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ただ今、人生の仕切り直し中のケアマネ
プロフィール
HN:
かたつむり
性別:
女性
自己紹介:
心と身体を壊し、まだ人生の仕切り直し中のケアマネ。

保有資格:社会福祉士・介護福祉士・介護支援専門員。ついでに日商簿記2級・全商簿記1級
(Twitter@renrinoeda2)
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ご無沙汰しております。

ご無沙汰しております。

 

一応、生きております(笑)

 

コロナウイルスに気を付けながら毎日を過ごしています。

 

Twitterでは叫んでおりますが、こちらになかなか書く機会をつくれないまま、年を越してしまいました。

 

 

昨年に新しい職場に就職しましたが、昨年の夏の終わりに更に体調が悪化しました。

体調が戻らないままの身体には、昨年の酷暑に耐えきれませんでした。

『会社から解雇されても仕方がない』と、思いましたが、社長と話し合いの末、週4日勤務にして、まずは身体を治すようにしてはどうか」とおっしゃってくださいました。

もちろん給料は減給になりましたが、きちんと書面で互いに確認をしたうえで、給与額も決まり、昨年9月からは週4日で仕事をしております。

メンタル・整形外科・整骨院に受診しておりますが、どうやら私は自律神経の機能が低下しているようです。

そのため、生活のリズムを整えて、食事の内容に気を付けることから始めました。

そのかいあってか少しづつですが、体調が上向きになり始めております。

 

実は、長年介護職で夜勤もしていたためか、『規則正しい生活』って発想が私にはなかったんですね。

身体を治すため、そんなところから始めている状態です。

食事の内容にも気を付けるようにしています。

以前はこのような発想も持てませんでした。

 

フルタイム勤務できるまで、今の会社にどこまで待って貰えるのかは解りません。

それでも、解雇されても仕方がない状況だったのに、このように猶予をつくってくれたのですから、今の社長には感謝しています。

 

この先どのようになっても、身体を少しでも戻すことはしなければならないので、その努力は続けていきたいと思っています。

 

最近は、自己研鑽の勉強も、少しづつですがやっております。

しかし、夏の体調悪化で試験勉強の追い上げができなかったので、行政書士試験の受験は昨年は見送りました。

その後、社会福祉士会の勉強会でお会いしたかたの勧めもあり、今は社会保険労務士の試験勉強を始めています。

資格の取得もそうですが、もうひとつの理由として、自分の経験上、労働問題にも関心が出てきていたので、労働関係の法令の勉強をすることは、福祉専門職としても大切だと思いました。

勉強のペースはゆっくりですし、内容は難しいですが、でも勉強していて面白いです。

もちろん行政書士もあきらめておりません。

 

最近は、社会福祉士会の研修にも参加しております。

念願の基礎研修Ⅰを終了することが出来ました。

また、高齢者分野外の勉強をするのも面白いです。ケアマネとしての引き出しも増えることに繋がります。

他分野の方とも話が出来るので、とても刺激になります。

今は、色々なことに興味が広がりすぎて、勉強したいことが沢山あります。

一日24時間では足りません。

 

 

 

実は、いろんな事に関心を向けられるようになったことで気がついたことがあります。

 

『福祉分野は政治や経済や更には『憲法』と切っても切り離せない』ということです。

 

今頃になって気がついたのかよ!と、思われるかたもいるでしょうね。

 

私がこのことを意識したのは、自民党の憲法改正案のことを強く意識してからでした。

 

自民党がつくった憲法改正草案を読んで、私は恐怖心を覚えました。

 

国民には事実上、基本的人権も、国民主権も、言論の自由もなくなる、内閣がその気になれば、戦争もできるし、更には独裁政治も恐怖政治もできる内容だからです。
(少なくとも私はそう理解しました)

 

ですから私は、憲法改正に反対です。

 

経済も、デフレが続き消費税も上がり、庶民は買いたいものも変えず、市場に金が回らないから、負のスパイラルに落ちている。

中小零細企業は更に経営が苦しくなり、倒産件数も増えている。

一部の大企業や裕福層だけがさらに裕福になっているという、異常な国になっています。

 

自分の視野が狭くなっている間に、この国がとんでもないことになってしまっていました。

 

私自身も含めて、国民一人一人が、もっと社会に関心を持たないと、この国が更にとんでもないことになってしまう、そんな危機感を感じている今日この頃です。

 

いろんな出来事が全て福祉分野につながっているんだと、改めて感じています。

 

私自身の気持ちは、以前よりは前向きになれたような気がします。

 

以前のようなペースでは書けないと思いますが、毒吐きブログを再開できればと思っております。





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仕切り直し、動き始めてます

ご無沙汰しております。

 

Twitterでは色々と叫んでおりますが、ブログは久しぶりになります。

 

実は、新しい職場で仕事を始めています。

先日、ふた月が経ったところです。

 

かかりつけ医からは早い段階で『就労の許可』がでました。

『まだ、身体は戻っていないが、自宅での静養を続けると、物事を悪いほうに考えてしまい、精神状態が更に悪くなるため、身体は辛くても仕事をしていた方が、悪いことを考え込まずに済むから。』

というのが、かかりつけ医の見解でした

 

そして、結局また、『ケアマネ』をやっています。

 


実は本気でケアマネを辞めるつもりでした。



 

『自分にはケアマネ業界は合わないから、ケアマネの仕事は好きだけど、もう辞めよう。』

 

そう思っていました。

 

母からも『もう、ケアマネの仕事は辞めてくれ』と、言われました。


 

最初の職場でも前職場でも、はっきり言って『ボロボロ』になりました。

特に今回は、『過労死』が頭をよぎるくらいでした。

精神的にも危険で、衝動的に自傷行為以上の行動をしそうでした。
何をしでかすかわからないと自分でも恐かったので、『一人でいたら危険』と思い、実家へ逃げ込み、一日の大半は寝込んでました。。

もっとも義叔父の介護のことで、私が動かなくてはならない状況でしたので、義叔父のことは無理を押して気力のみで動いてはいました。

 

そんな娘の姿をみたら、母親としては、『もうケアマネの仕事はしないでくれ』と、思うのも当然だと思います。

 

主治医からも『ケアマネの仕事はもう辞めた方がいい』と言われていました。

 

理由は『トラウマ』です。

「新しい職場であっても、ケアマネを続けていると、前職場や最初の職場での辛い経験が『トラウマ』になっているので、職場環境が変わっても、何かの折に過去の『トラウマ』を思い出してしまい、上手いくこともいかなくなる。」

と、言われました。

 

 

でも、それでも、一応、ケアマネのほうでも仕事を探してみようかと動いたら、すぐに決まってしまいました。

採用までの流れが、あまりに事がトントン拍子に進みすぎたので、自分でもびっくりです。

 

これは、『まだあきらめるな。もう少し、ケアマネをやってみろ!』と、父が言っているのかな??

 

と勝手に解釈して、もう一度ケアマネの仕事をしてみることにしました。

 

 

ですが、私も『トラウマ』が恐かったので、職場の選択は、色々と考えました。

その結果、今回の職場は、単独居宅だった前職場や最初の職場と全く環境の会社を探しました。

『併設型の居宅で、管理者の基礎資格は医療職』と、いうところを選びました。

 


上手くやっていけるかどうかはわかりません。


 
けれど、もう私は、無理に会社にとどまることはしないことに決めました。

 

今迄、会社の事を考えて一生懸命やってきたことは、なにひとつ評価されず、結局私の努力は報われませんでした。

 

だから、もう、会社というものに期待をすることをやめました。

 

そうすることで、会社と自分とのちょうどいい距離を保てるようにしたいと思っています。

 

 

ケアマネとして2社で仕事をして、ケアマネとして色々と経験して感じたことを前回も書きましたが、他にも感じたことがありました。

それは、

『常に勉強することが必要だけど、その勉強の範囲は、介護分野や福祉分野だけでは駄目なのだ』

ということでした。

 

昨年までは、父の事で勉強が出来なかった反動もあり、最近は自分なりに色々と勉強をしています。

 

その内容は、『福祉専門職としての自己研鑽』と、『かたつむり一個人として関心を持ったこと』の両方での勉強をしています。

 

通信教育過程の大学の編入学も考えています。

いずれグリーフケアの支援をしたいので、心理学の勉強がしたいのです。

 

福祉専門職としては、『社会福祉士』としての立ち位置での勉強です。
そのなかに『ケアマネ』の勉強も含まれています。

関連する福祉分野以外の勉強もしています。

 

今、個人として関心がある事柄は、『緩和ケア』と『安楽死』と『グリーフケア』です。

 

これらの関連の本も読んでいます。


いずれも、考えさせられる内容でした。

 

 

 

今までの自分のなかでは、30歳で社会福祉学科に入学した通信教育過程の大学での勉強の時以来の『勉強したい!!』という、ものすごい勉強への欲求に駆られています。

 

しかし、壊れた心と身体はもう戻りません。

 

仕事から家に帰ると身体が動きません。

 

この文章は少しづつ書いてきました、だから、投稿に時間が掛かってしまいました。

 

正直、日常生活にも支障が出ているくらいの心身状態です。

 

もう、無理がきかない心と身体ですが、それでも、自分に出来ることは、やってみたいと思います。

 

 

生きている限り、何度、崖から突き落とされても、必ず這い上がって見せます。

 


今の自分が出来る範囲で頑張ります。





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人生の仕切り直し

ご無沙汰しています、現在も静養中です。


昨日まで、実家で過ごしていました。
体調の良い時に、自宅の散乱した部屋の中を少しづつ片づけています。
 
前日も書きましたが、色々とあって、再び心と身体を壊して休養中です。
そして、今の会社(居宅介護支援事業所)は退職することにしました。
理由は、ブログでは詳細は触れませんが、また戻っても再び心と身体を壊すのがわかってしまったからです。
今は『自分の心と身体を守ることが第一優先』にするしかない状態にまでなってしまいました。
そうしないと『本当に自分が壊れて、元に戻ることができなくなってしまうほど、今の私はボロボロになっている』状態にまでなっているのです。
 
再就職するときに、悪友看護師に苦言を言われました。
 
『自分の身体より大事な仕事はない!それを忘れるな!!』
 
悪友の苦言にしたがって、これ以上ボロボロになる前に辞めようと思いました。
 
ご利用者様とご家族の事を考えたら、本当に申し訳なく思います。
ですが、このまま続けたら、自分の命にも関わりかねないと思い、苦渋の選択でした。
 
 
こうなった理由は沢山あるが、その中の一つは、管理者との『福祉専門職としての価値観の相違』がありました。
私は、ケアマネである前に『福祉専門職』でありたいと、『ご利用者様とご家族の生活と人生を守り支えるのがケママネの任務』と考えていました。
そんな私の価値観と、社長の価値観はあまりにもかけ離れていました。
 
だから、ケアプランに対する考え方まで全く違っていました。
 
完全に仕事のスタンスが違っていたのです。
 
社長のケアマネとしての価値観、そしてそれ以前に社長の一個人としての考え方に対して折り合いをつけるのは、私にはどうしても難しかった、できなかったのです。
 
自分の福祉専門職としての『ポリシー』をかえることは、どうしても出来ないことでした。
 
 
 
現在の職場の7か月間で、自分の身体を壊しながら感じた事は『ケアマネ業界の危機』でした。
職場だけでなく、いろんな研修にも参加して、他事業所のケアマネさんの考えを知る機会もあった。
一生懸命にケアマネの仕事に取り組んでいる人も沢山います。
けれど、正直『あなたは、なんのためにケアマネになったの??』と、思うような人も少なくなかった。
主任ケアマネさんも、その責務に懸命に取り組んでいる方も沢山います。
その一方で、『名前だけだから』とかいって、権利だけしっかり利用して、義務は全く果たさない人もそれなりにいます。
経営能力もないし身につけようと努力もしないで、居宅介護支援事業所を開いている主任ケアマネもいます。

ちなみに、私は自分で居宅介護支援事業所を立ち上げたくてもできません。
主任ケアマネではないからです。
正直、とても悔しいです。
 

 
かつて話題になった『ケアマネ不要論』。
私は今回、『ケアマネは要らないといわれても仕方がない』という現実を目の当たりにしました。
これでは本当に、ケアマネという職種が近い将来なくなるのではないかと、私は実感しました。
 
それとともに感じた事が、介護保険制度での高齢者の支援の限界でした。
 
ケアマネとして、前職場と合わせて、3年半ほど仕事をさせて頂きました。
ご利用者とご家族とともに苦しみともに笑いながら仕事をさせて頂けたことは、私にとってとても幸せでした。
今でもケアマネの仕事は大好きですし、出来れば続けたいと思っています。
 
しかし、父を看取ってから、ケアマネの視点だけでなく、在宅介護をする家族の視点の両面で、ご利用者様とご家族も見るようになっています。
ましてや、私はクライアント側にもなったことがあるので、その視点でも見てしまいます。

その為、私は、他のケアマネさんとは、価値観も動きも視点も全く違うことに、今になって気がつきました。
そして、そのことで、今は他のケアマネから浮いてしまっている自分を常に感じるようになってしまいました。
 
それと、父を看取ってから精神的に不安定になったことで、『在宅介護で家族を看とった後の遺族のケアが全くない』とに、自分が当事者になって気がつきました。
立ち直るまで支えてくれた悪友看護師と、『制度化されていない必要な支援』について、色々と話をして、そのことの重大さにようやく気がつきました。

父の死から立ち直りはじめたころから、自分の中で、『制度の隙間に埋もれて苦しんでいる人たちを支援する活動がしたい』と、そう思うようになっていきました。
 
ケアマネの仕事をしていくごとに、法制度にない隙間に落ちてしまう支援者を何人もみてきて、『このままでいいのか?!』と、思うようになりました。
 
そんな矢先に再び体調を崩しての退職となりました。
 
変な言い方になりますが、今の自分が『目指したい』『取り組んでみたい』と思っていることは、ケアマネの立ち位置では限界があり、できないと思いました。
 
だから、これから福祉専門職としてどのように活動していくか、もう一見つめなおしてみたいと思っています。
 
『制度の隙間に埋もれて苦しんでいる人たちを支援する活動』をするために。
 
具体的にどうするかは、漠然とはイメージはしていますが、最終結論はまだ出ていません。

ただ、一つ決めていることは『社会福祉士』としての勉強を一からやり直そうということです。
そして、制度の枠にとらわれない支援をしてみたいと考えています。
その為の引き出しを、今はとにかく多く持ちたい。
だから、これからはとにかく『勉強』します。介護保険もそれ以外のことも。
 
 
『ケアマネ』ではできなかったことが、『社会福祉士』としてならば、何かできるかもしれない。
『制度の隙間に埋もれて苦しんでいる人たちを支援する活動がしたい』
 
まだ、漠然としていますが、自分の新たな目標と夢を目指して、これからの生き方を探していきたいと思っています。


そんなわけで、一度ケアマネから離れることになると思いますので、どう転がってもいいように、ブログのタイトル名をかえました。

向日葵は私の好きな花です。




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新しい『目標』と『夢』

今年に入って、初めてのブログです。

 

どうにか生きておりますが、また無理を重ね過ぎて身体を壊しました。


幸い、早い段階で、社長から『傷病手当金の手続きをするから、今は休んでほしい』と、言われましたので、お言葉に甘えることにしました。

診断書は、約1か月の静養となっております。

 

休まずにあのまま仕事を続けていたら、間違いなく、以前の会社と同じ最悪の結果となっていたでしょう。

この先はどうなるかは自分でも解りませんが、『最悪のかたちになること』を社長が回避して下さったことに、こころから感謝しています。

 

今の職場で、働きだしてから、強く感じるようになった『こと』がありました。

 

『ケアマネであるが故の、自分に出来ることの限界』です。

 

この限界は、個々の能力のことをいってるのではありません。

 

ケアマネは介護保険法と、運営基準に基づいて仕事をしています。

 

そのケアマネの業務を定めている法令が、自分のなかで『足かせ』に感じてしまうことが最近多くなってきています。

 

元々、私は自分の職務範囲の枠を超えてしまって動くことは多々ありました。

ですが、そんな私でも、『これは、ケアマネの立場では、どうしても出来ないよ』と、思うことがとても多くなってきました。

 

それだけ、クライアントが抱えている『課題(ニーズ)』は、今の縦割りの福祉制度では対応出来なくなっているんだろう・・と、思いました。

 

国は、それぞれの福祉分野の枠組みを超えた包括的な支援の必要性は言ってはいますが、現実はまだまだです。

 

ですから、私は、『ケアマネの仕事とは別に、もっと福祉制度の枠組みを気にせずに支援がしたい、そして、福祉制度の枠組みからこぼれた落ちてしまった方々の支援をしたい』と、思うようになりました。

 

更年期まっただ中の、還暦まであとウン年と数えられるオバサンになって、『新しい夢と目標』を見つけてしまいました。

あと10歳、いやせめてあと5歳若かったら!!と、正直思っています。


30
歳代半ばから40歳代後半まで、うつ病を抱えていたので、一番自分のやりたいことを全力でやれる年代に、思いっきり行動することが出来ませんでした。

でも、そのことにあれこれ言っても、若くなるわけではないので、仕方がありません。

うつ病が寛解しただけでも、私には『奇跡』なのですから。

 

なので、現状の自分の年令を踏まえて、自分がやってみたいことを実現するためには、どうすればいいかを模索中です。

そして、ふと気がついたのです。

 

『そうだっ!、私、『社会福祉士』持ってるじゃん!!』と(^_^;)

 

ずいぶん前に取得した、『宝の持ち腐れ』と化していた、『社会福祉士』という資格。

 

『そうだっ、『ケアマネ』では無理でも、『社会福祉士』としてなら、何か出来るかもしれない!』

 

そんなことを考えながら、静養期間を利用して、身体を休めながら、動けるときに調べています。

 

ある程度の大まかなイメージは大体出来ています。

あとは・・・。

・その為に必要な準備期間。

・仕事をしながら自分の猛勉強をする時間の確保の方法

 (生活がかかっているので、仕事は当然フルタイムです)。

・活動のために必要な資金をどの位の期間にいくらまでつくる必要があるか
   (やっと生活しているのに、どうやって軍資金つくるんだよ・・(ーー;) )

これらを今、考えているところです。

 

 

社会人1年生になった時に、最初の上司にこう言われました。

 

 『何事も3年で考えなければいけない、

   一年目は土を耕し、種をまく

   二年目は、芽を出した苗を、水や肥料を与えて、害虫から守り、一生懸命育てる

   三年目に、ようなく実ったもの(目標)を、収穫するんだ。

  だから、何らかの目標を成し遂げるためには、3年は必要なんだ』

 

この言葉は、今でも私の生きる上での指針のひとつとなっています。

 

だから、次の夢を叶えるために、どのようにすればいいのか、『その準備の為の準備』をしています。

 

 

このことを考えるきっかけになったのは、やはり『父の死』でした。

患者が亡くなった後の遺族のケアが全くない。


私は、父亡き後、自分が身体を壊し、職を失い、大きな喪失感で、ただ生きているだけの毎日でした。

それだけではなく、その生きることさえも、身体を壊したが為に、何も食べることが出来ず、心身ともに更に悪化した。

自宅のベッドの上で、動くことも辛い状態のとき『もしかしたら、私、このまま孤独死するのかな・・』と、そんなことを思った。

『もうどうなってもいいや・・』と、投げやりになったときに、脳裏に浮かんだのが『父の顔』でした。


脳裏に浮かんだのが『父の顔』・・・
それが、私が立ち直るきっかけになりました。

 

立ち直る過程で『グリーフケア』というものを知りました。

実際に自分が『グリーフケア』を受けて、『そう、こうして、私の苦しさ哀しさ辛さがまぜこぜになった、父への想いを誰かに、聴いて欲しかったんだ。』と、思いました。

自分の胸の内をただ、思いつくままに話していく過程で、心理士さんが、最低限の言葉をくれて、それを受けて、自分のなかの哀しみの感情を整理して行くことが出来ました。

 

でも、このグリーフケアは、職業としては殆ど皆無で、NPO等のボランティアが担っていいます。

しかも、その団体は少ないし、知られていません。

私は、悪友看護師から教えてもらって知ったのです。幸運だったのです。

 

 

そう、日本の福祉制度は隙間だらけで、その隙間に落ちてしまっている人達が沢山いる。

それぞれの分野の福祉専門職は、自身の任務の指針となる法制度が、ときには足かせとなってしまい、『助けたくても身動きがとれない』ことが多々あります。

その隙間を埋めてくれているのが、沢山のボランティアさん達。

そして、国はそれを『当たり前』のように、ボランティアにあまりにも頼りすぎている。

 

私は、自身の身体をはって、DV被害者を守る活動をしている方と、インターネット上で知り合いになった。

DV加害者から被害を受けかねない、身体をはったその活動は、無償のボランティアだ。

ご本人は見返りなど全く求めていない。

逆に、少しでも社会の役に立てるのならば、と、考えている方です。

けれども、命に関わる被害を受けるかもしれないその活動を、無償のボランティアがしている、この国の現状に、私は疑問を持たずにはいられない。

 

そのような、『制度の隙間での支援活動も含めて、広い視界のなかで自分に出来る何かがあるのではないか・・?』

 

そんなことを、今、考えています。

 

 

先日、父の初めての命日を迎えました。

今年に入ってから、『一年前のあの頃は・・・』と、数え切れないほど思いながら過ごしてきた。

一周忌の法事もしてないし、

あまりに寒いのと、私が体調が悪いので、墓参りも行ってない。

 

ただ、一年前の『危篤の父が下顎呼吸に変ったのに気がついた時間から、父が彼岸に旅だった瞬間の時刻まで』、私は、自宅の父の写真とずっと向き合っていました。

 

『私も人生を全うして、彼岸で父に会ったときに『よく頑張ったな』と、褒めてもらえるような、生き方をしたい。』

 

最近、そんなことを強く思っている。

 

そして、

本当に実現できるかどうかは、やってみないと解らないけれど、それでも、この歳になって、新たにやってみたいことを見つけられたことに、幸せを感じています。




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大きく重い一年でした

私にとって、今年は大きく重い一年でした。


今年も残りわずかとなりました。


私は、新しい職場で、悪戦苦闘し、社長と時々ケンカしながら、それでも、以前と変わらずに『今の自分の全力』で、ご利用者様とご家族と向き合いながら、毎日仕事しています。

 

一度壊れた身体は、二度と元には戻りませんでした。

ですから、少しでも無理をすると、すぐに体調を崩します。

11月の初めに帯状疱疹になりました。

そのときに、『ここまで、体力も抵抗力もなくなっているのか』と、愕然としました。

前職場時代の自分の体力を『10』としたら、今の私は『4』くらいかもしれません。

 

今の体力のない身体とのつき合い方を、いまだに模索しています。

毎年自主的にやっていたインフルエンザの予防接種は、今年も体調不良でできませんでした。

 

 


あまりにも色々なことがありすぎた1年でした。

 

 


年明けからターミナルに入った父の介護と、前年からやっていた父のキーパーソンを、ケアマネの仕事をしながら必死にやった。

その時、自分の身体も本当にボロボロだった。

それでも、『父に残された時間はあとわずか。今動かないでどうする!』と、自分を奮い立たせて、本当に気力だけで必死に動いた。

そして、父は花が枯れていくように、静かに彼岸へ旅立った。

そんな父の最期を、自宅で母と姉と私の家族全員で看取った。

そして、父の遺言に従い、家族だけで静かに送った。

 


そのあとも、あまりにもいろんなことがありすぎて、私は心も身体も完全に壊れてしまった。

それでも、谷底に突き落とされた私は、今も必死に這い上がっているところです。

 


今までも、何度も絶望の淵に追い込まれ、谷底に突き落とされてきた。

そのたびに這い上がってきた。

だから、今も、ただ『地上に戻るため』に、空を見ながら這い上がり続けている。



これからも、這い上がってもまた谷底に突き落とされるだろう、何度も。

自分の人生が終わるまで、その繰り返しであろうことは、想像できる。

今までもそうだったのだから。

 




15歳の時に、家の経済事情で、大学や専門学校の進学をあきらめ、看護師になる夢をあきらめ、ランクを大きく下げて確実に合格する公立の商業高校へ進学した。

当時の我が家は、私が私立の高校に進学することもできない状況だったから。

そして、私は高校卒業後、一般企業に就職した。

 


そんな私が、今、ケアマネをしている。

そして、ケアマネの資格を取るよりも、もっと早くに、社会福祉士と介護福祉士の資格は、すでに手に入れていた。

 


高校卒業して一般企業に就職した19歳の私とは、180度違うところに、今、私は立っている。

 


ここに至るまでの道は、紆余曲折の連続だった。

あえて苦労という言葉は自分では使わない。

なぜなら、もっと苦しい思いをしている人がたくさんいるから。

その人たちに比べたら、私の半生は苦労のうちには入らない。

私は、少ないチャンスを生かして、長い年月をかけて、ケアマネの試験に合格するまでにたどり着いた。

しかし、当時うつ病であったことから、ケアマネの仕事には就くことができなかった。

それでも、カウンセリングを受け、病院をかえた結果、うつ病が寛解した。

 


自分でも『奇跡』だと思った。

 


ケアマネというかたちでようやく掴んだ、幼いころからの私の『夢』。

 

 


『自分の家の畳の上で死にたい』

 


祖母のこの言葉を、13歳の時に祖母を彼岸に送ってから、後から母から聞かされた。

そして、我が家と同じアパートの隣に住んでいた祖父母を介護していた叔父と叔母の姿。

それが、今の私の『原点』。



7年前、その叔父が、具合が悪くなり近くの病院に行ったときは、すでに末期がんで、病室で痛みに苦しみ、痛みをとるためにモルヒネ漬けになって死んでいった。

当時、介護職だった私には、持っている情報が無さ過ぎたし、叔父もすでに移送に耐えられる身体ではなかったので、転院も不可能だった。

末期がんの対応が難しい病院だったけど、先生や看護師さんは本当によくしてくださった。

そのことだけが、唯一の救いだった。


最期を自宅で過ごすことができなかった、苦しみながら死んでいった叔父のその姿が、私が『居宅ケアマネを目指す』後押しとなった。

 

 



『お母さんが大変だから、俺は、最期は病院でいいよ』

 


がんの再発がわかった時に父が言った言葉。

 

そのとき

 


― 俺は最期まで家にいたいけど、お母さんが大変だから、俺は病院でいいよ -

 


父の、心の声が聴こえたような気がした。

 


このときに、私は、クライアントの発する言葉が真実ではなく、その発した言葉の向こうに『本当の真実』が隠れていることを、ようやく知った。

 


がんの再発がわかってから彼岸に旅立つまでの、父の最期の1年3か月。

私は、父の姿から、父の言葉から、本当にたくさんのことを教えてもらった。

娘として。

ケアマネとして。

 


決して、私にとっては良い面だけの父ではなかった。

もしかしたら、負の部分のほうが多かったかもしれない。

それでも、私にとって最後にすがれる場所は父だったのだ。


そのことを、棺の中に納められた父の顔を見つめて、私はようやく気が付いた。

 


父は最期に私にたくさんのことを、自身の闘病を通して私に教えてくれた。

実際に、自分が、ケアマネとしての『ものの考え方が変わった』という自覚はある。

 


介護と仕事の両立がどれほど過酷かを、キーパーソンとして親の残りの時間とその責任を背負うことの重さを、自分が身をもって経験した。

この経験を、これからはケアマネとして、しっかりと活かしていきたい。

父も、それを望んでいるだろうと、私は思っている。

 

 


今でも、父を想って泣くことがある。

余命2週間と言われたときに、すぐに父のもとへ行くことが、仕事の関係上、どうしてもできなかった。

そして、私が行った時の父は、すでに声がでなかった。

それでも父は、安堵したように、私の顔を見て、穏やかに微笑んでくれた。

あの時の『父の穏やかな安堵したような笑顔』がどうしても頭から離れない。

 


もう一度だけでいいから、父の声を聴きたかった。


もう一度だけでいいから、父と普通の父娘の会話がしたかった。

 



後悔ではないけれど、それだけが心残り。

 



父が何度も『かたつむりはいつ来るんだ?』と、母に訊いていたと知ってから、なおさらだ。

 


『父が私に何かを直接言いたかったのかもしれない』

 

そう思った時に、父に申し訳ないことをしたと思った。

 

モニタリング訪問で一番忙しい時期でもあっただけに、私も身動きが取れなかった。

当時の職場に半日休でさえ、お願いできる状況ですらなかった。

でも、それは、私の言い訳に過ぎない。

 

 

 


まだ、私はいろんな想いが整理できないままだ。

だけど、立ち止まっているわけにはいかない。

前を向いて歩いていくしかない。

 

 


ケアマネとして、いちからやり直して、あえて自分をさらけ出して、ご利用者様とご家族と向き合い、課題解決のために奔走していく。

壊れた身体との付き合い方を模索しながら、今の自分の身の丈に合った生き方を探していく。

そして、ようやくつかんだ『夢』を手放すことなく、顔をあげて生きていく。

 


それが、父が私に望んでいることだと思って、これからも、自分の心に正直に生きていきたいと思います。

 

 


今、新たにやりたいことがいくつかあります。

実現できるかどうかは、正直わかりません。

でも、今までもそうしてきたように、少ないチャンスを活かして、新たな夢をかなえられるように、頑張ってみたいと思います。

 

 



大みそかは実家に泊まります。

 


父がケアマネさんに言った言葉

 


『家族3人で、いつまでも明るく笑って、仲良く暮らしてほしい』

 


私は、この言葉は、『父の遺言』だと思っています。



父のこの『想い』を胸に刻んで、これからも前を向いて生きていきたいと思います。

 

 

 




今年も、私の毒吐きブログにお越しくださり、本当にありがとうございました。

 


『ご利用者様とご家族の生活と人生を守り支える』ために、これからもケアマネとして精一杯務めさせていただきます。

 


どうか、これからも、よろしくお願いいたします。

 

 



かたつむり






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新たなスタートライン

花になれ:指田郁也氏

私は、かつて鬱病で苦しんでいたときに、この曲と、この曲に自身の思いをのせて演技をする羽生選手の姿に励まされました。

 

それからは、私は、つらいことや苦しいことがあるときには、いつもこの曲と、この曲で演技をする羽生選手の姿を見ながら、必死に踏ん張ってきました。

 

そして、今回もこの歌を数え切れないほど聴きながら、今も、這い上がっているところです。

 

 

私は、父を彼岸に送ったあとに、完全に心身を壊し、仕事を失い、どん底まで落ちました。

 

生活費は、父のわずかな生命保険を家族三人で分けたそのお金のおかげで、どうにか繋いで生きていました。

 

父の介護をしている頃から、既にまともな食事は受けつけなくなり、更に3月以降は固形物を受け付けなくなり、昼にパンひとつ食べられればいい方でした。

実際今でも、おかずは軟食状態です。普通に食事が食べられません。

 

体力も落ちるところまで落ちましたので、今年は夏の暑さに耐えられない状態です。

 

それでも、私には『父という庇護者』は、もういないので、今まで以上に自分の力で這い上がるしかありません。

しかも、私が、父の代わりに母を守らなければなりません。

 

 

ですから、体調は戻っていませんが、就職活動をはじめました。

ケアマネとしてもう一度やり直すために。

なりより、生きるために。

 

そして、幸いに、採用先が決まりました。

 

10日以上前に決まっていたのですが、ある人に妨害される可能性があったので、こちらでの報告はギリギリまで控えていました。

この先も、嫌がらせをされる可能性があります。

でも、そのときのための対応は、すでに整えてあります。

 



採用して下さった会社は、小さなケアマネ会社ですが、地に足をついた経営をしている会社でした。

無駄な背伸びはせずに、固定経費は抑えられるところはしっかり押さえています。

でも、必要なところには経費をしっかりかけています。

受け取った名刺は、『外注しているもの』だと、みてすぐに解りました。

名刺は『会社の顔』です。

『会社の事務所』と『社長の名刺』をみて、『この会社の社長は経営者として大丈夫だ』と、確信しました。

 

それまで受けて不採用になった会社は、私のマイナス面のみを見ていました。

しかし、今回の社長は、私のマイナス面もプラス面も両方見て下さいました。

細かく質問を沢山されましたが、全てが的を得ている質問内容でした。

提示された担当件数は『30件』。

一年後に30件持ってくれればいいとのこと。

それなのに、提示された給与は、私にとっては充分すぎる金額でした。

併設がない事業所なので、その条件で大丈夫なのか、私のほうが逆に心配になり、訊いたら、『大丈夫だよ』とのこと。

堅実な会社経営をしている証だと思いました。

 

 

私は、以前の会社の社長とその知人に、半年で30件持てない私に対して『半年で30件持って当たり前!!』と、酷評されました。

その言葉が、ずっと私には『足かせ』になり、『トラウマ』にもなりました。

『半年で30件持てない私は、ダメはケアアネなんだ』・・と。

そして、色々な面でかなり無理をしました。

『普通と言われた35件を持つ』ために。

しかし、採用して下さった社長さんの言葉から、決して『半年で30件ががあたりまえではない』ということが解りました。

そのおかげで、『半年で30件持って当たり前!!』という言葉から、ようやく解放されたような気がしました。

 

 

私自身の体調が崩れていく中で、残された時間がない父の闘病を支え介護した1年3ヶ月。


自分の体調を優先することはやはり出来なかった、

仕事をしながらでも『やるしかなかった。』

父の過ごす残された時間は、あとわずかしかなかったから。




父が今年の正月を迎えられたのは、本当は『奇跡』だった。

なぜなら6年前に肺がんの手術直後に執刀医から『再発したら1年です』と言われていたから。

この言葉は、さすがに父には言えなかった。

だから、タイムリミットの1年を見据えて夢中で奔走した。

父の残された時間を守るために。

途中で、両親とケンカをして、話し合いの末、家を出た。実家とも距離を置いていた時期があった。

でも、やはり、父を見捨てることは出来なかった。

 


無理を重ね続けた私は、完全に心も身体も壊れた。

前職場のことで、何度もフラッシュバックを繰り返した。

精神的に完全におかしくなってしまった。

身体も、ベッドから起き上がることも出来ないくらいに、辛い日々が続いた。

 


『もうダメだ』・・・そう思ったときに、脳裏に浮かんだのは父の顔だった。

 

今の自分の姿を父は悲しんでいる。

そう思ったときに、

『自分の為だけでなく、父の為ににも、もう一度這い上がってやる!!』

そう思ったときに、自分の気持ちを切り替えることが出来た。

 

 

私を助けてくれたのは・・・父だった。

 

 

元々、長い間うつ病を患っていた私が、寛解して、ケアマネの仕事に就けたこと自体が『奇跡』だった。

今回のことで、極限までおかしくなっていた精神状態は、今は薬の力を借りながらだが、どうにか以前に近い状態まで回復した。

しかし、身体は元には戻らなかった。

この酷暑に、既に身体はついていけない。

昨年の酷暑を炎天下のなか自転車で動き回っていた自分と、今の自分では、全く別人なくらいまで、体力が落ちてしまった。
もう、『元の身体』には戻らないだろう。


それでも、この短期間で、ここまで動けるようになったことも『奇跡』だと思っている。

 

だから、今度こそ、自分の身の丈に合った働き方をして、前職場ではできなかった基礎固めを、今度こそ、一から身につけていこうと思っている。

 

 

私は、今まで生きてきて、『平穏な刻』は、ほとんどなかった。

ようやく落ち着いたと思うと、必ずすぐに、谷底に突き落とされた。

それが、私が今まで生きてきた道のり。

そして、これからも、それが続くのだろう・・そう思っている。

それでも、自分なりに精一杯生きてきた。

そして、これからも精一杯生きていくだけだ。

 

 

 

『女ばかり(の家族)だったけど、楽しかったよ』

父がケアマネさんにいった言葉。

そして、最期に家族3人で見届けた『父の穏やかな笑顔』。

 

自分も、人生の最期のときに、父のように後悔はないと思えるような、生き方がしたいと、改めて思った。

 

 

もう、人生の折り返し地点は過ぎている。

自分が自由に使える時間がどれくらいあるのか、解らない。

 

 

だからこそ、これからは毎日を大切に生きていきたいと思った。

 

 

ターミナル期に入ったばかりの時に、釣り仲間の孫を抱いて笑っている父の写真が、私の部屋にある。

既に在宅酸素をつけていて、パジャマ姿の父。

だけど、やせ細るまえの、元気なときと同じ笑顔の写真。

 

父に供える物は、水と、緑茶と、夕方の晩酌の日本酒と、花。

父が最期まで口にしていたのは、『水道水』だった。

 

 

 

『お母さん、水が一番美味しいよ』

 

ほとんど飲めないけれど、水道水を少しだけ飲んだ時には、父は、いつも笑顔で母に言っていたそうだ。

 

 

その話を、父が亡くなった後に私は母から聴いた。

その話をきいたときに

『私でも、父と母がふたりだけですごす最期の時間を、どうにか守りきる事が出来た、と思っていいかな・・・』

と、正直安堵した。

 

 

だから、父には、必ず『水道水』を供えている。

 

花も立派な物は買えないけれど、できる限り花をきらさないように供えている。

その為に、値段が少し高かったけど、花を長持ちさせるために、しっかりした切り花用の鋏も買った。

 


先週買った、切り花の花束のなかの百合の花は、すべで蕾だった。

切り花の蕾って咲くのかな??

そう思いながら買って、父に供えた。

 

3日後に、2輪の百合の花が綺麗に咲いた。

 

現実は、努力しても報われないことの方が多い。

けれど、得るものは必ずある。

そう信じて生きてきた。そしてこれからも、そう信じて生きていきたい。

綺麗に咲いた百合の花をみてそんなことを思った。

 


 

私のこの毒吐きブログに来て下さっている方には、本当にご心配をおかけしました。


これからは、もう一度、前を向いて生きていこうと思います。

それが、父が一番望んでいると思うから。

 

8月1日から勤務が開始になります。


新たな職場で、もう一度やり直します。

 

これからも『ご利用者様とご家族の生活と人生を支えるため』に、ケアマネとして、これからも精一杯やっていきたいと思います。

 

改めて、これからもよろしくお願いいたします。

 

かたつむり






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もう一度『スタートライン』に立つ

ご無沙汰しています。

 

このひと月は、体調の好調と不調が交互に押し寄せて、自分の体調のコントロールに悪戦苦闘しておりました。

 


就職活動をはじめる時期については、5月中旬から主治医は『6月から始めていい』と、言っていました。

主治医の見解としては、次のように言っていました。

 

『あなたが身体を壊した一番の原因は『今まで働いていた会社』にある。その会社を辞めれば一番の原因が取り除かれる。だから、あとは回復していくだけだ』と。

 

しかし、昨年の11月頃から、毎朝起きると頭がクラクラして動けなくなるので、その症状を少しでも抑えるために、寝るときに臥床出来ず、布団を重ねて座位の姿勢で、半年近く睡眠を取っていました。しかも毎日34時間だけです。

 

また、食事も受け付けなくなり、3月頃からは固形物をほとんど食べることが出来ず、5月末までほとんど水分で生きていました。

 

これでは、体力も筋力も落ちています。そして身体を壊した状態で、とても6月から就職活動が出来るとは思えませんでした。

 

そのことを主治医に話したら、このような助言が返ってきました。

 

『動かないと、体力は戻らない。それに、家にいるとマイナス思考になってしまうから、それも良くない。だからこそ、(主治医としては)仕事をして欲しいんです。とにかく外へ出て、身体を動かして下さい。そうしなければ体力は戻りません。今回に限っては薬の力を借りてでも、とにかく動いて外に出て活動量を増やして下さい。今処方している頓服薬は、今までの薬より強く、依存性も強いです。それでも今は(依存性の高い)その薬を飲んででも、外に出て動いて欲しい。ですから、これらの薬は『ここぞ!!』と言うときに飲んで下さい。今だけは、薬の力を借りて下さい!』

 

というわけで、下記の3つの薬が処方されました。

○睡眠薬:ブロチゾラムOD .25mg(就前薬:鬱病時代に飲んでいた睡眠薬です)

○精神安定剤頓用:リスペリドン0.5mg

(フラッシュバック時・不安時・頭のクラクラが酷いとき)

  ※これが処方されたときは正直ショックでしたが、この薬に何度も助けられました。

    なお、フラッシュバックは既に出なくなっています。

○意欲低下・身体が動かないときの頓用:コンサータ18mg

(発達障害がある人が服用することが多いようです)  

  ※必要時は朝服薬。遅くとも午前中には服薬。

午後に服用すると夜眠れなくなるそうです。

連日の服薬を続けてはいけないとのこと。(説明書が見当たらないっ

 

と、臨時で、体調・精神状態・生活そのものが落ち着くまでは、この薬の力も借りることになりました。

 

ちなみに・・・

 

『コンサータ18mg』は2回しか服薬していません。

私自身が外へ出る気が、比較的早く持てました。しかし、身体が動かないときに、この薬の力を借りて出かけたことが2回あるのですが、反動が後日に出たのか、余計に動けなくなりました。

先生に報告したら『薬との関係性はないだろう』とは言っていましたが、その後は服薬していません。

本当に、『心も身体が辛いけど、どうしても外出しなければならない』ときだけ、頼ろうと思っています。

 

『リスペリドン0.5mg』は、初めはフラッシュバック・不安時に服薬していましたが、今は、フラッシュバックもなくなり、比較的精神的には安定してきました。

現時点では、梅雨の影響か頭のクラクラがまた出るようになったので、いつもの精神安定剤を飲んでも無理なときに服薬しています。

 

『ブロチゾラムOD .25mg』は、毎日寝る前に服薬しいてます。この薬も依存性があるとのことなので、一度半錠にして数日様子をみたのですが、眠りが浅く頭の芯から眠れていない感じなので、一錠に戻しています。

先生のお話だと、『発達障害の方は、睡眠をきちんと取らないと、不注意や衝動性といった症状は悪化しますので、~中略~睡眠時間はしっかり確保することをお勧めします。』とのことでした。つまり私は3年間睡眠時間を削っていたので、発達障害持ちとしては、一番いけないことをしていたわけです。

 

こんな風に、薬の力を借りながら、自分の活動量を増やしていきました。

 


しかし、目的も意味もなく外出するのは、交通費のお金がもったいないと思いました。

 

そのため、手っ取り早く、今は休会している音楽教室のレッスン室をレンタルして、フルートやサックスをリハビリを兼ねて吹くことで、体力をつけるようにしています。

楽器を吹くのは体力が要りますし、私の楽器はフルートもサックスも重量のある楽器なので簡単に音は鳴りません。

ですから、自分の楽器を吹くことで、自分の体力がどのくらい戻っているかの判断材料になります。

それに、好きな楽器が吹ければ一石二鳥です。

 

後は、父の形見で譲り受けた『電動付き自転車』でどこまで行けるかを試しています。これも、自分の体力の戻り具合がわかりやすい方法です。

ケアマネとして、今まで一日中自転車移動していましたので、仕事をしていたときの自分と、今の自分を比較すれば、どこまで体力が戻っているかを確認するのに、わかりやすい方法です。

 


食事も、食べられるようになっても、初めはお粥だけでした。

しかし、それでは栄養がつかない。

でも、本当に消化の良い物で固形物でないものでないと胃が受け付けつけなったので、おかずは介護食のレトルトを食べています。

今、一般食で、胃に負担のかからないような調理をしているレトルト食品に切り替えをしているところですが、なかなか上手く切り替えができません。

お粥ではなく普通の白米を食べられるようにもなってきたのですが、少し調子がおかしくなると、また食事を受け付けなくなってしまいます。

 


どうして、こんなに身体の戻りが遅いのか、自分でも解らなかったのですが、先日、実家で体重を量ったら更に体重が落ちていて、『トータルで10kg落ちてしまっていました』。

もともと太っている方なので、痩せた方がいいのでしょうが、この痩せ方は、身体を壊した結果の、身体に一番悪い痩せ方なので、必要な筋肉も筋力を落ちているはずです。

これでは、今までと同じ感覚で動いていたら、身体に無理が来ます。

 


元の身体に戻すのではなく、今の自分の身体・体力に合った、日常生活の送り方、そして、仕事の仕方を考えないといけないな・・・と、考え方を切り替えました。

 

まだ、その方法は掴んでいませんが、とりあえず、無理に常食に戻すのは今はやめることにしました。

介護用のレトルト食品でもいいから、必要な栄養を取ることを優先にすることにしました。

 

この発想は、亡き父が60歳手前で胃がんの手術を受け、静養期間を経て仕事に復帰したときに、お弁当にお粥を入れていたことを思い出したことから、考えたことです。

職人だった父の仕事はとても重労働で、40Kgくらいの物を何度も運ぶこともあったそうです。

病み上がりの身体でお粥のお弁当を持って仕事をしていた父の事を思いだし、『常食が食べられなくても仕事は出来る!』と、考え方を変えることが出来ました。

 




上記のような前向きな発想が出きるようになる前・・・。



5
月の頃は、ほとんど家に籠もり、近所のスーパーやドラックストアへ行く以外は、家の中で寝ていることも多かったです。


裏切られた・見捨てられたという感情と、『強い人間不信』に落ちてしまっていました。


もう何もかも嫌になって、自暴自棄になり『もうどうなってもいい!!』と投げやりな感情になっていたときに、『父』の顔が突然、脳裏に浮かびました。

 



『今の私を父はどう思っているだろう・・・。』

 



他にも原因はある。むしろ、そっちのほうの原因のほうが大きい。


けれど、少なくとも父は、『俺がガンになったせいで、娘が心も身体を壊し、職を失い、生活基盤が崩れてしまった・・・俺はどうしたらいいんだ?!』そう思っているかもしれない。

 



『このままでは、父は、彼岸へはいけない。父が成仏できない』


私は、そう思いました。

 


自分の為だけでなく、父の為にもこのままではいけない。


『あの父の過酷なターミナルを介護して、看取った娘である私が、ケアマネとしてやるべきことがあるはず。』

『少なくとも父の終末期の介護とキーパーソンをしたケアマネだから、もしかしたら、今までよりも、ご利用者様とご家族の想いに近づけるかもしれない。』

『家族の在宅介護の過酷さは経験した者でないと解らない。少なくとも私はそれを経験したケアマネだ。』

 


- 父が最期に私に見せてくれたことを、無駄にしてはいけない!! -

 


そう思ったときに、



『ケアマネとして、もう一度這い上がってやる!!』



そう決心しました。

 



その夜から身体も動くようになり、フラッシュバックも全く起きなくなりました。

 

『父が、助けてくれたんだ』と、私は、素直に思いました。

 





実は、既に、就職活動は始めています。

採用面接の予定も既に入っています。

前会社からまだ離職票が届いていませんが、ハローワークに事情を説明して相談し、正規の手続きをとり、仮ではありますが、失業保険の給付手続きを済ませました。

 


ケアマネージャーとして就職活動をしますので、『ある人達』から、嫌がらせを受ける可能性があると考えています。


それが解ったときには、それなりの事をするつもりです。その方法は既に考えております。

自分から事を荒立てるつもりはありませんが、『向こうから『何か』をしてきたら』、話は別です。

 

 



何度も崖に突き落とされて、そのたびに這い上がってきました。

だから、今回も同じ事をするだけです。


もう若くはないけれど、生きていれば、やり直そうと思えば何度でも出来る。

どうせ、挫折だらけの半生です。今更ひとつやふたつ増えたところで、かわりはありません。

そうやって、繰り返し這い上がってきた経験が、そして、自分が経験した全ての事が、自身の『ケアマネージャーとしての糧』にもなるのです。

 



仕事が決まるまで、どれほどの時間がかかるか解りませんが、最善を尽くして、現場に戻れるように頑張ります。






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必ず這い上がってやるっ!!

    ご無沙汰しております。

  私は、会社を辞めることになりました。
  『ドクターストップ』がかかり、休養が必要との診断書が出ました。
  その結果、休職ではなく会社を辞めることになりました。
  はっきりいって、円満退職ではなく、悪いかたちになりました。

  でも、これで、夜中に自宅で仕事をすることも、
  土日などの休みに自宅で仕事をすることもなくなります。

  そう思えば、『ようやく地獄から解放された』と、思いました。
  やっと、普通の生活に戻ることが出来る・・・そう思いました。
     
     2018.5.5 投稿 『ドクターストップ、そして・・』より抜粋。



父のターミナルは壮絶だった。階段をころげ落ちるように弱っていく父を見るのは辛かった。
ケアマネとしての仕事をしながら、父のキーパーソンと介護をすることは、とても苦しかった。
仕事と父の事で、自分の時間なくなっていった、そして、無理を重ねた身体は完全に壊れた。


私自身の身体が壊れた状態のまま、父は終末期にはいった。
父のキーパーソンとして、全ての判断と責任を私が背負った。
なぜなら、母と姉にはそれが出来ないから、私がやるしかなかった。

元々体力がある父でさえ、階段を転げ落ちるように病状が悪化していった。
全ての判断と対応が、時間との勝負の連続だった。
その現実に、自分の感情と思考が追いつけない、そんな私がいた。
でも、私は取り乱したら、母も姉も動揺してしまう。
そして、何より父が苦しくなる。
父に残された時間を、父も家族も大切に過ごすことが出来なくなる。
だから、辛くても、必死に『はったり』をかまして、『いつもの自分』を無理矢理つくっていた。
でも、本当に苦しかった。

そんな精神状態のまま、私はケアマネとしての仕事を続けていた。

緊急でケアマネが対応する可能性が高い『家族の介護力のない』ご利用者様は、社長に申し出て担当を降ろさせてもらった。
癌終末期の父のキーパーソンと介護をしている自分では、責任を持って担当できないことがわかっていたから。

消えかかった父の命の灯を見つめながら、その月のモニタリング訪問を必死で早く終わらせようと、スケジュールを組んだ。
父と一緒に過ごせる最期の時間を、少しでも長くつくるために。
モニタリング訪問とサービス担当者会議をある程度終わらせて、『やっと、明日から、実家で父の介護に集中出来る』そう思った日の夕方に、父は危篤になり、翌朝、家族で最期を看取った。

一日でも早く、『父の側で最期まで過ごせるように時間をつくろう』と、必死に仕事をしたが、結果的に間に合わなかった。

休日は、父の側で過ごした。
でも、仕事があるから毎日に父のところへ顔を出すことは。どうしてもできなかった。

主治医より、余命2週間と告げられた時、1日でもいいから休みを取ることも考えたが・・・会社に申し出ることは出来なかった。色々な意味で、お願いできる状況ではなかった。

『これが父と話が出来る最期の機会』と、わかっていた週末の日曜日。
父の元へ行った私をみて、父は安堵したように微笑んでくれた・・・でも、もう声が出なかった。
父の声を永遠に聴くことはもう出来ない・・・その現実に愕然とした。
でも、愕然とした自分を隠して、いつもの通りに必死に振る舞った。
そして、その翌日に父は危篤になり、次の日の朝に息を引き取った。

最期の
数日は、父は毎日何度も母に言っていたそうだ。
「かたつむりは、いつくるんだ?」と。
母は、「仕事だから今度日曜日まで来れないんだよ」と答えていたそだ。
その母の言葉に父は
『そうか、仕事じゃ仕方ないな』と、毎回言っていたそうだ。
父は私を待っていたのだ。
多分、私に直接言いたかったこともあったのかもしれない、そう思うと、父に申し訳ない事をしてしまった。
今でも、そう思っている。


けれど
父の最期を家族で自宅で看取り、最期の穏やかな父の笑顔をみて、
『苦しかったけど、全力で父の闘病を支えてきて良かった』
そう思った。


父を送った後も、私は、今も『辛いこと』が沢山続いている。

父の闘病を支え、キーパーソンと介護を必死にやっってきたつもりだ。
けれどその結果、私は、『健康・仕事等・・・多くのものを失った。』
苦しくて・辛くて・哀しいことばかりが毎日続いている。
正直、ケアマネを辞めようと何度も思った。
生きていることも辛く思うことも数え切れないほどあった。
『今、父がいてくれたら』と・・・数え切れないほど思った。
唯一縋れる存在だった父は、もういない。
それでも父に縋りたくて、体調が悪いのに無理をして、片道2時間はかかる、父の墓前まで行った。
そして、雨の中、私は父の墓前で大声で泣きつづけた。

昨日も辛いことが続き、今日は一日寝込んだ。

でも突然
『父と共に癌と闘い続けた日々の苦しさを経験しているからこそ、その経験を知っているケアマネージャーである自分だからこそ、出来ることがあるはずだ』
ふとそんなことを思った。

今はいろんな事で苦しいけれど、その全てから絶対に逃げてはいけない。
私は『家族の立場で介護の壮絶さを経験したケアマネ』。
だからこそ、自分がやるべき何かが、必ずあるはずだ。
そう思った。
父もそれを願っているかもしれない。

だから、『このどん底から必ず這い上がってみせる!』
そう、改めて決心しました。

負けてなるものか!!
絶対に打ち勝って見せてやる!!
そう思っている。


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『ドクターストップ』そして・・



ご無沙汰しております。

私は、会社を辞めることになりました。
『ドクターストップ』がかかり、休養が必要との診断書が出ました。
その結果、休職ではなく会社を辞めることになりました。
はっきりいって、円満退職ではなく、悪いかたちになりました。

でも、これで、夜中に自宅で仕事をすることも、土日などの休みに自宅で仕事をすることもなくなります。
そう思えば、『ようやく地獄から解放された』と、思いました。
やっと、普通の生活に戻ることが出来る・・・そう思いました。


私の『心』と『身体』は昨年から既に『悲鳴』を上げていました。
しかし、父の病状悪化と看取り、そして葬儀、その後の諸手続が続き、その中でケアマネの仕事を続けてきました。
本当に『壮絶』でした。
ですから、治るどころが、体調は悪化していきました。
しかし、担当のご利用者様とご家族の状態が落ち着いていなかったので、ある程度ご利用者様が落ち着くまではと、ギリギリまで堪え続けました。
ご利用者様とご家族にとって、ケアマネ交代はとても精神的な負担かかります。
だから、ご利用者様とご家族の状態が悪いときに、ケアマネ交代をすることだけは、どうしてもそれだけは避けたかった。
だから、私自身の心と身体のギリギリのところまで踏ん張りました。
そして、『ご利用者様方がある程度落ち着いた、今しかない』と思えたところで、メンタルと内科をみていだいているかかりつけ医へ行き、自分の本当の心身状態を話しました。
当然、即、ドクターストップがかかりました。
メンタルと内科が専門の先生に本当の事を話せば、絶対に仕事を止められるのが解っていたので、今まで先生には黙っていたのです。
先生からは怒られませんでしたが、『無茶をしたな~』という顔はされました。

今は、自宅で静養しています。
壊れた自分の『心』と『身体』と『生活』と立て直す事だけ考えて、焦らずにやっていきたいと思います。

『谷底に突き落とされては、這い上がる』その繰り返しの私の人生です。
また、それをすればいいだけのことです。
だから、必ず『谷底から這い上がってみせます』。
こんなことくらいでは負けません。

そして、必ず、ケアマネージャとして再出発をしたいと思っています。



平成30年5月5日  かたつむり



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引きこもりの年末年始

今年も今日で終わりです。

 


私は29日から3日までが正月休みとなっていますが、昨年からの父のことの対応で、事務仕事がかなり滞っているので、正月休みは、自宅で仕事です。

しかし、事実上の過労で体調がかなり悪いので、どこまで仕事の追い上げが出来るかわかりません。

昨日も、一昨日も、休み休みやっていたので、それほど仕事は、はかどっていません。

今日も午前中は気分が悪くなり、横になっていました。

まだ、無理をすると、本当に倒れてしまうので、その加減が難しいです。

 


9
月頃から身体の不調が顕著に出てきました。

最初は、胸が苦しくなってくることが多くなりました。

これは、若い頃からの、『オーバ-ワークだぞ!』という身体からのサインなので、そういうときは、必ず仕事のペースを落とすようにしてきました。

しかし、今回は昨年の11月から父のことで動き回っていたので、いつものペースの落とし方では、体調は戻りませんでした。

体調が悪ければ、判断力が落ちます。

判断力が落ちた結果、仕事のミスを連発して、社長に迷惑をかける結果になりました。

社長も私の事情を考慮して下さり、大目に見て下さいましたが、ミスはミスです。

このままではまずいな・・・と、思い始めました。

しかし、10月の中頃から別の症状が出始めました。

朝、起きて、1時間くらいたつと、頭がくらくらして動けなくなるようになりました。

動けない時間はあっという間に長くなっていき、大体2時間は、まともに動けなくなりました。

こういうときは、椅子に座ってじっとしているか、辛すぎるときはベッドに横になり、収まるのを待つしかありませんでした。

仕事に遅れないようにするためには、動けない時間も計算して、早く起きるしかありませんでした。

それでも、疲れすぎて起きられないときもあったし、動けない時間が4時間も続いて、結果的に遅刻をすることが何度もありました。

 

もしかして、この症状は頸椎ヘルニアの影響かも、と思い、いつもの整形外科に受診しました。

先生は、原因は頸椎ヘルニアからでもなく、三半規管からでもないとのこと。

『働き過ぎで、疲れすぎだよ、無理しすぎだよ。本当は少し仕事を休めるといいんだけどね~。』

『頭がくらくらするのは、酷い疲労で身体の筋肉が固まりすぎて、血の巡りが悪くなって、起きているんだ。高齢者によくある『起立性低血圧』のような状態になってるんだよ。』

とのこと。

つまり、遠回しで『過労』と言われたような感じでした。

先生が『仕事を休め』と言わないのは、私の仕事がケアマネである事を知っているから、安易は休めないことを知っているからです。

頸椎ヘルニア発症時に全身の激痛で数ヶ月苦しんだときも、私は仕事を休まなかったので、先生も私に『仕事を休め』と言っても無駄だと思ったのでしょう。

 

でも、先生の診断を受けて、自分の身体不良の原因が軽視できない状態である事が解りました。

ですから、社長と相談し、今後は『仕事の追い上げ』が終わり『体調が戻る』までは、『担当件数を減らす』ことにしました。

 

介護30件、予防3件。(今までは、介護35件、予防3件でした)

 

当面は、この件数で行くので、給与が3万下がります。

生活が苦しくなりますが、職場にかなりの迷惑をかけたので、仕方がありません。

 

しかし、両親は、私のこの状況を理解する気はないようです。

先ほども、母から『初詣』のことで電話がありました。

毎年、一緒に行っていたので、母はそのつもりでいたのでしょう。

私は、今は実家の家族と距離を置きたいし、それよりも体調が悪いので、初詣どころではありません。仕事の追い上げもしなくてはなりません。

実家には、『体調がとても悪いし、その上で仕事の追い上げをしないといけないから、静養している時間もない、だから、正月休みは自宅で仕事をするので、帰らない』と、言ってあります。

それでも、母は、私の体調より、お札を帰しに行くことばかりを気にしてました。

当然私は『まだ具合が悪いし、その上で休みの間も自宅で仕事しないといけないから、どこにも行ける状態じゃない』と伝えました。

しかし、母から私の体調を気にする言葉は、一切出てきませんでした。

何のために、一年間自分のことを犠牲にして、父のことで奔走してきたのか・・・正直解らなくなりました。

 

だから、今は、家族と距離を置きたいのです。会いたくないのです。

 

『今度の正月は父の最後の正月になるかもしれない。』


昨年の今頃も、同じことを思っていました。

今の父は、体力は落ちてきたけれど、癌の進行は今のところ遅く、日常生活に大きな支障は出ていないようです。

ただ、『3度の飯より好きな釣り』に行っていないようなので、それが父の今の体調を全て物語っています。

 

だから、本当は、娘として正月は実家へ行くべきなのは解っています。

でも、今、両親と会っても、私には、両親とまともな会話は出来ません。

ケンカになるかもしれないし、そうならなくても、普通の会話が出来なければ、後味の悪い正月になってしまうだけです。

それでは、私が正月に実家に行く意味がありません。

そして、間違いなく、私が不愉快な思いをして、気分が悪くなって帰ってきて、精神安定剤を飲んで寝込むだけです。

だから、正月はひとりで過ごすことにしました。

 

自宅に引きこもって、休み休みしながら、体調を相談しながら、仕事の追い上げをします。

 

 

こんな一年間でしたので、ケアマネとしての勉強が、今年は全く出来ませんでした。

もうすぐ、ケアマネになって2年半になります。

そろそろ、『今の自分の『引き出し』の数だけでは、ケアマネ業務を行なっていくことに限界が来ているな』、と思ってます。

『ケアマネとして、もっと知識と視野を広げたい』。

そう思うようになりました。

ですから、来年は『きちんと勉強しよう』と、思っています。

3月までに仕事の追い上げをして(←私を見かねた社長が、1ヶ月期限を延ばしてくれました)、来年度から、勉強が出来る状態にしたいと思ってます。

 


実家、特に父とのことは、これからどう関わっていくか、まだ私のなかで結論が出ていません。

選択肢のなかに、『縁を切る』ことも、正直あります。

親子の縁を切るなど、そう簡単にできることではありませんが、長い年月の間の色々なことが積み重なり、その結果私のなかで、家族との関係に限界が来ていることも事実です。

叔母には、『お前は充分に親孝行したから、もう、実家のことは考えるな。お前がしてくれたこと何も解っていない両親にこれ以上してやることはない。これからは、自分自身のことを大事にしなさい』と言われました。

 

自分自身の身の処し方を決められない人間が、ケアマネとしてご利用者様とそのご家族の支援が出来るのかと、自問自答をすることもあります。

そんな未熟者ではありますが、それでもこれからも、ケアマネとしての仕事に真摯に取り組みたいと思います。

 


この一年、自分が『キーパーソン』をやって、身にしみたことがあります。

『キーパーソン』は、『自分のことを後まわしにしないと、出来ないこと』なのだと、痛感しました。

ケアマネになったばかりの頃、ご利用者様のご家族が、自分の健康を損ねながら、介護をしている姿を目にしたとき、どうして、ご家族が自分の病院へ行かないのか、あのときの私には、わからなかった。

でも、自分が頸椎ヘルニアの激痛に耐えなから、父のことを優先して動き、自分の病院受診を後まわしにして、土曜日に振り替え出勤を、4ヶ月間の間ほぼ毎週していたときに、思いました。

『ああ、介護をしている家族、特にキーパーソンの方は、こうやって身体を壊していくのだ』

そして

『介護と仕事の両立は、とても難しいことなのだ』と。

私は『介護』はまだしていませんが、そのことを、『当事者として経験した』ときに、専門職では解らない、『当事者でしか解らない心情というものがある』ことを知りました。

しょせん、専門職が知っていることは『知識』でしかなく、『実体験』ではありません。

そのことを踏まえて、ご利用者様とご家族と向き合わないと、知らないうちにご利用者様とご家族を傷つけてしまうでしょう。

安易に『貴方の辛いお気持ち解ります』とは、やはり言ってはいけないのです。

相手のことを完全に理解することは、人間にはとうてい出来ないことです。

『自分は、クライアントの気持ちをしっかりと理解している』と言い切れる専門職は、私から見れば、単なる傲慢でしかありません。

『相手を完全に理解することは、人間には出来ないこと』

でも、それを踏まえた上で、『少しでも』ご利用者様とご家族の心情を理解していく努力を続けていくことこそが、専門職として大切なことだと、私は考えています。

 


そして、もうひとつ。

『謙虚な姿勢で、ご利用者様とご家族と向き合っていく。』

『でも、必要なときは、あえて自分の言動に責任をもち、覚悟を決めて行動を起こす。』

 

義務と責任ばかりは多いけれど、権限はひとつもないという、ケアマネージャーの立場で、出来ることには限界がある事は、仕方がないことでもあります。

でも、ご利用者様とご家族の人生と生活を守るために、その限界を越えて、行動をする覚悟も必要なときがあることを知りました。

それを、先日彼岸へ旅だったAさんとの最後の1ヶ月間の支援から学ばせていただきました。

『それは私の立場では出来ない』と、支援者がみな、踏み出さないでいたら、打破できないことが沢山ある。

現状の打破の為に、あえて、己の立場の限界から一歩ふみだすことを、支援者の誰かがしないといけないこともある。

そのときに、ご利用者様とご家族を守るために、その行動が出来る専門職になりたいと、私は今、思っています。

 


教科書通りには、支援は出来ません。

きれい事でも支援は出来ません。


 

『ご利用者様とご家族』そのケースごとに合わせて、ご支援をしていかなくてはけません。

バイステックのケースワークの7原則の『個別性の原則』であります。

最近、バイステックの7原則の大切さを感じることがあります。

『教科書嫌い』の私にとっては、これは考えられなかった視点です。

これも『専門職としての基礎』となる考え方にもつながるのかもしれません。

 



それでも、これからも私は、泥臭いままで、『ご利用者様とご家族の人生と生活を守る』ことが出来るケアマネを目指して精進していきたいと思います。

 


今年は、あまり更新できませんでしたが、毒吐きブログに来て下さり、本当にありがとうございました。

来年も、毒吐きを続けたいと思いますので、気が向いたら、覗きに来てやって下さい。

 



どうか、皆様も良いお年を、お迎え下さいますように。

 



かたつむり




拍手やコメントをくださったかた、ありがとうございました。
なかなか、コメントのお礼のお返事を書くことができなくて、申し訳ありません。
どうか、ご了承くださいますようお願いいたします。
(本当に、本当に、ずっと書けずにごめんなさいっ)


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