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ただ今、人生の仕切り直し中のケアマネ
プロフィール
HN:
かたつむり
性別:
女性
自己紹介:
心と身体を壊し、まだ人生の仕切り直し中のケアマネ。

保有資格:社会福祉士・介護福祉士・介護支援専門員。ついでに日商簿記2級・全商簿記1級
(Twitter@renrinoeda2)
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父の検査結果と両親と一緒に聴いた。


「9割、ほぼ間違いなく癌でしょう」
医師の言葉は、予想通りのものだった。
事実上の『がん告知』
見せられた『画像』は、
私が想像していたものより『大きかった』。


100%ではないのは、細胞検査がまだしていないからだ。
だから、年明け4日に気管支内視鏡で組織をとり最終検査をする。
でも、それは癌かどうかを調べるのではなく、
『癌細胞の種類を特定する』ためのもの。
その結果を受けて今後の治療法が決まる。


ただ、過去の2回と決定的に違うのは、
もう外科手術ができないということ。
父は、肺をこれ以上切除できないのだ。


これが意味するものは、
よほど父の体質にある抗がん剤治療でもない限り
『完治はない』ということ。


覚悟はしていた。

父から『肺に影がある』と聴かされた日から。

でも、今、何も手につかない。
思考が働かない。
今日、自宅でしようと思っていた仕事がある。
やらなくてはいけないことがある。

でも何一つできないのだ。


自分がこんなに動揺するとは思わなかった。


いや、あの時から、
心の準備をしていたから、この程度で済んだのだ。


母は、先生の話を聴いてかなり動揺していた。
父は私に
「4日の検査はお前は来なくていい」といった。
医師は、家族の付き添いが必要と言ったので、
父は「お母さんがいるから大丈夫だ」と、
私に再度言った。
でも、私は母に、
「お父さんはこういってるけど、
 (私が来なくても)お母さんは大丈夫?」
と、訊いたら、
「私には良くわからない」
と首を横に振った。

だから、私は4日の検査にも行くことにした。
母一人で付き添いは出来ないと思ったから。

それでも、私が母に前もって、
「お母さんと私が動揺しては、
 お父さんが治療に集中できないよ」
と言ったから、母なりに心の準備をしたのだろう。
だから、母の動揺も、この程度で済んだのだ。


事前に打てる手は打っておいてよかった。
両親の為にも、自分の為にも。


明日は仕事。
今年の勤務は明日と明後日。
残るモニタリングは2件。
あとは認定調査の立ち合い1件
担当者会議が1件

先週までにできる仕事は、済ませておいて良かった。

あとは、正月休みに事務処理の追い上げを再びする。


家族4人で普通に過ごせる正月はあと何回あるのだろうか、
今度の正月が、もしかしたら、
父と過ごす最後の『普通の正月』になるかもしれない。

また、『平凡なこと』がひとつ失われようとしている。
そのことに、愕然としている自分がいる。

でも、このままでいるわけにはいかない。
父の為にも、自分の為にも。


これから父と過ごす毎日を大切にするために
明日から、いつもの自分に戻れるよう、
今日一日で自分の気持ちを落ちつかせようと思う。


ご利用者様のもとに訪問しながら
介護は他人事ではないと思ってた。
いつか自分もその立場になるのだ、
娘として・・・。
常にそう思っていた。


そして、私にも
『そのとき』が来たということなのだ。
自分の置かれた状況を『受け入れる』ことが
これほど苦しいことだとは思わなかった。
ご利用者様とそのご家族も
きっと『これ』を乗り越えてきたのだろう。


だからこそ、明日から、また
ご利用者様とそのご家族と笑って話せるように、
私も、今の現実を『受容』できるように努力したい。




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コメントのお礼のお返事は 後日書かせていただきます。
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大黒柱

私の家は、経済的には苦しい家だと、
幼いころから自分なりに認識はしていた。

3畳と6畳の二部屋、一畳半ほどの台所、もちろん風呂はない。
そんなアパートで家族4人で暮らしていた。
銭湯も冬は1日おき。
家に車など当然ない。
私が大人になるまで、そんな生活だった。


礼儀などに対しては、両親は厳しかった。
それでも、私は両親に甘やかされて育った。
9歳までは・・・。


9歳の冬だった。
6学年上の姉が高校受験で公立高校を落ちてしまい
私立の高校へ進学することになった日に
父が私に言った。

 『親だから高校までは出してやる。
  だが、私立は無理だ。
  高校は公立へ行け。
  大学や専門学校に行きたいのなら、
  自分で働いて、その金で行け』

 『お前が結婚する時も、
  お父さんたちはお金は出さない
  自分でためたお金で嫁に行け』

それは、9歳の子どもに『夢を持つな』と言ったことに等しかった。

その日から、両親が私に対してとても厳しくなった。
甘やかされることがなくなった。

更には、姉が何かを『挫折』するたびに
私に対する両親の締め付けが厳しくなっていった。

姉ができなかったことが『お前にできるわけなない』と
両親は、そう思ったのだろう・・・。

何かをやろうとしても
『お前には無理だ』
『お前にはできるわけがない』
その繰り返しだった。


おかげで、私はいまだに『自信』を持つことができない。
私の、仕事での判断や行動は『自信』からではなく、
全て私なりのケアマネとしての『信念』に従って動いているだけである。


ちなみに、成人式の振袖も自分のお金でレンタルし
髪のセット・着付け・記念の写真代もすべて自分が払った。
ただ、高くはないが、両親が
紺のワンピースをお祝いに買ってくれたことは覚えている。
舞台で手話通訳をすることが何度もあったので、そのスーツは大活躍した。



私は、表向きは、親に反抗しない『いい子』だった。


でも両親は、
姉のわがままに近い行動を止めないで
私には、なぜこれほどまでに厳しいのか、
どうしても納得できなかった。


両親の、私へのあまりに厳しさに我慢できず、
20歳代半ばに家を出ることを考えた。
貯金を元手に、ワンルームマンションを買うことも考えた。


そんなときに父が『胃がん』になった。
とても早期の発見だったので、大事には至らず、
外科手術も1時間半で終わった。

だが、麻酔から覚めた父は
眼がうつろで、状況が全く分からず、
『起きる』と言い出して、看護師さんたちに制止された。

麻酔のせいだとはわかっていた。
でもその姿をみて、60歳の父に『老い』を感じてしまった。

『私は、この家を出てはいけない』

そう思った。

それ以降、家を出ようと思ったのは
介護の仕事に就くために、
通信制の4年制の大学への進学をすることを話した時に
父に反対されたときの1度きりだった。
何度も説得しても、『駄目だ』という父に、
「もう一度言って『ダメだ』と言ったら家を出てやる!!」
と、本気で思った。
そもそもは両親が言ったのだ、
『大学に行きたければ、自分で働いて行け』と。
これが最後の説得で、『ダメなら家を出る』と思いながら父に言ったら、
「やるなら『泣き言』は言うな!最後までやりとげろ!」
と、父に進学を認めてもらった。
仕事が忙しく、1年の半分は勉強の時間をつくれなかったから、
2年留年したけれど、無事に卒業した。

それから、両親は
『お前にできるわけがない』
と、言わなくなった。



大人になってから知ったことがある。

私が中学~高校の頃、
両親ふたりで働いても我が家の年収は、今の私の年収よりも低かった。
(その頃は、姉は親の反対を押し切って家を出ていた。)
生活保護は受けられなかったと思うが、
かなりギリギリの生活だった。
そんな苦しい生活の中で
両親が必死に私を高校まで卒業させてくれたのだと、解った。


母から聴いた。

姉と私が子供の時に、ふたりでお金を出して
ハンカチを父に『プレゼント』したことがあるそうだ。
(私は、その記憶がない。)
父は、そのハンカチをボロボロになるまで使っていたそうだ。
しかし、冬のある日、仕事の帰りにそのハンカチを落としてしまい、
引き返して必死に探したが見つからなくて、落ち込んでいたそうだ。


気が短くて、頑固者の父。
でも、今ならわかる。
長い間、家族を必死に守り続けてきた、
強くて逞しい『大黒柱』だったのだと。

父があまりにも、しっかりしていて、強いひとだから、
私には、自分の同世代の男性が、あまりに頼りなく見えてしまったのだろう。
そんなことに気がついたのは、30歳代後半だった。
それから理想の男性は『たぶん父のようなひと』というようになった。
母は「あんな我儘な男はやめなさい!!」と、言っていたが。
それでも両親は、50年以上連れ添ってきたのだ。
父の半歩後ろを歩くように、母は父と生きてきたのだ。




今日、父に言われた。

『明日、頼むな』と。

明日は、検査の結果が告げられる日。


私は、希望は捨ててはいないが、
それでも、覚悟もしている。
楽観視できるものが、何一つとしてないからだ。


『明日、頼むな』は
言葉通りの意味なのか、
『明日、癌と言われたら、その後も頼むな』
という意味も込められているのだろうか・・・。


父の心のなかは、わからない。


父も心の中では、思うことは、色々あったと思う。
肺の外科手術が『できない』ことは父もわかっているはずだから。
しかし、肺に影があると言われたあの日から、
私の前では、父は、見事なまで『いつもの父』だった。


それは、とても『すごいこと』だと思う。

誰にでもできることではない。



明日、どのような結果がまっているのかわからない。
 
良い結果ととなったときは勿論、
もし悪い結果がでたとしても
どのような結果となろうと、 
これからも、父が父らしく過ごせるように、
娘として私が出来る事はしたいと思っている。


『親孝行 したい時には 親はなし』

そうならなくて済んだ自分は、幸せ者だと思っている。



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あと、1週間

今日、仕事を土曜日に振替にして休みにして、
父の、精密検査に付き添ってきた。


結果が出るのは1週間後の26日(月)。
もちろん、私も一緒に行く。


その結果次第で、我が家の今後の全てが大きく変わる。


もし、癌であれば、
もう父には手術は出来ないのだから、
『抗がん剤治療』か『放射線治療』のどちらかになる。
82歳のわりには体力があり、
釣り仲間からは『妖怪』『化け物』とまで言われている父だが、
でも、82歳は82歳。
化学療法に身体がどこまで耐えられるかもわからない。
父は、もし癌だったら『抗がん剤治療』をしたいと言っていた。
意志の強いに人だから、先生を説得してでも治療をするかもしれない。
5年前の手術の時もそうだった。
バイアスピリンを2週間以上服薬を止めて
脳梗塞など血栓のリスクを覚悟して、
たばこと仕事でボロボロになったしまっていた肺を手術した。
そんな肺だし、手術中の血栓のリスクもあるから
医師は手術に消極的だった。
77歳という年齢もあった。
でも、父は、迷わず医師に言った。
『危険は覚悟の上、それでも悪いところは切ってくれ』と。
私は、父の意志を尊重して、手術の説明の同意書のサインを書いた。



今回の検査の結果、癌であれば、
医師が消極的でも、父は言うだろう。
『可能性があるのなら、抗がん剤治療をしてくれ』と。
私は、父の希望に従うまで。
必要な同意書もサインを書くまで。


再発なのか、別の癌なのかによっても違ってくるだろう。
再発でなく、別の種類の癌細胞であれば、また話が違ってくる。
進行の早いものもあるから。


そこは、父もわかっているようだ。


26日にどのような現実を突きつけられるかわからない。

『全て取り越し苦労であってほしい。』
今でも、そう願っている。それは娘としての想い。
でも、ケアマネとしてのもう一人の私は、
『クロ=癌だと覚悟したほうがいいだろう』
と、言っている。


どちらにしても、現実を受け入れるしかないのだ。


今、父は明日行くの釣りの準備をしている。

どうか、この平穏な日常が一日も長く続いてほしい・・・と、
ただ、願うだけである。



明日からの仕事に、平静で向き合えるか
正直自信がない。
専門職なのだから、切り替えろ、
なんて、そんな簡単なものではない。


こうなってみて、
利用者様とその家族の気持ちが
少しわかったような気がする。

頭や理屈や本で書いてあるような
『甘いもの』ではないのだ・・・と、いうことを。



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父の肺に影(3)

今日は11時出勤だった。
勤務時間の調整のために。


父は近所の公園の釣り堀に朝から出かけていた。


だから、出勤前に父のことで母に色々と話した。


実は、5年前の手術が終わった直後、
医師より家族だけに手術の説明があった。
その最後に『万が一、再発した場合』の事を
言われていた。
とても短い言葉だったが、厳しい内容だった。


でも、母も姉も覚えていなかった。

姉には話した。

母には話すべきか迷った。


でも、母が知らないまま、最悪の結果が出た場合、
ショックで動転してしまった母を見たら、
父は余計に辛いだろうと思った。


だから、母に話した。
先生に言われた『厳しい』内容を。


話した直後、母が動揺しているのがわかった。
私が出かける時間までには、落ち着くけるように
時間に余裕をもって話をしたが、
ご利用者様の家族から電話が入ってしまい、
その対応で結局時間がなくなってしまい、
職場へ向かった。


でも、母のことが気になったので、
職場から電話して、もう一度母と話をした。
「ショックで辛い」と母は泣いていた。
残酷なことを告げたことは自覚している。
でも、言わなければ、母に知ってもらっていないと、
もし、悪い結果が出たら、
ショックを受けるであろう父を
家族で支えることができないのだ。

「お母さんにこれを伝えるのは、
   残酷なことだとはわかっている。
 でもね、もし本当に再発だった場合
 お母さんと私が、覚悟を決めていないと
 お父さんを支えることができないんだよ。
 一緒に動揺していてはだめなんだよ。」


私は泣くのを必死でこらえた。

私は両親の前で泣いてはいけない、
そんなことをしたら、
父も母も動揺する。


「ずべて、取り越し苦労であってほしい。
 でも、結果が出る前に
 お母さんと私が覚悟を決めておかないと
 お父さんは、治療に専念できないんだよ。
 私が、なんだかんだ言っても、
   お父さんのそばにいて支えるのは
 やっぱり、お母さんなんだよ。」


母を安心させるには、こういうしかなかった。

「もし、再発だったら
 お父さんが治療に専念できるように、
 お母さんもお父さんを支えることだけに専念できるように
 あとのいろんなことは全部、私が引き受けるから。
 お姉ちゃんは最初からあてにしてない。
 全部私が一人でやる。」


本心の言葉だ、でも、はったりもある。

キーパーソンとして、出来る限りのことはやるつもりだ、
でも、全てを必ずできるかどうかは自信はない。
だけど、私がこれくらいのことを言わないと
母は不安と絶望だけを抱えている状態になると思った。


だから、はったりをかました。

そして、言った以上はやらなけばないけない、娘として。


母が、電話の向こうで
自分を落ち着かせるように
ひとつ大きな息を吐いたのが聴こえた。

「わかった、お母さんも覚悟を決めるよ。
 だから、頼むね、かたつむり。」

母の言葉を聴いて
私は、もういちど、はったりをかました。

「大丈夫、任せて」






両親を少しで安心させるために
高額医療の支援について調べ続けた。

情報を教えてくれた方がいた、
とても助かった。

そして、一か所の病院で一定限度額以上の高額な医療費払えば、
手続きしなくても、会計の時に限度額以上にならないように
会計で対応してくれることがわかった。


最終確認を医療連携室に問い合わせるつもりだが、
両親に言ったら、少し安堵していた。


お金以外のことなら、何でもやる。

だから、お金のことはどうにか解決しそうだから、
私も、少し安心した。


こんなこと全てが
『取り越し苦労だったね』
って笑えることを祈っている・・・。



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父の肺に影(2)

今日は、あえて早く帰ってきた。

連日残業では、さすがにバテる。

今日(29日)・明日(30日)・明後日(1日)は
一度少しペースを落として、
2日から元のペースで仕事をするつもり。


でも、仕事は持ち帰っている

ちなみに3日(土)は、
父の病院付き添いで休む日の振り替えで
半日だけど出勤する。



「検査の時は来なくていい」と、
父は言ったけれど、
母が「不安でひとりで検査中に待っているのが辛い」
と、いってきた。


母はちょっとしたことで混乱してしまうタイプ。
母は父のこと「あの頑固ジジイ!」と私に言うが、
ずっと大黒柱の父に、全てを任せて生きてきたのだ。

だから、何かが起きると混乱するのだ。


もし、父が『クロ』だった場合、
ある意味、父より母のほうが心配かもしれない。




今朝、父に言った。

「とっても、とっても、とっても最悪の場合のこと話すよ」


『クロ』で更に最悪の状態を想定していった。


「最後は家で過ごしたい?」


4年半前にガンで亡くなった大好きな叔父が
病室のベッドの上で言っていた。
『家に帰りたい』と。
2週間だけ戻ったが
生涯独身で、独り暮らしだったから
自宅にいる時も、苦しかったはずだ。
『最後を自宅で過ごしたい』
それを叶えてあげることができなかったことを
いまだに引きずっている。

だから、父に言った。


「もし、そうしたいと思ったら、全部私が手配するから」


頭の中で、依頼する事業所や往診医は決めている。
訪問看護は往診医が連携を取りやすいところに依頼すればいい。


昨晩考えた。
もし父がターミナルになったら
『娘』として私が『父のケアプランをつくる』・・・と。
家族としてつくるのだから、料金は入らない。
それでもいい.
他の人に依頼して、
納得のいかないものになってしまったら、
直す時間がもったいない。
なら、自分が家族としてやろうと思った。



父は、その時になったら考えるといった。


今は、頭の片隅に入れておいてくれればそれでいい。




そして、今は
化学療法になった場合の
お金のやりくりを考えている。


父が60歳に胃がんになった時、
5年前の肺がんになった時、
たいした金額はなかったが、
私は母に、お金を渡した。


しかし、今は
20歳代に貯金したお金は
大学の学費で使い、
うつ病治療中に自宅療養したりフルで働けない時に、
貯金を崩して生活費を入れていた。

そのため、情けないが貯金がない。


だから、『医療費助成』のことを調べている。

高額療養費助成制度は
ウチの地域の『後期高齢者~』は、
戻ってくるのに4カ月かかる。
その間のやりくりを考えなければならない。


医療費の貸付制度や
私の生命保険などで借りることも考えないといけない。


甲斐性のない、自分が情けない。


『フライング』な行動かもしれないが
今のうちに、調べておいたほうがいい。
『クロ』とわかってからでがは、遅いんだ。

でも、どうか、
こんなことが無駄なことになってほしい・・・。
『白』の結果になってほしい・・・。



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父の肺に影

先ほど、仕事から帰ってきたら父から言われた。



「手術したほうと反対の肺に白い影がある。
 レントゲン写真を見せてもらったが、5年前の時と似ている」


「PET検査をすることになった。」



私は父に訊いた。

「検査結果を訊きに行くのはいつ?」と。



父「(12月)26日だ」

私「わかった、26日は一緒に行く」

父「頼む」

私「検査の日はどうする?私も行こうか?」

父「その日は検査だけだ、お前は仕事へ行け」

私「わかった」


父は、約5年前に肺がんの手術をした。

来年の1月で5年を迎えるところだった。


あともう少し・・・もう少し・・5年を迎えれば完治だ・・・そう思っていた。




検査の結果を聴かないとわからないが、
最悪のことは考えておいたほうがいいだろう。



父は、5年前に手術を控えた時の検査で、
肺がタバコと職業病で60%しか機能していないことがわかった。


その肺を、父の肺が機能できる、父が日常生活の維持ができる限界まで切除した。
それでも、転移を防ぐことを考えたら、切除の範囲としては不十分だった。
でも、それ以上の切除をしたら、生活できないといわれた。



つまり、白い影が、万が一『癌』だったとしたら、もう切除は出来ないのだ。



父に訊いた。

「最悪の結果が出た場合、全部知りたい?」

5年前にも同じことを訊いた。返事は同じだった。

「全部知りたい」

ただ、ひとつだけ違った。

「抗がん剤治療を受けたい。5年前と比べて薬が良くなって種類が増えたと聴いたから」


父はもう、最悪のことを考えてくれている。


私「抗がん剤は、お金がかかると訊いたから、
  そうなった時は、病院の医療連携室とかに私が訊きに行くから」


もし、がんだったら、私が『キーパーソン』。


母は、パニックを起こすだろう。
姉はあてにならない。



両親に何かあれば、自分が『キーパーソン』になることは、
すでに5年前に腹は決めている。



取り越し苦労であってほしい・・・そう願っている。


でも、私も、覚悟をしておかなければいけない・・・。




『介護』は他人事ではない・・・いつもそう思いながらこの仕事をしてきた。



それが、現実になるかもしれない・・・と、いうことだ。



それでも、癌でないことを願っている・・・。



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