私の家は、経済的には苦しい家だと、
幼いころから自分なりに認識はしていた。
3畳と6畳の二部屋、一畳半ほどの台所、もちろん風呂はない。
そんなアパートで家族4人で暮らしていた。
銭湯も冬は1日おき。
家に車など当然ない。
私が大人になるまで、そんな生活だった。
礼儀などに対しては、両親は厳しかった。
それでも、私は両親に甘やかされて育った。
9歳までは・・・。
9歳の冬だった。
6学年上の姉が高校受験で公立高校を落ちてしまい
私立の高校へ進学することになった日に
父が私に言った。
『親だから高校までは出してやる。
だが、私立は無理だ。
高校は公立へ行け。
大学や専門学校に行きたいのなら、
自分で働いて、その金で行け』
『お前が結婚する時も、
お父さんたちはお金は出さない
自分でためたお金で嫁に行け』
それは、9歳の子どもに『夢を持つな』と言ったことに等しかった。
その日から、両親が私に対してとても厳しくなった。
甘やかされることがなくなった。
更には、姉が何かを『挫折』するたびに
私に対する両親の締め付けが厳しくなっていった。
姉ができなかったことが『お前にできるわけなない』と
両親は、そう思ったのだろう・・・。
何かをやろうとしても
『お前には無理だ』
『お前にはできるわけがない』
その繰り返しだった。
おかげで、私はいまだに『自信』を持つことができない。
私の、仕事での判断や行動は『自信』からではなく、
全て私なりのケアマネとしての『信念』に従って動いているだけである。
ちなみに、成人式の振袖も自分のお金でレンタルし
髪のセット・着付け・記念の写真代もすべて自分が払った。
ただ、高くはないが、両親が
紺のワンピースをお祝いに買ってくれたことは覚えている。
舞台で手話通訳をすることが何度もあったので、そのスーツは大活躍した。
私は、表向きは、親に反抗しない『いい子』だった。
でも両親は、
姉のわがままに近い行動を止めないで
私には、なぜこれほどまでに厳しいのか、
どうしても納得できなかった。
両親の、私へのあまりに厳しさに我慢できず、
20歳代半ばに家を出ることを考えた。
貯金を元手に、ワンルームマンションを買うことも考えた。
そんなときに父が『胃がん』になった。
とても早期の発見だったので、大事には至らず、
外科手術も1時間半で終わった。
だが、麻酔から覚めた父は
眼がうつろで、状況が全く分からず、
『起きる』と言い出して、看護師さんたちに制止された。
麻酔のせいだとはわかっていた。
でもその姿をみて、60歳の父に『老い』を感じてしまった。
『私は、この家を出てはいけない』
そう思った。
それ以降、家を出ようと思ったのは
介護の仕事に就くために、
通信制の4年制の大学への進学をすることを話した時に
父に反対されたときの1度きりだった。
何度も説得しても、『駄目だ』という父に、
「もう一度言って『ダメだ』と言ったら家を出てやる!!」
と、本気で思った。
そもそもは両親が言ったのだ、
『大学に行きたければ、自分で働いて行け』と。
これが最後の説得で、『ダメなら家を出る』と思いながら父に言ったら、
「やるなら『泣き言』は言うな!最後までやりとげろ!」
と、父に進学を認めてもらった。
仕事が忙しく、1年の半分は勉強の時間をつくれなかったから、
2年留年したけれど、無事に卒業した。
それから、両親は
『お前にできるわけがない』
と、言わなくなった。
大人になってから知ったことがある。
私が中学~高校の頃、
両親ふたりで働いても我が家の年収は、今の私の年収よりも低かった。
(その頃は、姉は親の反対を押し切って家を出ていた。)
生活保護は受けられなかったと思うが、
かなりギリギリの生活だった。
そんな苦しい生活の中で
両親が必死に私を高校まで卒業させてくれたのだと、解った。
母から聴いた。
姉と私が子供の時に、ふたりでお金を出して
ハンカチを父に『プレゼント』したことがあるそうだ。
(私は、その記憶がない。)
父は、そのハンカチをボロボロになるまで使っていたそうだ。
しかし、冬のある日、仕事の帰りにそのハンカチを落としてしまい、
引き返して必死に探したが見つからなくて、落ち込んでいたそうだ。
気が短くて、頑固者の父。
でも、今ならわかる。
長い間、家族を必死に守り続けてきた、
強くて逞しい『大黒柱』だったのだと。
父があまりにも、しっかりしていて、強いひとだから、
私には、自分の同世代の男性が、あまりに頼りなく見えてしまったのだろう。
そんなことに気がついたのは、30歳代後半だった。
それから理想の男性は『たぶん父のようなひと』というようになった。
母は「あんな我儘な男はやめなさい!!」と、言っていたが。
それでも両親は、50年以上連れ添ってきたのだ。
父の半歩後ろを歩くように、母は父と生きてきたのだ。
今日、父に言われた。
『明日、頼むな』と。
明日は、検査の結果が告げられる日。
私は、希望は捨ててはいないが、
それでも、覚悟もしている。
楽観視できるものが、何一つとしてないからだ。
『明日、頼むな』は
言葉通りの意味なのか、
『明日、癌と言われたら、その後も頼むな』
という意味も込められているのだろうか・・・。
父の心のなかは、わからない。
父も心の中では、思うことは、色々あったと思う。
肺の外科手術が『できない』ことは父もわかっているはずだから。
しかし、肺に影があると言われたあの日から、
私の前では、父は、見事なまで『いつもの父』だった。
それは、とても『すごいこと』だと思う。
誰にでもできることではない。
明日、どのような結果がまっているのかわからない。
良い結果ととなったときは勿論、
もし悪い結果がでたとしても
どのような結果となろうと、
これからも、父が父らしく過ごせるように、
娘として私が出来る事はしたいと思っている。
『親孝行 したい時には 親はなし』
そうならなくて済んだ自分は、幸せ者だと思っている。
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ありがとうございました。
コメントのお礼のお返事は 後日書かせていただきます。
ご了承くださいますようお願いいたします。
(本当に、本当に、いつもごめんなさいっ)
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