉しか、覚えていないのです。

その理由は『姉ができなことは、かたつむりにできるわけがない』と言う考えが両親が持っていたことは、子供の時からわかっていました。

それでも、我慢して、大人なってから『お前にはできない』と言われた、働きながら通信教育課程で大学を卒業すること、そして、介護の仕事をへてケアマネの仕事に就きました。
両親に『お前にできるはずがない』と言われた続けた介護の仕事に就き、そして今はケアマネの仕事に就いているのです。

ここまで来るのに、多くの幸運にめぐまれ、でも、同じくらいに多くのものを犠牲にしてきました。
 子どもの時は、我慢の日々でした。
経済的なことが理由であれば、納得できました。
日々の生活で精一杯なことは、子どもながらにわかっていました。

でも、幼少期から、10~20代の大事な時期に、何かを挑戦するというチャンスを全て両親に、私は潰されました。両親は、初めから私にはできないと決めてかかっていたのです。
だから、私は、子どもの頃の成功体験がありません。
それゆえに、基本的には自分に自信を持つことができません。
今の私の言動は、大人になって積み重ねて成功体験と、自分なりの『信念』『価値観』からのものです。


『お前になど、出来るはずがない』
私は、両親のこの言葉に、40年間束縛されて生きてきました。
それでも、両親のことは全部私がすることになりますし、現状そうなっています。
姉は、いうことは立派なことは言いますが、何一つ行動を起こすことができません。
両親を見る気などありません。

もう私は限界になってしまいました。


もう、家の犠牲になるのは嫌だ。
両親のことは最期までみる。
でも、姉の面倒まで見る気はないし、みたくない。

これからの、自分の人生を守りたい。

それには、この家を出るしかありませんでした。
父が元気な、今のうちに。
両親との2カ月もの大喧嘩と話し合いの末に、両親から『独立』の了解をもらいました。

小学生の頃からの悪友は、私が『家の束縛』から解放されることに、安堵してくれました。
我が家の事情は良くわかっている、腐れ縁の彼女です。

アパートの契約はすでに済んでいて、少しづつ準備を進めています。
両親も手伝ってくれます。

契約したアパートは、父のこれからを考えて、すぐに実家に駆け付けられる距離のところにあります。
実家へすぐに駆けつけられる場所ということを、物件をさがす上で最優先にしました。
家を出ても、父のキーパーソンは続けます。
アパートまで両親を連れてきたとき、立地環境をみて、両親は安心してくれました。


10月中には、生活の拠点をアパートに移しますが、週末は実家で過ごします。
父のこともありますし、
母方の叔母と亡き叔父から『お母さんと頼む』と言われ続けてきました。子どもの頃から世話になった二人との約束は守りたいと思ってます。
そして何より、『娘である以上、両親のことは最期まで看る』べきであると、私は思ってます。
娘である以上、両親の介護からは逃げてはいけない。
それが、娘の可能性を『認めてくれなかった』親であっても。
少なくと、虐待を受けたわけでない。
互いが求めるものは違ったけれど、両親は両親なりに、私を大切してくれていたのだから。
両親のその想いだけは、認めて受け入れたいのです。



『父がガンの再発をして治療ができない』というこの時期に、家を出る私を親不孝者と言う方もいるだろう。
でも、これが我が家の『家族歴』の結果なんです。
両親を憎むことになる前に、こうするしかなかったんです。
自分のこれからの人生を守るためにはこうするしかなかったのです。
このことを理解していただけない方は、きっと幸せな家族関係の中で生きてこられた、少数派の方なのだろうと思います。


どの家族も『負の部分』がある。


自分もそうだから、ケアマネとして、ご利用者様とそのご家族と向き合うときは、その向こうの家族の歴史や家族の負の感情を知る努力をしています。
それがわからなければ、その家族に合わせたケアプランが作れないからです。

自分もそうだから、
『家族の歴史』は重視して、ケアマネの仕事に取り組んでいますし、これからもそのスタンスはかわりません。



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私の『幸せの象徴』

今月から、音楽教室でアルトサックスのレッスンを再開した。

昨年の8月に頸椎ヘルニアとなってから、ずっと休んでいたので、約1年ぶりになる。


まだ、吹く段階までは程遠い状態だが、とにかく再びサックスが吹けることが嬉しかった。
曲を吹けるようになるまでに戻るには、とても時間がかかるかもしれない。
でも、そんなことは苦にならない。
楽器が吹けるだけで、本当に幸せだと思っている。



私は、今まで生きてきて3回『贅沢』をした。


一つ目の贅沢は、『働きながら通信制の大学で勉強』したこと
二つ目の贅沢は、今吹いている『総銀製のフルート』を買ったこと
三つ目の贅沢は、今吹いている(?)『アルトサックス』を買ったこと

この3つです。


この3つの贅沢は、『私のちから』だけでは、すべて手が届かないものだった。
通信制の大学に行くことも、高額な楽器を買う事も、本来の私の置かれた状況では、すべて不可能だった。
3つとも『いろんな幸運が重なって』手にすることができたものだった。
だからこそ、本当にありがたいと思った。


先日、サックスの先生から『ソプラノサックス』を遠回しに薦められたが、丁重にお断りした。
正直、ソプラノサックスも欲しい。でも、流石にそこまでは買えない。
4つ目の贅沢に手を伸ばしたら、間違いなく『破産』する。
もっとも破産する『財産』は、贅沢で買った、『フルートとサックス』のこのふたつ。これを差し押さえられるということになる。
とてもとても、私には、もう、新しい楽器は買うことは出来ない。
父の病気のことがある以上、今の私は、もう、それができる環境ではない。
それに、すでに分不相応の楽器を持っている。これ以上のことを望んだら罰が当たる。


今、持っているアルトサックスは、おととしの11月にローンで購入した。
今もローンの支払い中です。

購入の3年ほど前から、先生方に新しい楽器を勧められていた。
「かたつむりさんは、今の楽器では、レベルが合わない。もっと上の楽器で演奏したほうがいい」と。

私も、先生方に言われる前から、本当はすぐにでも、アルトサックスを買いたかった。
でも、現状はそれを許さなかった。

『もっと上の楽器』というのは、それなりの金額になる。
つまり、それだけの金額を支払うことができる、お給料がもらえてなければ買えない。

当時の私は、うつ病の闘病中で、収入がとても不安定だった。

仕事が出来ず療養していることも多く、貯金を切りくずして、家に生活費を入れながら、入ってくる少ないお給料の不足分を若い時に蓄えていた貯金で辛うじて補って長年過ごしてきた。
だから、とても新しい楽器を買える状態ではなかった。

フルートを買ったときも、すでに鬱病だったけど、まだ辛うじて、そこそこ安定した給料がもらえていたから買えたのだ。

当時通院していた精神科医からは、『かたつむりさんは一生うつ病は治らない』と、言いきられていた。

将来が真っ暗だった。
この暗くて苦しい出口のないトンネルが続くのだ・・・と。  
 
  
だから、
 「無理かもしれないけれど、もし、うつ病がなおって、人並みに働けるようになったら、『病気が治ったお祝い』と『自分への頑張ったご褒美』として、その時こそ、自分が欲しいアルトサックスを買おう。」
そんなことを願っていました。

そう思いながら、別のことも思ってました

「でも、そんな日は来ないよな・・・」と。



ずっと通院していた精神科医にある不信感をもち、病院をかえたら、劇的にうつ病が寛解しました。

そして、ケアマネージャーの仕事に転職しました。


人並みまでは行かないけれど、それなりのお給料をもらえるようになり、『快気祝い』と『うつ病を治した自分へのご褒美』として買ったのが、今、手元にある、『セルマーのアルトサックス』です。



頸椎ヘルニアになって、一度はあきらめらけれど、幸いにも、フルートもサックスも続けることができた。

でも、以前のようには吹けないのです。

ブランクがあるからではありません。

以前のような、演奏の時の姿勢が、
以前のような、指の動きが
以前のような、腹式呼吸が

全てできないのです。

首を痛めたことで、それまでできたことが、出来ないのです。

フルートを再開して、それをすぐに感じた時に、正直動揺しました。


それでも、「吹けるだけ幸せだ、これ以上望んだら、『それこそ罰が当たる』」と、そう思いました。


父が癌を再発した時点で、本来ならば、音楽教室を、場合によってはフルートとサックスそのものをやめなければいけないと、思ってました。
それくらい、私にとっては、フルートとサックスは贅沢なものです。


でも、父が変わらず元気に過ごしているから、まだ当面は続けることができます。
正直、それほど長くは続けられないと思います。
父の病状が進んだ時は、『音楽教室を辞めるとき』だと、私は思っています。

2コースのレッスン料を、父の医療費その他にまわせば、随分両親の負担が違います。
このことは、父の発病の時に決めていました。


もともと、私にとっては、縁がないはずの贅沢な趣味だったのです。


でも、せっかくこうして楽器が吹けるのですから、それまでは、フルートとサックスを思いっきり楽しんで過ごしたいと思います。


好きなことができる幸せを、もう一度かみしめたいと思います。





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『5年目の命日』

4月は私にとって特別な月の一つである。

尊敬していた母方の叔父の命日が、4月30日だから。



何度も書いているが、この叔父がいたから、『今の私がある』と言っても過言ではないほど、私にとっては大きな存在だった。

私は、小学生から高校生まで、この叔父と叔母(母の妹)が祖父母を介護している姿を目の当たりにしてきた。

その二人の姿が、ケアマネの私の『原点』である。

20歳代後半と30代前半の兄妹が、父と母のふたりの介護をしてきたのだ。叔母が仕事を辞めて介護に専念し、叔父が一家4人の生活を支えながら、両親を介護している叔母を支えた。

母もできる限りのことはしていたが、なにぶん姉と私がいたので、どうしても限界があった。
だから、母は今でもいう『二人には苦労させた』と。

ケアマネとして様々な仕事をして、少しづつでも経験を積んでいくに従って、叔父と叔母の凄さを改めて思い知らされている。

父の癌の再発で、私もキーパーソンとしてここ数カ月はすさまじく色々と動き回った。

一応ケアマネとしての知識があっても、父のキーパーソンをするのはとても大変だ。
しかもまだ介護はしていないのに。

でも、叔父は若くして、両親のキーパーソンとして、叔母ともとに介護をしながら、そのすべてを6年以上ひとりで背負ったのだ。

改めて、今、叔父の凄さを感じている。



両親の介護で、結果的に結婚の機会を逃してしまったのだろう叔父は、幼いころから私を可愛がってくれた。本気で怒ってくれた。
それは、叔父がその命が終えるまで、変わることはなかった。

その叔父の享年は64歳。

だからこそ、今でも思う。

叔父には、もっともっと・・・もっと、長生きしてほしかった・・・と。

5年前、あの時の私は、まだケアマネージャーの資格すら持ってなかった。

もし、叔父に残された時間がわずかだとわかったあの時に、あの時の私に『今の知識と経験』があったら、叔父にもっと違うことができたはずだった・・・そう思うと悔しくてならない。

叔父が暮らしていたマンションは無理でも、私達が住んでいる家に、叔父が生まれ育った町に連れて帰って、私の母のそばで最期を過ごすことができるようにすることくらいはできた。
今の私であれば・・・だからこそ、今でも本当に悔しい・・・悔しくてたまらない。

叔父からは、沢山の愛情を受けたのに、私は何一つ、恩返しができなかった。

葬儀の時、棺のなかの、あまりにも幸せそうな笑顔の叔父を見つめて、私は、ただただ号泣しつづけた。

今でも、思い出すと涙がでる。




あれから、叔母は、私に会うと必ず最低4回は私にこう言う。

『お母さんを大切にしなさいよ』

『お母さんのこと、頼むよ』


叔母のこの『言葉』の向こうに、叔父を感じるときがある。

叔母の言葉は、叔母だけのものではなく、亡き叔父の想いも含まれているのだろう。


長姉だった母は、生活保護を受けるほど苦しい生活のなか、祖母に替わり、叔父や叔母を育てたも同然だった。
だから、叔父も叔母も母に一目置いているし、母を大切にしている。

だからこそ、私は、叔母の言葉を、毎回重く受けとめている。




明日は、母と叔父の墓参りに行く。

霊園の最寄り駅で叔母と合流する。


4月の墓参りは、叔父の命日の月だから行くことが、当然、一番の理由ではある。

だが、私が、自身のプライベートなことも、なかなかできないほど、自分の仕事が忙しい中、あえて、叔父の墓参りに行くことにこわだるのは、もう一つの大切な理由がある。

『母と叔母を会せたい』ためだ。

これは、私の『勝手なおせっかい』だ。
だから、二人には話したことはないし、話すつもりもない。

5人兄弟だったが、今は、母と叔母のふたりだけだ。

正直、母が一人で叔母のところへ行くことは出来ない。交通機関の乗り換えがややこしいからだ。

叔母も、何か理由がないと、一人で出かけることが難しいのだ。旦那さんの性格上のために(悪いひとではないんですがね、色々と理由がありまして)。

だから、4月は、自分自身が無理をしてでも、母を墓参りに連れて行っている。


母と叔母が1年ぶりの再会を楽しんでくれれば、
天国の叔父がそれをみて、少しでも安心してくれれば、
私はそれで嬉しいと思っている。


それが、不肖な私の
ささやかな、母親孝行と、
そして、私を大切にしてくれた叔父と叔母への、ほんの少しだか、ささやかな恩返しになれば、幸いだと思っている。



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その日その日を大切にしたい

父の件が、一応ひと山越えたので、
『この休みは思いっきり遅れている仕事にとりくむぞ!!』と、
結構な量の仕事を持ち帰ったのですが、
昨日は、母と某量販店に買い物に行ってしまい、
今日は、早く起きて仕事するつもりが、目覚ましもダメ、母の『朝ご飯よ¡!』の声でも起きられず、ようやく起きられたのが8時過ぎてました・・・。
父に、「ようやく起きたか」と笑われました。


そんなわけで、仕事は全く進んでいません。

ちなみに、今日はちゃんと音楽教室に行きました。
18日にミニ発表会があるとのことで、しっかり申し込んでおきました。
曲は、昨年の秋の発表会で演奏しようと思っていた、kiroroの『未来へ』にしました。
一応仕上がっているのでどうにかなると思います。
父の癌が再発して、親のありがたみを改めて感じている今、この曲を演奏するのも、何かの縁かもしれません。
 
しかし、自分の身体が、
思った以上に疲れがたまっているんだな~と、思いました。
この3か月、自分の心と身体に鞭打って、父の事の対応をしていました。
仕事を休む事をせず、父の病院の付き添いで休んだ分は休日出勤して。
たった3か月でしたが、私の心身は限界まで来ていました。
でも、父に悟られまいと、必死に隠したつもりでした。


でも、そんなことは、きっと父は、すべてわかっているのでしょう。


両親から『感謝の言葉』を欲しいと思ったことはありません。

ただ、父が笑って過ごしていてほしい、それだけを願っています。

幸い、父の癌の進行は、今のところみられていませんし、
父は元気に好きなへらぶな釣りに行ってます。


とりあえず、小休止ができる『幸せ』をかみしめています。




私が『命』というものを、本当に意味で意識したのは、30歳代のはじめでした。


私が最初の勤めた会社は、大手の企業でしたので、高卒でも同期がそれなりに多くいました。
そのなかで、業務上でもかかわりが多かった同期の人がいました。

私は、3年で最初の職場を退職していたので、退職後は、彼女とは年賀状のやり取りで近況報告をするくらいになっていました。
でも、彼女の結婚式に招待してもらい、久しぶりの再会を喜びました。

そして、結婚してから数年後の年賀状に『2月に子供が生まれます』と、書いてありました。

だから、その翌年の年賀状に『お母さん業は大変だと思いますが、頑張ってください』と、書きました。
しかし、彼女から年賀状がきませんでした。
毎年年賀状を送ってくれた彼女から・・・。


なにかあったの・・・?


当然、そう思いました。



そして、2月に1通のはがきが届きました。
それは、彼女のご主人からでした。


彼女は、前年に亡くなっていました。
しかも、出産月に・・・。
詳細は書いてありませんでした。
でも、命日が出産月ということが、何を意味するかは解りました。
 
 
目に映る文字が、信じられませんでした。


一体何が起きたのか、
何が彼女の命を奪ったのか、
子どもの命はどうなったのか、
知りたいことが沢山ありました。
彼女の仏前に手を合わせたい・・・と、思いました。


でも、それらに対して私が行動を起こしても、
それは、私だけの自己満足でしかなく、
私が何かをすれば、ご主人やご両親などの彼女の親族や。かつての同僚たちの哀しみの傷を抉るだけだと思いました。

だから、私からは、何もしませんでした。

あえて、ご主人にも返信をしませんでした。

これでよかったかどうかは、今でもわかりませんが、
私がご主人に返信をすることで、もし、傷心のご主人の哀しみを煽るようなことになるの可能性があるのならそれは回避したいと思いました。
返信しなかったことで、『不義理な奴だ』と私がののしられるのなら、そのほうがいいと思いました。

妻として幸せな日々を送り、母になる喜びをかみしめていたであろう、彼女が、産み月に命を落とした、この現実。


こんな残酷なことがあるのか・・・と、この世に神仏はいないのか、そう思いました。



彼女の『死』が、私の人生観を変えました。


人の命はいつ終わるかわからない。

だからこそ、その日その日を大切に生きなければいけない、

やりたいこと、チャレンジしたいことは、出来る環境にあるのならするべきだ。

来年があるのが当たり前ではないのだ。



そう思うようになりました。



父の命と向き合いながら、彼女の笑顔を思い出して、
あらためて、『今日』という時間を大切にしようと、思いました。



彼岸にいる彼女が笑顔でいることを祈って・・・。



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『更年期障害』???

身体の絶不調は続いています。


とりあえず、4日の父の検査には付き添うことができました。
看護師さんの説明を父が理解しきれず、
私が父がわかりやす言葉に替えたり、質
問にも父は、全然違うことを答えてしまい、
私がかわりに応えることも何度かありました。
更には、父の『頑固ジジイのわがまま炸裂』で、
父を言い聞かせるのに大変でした。
母が「あんたが来てくれてよかったわ~、私じゃ、絶対できないわよ。」を
繰り返し言ってました。


そんなわけで、4日の父の付き添いを病み上がりでして、
父のわがままに振り回されて無理をしたので、
かなり疲れましたので、
5日の仕事は、ペースを落としてやるつもりでした。


ところが、昨年末に社長が電話を受けた私あての電話で
どう考えても『緊急対応』の用件を、
机にメモを残した状態で置いてあり、
私に全く連絡がなかったので、
その対応に追われて、かなり無理をすることになり、
結果ぶり返してしまいました。


そんな状態で、先週仕事をしていたら、
7日の土曜日の訪問が終わり事務所に戻ったら、
気分が悪くなってしまい、事務所からタクシーで帰り、
そのまま寝込んでしまいました。
日曜日の8日は一日寝こんでました。


でも、熱が上がることはなく、
異常な暑さと発汗とが続き、
起き上がるのも辛いくらいの倦怠感で身体が鉛のような状態でした。


これってもしかして・・・と、思い、友人・知人にメールなどで訊き、
母にも訊いたら

「それ『更年期障害』よ!」

と、言いきられました。

思い返せば、
昨年の梅雨時から、胸の苦しさと息苦しさに何度も襲われ、
動悸もして、頭がクラクラしてしまったり、
涼しくなっているのに、やたら汗をかいて、タオルが手放せない状態でした。
頭痛も、薬を飲んでも効かなくて
食欲も落ちて、ウ○○ー○○ゼリーとかしか受け付けない時もあったり・・・と、
(今も食欲ないですが・・・)
そんなことを、思い出したら・・『更年期障害』かもしれないと、そう思ったら、
ずっと続いて治らなかった『体調不良』も納得できました。


医師の診断を受けたわけではないですが、
相談しているのは、皆さま『更年期障害』を体験された方々。
その方たちの話なので、まず間違いないだろうと思ってます。


これから長期戦で父のキーパーソンをしなくてはならないときに、
このタイミングでどうして『更年期障害』になるのかな~と、
正直、頭を抱えました。


昨日や今朝は、かなり辛かったのですが、
今は辛うじて落ち着いています。
母が、心配してくれて、
「今日は帰りは職場からタクシーで帰ってこい!」と
帰りのタクシー代をくれたので、ありがたく使わせてもらいました。
母の『更年期障害』とても重くて、大変だったのを
当時高校生でしたが痛烈におぼえています。
普段寝込まない母が、
頭痛と嘔吐で、何度も寝込んでいました。
それでも、必死に仕事に行っていたことも覚えています。


これから、この『更年期障害』と
どう付き合っていけばいいのだろうか・・・?
仕事をしながらこれをどうやって『先輩方』は乗り切ったのか?
色々な方に相談しながら、
自分なりの付き合い方を見つけていかなくては・・・と、思ってます。


今、ご利用者様の奥様方の中で訊きやすい方に、
いろいろ教えていただいています。
幸い気さくな方が多いので、色々指南してくださいます。
ここは『人生の師』である奥様方から教えて頂こうと思っています。


そんな年ごろになってしまったのか・・・と、
現実を突きつけられた、そんな心境です。


とりあえず明日は、仕事が終わるのが19時過ぎるのが確定で、
午前中は訪問がないため(役所に書類を届ける用事はありますが)
勤務時間調整で10時出勤にしました。


無茶はもうできない・・・と、しみじみと思いました。


仕事を持ち帰ってますが、
とりあえず、今日はもう寝ます。
大丈夫そうだったら、明日早起きして、
少し仕事しようと思います。


こんな状態なので、今年に入ってから
まだお風呂に入ってません(^^;
身体が気持ち悪いですが、
またぶり返したら怖くて入れません。


とりあえず寝ます。

では、おやすみなさい。



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やってしまった『寝正月』

遅くなりましたが、
あけましておめでとうございます。

今年も、また叫び続けたいと思います。
どうかよろしくお願いいたします。


今年の正月は、家族でゆっくりと過ごし、
元旦に父と酒を呑む・・・はずでした。


しかし、新年早々、私が寝込んでしまいました。


年末から風邪をひいていて、
毎年母と行く、元旦の初詣も迷ったのですが、
父の『お守り』をどうしても買いたくて無理して行ったら、
帰ってくる途中で悪化して、
自宅に着いてからそのまま寝込んでしまいました。

あまりにひどい頭痛で耐え切れずに
整形外科で処方されたロキソニン(鎮痛剤+解熱剤)を
今日の朝まで飲んでいたためか、
熱は微熱程度でしたが
咳・鼻水もひどく、寒気と発汗を繰り返して
倦怠感もひどすぎて、食欲もなく
今日の昼まで、動けませんでした。

今日の昼ご飯を食べたころから、身体が動くようになり、
オタク友達の助言も受けて、ひたすら水分補給をしつつ、
ネットで休日診療をしている病院を調べたら、
近所で今日当番医をしている病院を見つけたので、
急いで受診してきました。
医者は「高熱じゃないから、普通の風邪だ」
と、言いましたが、『仕事』のことや『父』のこともあるので、
「仕事がケアマネージャーなので、
 可能であればインフルエンザの検査をしてください」
と、無理やり検査をしてもらい、
結果『陰性』でしたので、とりあえずひと安心して
薬をもらって帰ってきました。
でも、この医者の偉そうな態度と
高熱でもマスクをしていない患者に「マスクをするように」と言わない
受付のねーちゃんたちに、腹が立ちました。
「二度と行くもんか!」と、正直思いました。


そんなわけで、父の大事な『正月』を
台無しにしてしまいました。
とてつもなく自己嫌悪に落ちてます。


『私の快気祝いの酒』は
私の体調が戻るまで待ってくれると
父が言ってくれました。
お父さん、ごめんなさい(T T)


父は、『大丈夫だ』と言ってますが、
私のほうが大事をとって、
食事は自分の部屋でひとりで食べてます。
部屋を出るときは、マスクをしてます。
父に風邪をうつさない為にです。
もっとも、父自身が無防備で、
マスクをしないで外に出かけてますが(^^;
今日も遠方に釣りに行ったようで
帰り車中で酒を呑んできたようで
ご機嫌で帰ってきました。
そんな姿を見て、とても幸せに思いました。


こうして、父が釣りに行ける日が
一日も長く続いてほしいです。


明日が、父の気管支内視鏡検査なので
どうにか明日の検査に付き添えるように
必死で体調を戻しているところです。
本当は早く横になったほうがいいのでしょうが、
まる2日ほとんど横になっていたので、
起きていても大丈夫なように、
その面でも身体を整えないといけませんので、
午後からは、あえて起きています。


仕事の追い上げどころではなくなってしまい、
それよりも、父が『普通』に過ごせる『最後の正月』を
台無しにしてしまいました。
どうして、このタイミングで寝込んだのか、悔しいですが、
仕事の面を考えれば、正月でよかったのかもしれないと
とても複雑な気分です。
ただ、5日からの仕事も、
訪問は、ある程度治るまでは、極力控えようと思ってます。
体力のないご利用者様に、
こんな厄介な風邪をうつしたらたいへんなことになるので。
今月の担当者会議は確か11件はあったはずなので
今週訪問できないのは結構つらいんですけどね。


今、検温したら37.3度。夕方よりも0.2度上がりましたが、
まあ、この時間でこの体温ならば
明日の付き添いは、どうにかなりそうです。
もちろん、マスクは外せませんけれど。


とりあえず、明日の父の検査の付き添いができるよう
体調の回復に努力したいと思います。


改めまして
今年もよろしくお願いいたします。


かたつむり




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大みそかの『晩御飯』

仕事の追い上げを年内に終わらせるという『目標』は
達成どころか、逆に『仕事の山』が
高くなっているような気がします。


年越しは、なかば徹夜で仕事をするつもりでしたが、
仕事が『休み』に入ったとたんに『鼻風邪』を引きまして、
BOXティッシュが手放せない状態で、
あっという間にひと箱消費しました。
母親からは『徹夜禁止令』が今、発令されました(^^;



今、晩御飯を食べたところです。
我が家、というかウチの両親は、夕方5時に夕食を食べます。
だから、姉も私も休みの時は両親の時間に合わせてます。

家族4人でしゃぶしゃぶを食べながら
たわいのないおしゃべりをしてました。

当たり前の『夕食』の時間。

こうして、家族4人で普通に食事ができるのは
あとどれだけの回数があるのだろうか。


悲観的は発言が多いのは、自分でも自覚している。


しかし、癌細胞にだけ反応する『PET検査』を父は受けている。
稀に、炎症にも反応してしまうことがあるという。
でも、『本当に稀だと』先日の医師は言っていた。
その検査の画像を父と一緒にみた。
癌の部分は赤く光る画像。
父の画像は右肺に3か所赤く光っていた。
その大きさは、3か所とも、決して小さくはなかった。

3つとも炎症ということは、ないだろう。
そして、その赤い部分のそれぞれの大きさ。
医師から具体的な大きさの説明はなかったが、
素人から見ても、3つとも小さくはなかった。


家族4人で鍋をつつく夕食。
その時間がとても幸せに感じた。

私は、この1年は所用で休日でも外で夕食をとることが多かった。

こんなことになるのなら、
ちゃんと、土日の休みの時くらい、
両親と姉と一緒に夕食をとるようにしていればよかった。
今更だけど、後悔している。

あと、どれくらい、
父と一緒に『普通』に夕食を食べられるのかわからない。
でも、せめてこれからでも、
休みの時は、家で両親と姉と一緒に晩御飯を食べようと思った。



来年は、父にとって、私達家族とって、特別な1年になります。

病魔との闘いに臨む父を、父を支える母を
精一杯、娘として、両親を支えていきたいと思います。



ご利用者様とそのご家族の笑顔と『ありがとう』の言葉に支えられて、
この一年、自分なりに懸命に、仕事に取り組んできました。


『ご利用者様とそのご家族の生活と人生を守り支える』


ケアマネとしては大それた考えかもしれない、
でもこの『信念』は曲げたくない。

ケアプランを作成し、ケアマネジメントをするのが
ケアマネージャーの仕事。

でも、何のためにケアプランを作成し、ケアマネジメントするのか、
その根底の『もの』がなければ、形だけのものなる。

だから、私は
『ご利用者様とそのご家族の生活と人生を守り支える』ことを、
ケアマネージャーとしての自分の信念として
そして、ケアマネージャーである前に、ひとりの人間として
これからも、ご利用者様とそのご家族と
真摯に向き合っていきたいと思います。
そして、精一杯
ケアマネージャーの仕事に取り組んでいきたいと思います。


これからも、己を磨き、己を顧みて
少しでもかたつむり個人として成長し
それを、ケアマネージャーの仕事に活かせるように
精進していきたいと思います。



今年の正月から始めた、この『毒吐き』ブロク。
お付き合いくださりありがとうございました。
今年の拍手等の返事ができないままでの年越しで
本当に申し訳ありません。
皆様のコメントに何度も励ましていただきました。
本当に感謝しています。


来年も、自分の『想い』を、叫び続けたいと思いますので、
また、遊びに来てやってください。


皆さま、どうか、良い年をお迎えください。


かたつむり



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自分の悪いところを教えていただきました。

(自分への戒めのために、当分の間、トップページへ置かせてください)


今、休憩時間に書いています。


私のネット上の書き込みを見て
『苦言』を下さった方がいました。
 

その方が送ってくださなった文章を読んでいて、
自分が未熟さを
自分の思い上がりを
突き付けられました。


ネット上に書く言葉を自身では
感情的に書いたつもりではありませんが、
誰が見るかわからないものということも
認識していたつもりですが、
それでも、配慮が足りなすぎると気づかされました。
  
 
ひとりひとり、その人のそれぞれの立場があり、
そのうえでの言動であり
その言葉の向こうにその人が抱えている『何かがある』
そのことも気づかされました。
自分は『まだまだ甘いと駄目だ』と思いました。


今後は、もう一度自分の言動を顧みて、
他者を否定する言葉を
ネット上に載せるという安易な行動はやめたいと思います。

 
『苦言』をしてくださったかた、
本当にありがとうございました。


こうして、
自分の悪いところを
教えて下さる方がいることに
感謝したいと思います。



追記:過去の発言について、消すのは簡単ですが、
   消しても自分はすでに言った『言葉』は、もう消せません。
   消せば解決するとも思えません。
   過去のログについては、もう一度読み返して
   「ここは中傷発言でしかない」と思ったところは直したり消していきます
   でも、自身がネット上で発した『言葉』は消えないと思っています。
   


2016年11月18日   かたつむり
   
   
    
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