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ただ今、人生の仕切り直し中のケアマネ
プロフィール
HN:
かたつむり
性別:
女性
自己紹介:
心と身体を壊し、まだ人生の仕切り直し中のケアマネ。

保有資格:社会福祉士・介護福祉士・介護支援専門員。ついでに日商簿記2級・全商簿記1級
(Twitter@renrinoeda2)
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私が『在宅での看取り』にこだわった理由

癌を再発し、治療方法が事実上ないことを知った父は、私達家族にこう言った。

『俺は、最期は病院でいい、お母さんが大変だから』

それは、裏を返せば、

『本当は、最期まで家にいたいけど、お母さんが大変だから、俺は病院でいいよ』

私はそう受けとめた。


父は、超ワガママ頑固ジジイだが、父個人の希望を言ったのを、私は聴いたことは一度もなかった。

父が、毎週日曜日に、雨が降ろうが雪が降ろうが釣りに行って家にいないことを不満に思ったことは一度もなかった。
毎日仕事しているんだから、日曜日くらいは父だって好きなことをしていいと、こどもの頃から思っていた。
母に『お父さんが働いてくれるから、あんたたちはご飯も食べられるし、学校で必要な物も洋服も買える。だから、休みの日はお父さんが好きなことをしてもいいでしょう』
そう言われて、子どもながらそうだと思ったから、父の釣りバカを不満に思ったことはなかった。呆れたことは数え切れないけれど。

でも、それ以外は、なんだかんだと、姉と私を、そして母の事を優先にして、自分の事は二の次だった。


その父に、残された時間がないとわかったときに、私はその場で決めた。

『父を自宅で看取る』
『父を癌の痛みで苦しませてなるものか』と。

父の癌の治療方法がないと言われたとき、私はケアマネとして38件担当していた。
父のキーパーソンに徹する為に、社長に申し出て、最終的には担当を28件にまで減らした。

父は私が担当件数を減らすことは望んでいなかった。

『俺のために、担当件数を減らすことは絶対にするな。お前の給料が下がる。お前にそこまで迷惑を俺はかけたくない』

父は本気で言っていた。父として娘にそこまで負担をかけるのは嫌だったのだろう。

だから、担当件数を28件にまで減らしたことは、父が危篤になるまで母にさえ言わなかった。

父の癌の痛みを最小限にして、最期まで父らしく過ごせる環境を整えることに必死に動き続けた。
そして、家族3人で父を自宅で看取り、自宅から父を送った。


私は、父のガンの再発がわかった時点で既に自分の身体が悲鳴を上げていた状態だった。しかも仕事で追い詰められていた状態でもあった。
それでも、ここまで無理をしてでも、父の在宅での看取りこだわったのには理由がある。


父は言葉にしなかったが『最期まで家にいたい』と思っているのがわかったかから。

ここに至ってまで、自分の希望を言わない父の『最期の望み』を叶えたいと思った。


父は、決して私にとって良い面だけの父ではなかった。
私は両親から褒めてもらった記憶がない。
『お前になど出来るわけがない』
子どもの頃の両親からこう言われて続けて、何かにチャレンジする機会も与えてもらえずに大人になった。
だから、私は子ども時代10代での成功体験が全くない。
『お前になど出来るわけがない』という言葉は、大人になっても言われ続けた。
その言葉は、フルタイムで働きながら、家に生活費を同じ額を入れ続けながら、通信教育課程の大学を卒業するまで言われ続けた。
両親も、卒業が難しいと言われている、通信教育課程での大学を働きながら卒業した、しかも生活費もきちんと入れた娘に対して、さすがにもう、『お前に出来るわけがない』とは言えなくなったのだろう。
それからは、その言葉は言われなくなった。


大学を卒業し、介護業界に入った私は、その2年後のうつ病になった。

自分で『これはうつ病かもしれない』そう思い、両親に黙って精神科を受診し、そしてうつ病の診断がでた。
今よりも、うつ病に対しての偏見が強かったので、両親がどのように思うかが不安だったが、黙っているわけにもいかなかっので、思い切って両親に話した。

そのときの父の言葉は『そうか、わかった』のひと言だけだった。

私は、うつ病の悪化で2回仕事を退職し、自宅で1年ほど静養していたときがある。
そのときは、父が『病気なんだから生活費は今は入れなくていい。貯金はお前自身の為に使え。ただ、仕事が出来るようになったら、そのときはちゃん家に金は入れろよ』と言って、私を食べさせてくれた。

私が、仕事をしないといけないと焦ったときも、まだ早いと私を止めたのも父だった。
『焦って、仕事をするな、もう少し休め。親元にいるんだから、お前を食わせるくらいは俺だってどうにか出来る。だから、もう少ししっかり休め。』
そういってくれた。

私が、仕事で食事介助中にご利用者様が誤嚥で窒息をしてしまい、亡くなってしまったときに、職場や同僚から『人殺し扱い』されて苦しんでいたとき(詳細は当ブログの別ページ『地獄から這い上がって』をごらん下さい)、父は私にこう言った。
『年寄りはいつか死ぬ。こういう死に方(誤嚥や窒息)だって当然ありえる。そのことで、お前を責めるような施設など辞めてしまえ!!』
そう言ってくれた。
その、父の言葉に背中を押されて、施設を辞めた。
しかし、救急車の音を聞くたびに、私はフラッシュバックを起こしていた。精神的におかしくなっていた。
『いつまでもそんな風でいたら、亡くなったご利用者さんが『うかばれない』ぞ!!』
父は、そんな私をみて、何度も私にこの言葉を繰り返した。

『このまま、介護の仕事を辞めては、亡くなった方に対して申し訳が立たない。』
『介護の仕事を続けることが、亡くなった方への、自分なりの償い。逃げてはいけない』

そう思い、介護の仕事に戻るまでに1年かかった。

それまで、父は私を見守っていてくれていたのだ。

そうやって、うつ病を抱え、自分なりの償いを抱えながら、介護業界に戻って10ヶ月後に今度は重度の貧血で緊急入院になった。
当時は派遣社員で働いていたので、即契約終了になった。
絶望感を抱えて、病棟から自宅へ報告したら、父がタクシーで病室まで来てくれた。
『また、一からやり直せばいい、お父さんもお前と一緒にやるから、大丈夫だ。』
落ち込む私に、父はそう言ってくれた。
私は、父の前で泣いた。


子どもの頃は経済的に苦しい家だったから、友達と同じ事はしてはもらえなかった。
父は月曜日から土曜日まで一日中仕事だったし、釣りキチガイの父は日曜日は夜明け前には出かけてしまっていたので、ほとんど父と過ごす時間はなかった。
ただ、子どもの頃は、夕食は父と一緒に食べることは出来た。今から思えば幸せなことだと思う。
しかし、それは、裏を返せば、それだけ父の仕事をする業界が景気が悪くなっていたということなのだろう。そのことは高校生になって、母からの話で知った。

父と出かけた思い出は、毎年『子ども日』と『正月』だけだった。
そういえば、一度だけだけど、ハゼ釣りに連れて行ってくれたことがあった。
こどもの日は、当時はデパートの屋上に遊園地のコーナーがあったので、そこで遊ばせてもらい、おもちゃ売り場で欲しいもの1品だけ買ってもらった。
正月は、家族4人で父方の祖母宅(自転車で10分)へ行き、祖母や親戚の人達と過ごした。3日の時に初詣にいき、その帰りになぜかいつも『パチンコ屋』にはいり、家族4人でパチンコをしていた(当時はまだ、はじくかたちで『チューリップ』にいれるパチンコ台だった)。



私は、うつ病が寛解するまでに11年かかった。そのうえで、減薬を1年半かけておこない、抗うつ剤を卒業できたときには、父も母も喜んでくれた。

『これで、やっと両親に安心してもらえる』

そう思った矢先の、父の肺がんの再発だった。

5年前に肺がんの手術をしたあと、執刀医から言われた言葉は『再発したら1年』だった。
父はこのことは知らない。
私はあえて父にはこのことは言わなかった。
母も姉もこの言葉を覚えていなかった。

覚悟はしていたけれど、治療する術がないと知ったとき、ショックを受けながらも私は決めた。

『父を自宅で看取る』
『父を癌の痛みで苦しませてなるものか』と。

ずっと、心配かけっぱなしだったから、最初で最後の親孝行をしよう、そう決めた。
絶対に『お父さんを癌の痛みで苦しませてなるものか!!モルヒネ漬けになど絶対にさせない!!』
そう決心した。

幸い、今の私には、ケアマネとしての情報があり、知識がある。それなりの人脈もある。
その全てをつかって、父の残りの時間を守ってみせる。
父が苦しむくらいなら、いっそ自分が壊れたほうがいい。

そう思って、私が父を安心してお願いできる、ガンの終末期医療に特化した在宅医療ができるクリニックに依頼した。
そして、自宅での介護に限界がきたときの為に、悪友看護師が勤める病院の緩和ケア病棟に登録手続きをした。
ケアマネは悩んだ末に、地元のケアマネさんにお願いすることにした。私は地元のサービス事業所の情報を持っていないので、地元のケアマネさんにお願いした方がいいと判断した。それに、キーパーソンとケアマネの両方を担うのは無理だとわかったから。
ケアマネ探しは、あえてケアマネの人に相談せずに、福祉用具のサービス事業所で信頼している方お二人に相談した。
『ウチの地元でターミナルの支援に長けている、ケアマネ事業所を教えて下さい』と。
二人とも同じ事業所を言ってきた。
教えて下さった福祉用具のサービス事業所のかたのうちの一人の方が、その事業所の管理者の方に私をとりついで下さった。
その方のおかげで、本当にウチの両親に合った、訪問看護ステーションさんを紹介して下さった。
これら全てを、必ず父に提案し相談の上、父の結論や了解に従って私が対応や手続きをした。

父が私に言った言葉。
『余命宣告も知りたい。俺の人生だから、最期まで自分で決めたい。』
その言葉に最期まで私はしたがった。
父の意識が朦朧としていた最期の頃も、既に『私が決めたこと』であっても、比較意識がはっきりしているときに、最終判断は父にゆだねた。
そうしないと、父が意識をもうろうとしながらでも、絶対に怒りだすことは、わかっていたから。



多くかたのお力添えのおかげで、父は、癌の痛みを最小限にすることが出来たし、幻覚・幻聴・せん妄はもちろんあったけれど、それでも最期まで父らしく過ごすことが出来て、自宅から彼岸へ旅立つことが出来た。

私は、今の自分が父に出来ることは、全てやり切った。

本当にそう思っている。

今、私は、心も身体も生活も壊れて、職を失ったけれど、それでも、父の事で無理を重ねたことは後悔していないし、無理してでもやって良かったと、今でも心底思っている。

途中で両親とケンカをして、実家を出た。

それでも、やはり父を見捨てることは出来なかった。

なぜなら、
『心配かけ通した私が、父にしてあげられるのは、これが最初で最期なのだ。だから今の自分が出来ることの全てをやろう。』
両親への憤りよりも、この思いのほうが勝ったから。

そう思ったからこその、この無謀な行動だった。

彼岸から父は、多分私を心配してるだろう。
彼岸にいってまで、父親を心配させるとは、父には申し訳ないと思っている。
情けない娘だと思う。

でも、一回くらいは、『親孝行らしいことをさせてもらいたかった』から、お父さん、申し訳ないけど、大目にみてやって下さい。

ちゃんと、立ち直ってみせるから・・・お父さん、がんばるよ。





拍手やコメントをくださったかた、ありがとうございました。
なかなか、コメントのお礼のお返事を書くことができなくて、申し訳ありません。
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立ち会えない『父の納骨』

ご無沙汰しています。

 

 

体調が悪い中、無理矢理仕事をしながら遅れている仕事の追い上げをしています。しかし、体調が悪いため、仕事の進み具合が悪いです。

 

父亡き後の諸手続きが終わったら、いっきに体調不良が悪化しました。

『疲れはあとで、いっきに出るから気をつけて』と、ご利用者様とご家族に言われていましたが、その通りになりました。

肥満だと健康診断で言われていますが、しかし体重が7kgも落ちて、『顔がやつれた』『顔色が悪い』とご利用者様とご家族に心配をしてもらっている、情けないケアマネです。

 



先日、父の納骨日が決まりました、と、いうか、私の知らないうちに決まってました。

 

明日16日が納骨です。

母が独断で決めたのです。

姉にも相談なかったので、姉もかなり激怒したようで、母を『叱った』とメールで書いてました。

 

 

私は、間違い電話で私のところへ電話をしてきたので、不審に思い、折り返し電話をして、母に訊いたら

『ああ、決まったわよ。16日に。かたつむりは具合が悪いから(納骨に)行けないって言ってたから、お姉ちゃんと二人で行ってくるから』

と、あっけらかんと言ってました。

 

母には、父の葬儀が終わったあとに、何度も言ってました。

「私もお姉ちゃんも疲れ果てている。こんなこというのはお父さんに悪いけどさ。だから、取り急ぎの事が終わったら、お願いだから少し休ませてくれ。納骨だってウチは葬式をやってないんだから49日にこだわる必要ないんだ。とにかく少し休ませてくれ、お姉ちゃんも私も身が持たないよ。」
姉も同様のことを言っていました。

 

でも、母は49日の4月にこだわりました。

 

私は、だから、こう言うしかありませんでした。

お母さんが『4月にどうしても納骨』したいなら、今の私の体調では長時間の車の移動に耐えられないから、私は行けない。だから、お姉ちゃんと二人で行ってくれ」と。

 

そして、母は本当に私抜きで4月に納骨することを、姉にさえ相談せずに決めました。

 

私の生息地は、葬儀を無宗教でしたり、49日や法事はあまりこだわらない家がかなり多い地域です。

ですから、父の葬儀も、父の遺言に従い、無宗教で通夜も告別式もせずに、家族3人と最低限の父の知人だけで送りました。

ですから、我が家も特に49日にこだわらなくてもいいのです。その前をしていないのですから。

 

でも、母の中には何らかのこだわりがあったのでしょう。

 

しかし、今までの父の事全て背負ってきた私には事前の話もなく、私抜きで納骨をすることを、姉にも相談せずに一人で勝手に決めました。

私には事後報告どころか、実家に来たときに伝えるつもりだったようです。

当然、母と電話でケンカになりました。

正直どこかで期待していたことを泣きながら母に訴えました。

『私の体調が戻るのを待ってくれると思ったよ!』と。

そうしたら母は
『具合が悪いから行けないから、お姉ちゃんと二人で行けっていったのは、アンタでしょう!!』
と逆ギレしました。

お母さんは、納骨をなんだと思ってるんだ?!そうおもったら、虚しくなりました。

『これ以上、お母さんと話しても意味がないから電話を切る!!』
そう言って、私は電話を切りました。

 

そのあと、ずっと泣き続けていました。

 

必死に父のキーパーソンをして、無理を重ねて、身体壊して、減給になり生活が崩れて、それでも父の闘病を支えるために全てを背負い、父亡き後に母の生活を安定させるために手続きに動き回った娘に対して、納骨は蚊帳の外なのかよ!

 

そう思ったら、とても哀しくなりました。

 


その夜から、体調が更に悪化しました。

固形物が食べられなくなり、食事もそのものも取れなくなりました。

当然、動けなくなり、この2週間は何度も仕事を休みました。

明日も実は休みを取りました、体調が悪すぎるから。

食事は、最近お粥がようやく食べられるようになりましたが、一日1食食べるのがやっとで、後は水分で栄養がありそうなものを飲むようにしています。

 

母には、今の私の感情をぶつけた手紙を送りました。

でも、電話がかかってきたのは、手紙が届いたであろう日の1回だけ。私は電話に出る気になりませんでした。

その後は、電話は全くありません。

母が何を考えているのか、私には解りませんし、解ろうとも思いません。

 

 

先程、姉にメールを入れました。

 

明日納骨に行けなくてごめんなさい。 

お母さんに会いたくないから、お父さんにお線香をあげに行けずにごめんなさい。

納骨の件は全部お姉ちゃんに任せきりでごめんなさい。

宜しくお願いします。

 

姉から返ってきたメールは。

 

気にしなくていい。

まずは自分の身体を治すことを優先にしなさい。

 

姉のメールをみて、本音を送りました。

 

『でも、本当の本当にこれで最期になるから、やっぱりお父さんの納骨に立ち会いたかった』と。

 

それを姉にメールで送った後に、声をあげて泣きました。

 


 

解約手続きのために、私の手元にある父の携帯電話。

形見として引き取らせていただけるようにお願いするつもりでいます。

待ち受けをかえて、病状が悪化した頃の、でも、まだベッドから降りられるときに、釣り仲間の孫を抱いてとって、痩せ細る前の父の笑った写真にしました。

その父の姿を見ながら、励まされたり、泣いたりして、毎日を過ごしています。

 




明日、何時に父が自宅を最期にするのかも私は知りません。

 

それでも、明日は、壊れた身体で自宅で仕事をしながら、心の中で父に手を合わせて一日を過ごしたいと思います。



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働きながらキーパーソンをすることの難しさ③

ご無沙汰しています。

父を彼岸に送ってから、更に体調を崩し、その状態で、父の事で遅れていた仕事の追い上げをしなければらないので、ブログを書くことすら出来ませんでした。
今朝も、父に関する諸手続きがある為(父の諸手続きで何度も有給休暇をとっているので、同僚達から良い目で見られていません)早起きしましたが、具合が悪くなり動けなくなり、4時間ほどベッドで休んでいました。

無理を重ね続けた結果です。

無理を重ねるしかなかったのです。
周囲の理解をもらえなかったから。

父がターミナルになってから、私は減給覚悟で担当件数を減らしました。
長くて3ヶ月と言われた父の介護をする為に。
そして、父のキーパーソンとして更にやる事が増えていくため、今の私が担当するべきではないご利用者様の担当変更を社長にお願いしました。
独居で家族の介護力の弱いかた5名を同僚に引きついでもらいました。
その方達の担当を外してもらったことには理由があります。
ご利用者様が難しいケースでも家族に介護力があれば、どうにか担当をつづけるこはできる。
でも、独居で介護に関わってくれる家族がいないと、その分、ケアマネが家族の代わりに動かなくてはいけない。
その動きは、ターミナルの父の介護をして、キーパーソンもしている私には、とても不可能と判断しました。

引き継ぎが始まった時点で、父の病状は急激に悪化していきました。
毎晩、電話で姉と長い時間相談をして、休みは実家へいき父の介護をする母を手伝い、そして、仕事を続けました。
正直、仕事は、目の前のことをするのが精一杯で、まったく余裕はなく、とにかく必死でした。
父に残された時間をみつめながら、少しでも早く2月分の仕事を終わらせる見通しを立てることで精一杯でした。

『少しでも長く、父のそばにいたい。』

その思いだけで、必死に動いてました。
私自身の身体にも無理が来ていることは、充分に解っていました。
でも、もう父と過ごせる時間はないのです。
だから、あとで倒れてもいいから、父のそばに早くいられるようになりたくて、本当に必死でした。

そんな頃に、引き継ぎで、私が書類がそろいきれていないことで、同僚達から事実上のクレームがでました。

私は、社長から引き継いだとき、まともな引き継ぎをうけたことは一度もしたことがありません。引き続き書類もまともにもらったことがありませんでしたし、最低限の必要な情報を訪問直前に口頭で伝えられただけです。だから、担当になってから苦労もしたし、恥もかきました。
『とっくに、社長さんに話してあるよ』
確認の質問すると、そんな言葉を何度も返ってきました。
聴いていないことを告げるわけにいきませんので、私の勘違いということで、その都度謝りました。
他の社員が、引き継ぎのときに、社長から『アセスメント票』もらっていたのをみて、私から社長に、『私にも引き継ぎの時には、アセスメント票を下さい』と、何度も言って、ようやくもらえるようになりました。
でも、社長は、『自分は、かたつむりさんにきちんと引きつぎをしている』と、私に言いましたので、会社では私が悪者です。このことは、何度もいいましたが、言ってももう無駄だと、もうあきらめました。だから、私が悪者になっています。


話がそれましたが、初心者がそんな状態で引き継ぎをしていたので、アセスメント票があり、必要な情報を文書でまとめて、また口頭で伝えればどうにかなるかと思っていました。なぜなら、同僚はみな主任ケアマネですから、初心者が出来たことは、主任ケアマネなら当然出来るだろうと思ってました。
それが間違いだったのでしょう。
私は引き続きの時に伝え忘れたことが少しでもあったりすると、不快な表情を露わにしました。また、新しくかえたソフトに最低限の情報しか入力できていたかったことで、入力出来ていないことを注意されて、引き継いだ人の分だけでも早く入力するように言われました。

このとき、父に残された時間は2週間を切っていました。

職場には、そのことは伝えていました。
『できる限り、かたつむりさんに協力する』とはいっていました、社長は。

しかし、
死に物狂いで仕事と父の事をやっている私に、父の命の灯が消えかかっている時に、会社は『完璧は引き継ぎ』を求めてきたのです。

『そこまで完璧を求めるのか?!あんた達だってできていないだろうがっ!!』と、怒りにまかせて叫びそうになるのを必死で堪えました。
父と話が出来る最期のチャンスになるのが解っていたその週末の土曜日の訪問を調整して、父の元へいこうかと思っていたのですが、このことがあり、土曜日は一日仕事をしました。指摘された仕事をするために。

翌日の日曜日に、私は自分の病院受診もせずに父の元へいったら、父はもう声を出すことが出来なくなっていました。
その父の姿を見て、私は、心の中で愕然としました。
父に、その動揺を悟られないようにするのに必死でした。
母の話では、前日の土曜日までは、どうにか話せていたとのこと。
私は、父の声を聴いて父と話をする機会を永遠に逃してしまったのです。

母から聴かされました、私が実家へ行けなかった4日間のこと。
『ここ数日、お父さんは、毎日何度も「かたつむりは来るのか?」と言っていたんだ。だから、仕事だから日曜日にならないとこれないんだよ、ってその都度お父さんに言ったんだよ。「そうか、仕事なら仕方ないな」って言っていたけれど、お父さんは、あんたが来るのを待ってたんだよ』
その母の言葉を聴いて、父に申し訳ないことをした・・・そう思いました。

仕事をしている以上、仕事が優先なのは解るし、家族の事は理由にはならない。

これが一般企業なら、仕方がない。
私もそう思える。

だか、私の会社はケアマネ会社だ。
在宅の介護を支援することが仕事だ、だから、『在宅介護』と『ターミナル』というものは、それなりにわかっているものだ。少なくとも私はそう思っていた。
でも、ケアマネからみた『在宅介護』と、家族の立場でみた『在宅介護』は、まったく違う世界だった。
だから、ケアマネ会社といえど、社員の『家族介護』について認識は、一般企業となんら変わりなかった。

会社として『かたつむりさんのお父さんの介護に協力する』と。言っていた。
土曜日出勤にして、平日休みにしていただけた事は、感謝している。
父の事で有給休暇をとったり、早退させいただいたことも、感謝している。
しかし、仕事のフォローはなにひとつなかった。
それどころか、引き継ぎをしたことで、逆に私は、仕事で追い詰められてしまった。
引き継ぎの不備を指摘されていた時が、父に残された時間がもうないと言われていたときだったので、一番精神的に苦しかった。
父に残された時間がもうないところまで来ていたのに、常に完璧以上を求められ続けてきた。

声が出せなくなっていた父の姿に愕然としていた私に、看護師さんが帰るときに玄関先で私にこういった。

『お仕事も忙しいと思いますが、どうか、少しでもお父さんのそばにいて差し上げて下さい』と。

このことばを言われたとき、『自分は何をしてるんだ』そう思った。

ケアマネージャーとして、在宅で介護をしている家族を支援していながら、その一方で、私は自分の父親に寂しい思いをさせているじゃないか?!

私は、何をやっているんだ・・・と、おもったら、看護師さんに何も言えなかった。



ー 『ケアマネージャー』をしている私は、娘として、いったい何なんだ? ー


あの、『私の顔をみて、安堵したように微笑んだ、声を出せなくなっていた父の姿』をみてから、そして、看護師さんの『あの言葉』を聴いてから、どうしても、このことが頭から離れなくなった。


翌日の月曜日の夕方に父の危篤知らせを受けて、その後の予定をいったんキャンセルして実家へ向かった。
実家へ着いて、反応が帰ってこない父にそれでも『聴こえている』と信じて、繰り返し父に話しかけた後に、翌日の火曜日の仕事の調整を自分でした。
父が亡くなった後も、葬儀会社との打ち合わせが終わった後に、気力を振り絞って、全て自分で仕事の調整の連絡をした。
仕事の調整が全て終わったら、その後は、父を亡くした哀しみだけで、もう何も考えられなかった。
それでも、社長にだけは、メールだけでなく電話で報告をしなければと思い、夜に社長に電話をした。

『父が亡くなったので、しばらくご迷惑をおかけします』と。

そのときの社長から言われたのが、仕事の調整のことだった。
サービス担当者会議が父の出棺の翌日に入っていた。
2月中に行なわなければいけない会議。
私の慶弔休暇明けに合わせて組み直おそうとしたら、スケジュールを組むのが難しいことが解っていたので、上司にその旨を話して予定通りやることにしていた。上司の了解は得ていた。
その予定を組み直すようにと社長が私に指示してきたのだ。

『かたつむりさんが大変だから、予定を組み直した方がいい』と。

親が死んだばかりで悲嘆にくれている社員に、会議の日程変更をするために事業所と連絡をとり、一からスケジュールを組み直せというのか、まだ仕事をしろというのか・・・。

ー もう、いい加減にしろっ!! ー

私は、自分を支えていた最期の糸が切れたのが解った。

『もうすでに日中に上司と相談して、私は、仕事の調整をしました。もう、今の私に仕事の調整をする気力なんてありませんよっ!!父の葬儀の打ち合わせまで私はしているんですよっ!!会議の予定を組み直す為に連絡調整をするくらいなら、無理をしてでも予定通りで会議をした方がまだマシですっ!!』

私は電話越しに社長に怒鳴った。

ケアマネージャーの会社でさえ、この有様なのです。


介護離職の問題が大きく、取り上げられているが、会社側の理解がなければ、仕事を辞めるしかないのだろう・・・私は、このとき思った。

私には、まだ、母がいる。
おかげさまで、母は今のところは元気だ。でも、いつどうなるか解らない。
父だって、元々はとても丈夫だった。
唯一、悪い肺に癌が出来て、彼岸に逝ってしまったのだ。

親の介護の問題は、私自身とっても、まだ続く問題なのだ。

母が介護が必要になったとき、この会社で働きながら母の介護をすることは、間違いなく『出来ない』と思った。

そして、私自身の身体も完全に壊れきってしまった。

それでも、娘として、父の事をやりきったので、今の自分の置かれた状況には後悔はない。

私個人としての考えですがは、自分の親の介護が出来ずに、ケアマネージャーの仕事は勤まらないと、私は思っている。あくまでも、これは私の個人的な考えだ。


父を担当して下さったケアマネージャーさんは、ひと月半のおつきあいで終わったが、完璧な仕事をして下さった。
介護と仕事との板挟みになり混乱する私を、何度も励まし諭して下さった。
そして何より、『いつでも柔軟な対応が出来る、気配りの出来る、訪問看護ステーションさんにご支援をお願いしたいのです』という私の依頼をうけて、その通りの訪問看護ステーションさんをご紹介して下さった。
そのおかげで、余命告知を受けて苦しんでいた父は、訪問看護師さんが『一生懸命に傾聴して下さった』おかげで、父は『最大の苦しみ』を乗り越えることが出来た。

ケアマネージャーさんは、父にお線香をあげにきてくださったときに、私に言ってくださった。
『ケアマネの仕事をしながら、お父さんの介護とキーパーソンをするのは大変だったはず。よくがんばりましたね。実は、私も、父を癌で亡くしてるの。ケアマネージャーの仕事をしながら父の介護で実家を行き来した。私は間に合わなかったけれど、家族で自宅で最期まで看取ったの。だから、私もあなたと同じ経験をしてきた。本当に仕事しながらで大変だったはず。お母さんの事も大切にして欲しいけれど、貴方自身の事も大事にしてね。』
なぜ、福祉用具のかたが、私にこのケアマネージャーさんを紹介して下さったのか、そのとき解ったような気がした。

ケアマネの仕事をしながら、親の介護とキーパーソンをするのは過酷だった。
担当しているかたのご家族からクレーム的な相談を受けながら、『うちのほうがもっと過酷だ』と、心の中で思ったことは正直あった。
その葛藤と、親の介護に理解のない会社で働きながら、父の命の見つめて、必死に動き回った。
父の残された時間を大切にしたい、最期まで父らしくいてほしい・・・その一心で。


我が家はどうにか、父との最期の時間を後悔なく、父と一緒に大切に過ごすことが出来た。

でも、我が家のようなケースは、多分まれで、色々な好条件が重なって出来たことだと思っている。


それでも、今の世の中では、『働きながら親の介護をするの本当に難しい』と、自分が経験して痛感させられた。
担当件数を減らした結果、私は7万円の減給となりました。
身体を壊した私には、今担当件数を元に戻すことは不可能です。
時給制の姉も、給料はかなり減ったと言っていた。
こうして、介護の為に、家族は仕事を辞めていくのだろう、事実上は辞めさせられているのと同じなのだと私は思っている。
家族の介護をしながらでは、通常通りの仕事は出来ない。
それが出来ないと、ペナルティーが課せられる。
そうなると必然的に会社にいづらくなる。
そうしたら、会社を辞めるしかない。

これが、現実だ。
私自身がそれを感じた。

そのことを踏まえて、私は、父のガンの再発がわかってから今までの間に感じた現実を直視して、私自身、ケアマネとして、その前に私個人として、これからどうしていくべきか、考えているところです。答えはまだ出ていません。

それほど、働きながら、家族の介護をすること、家族のキーパーソンをすることに対しては、今の我が国は、理解をしてもらえないとても厳しい社会なのだと、痛感させられました。


はたからみたら、私が言っていることは、会社への個人的な文句を言っているとしかおもわれないでしょう。
でも、私が、父のキーパーソンと介護をして、肌身で感じたことを、ありのままに書いただけです。

ケアマネージャーをしている私でさえ思ったのです。
仕事をしながら在宅での介護は、とても厳しいと。

私のこの意見に反論があるかたは、一度、親の介護に正面からむかって、どれだけ大変かをぜひ経験していただきたいものです。
間違いないく、考えかたが、180度かわりますので。



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お父さんの娘で幸せです。


父が亡くなり、10日ほど経ちました。

 

父の希望で、通夜も告別式をしませんでしたので、父との最期の時間は比較的ゆっくりと過ごせたと思います。

父の遺言

『俺の葬儀に金をかけるな、棺桶の中に花などいらない、通夜も告別式もいらない、お前たち3人だけで送ってくれたらそれでいい』

その言葉に従って、私が葬儀業者との打ち合わせをして葬儀を取り仕切りました。

『火葬式プラン』で依頼し、オプションは母が希望すること以外は、全て『父の遺言ですので』と、即決で断りました。

(今日姉から、「あのオプションの切り捨てるような断り方は、葬儀業者に少し同情した」と言われました。でも、『父の遺言』ですから)

 

弔問に来てくださった方は、『最期まで自宅で過ごせて、自宅から出棺出来るなんて、幸せね』と、皆さんおっしゃってくださいました。

『釣りに行きたい』

『自分の脚で外を歩きたい』

父が望んだ事は、結果的には何ひとつ叶えてあげる事ができなかった。

けれど、せめて、最期まで自宅で過ごして、自宅から送りだしたいと、それだけは、絶対にするんだと、私は決めていました。

私が暮らす地域では、葬儀を自宅ではなく、セレモニーホール等の場所を借りて行なうことが多いので、自宅から送り出すことどころか、病院で亡くなると、そのままセレモニーホールの安置所へ移される方も多いのです。

でも私は『父を、自宅で看とり、自宅から送る』これだけは、絶対にするんだと、決めていました。

その想いは母も姉も同じでした。

 

ただ、父の身体を綺麗に保つために、父が眠る部屋は暖房がつけられない為、余りの寒さに長い時間父の部屋にいることは出来ませんでした。

出来る限り、父のそばで過ごすようにしていましたが、特に私は元々体調が悪かったので無理ができませんでした。

その点では、少し父に淋しい思いをさせてしまったかもしれません。

そんななかでも、母はその寒い部屋で出棺まで毎晩いつものように父の隣に布団を敷いて寝ていました。

 

出棺の前日に、私は父のそばで、生命保険会社や社会保険事務所へ電話しました。

父が自分の葬式代にとかけていた生命保険と、遺族年金の受け取りの手続きを早く始めるためです。

父が一番心配していたであろう、父亡き後の母の生活を早く安定させるために、あえて父の前で行動を始めました。

父に、自分の行動をみてもらうために。

 

出棺の前日の夜は、父が眠る部屋で、母・姉・私の3人でしゃぶしゃぶを食べました。

今にも、ベッドから父の声がしそうな雰囲気でした。

はたから見たら不謹慎な行動かもしれませんが、最期の夜を、いつものように過ごせるのも、いいな・・・そう思いました。

 

出棺前の、湯灌の儀も納棺の儀も、通夜や告別式がないので、時間に追われることなく、ゆっくりと出来ました。

父は、亡くなってから出棺まで3日間ありましたが、肌がきれいでした。

湯灌の儀は、「服は訪問看護師さんが『釣りに行くときの服』を着せてくださったので、そのままでいいので顔を整えるだけにしてほしい」と、依頼したのですが、髭剃りと保湿だけで充分でした。化粧をする必要がないほど、それほど綺麗な肌のままでした。

 

父が息を引き取ってから、何度泣いたかわかりません。

ベッドの上の、ドライアイスの重さから解放された父の身体は冷たく固かった。

その脚をさすり、ドライアイスのかけらをタオルで必死にふき取りながら、声をあげて泣きました。

もうこれで最期なんだと・・・。

 

いつか、親は自分より先に逝く。

そんなことはわかっていたつもりだった。

 

けれど、

 

その現実を、つきつけられて、哀しんでいる自分がいる。

 

そして、自分にとっての父がどれほど『大きな存在』だったのか、思い知らされた。

 

昨年、父と衝突を繰り返して、話し合いの末、家を出た。

その後も、私の気持ちをわかってくれないと、実家から、そして父からも、距離を置いた。

今年の初めに実家に来た時に母から聴いた体調を崩した父の様子と、視界に入った父の顔。

そこから、もう一度キーパーソンとして奔走しつづけた。

毎晩姉と連絡をとり、父の事で相談しあった。

会社と掛け合い、土曜日に出勤し代わりに平日に休ませてもらうことで、姉と休みが被らないようにして、両親を少しでも安心できるようにした。

父のがんの再発がわかってから、父に対して、今の自分ができる精一杯のことをしてきた。

だから、父のことでは後悔はない。

あの時のケンカも後悔していない。

なぜなら、あの時に、自分の気持ちをはっきり父にぶつけたからこそ、わだかまりを持つことなく、最期の大事な時間を父のもとで過ごすことができたから。

 

でも・・・。

 

やはり、父は私にとって、辛い時や苦しい時に必ず助けてくれた『唯一の頼れる存在』だった。

我が家の大きな大黒柱だったのだ。

 

その、大きな『よりどころ』を失ったことで、これからは、本当に、自分自身の足で、自分自身の力だけで、生きていかなければならないのだと、思い知らされた。

 

荼毘に付される前の最期の別れの時に、穏やかな表情の父に誓った。

 

『お母さんのことは、ちゃんとやるからね』

 

そう呟いたら、涙があふれた。

 

父の棺が、扉の奥に移動されて、重い扉が閉められた時に、私は立っていることができず、柱に身体を預けて声をあげて泣いた。

 

 

 

収納の時の父の骨は少なかった。

155センチと男性としては小柄だったし、高齢でもあるから、それが普通なのかもしれないが本当に少なくて、驚いた。

そして、骨が黒くなっている部分がいくつもあり、かなり崩れていた。

それは、父が、『がん』という病気と、正面から闘い続けた証拠。

私は、そう感じた。

 

自分が知りたいと望んていたこととはいえ、『余命の告知』を受けて苦しんでいたときも、私達家族にいらだちをぶつけることは絶対にしなかった父。

弱音を吐くことはあっても、私達に感情をぶつけたり、八つ当たりすることは絶対にしなかった父。

自分が苦しくて痛くて辛いのに、私の身体を心配していた父。

亡くなる4日前までポータブルトイレを使い続けた父。

父と話す最期の機会と思って、自分の病院受診をせずに父のもとへ行ったとき、父を呼ぶ私の顔を見て安堵したように、痛みをこらえながら微笑んでうなずいてくれた父。

しかし、その時には、父はもう声を出すことができなくなっていた。

それでも、『いつもの父』だった。

幻覚・幻聴・せん妄が酷くなっていく中でも、不穏になることがなかった父。

判断力が落ちていく中でも、父の思考が比較的はっきりしているときを狙って、姉と私は何かをするとき、何かを変更するときは、必ず父の意思を確認した。それが、『すでに私が決めたこと』であっても、必ず最終判断は父にゆだねた。

 

『自分の人生だから、最期まで自分で決めたい』

 

それも、父の希望だったから。

 

最期の時、下顎の呼吸に変わったことに気がついた私は、母と姉に、呼吸が変わったから、あと少しで呼吸が止まることを伝えた。

3人で父のそばにいて、3人で自然と父の腕をさすっていた。

私は、なんと声をかければいいかわからず、ただ、いつものように『お父さん』と、繰り返し呼び続けた。

父がこと切れる寸前に、父の口が動いたが、読み取ることができなかった。

もしかしたら、生理的な動きだったのかもしれないが、もしかしたら、何かを伝えたかったのかもしれない。

末期がんの人は、耳は最期まで聞こえていると聴いたことがあるから。

でも、私には、読み取ることは出来なかった。

 

そして、静かに、父は永遠の眠りについた。

 

最期の最期まで、『強い父』だった・・・本当にそう思う。

 

 

慶弔休暇が終わり、アパートへ戻った私は、『お父さん!』と、叫びながら泣いた。

母の前では叫べなかったので、ずっと堪えていた。

もう、父の返事がない事はわかっていた。

でも、『お父さん』と泣きながら、繰り返し呼び続けた。

 

 

今、実家でこのブログを書いています。

しばらくは、週末は実家で過ごすことにしました。

母の緊張が切れた時が心配なので。

両親の部屋に、白い壺におさまってしまった父がいます。

その横に、どこかの釣り場で撮った『へら鮒を手にして嬉しそうに笑っている父』の写真があります。

本当に楽しそうな笑顔です。

心底『釣りバカ』だったんだな・・・つくづく思いました。

 

 

緩和ケア病棟で看護師をしている悪友は、

『哀しいなら、哀しいままでいいんだよ。無理に元気になろうとする必要はない。『大切なひとを失った哀しみ』は、簡単には癒せない。立ち直るまでに何年もかかる人だっている。だから哀しいなら、哀しいままでいいんだよ。後は時間に任せればいい。』

そう言ってくれた。

 

父を彼岸に送ってようやく気がついたことがある。

 

『お父さん、私は、あなたの娘で、本当に幸せです』と。

 

元気な時に、伝えてあげられればよかった・・・とは、思う。

 

でも、本当に、いなくなって、ようやく気がついたことだった。

 

父に伝えることは出来なかったけれど、父の娘でよかったと思える私は、幸せだと・・・心から思っています。

 

お父さん・・・本当に、今までありがとう。

 

そして、本当にお疲れ様でした






 
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お父さんお疲れ様でした。

今朝、父は静かに旅立ちました。

母・姉・私の三人で最期は父のそば看取ることができました。

がんの再発がわかった時に父が言った言葉

『お母さんが大変だから、俺は最期は病院でいい』


でも、その言葉の意味するもの
 
 
『俺は、最期まで家にいたいんだ』


私は、そう解釈しました。


そして、その時に『ケアマネージャーは、ご利用者様が言う言葉の向こうにある『本音』を見つめなければいけないのだ』ということを、学びました。


父の肺がんの再発がわかって1年3か月。

父と何度もケンカをし、結果的に、実家を離れて一人暮らしを始めた。

それでも、なんだかんだと結果的に私はキーパーソンを続けてきた。


父の闘病を通して、見えた事、知ったこと、感じた事が沢山あった。


『仕事』と『介護』の両立をすることの地獄のような過酷さ。

『大変』と言う言葉では片づけられない位壮絶であることを、身をもって経験した。


きっと、これは、ケアマネを続ける上で貴重な経験になったはず。


父は、最後に自身の闘病の姿を通して、私に大切なものを教えてくれたのだと思う。

『この経験を、仕事に絶対に活かせよ!』

そんな父の声が聴こえてきそうな気がします。

父からの最初で最後の『大切な贈り物』だと思いました。



もう一度、大好きな釣りに行かせてあげたかった。
 
無理なら、いつも行く釣り堀のそばにある満開のしだれ桜を見せてあげたかった。

それでも無理なら、家の前でもいいから、風を受けながら青空を見せてあげたかった。

何ひとつ、かなえてあげられなった。

けれど、

言葉にしなかったお父さんの希望


『最期まで家にいたい』


これだけは、どうにか希望に添えることができた。



父の遺言、

『俺の葬儀に金をかけるな、やることは最低限でいい。お前たち3人だけで俺を送り出してくれ』

だから、通夜も告別式もせず、家族3人だけで送る。



でも、これだけは姉と私はこだわった。


『家で看とったのだから、家から父を送り出す』


私の住んでいる地域では少なくなった方法にこだわりました。


父の棺は自宅から出棺します。


父は出棺の最期まで、私達と自宅で過ごします。


旅立の服装は、『釣りに行くときの服』です。


ひとつ大きな悩みが出てきました。


父が『俺が死んだら棺桶に入れてくれ』と姉に頼んでいた、へらぶなの竹竿をどうするか。


『竹竿は燃えにくいので、棺には入れられない』と、葬儀業者の方から言われた。


でも、多くを望まなかった父が望んだ、数少ない望みだった。



『へらぶな用の竹竿持ってあの世に行きたい。』



父のこの希望に添えるようにすればよいのか、姉と二人で今頭を抱えている。


『一斗缶で燃やして炭にして、親父の骨壺にいれるか』



そんなことを姉と二人で考えている。
 
 


お父さん、長い間、本当におつかれさまでした。
 
 
 
 
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父の命の灯

昨夕、訪問先をでて携帯電話の着信をみたら、実家からだった。

急いで折り返し電話をした、母が出た。

『お父さん、危篤だって』

弱弱しい母の声。

『スケジュール調整して、すぐ帰るから!』

その日の残りの訪問は、18時からのみ。
先方に事情を説明し、了解を得た。

病院からも電話がったので、折り返しかけた。
父の状態の説明を受けた。
『血圧が下がっている。現在、上が50台です』とのこと。
昨日も訪問看護師さんから、血圧が測れず、触診で70台と報告を受けていたので、『マズい』とは思っていた。母と姉には黙っていたが。

管理者へ電話をし、父が危篤の旨を伝え、今日の予定はキャンセルしたこと、明日はモニタリング2件、短期目標期間満了の担当者会議1件あるが、モニタリングは日程変更は可能であること、担当者会議も短期目標期間満了のものでプラン変更ではなく、本人の状態確認の為のものであることを伝えた。
明日のモニタリングはキャンセル、担当者会議は中止して『照会』ということで、管理者と相談して決めて、そのまま家に帰った。

家に着くと、母は静かに、いつものようにしていた。

私が帰ってきたことがわかると、『お父さん、かたつむり帰ってきたよ』と、父に声をかけた。
私が、お父さんただいま、今日は早く帰ってこれたから、こっちに来た。明日も休めるから、泊まりこんでお父さんにへばりつくよ』と、父に声をかけた。

父は、笑っていた。
少なくとも、私にはそのように感じた。

取り急ぎ、明日の訪問のキャンセルの連絡を入れた。
皆さん、事情を話している方なので、快く承諾をしてくださった。
ありがたく思った。

末期がんの人は、耳は最期まで聴こえるという。

このようなときに、どのようにしていればいいのか私も良くわからないで、父にへばりついていたら、母がいつものように私の夕食を用意し始めた。

その時に思った。
『いつも通りに過ごしていたほうが、いつもの生活の音の中で過ごしていたほうが、父は安心しそうな気がする。』
そう思った。

姉にはメールで父の危篤を知らせていた。
しかし、姉は仕事中電話には出られない。
だから、いつも通りの帰宅になることはわかっていた。
私のようにタクシーを飛ばして帰ってこれるところで働いているわけではない。

母とふたりで父のそばで色々と話した。
あえて親戚は呼ばずに、3人だけで父のそばにいようと母と相談して決めた。

『お前たち(母・姉・私)3人だけで俺を送ってほしい』
それが、父の願いだった。

それに、父は自分が長くない事は自分から妹(私の叔母)に自分で携帯電話で連絡し、伝えてある。一度だけ、叔母夫婦、従姉夫婦、従兄も会ってくれたが、一度だけだ。
少なくとも叔母は、来ようと思えばいつでも来れるところに住んでる。それでも一度だけだった。そんな身内に今更来てもらって、泣いてもらっても、嬉しくない。たぶん父も同じ気持ちだろう。
だから、もう(父・母・姉・私の)家族4人ですごせばいいと、私は思った。

 父が、私のサックスのローンを気にしていたそうだ。
『ローンの残金を払ってやれ、そのほうが、かたつむりも生活が楽になるだろう』そう母に言っていたそうだ。
私が好きで買った楽器で、色々な理由があるとはいえ、私は望んで家を出たのだ。
だから、『受け取れない』と、母に言ったが、『お父さんは、そのことをとても心配してた、だから、お父さんの心の残りにならないように、お金を渡すから、全て返しなさい』母にそう言われた。
その言葉を聴いて、『父の想いは受けとめなければいけない』、そう思って、父の意志にありがたく従うことにした。


『いくつになっても、父は父であり、娘は娘なのだ』
そんなことを思った。


母に初めて、担当件数を減らしたことを話した。病床の父にも聞こえているはず。
今月中に、5件担当を減らして、3月から父の介護を少しでもできるようにするつもりだった・・・と。
『でも、間に合わなかった』と、心の中でつぶやいた。

母に伝わったのか、『お父さんはわかっているよ』そういってくれた。

先週、毎日何度も『かたつむりは(いつ来るのか)?』母に訊いていたそうだ。
母が、『今週は仕事が忙しいんだって』と、母に伝えると、父は『そうか、それじゃ仕方ないな』と答えていたそうだ。

一昨日の日曜日に、自分のメンタルと内科の受診に行かずに、実家に来た。
もう手元に降圧剤は残っていないけれど、それでも父を選んだ。
しかし、実家に行ったときの、状態の悪化した父の姿に愕然とした。
そして、その時は、父はすでに言葉を発することは出来なくなっていた。

『お父さん、ただいま、帰ってきたよ!』

私の言葉に、父は嬉しそうにうなずいてくれた。

その時は、意思表示は『うなずく』ことと、『表情』だけだった。
私は、その父の意志表示で、必死に父の気持ちを汲み取ろうとしていた。
先週の火曜日は、意識ははっきりしていれば、普通に会話は出来ていた。
しかし、4日間の間に、階段を転げ落ちるように悪化した。
先週の木曜日に、主治医から『あと2週間』と告げられた。そう姉から連絡を受けた。
だから、父と会話できる時間はあとわずか、とわかっていた。
先日の日曜日が父と『話せる』最期の機会と思い、降圧剤が切れているのに、病院へ行かずに父のもとへ言った。
まさか、父の声を聴くことができなくなるとは想像もしていなかった。

『もう、二度と父の声を聴くことができない』
その事実に愕然とした。

本当は、今日はケアマネさんのモニタリング日だった。
だから、日曜日のときに父に言った。
『あさってはケアマネさんが、お父さんの様子伺いに来る。その時は私が来て、対応するから。ついでにそのまま、泊まらせて。』

父はもうあと数日しかもたない、と、父の様子から解かっていた。
ケアマネという仕事しているから、どうしてもわかってしまう。
それが辛かった。
父は私の言葉に嬉しそうな表情をして、うなづいてくれた。
母が『泊まり代高いよね、お父さん』と言った。
その言葉にうなづく父。
『なんだよ、お父さん、お金摂るのかよ!』
そんな私の言葉に、少し笑って頷いていた。

父が一番私と話をしたかっであろうその時期に、仕事で実家に行くことができなかった。
仕事だから仕方がない、どうしても仕事が忙しい週だから、実家へ帰ることができなかった。
今月の仕事をはやくメドをつけて、父のそばにいようと必死だった。

でも、間に合わなかった。

父も、直接私に言いたかったことはあったはずだ。
『親に死に目に会えない』覚悟で私はケアマネの仕事に就いた。
ケアマネとして、親よりも優先しなければいけないことがあるはず。
ご利用者様の生活と命がかかっている仕事だ。
親が危篤でも行かなければないこともあるだろう。
今でも、そう思っている。

だから、先週は仕事を優先したことは、後悔していない。

父の再発がわかってから、私が出来うることは、全てやり切った。
年が明けてからの父の病状悪化が早すぎたが、父の在宅の支援体制はぎりぎり間に合った。
父が最期まで言葉にしなかった、本当の希望。
『最期まで家にいたい』
どうにか叶えることができた。

でも、もう一度だけ、父と普通の親子の会話をすることができなかったことが、父に申し訳なかったと思っているし、私自身ももう一度だけ父の言葉で親子の会話がしたかった。
そのことだけ心残りだ。
仕方がないこととはいえ、たぶん、私は一生後悔するだろう。

私にとって、決していい面だけの父ではなかった。
恨んだことも何度もあった。
それでも、我が家の大きな大黒柱だった。
そして、私には『この世でただひとりの父』なのだ。


その父は、今も生きようと必死に闘っている、病とではなく、自分自身と。


その父の生き様を最期まで見届けたいと思う。


今から父の様子を覗いてきます。
 

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父の前に現れた『天使』

父は今月に入り急激に悪化した。

 

父におかしな言動が目立ち始めた。何かが聞こえるのだ、父だけに。つまり幻聴である。
そして、父だけにみえるのだ。そう、幻覚や幻視も出始めたのだ。

また、話すことが現実と過去が一緒になったり、突然話が違う内容になり、話がおかしくなったりすることもでてきた。

そして、手を伸ばして、何かを取ろうとしていた。

今まで、出来ていた薬の管理を始め多くの事が、出来なくなってきた。

ベッド上で過ごすことが多くなり、一日の半分は寝ていることが多くなった。

 

先週の日曜日に実家へ行くと、父の様子が明らかにおかしかった。

常にイライラしつつ、でも強い不安感にも襲われ、一人でいることが出来なくなり常に誰かがそばにいないといけない状態だった。

一度も『弱さ』を家族に見せたことのなかった父の、この不安定な精神状態の理由はすぐにわかった。

 

命の期限を切られた人が必ず苦しむ、『死が迫っている恐怖』であり、それを受け入れられない『葛藤』。

 

何かの本で読んだことがある。

『死期が近づいている現実を受け入れる』前に、みんな必ず苦しむ葛藤。

 

まさに、それに父が苦しんでいるのだと、思った。

 

そのような状況でも、父は私達に、その苦しみをぶつけない。

八つ当たりをしたり、物を投げつけるようなことは、一切しなかった。

また、父の『強さ』を思い知らされた。

 

父が苦しんでいる理由がわかっても、どうすれば良いのか私には解らなかった。

どうにかして父の苦しみを少しでも取り除きたかった。

心は無理でも、せめて身体の苦痛だけでも。

 

息が苦しそうな父に、私は提案した。

『お父さん、辛そうだから、(訪問)看護師さんに来てもらおうよ』と。

父は『俺には解らない』と言った。

当然だ、今の父に判断が出来るわけがない。

でも、父の意思確認はどうしても必要だった。

父自身の事だけでなく、我が家の大事な事は全て父が決めて来た。

その父が、最期まで『父らしく』いるために、私は、最期まで父の意志を尊重すると決めていた。

常に『今まで通りに父に接する』と決めていた。

いずれ来るであろう、父が意識がなくなるその瞬間まで。

だから、父の支援のサービスに関しても、私は父に必ず事前確認や事前の了解を取ってから依頼をしていた、判断力が鈍くなっていても。

病状の進行で理解力も落ちてきている父に解る言葉で、何度も言葉を換えて、繰り返し父に説明を続けた、『苦しいのなら、看護師さんに来てもらおう』と。

『解らない』と、繰り返していた父が、私に訊いてきた。

 

『俺にとっての医療とは何だ?』と。

 

命の期限を切られている父にとって、自分が医療を受ける意味を見いだせないでいることは、すぐに解った。

だから、私は、父にこう答えた。

 

『お父さんにとっての医療は、(身体の)苦しさや痛みを取り除くためのものだよ』と。

 

父は、もう一度私に訊いてきた。

 

『お前から見て、俺はどう見えるんだ?』と。

 

私は即答した。

 

『はっきり言う。お父さんはとても苦しそうだ。身体の痛みもあるんでしょう?お父さんは私にはそういうことは言わないから、具体的には解らないけど、痛いのだろうとおもう。私は、せめて、お父さんの、この息の苦しさだけでも取り除きたいんだ。』

 

何も言わない父に、私は、訴え続けた。

 

『苦しいとか、痛いとか、辛いとか、どんな理由でもいいんだ、我慢しないで看護師さんに来てらっていいんだよ。そのために(訪問)看護師に来てもらえるようにお願いしたんだから。』と。

 

父は、苦しそうに言った。

『苦しいこと、痛いこと、辛いことが沢山ある。』と。
やっと、みせてくれた、父の本音のかけら。

 

『そんなに沢山あるのなら、なおさら来てもらおう。』

そういった私に、父は、怒るように言った。

 

『じゃあ、呼んでくれっ!!』

 

『それじゃあ、来てもらうよ!』

私は、父のその言葉を受けて、あえて父の目の前で、携帯電話で訪問看護師さんへ緊急の訪問を依頼した。

 

30分ほどで看護師さんは来て下さった。

母と私が立ち会った。

姉には報告したが、姉は『私が立ち会うと大ごとになるから、親父にとってよくない。だから私は、あえて行かずに部屋にいるよ』と、言った。
賢明な判断だと思った。

 

父は、看護師さんに苦しさや痛みを訴え続けた。

初めは、身体的な苦しみや痛みを訴えていたが、途中から話の内容が変っていった。

父の訴えが『心の苦しみや辛さ』にかわっていたのだ。

 

死期が迫っている父にとって、苦しいのは身体よりも、『こころ』だった。

 

父の言葉のひとつひとつを、しっかりと受け止めながら、父の言葉にうなずき、最低限の相づちと声掛けを続ける看護師さん。

父は1時間以上、自分の『苦しい想い』を看護師さんに、話し続けた。

やがて、父に変化が見られた。

父の表情が穏やかになり、笑顔も見られるようなった。

 

1時間以上にわたる父の話を聴く看護師さんの姿に、これが『傾聴』なのだと、私は、強い衝撃を受けた。

 

みな、『クライアント(=ご利用者様とご家族)の苦しい思いに耳を傾けて聴き、その思いを理解して、クライアントの気持ちに寄り添う』と、『傾聴』が大切だと簡単にいう。

しかし、私は、人間は相手の気持ちを全て理解することは不可能だと思っている。

その不可能である事を踏まえた上で、ご利用者様とご家族の気持ちを少しでも理解をする努力をすることが、福祉専門職として大切だと思っている。

だから、私は、ご利用者様とご家族の苦しい想いを理解しようと努力することを、『傾聴』という、漢字二文字で片付けられることが、とても嫌いだった。

 

長い時間、父の言葉をしっかり聴き、父の苦しい想いをしっかり受けとめようと、全身全霊で父と向き合う看護師さんの姿は、まさに必死に患者の想いを『傾聴』し、その苦しみに寄り添おうとしている姿だった。

その光景を、私はひたすら見つめていた。

 

表情が明るくなった父は、『写真を撮りたい』と、言い出した。

「看護師さんとお母さんと一緒に写真を撮りたい」といって、私に自分の携帯電話を渡そうとした。

私は、手ブレが酷いので、「お姉ちゃんに頼むから呼んでくる」といって、姉をよびにいった。

 

姉に『お父ちゃんが携帯で写真を撮って欲しんだって、私は手ブレが酷いから、姉ちゃん撮ってよ』と、いったら、当然姉は驚いた。

『なんだよ、突然、何が起きたんだよ』と。

私が姉に『看護師さんに話を色々と聴いてもらったら、気持ちが楽になったらしい』と、報告すると、『なるほど』と、姉も理解した。

 

姉と二人で父の部屋へ行くと、父は母に支えられて、トイレへ行くところだった。

ここ数日は、ベッドのそばのポータブルトイレに行くのがやっとだったのに、母に支えられながらもしっかりと歩いていた。

トイレから戻ってきても、『息が苦しい』と言わなかった。

看護師さんと話をしている途中から、『息が苦しい』とは言わなくなっていた。

 

看護師さんと母と一緒に写真を撮った父は、『今度は(家族)4人で(写真)を撮りたい』と言い出した。

看護師さんがiPadで家族の4人での写真を撮ってくれた。

それは、私達家族にとって初めての、家族4人で撮った写真でもあった。

 

父は、『もう一つしたいことがある』と、言い出した。

母に対してである。

父はいままで、母のことを、母の名前か、『お母さん』と呼んできた。

でも、一度でいいから呼んでみたかったそうだ、昔、近隣の人達が呼んでいた母の呼び名で。

その呼び名で母に向かって数回言った父。その表情はとても嬉しそうだった。

 

 

 

数日後、往診の時に立ち会ったケアマネさんが父に訊いたそうだ。

『これからどのように過ごしたいですか?』と。

父は、

『これからも家族が明るく笑顔で仲良く過ごして欲しい』

『女ばかりだったけど、楽しかったよ』

仕事中に、ケアマネさんから電話での報告の中で、父のこの言葉を教えてもらった。

父の希望は、すでに自身の事ではなく、自分がいなくなった後の私達家族の事だったのだ。

「父は、もう、自分がいなくなった後の私達家族の事を想っているのですね」

私は、泣きそうになるのを堪えながら、ケアマネさんに訊いた。

職場で受けた電話でなかったら、泣いていたかもしれない。

「そうだと思います」とケアマネさん。

 

父は、自分の死に対する恐怖を乗り越えたのだ・・・そう思った。

 

それが出来たのは、家族の力ではなく、訪問看護師さんが、まさに、苦しんでいる父の想いに必死に寄り添ってくれたからだと思った。

 

父は、訪問看護師さんが来るときに、『○○さん(父の話を聴いてくれた看護師さん)、くるかな?』と、何度も言う。

私は、『訪問看護師さんは指名制は出来ないんだからね。他の看護師さんの前で、○○看護師さんのことばかり言ったら、他の看護師さんに失礼だからね!』と、釘を刺してます。

 

父を苦しみのどん底から救ってくれた、○○看護師さん。

 

きっと、父には『天使』にみえたのかもしれない。




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父への『余命の告知』

父への余命の告知。

末期癌で余命宣告をうけた家族はどうしたら良いか、難しい問題だと思います。
 
母が主治医から『あと、2~3か月です』と言われた夜に、私は姉から電話で知らされました。

姉は、伝えるべきかどうか判断できず、私に訊いてきました、『どうしたらいいんだ?』と。

私は、姉に迷わずに言いました。


『伝えるべきだし、伝えなければいけない』と。
 
 
先日、ブログで書いたとおり、私は、『告知』については、前もって父に意思確認をしていました。
肺の白い影が、がんの再発がどうか調べる検査のを受けているときに。
つまり、余命の事がまだ現実味でない段階のときにです。
「お父さんは、もし癌だったら、どこまで知りたい」?
との私の問いに、父は、即答でいいました。
「全てを知りたい。余命宣告も含めて全てを知りたい、俺の人生だから、自分の事は自分で決めたい」と。

父は、実は59歳の時に胃がんにもなっています。
本当に初期だったので、手術も短時間で済みました。
そのときの主治医が出筆した本に、『本人への告知の重要性』が書いてありました。
本人が本当の病状を知らないと、医師も治療に支障が出る場合があること、つまり、本人が事実を知らないと、医師も曖昧な言葉で説明をしなければならず、医師にも余計な負担がかかるのです。
また、家族が本人に本当の事を隠していても、なんとなく本人は気がつくらしく、そこで本人と家族の間に溝が出来てしまうのです。
そのことは、残された大切な時間を家族と大切に過ごすことができなくなってしまうのです。

もちろん、『告知』に耐え切れない方もいます。
ですから、全ての人に告知をするべきということではないと私も思っています。

ただ、本人が事実を知っているの知らないのとでは、その後の本人と家族の過ごし方が大きくく変わってしまいます。

そして、私の父は、『自分の事は自分で決める』ひとです。
ケアマネをやっている娘の提案でも、自分が納得しなければ強く拒否します。
今も在宅酸素チューブを伸ばすかどうかで、すったもんだをやってます。
私のいうことを聴いてくれません。

その本を、父も私も読んでいましたので、父も『本人への告知』の重要性を解っていました。

また、父の性格上、家族が勝手に決めてしまうことは、絶対に許さないひとです。

こういった『父の性格や考え方』から、私は、父への余命の告知を即決しました。

母が主治医より余命宣告を受けた翌日に、私は朝一番に主治医の病院へ連絡を取りました。

折り返し主治医から電話を頂き、父の余命の告知について私の考えを伝えました。
父に意思確認はすでに私自身がしてあること、そして、父の性格や考え方など、上記の事もふくめて先生に伝えたうえで、先生に言いました。
『父に余命を伝えたい』と。
父も、やり残していることもあるはず。それをさせてやりたい。
父は、一家の大黒柱として、自分が意志決定をして、家を家族を支えて生きてきた。
だからこそ、父に残された時間を伝えて、最期まで父の意志を尊重したい・・と。
しかし、家族からこのことを伝えると父は、『なんでお前達(家族)が先に知っているんだ!!』と、疑心暗鬼になりかねないこと、家族の言い方を間違えると、今後の先生の父への診察等がやりづらくなってしまう可能性もあることを、先生に伝えた上で、先生にお願いしました。

『先生がこれからも父の診療をしやすい言葉でいいので、どうか、先生から父に余命を伝えてほしいのです。もしかしたら家族がするべきなのかもしれませんが、父の性格から、家族が言うよりも、先生からの聴いた方が受け入れられると思います。ですので、先生から父に伝えて頂けないでしょうか、どうかお願いします。』と、先生に父への余命の告知をお願いしました。

先生には、このことは、姉と私で話し合って決めたこと。そして、翌日の往診時は姉が立ち会うこと。また、万が一、父が動揺したら、姉が対応すること、姉だけでは無理な場合は、私は仕事が終わったら駆けつける(その日の夕方の訪問はどうしても変更ができないため)事になっている、と、姉と私で動揺した父の対応はする覚悟をしていることも伝えました。

先生は、『では、明日往診にいったら、いつもの診察の後に話しましょう』と引き受けて下さいました。

そして、翌日の往診の時に先生は父に伝えて下さいました。

『もしかしたら、春までもたないかもしれないよ』と。

その場に立ち会った姉の話では、父は全く動揺をみせず、先生に『これからもエンシュアをだしてほしい』と、すぐに父自身が先生に依頼したそうです。
この言葉は、父が『一日でも長く生きてやる!』と、決めた何よりの証しだと思います。

先生が帰った後に、姉が父に言ったそうです。
『お父さん、今の体調を一日でも長く保つためにも、看護師さんに来てもらおう。その為に、ケアマネージャーを頼もう』と。
父は即答で『そうする。』と、言ったそうです。
この父への説得の言葉も、私が姉に伝えておきました。
プラス思考になる言葉で、必要性を説明すれば、お父さんは了解するはずだと。
姉は、私の提案通りに父に話してくれました。

姉からの報告を受けて、私は、すでに打診して了解を得ていたケアマネージャーさんに、いつも仕事でお力添えをいただいている福祉用具の方を通して正式に依頼しました。

明日、暫定プランでのサービス担当者会議を行なうことになってます。

日に日に悪化し弱っていく父には、無駄に使う時間はもうありません。
すでに、トイレは夜間はポータブルトイレを使っています。

支援の体制を整えるのも時間との勝負です。

ケアマネさんも、2月の初めには、サービス担当者会議を開きたいとおっしゃってくださり動いていただいて、本当に明日の開催となりました。

父への身体介護をするようになるのも時間の問題でしょう。

でも、一番難しい、父への『余命の告知』を、どうにか乗り越えることが出来たので、少し安堵しています。

後は、頑張り続けている父を家族で支えていくだけです。

一日でも長く、自宅で過ごせるように。

今日は有給休暇で明日は土曜日の振り替え出勤にして、仕事を休みました。

父のサービス担当者会議や在宅酸素の業者とのやりとりがあり、また、父の事で私自身の病院受診が全く出来ていなかったので自分の受診に行って来ます。

私の体調は正直、この一月で更に悪化しています。
でも、時間のない父と過ごすために、寝込んでいる時間がありません。

私自身の身体と相談しながら、出来る限りのことをしたいと思います。




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『余命宣告』

今年初めてのブログ投稿です。

 

本年もどうか、宜しくお願いします。

 

 

父の状態が、急激に悪化しました。


 

ひと月半ほど実家へ行っていなかったのですが、取りに行きたいものがあり、今月の上旬の朝に実家へ行きました。

正直、両親の顔を見たくなかったのですが、必要な物があったので、行きました。

 

自分の部屋で、持ち帰るものを選定して、荷物をまとめました。

正直、二度と実家に来なくても良いように・・・と、まで考えての荷物まとめでした。

そのときに、部屋に顔を出したのは、母だけでした。

いつもなら、父もちょっとは覗きに来るはず・・・私が怒っているから顔を出したくないのだろう。

そのときは、そう思っていました。

帰り際に、母に話しかけられて、一応私は話を聴いていました。そのときに「お父さん具合が悪くて寝てるんだ。」と、それだけ言って、別の話を始めました。

反射的に、「お父さんが寝てるってどういうこと!そこで別の話に切り替えるなよ!ちゃんと言えよ!!」

と、私は母に怒鳴りつけていました。

母が「そんな大声出さないでよ」と、言ったので、「大事なことを話さないからだろっ!!何でそれを飛ばすんだ!きちんと話せよ!!」と、更に怒鳴りました。

母の話では、父が食事を半分も食べなくなっていること、毎日入っていた風呂も1日おきで上がると疲れて動けなくなること、このところ寝ていることが多いこと・・・と、母の話を聴いていて、『やばい』と、思いました。

そして、母が話しているときに父がトイレに起きてきました。そのときの父の顔は『真っ白』で『肌につやが全くない』状態でした。

 

『もう危険だ』と、そう思いました。

 

母が、『二人で頑張っていくしかない』と、言い出したので、私が『二人ってなに?お姉ちゃんどうしたんだよ、やってくれてないかよ?』と訊いたら、『やってくれてるよ』と母。

 

そのときは、私はまだ動く気にはなってませんでした。

『私も具合が悪いから、動けないよ。親不孝者と言われるだろうけどね。でも、あれだけやって、身体壊しても、お父さんもお母さんもなんとも思っていないんだからね。』

と、吐き捨てるように、実家を後にしました。

 

父の事で動き、身体を壊してしまった事に対して、両親からは何も言ってもらえない。

 

でも、どうしても、『父の顔』が頭から離れない。

 

それに、父の今の状態を考えたら、いつ急激に悪化してもおかしくない、命にかかわる。

 

それも、解っていました。

 

自分がどうすれば良いのか解らず、混乱して、アパートで泣き叫びました。

  

でも、『今、動かなければ、間に合わない!』そう思いました。

 

そして、午後になって、姉に電話しました。

 

11月に家族で話し合ったとき、姉は『お父さんの病院の付き添いくらいは私にも出来る』と言いました。でも、もう、その状態ではないのです。

 

姉に言いました。

「お父ちゃんのこと、お母さんから聴いた。かなり具合悪そうだね。あのさ、お姉ちゃん、お父ちゃんはもう、病院の付き添いだけで済むレベルではない。いつ急変してもおかしくないよ。はっきり言うけど、かなり『危ない』よ。お姉ちゃん、どこまで出来るんだよ。」と。

 

私の言葉をうけて、姉が話し始めた父の状態は、思った以上に悪い状態でした。

姉は、『お前に連絡しようかどうか、判断が出来なかった』とのこと。

 

2日後に、往診があるとのことで、それまでのつなぎで、できる限り栄養のあるもの、食べ物が無理なら薬局に高カロリーの飲み物が売っているからそれでもいいから、とにかく栄養をとること。スポーツドリンクで水分を少しでも多く摂らせること。これを姉に伝えました。

 

すぐに医師を呼んでもよかったのですが、父が自分で自分の事がまだ出来る状態だったので、姉に伝えたことが出来れば2日後でも持つだろうと思ったのです。

 

その上で、姉に言いました『何かあったら仕事の携帯電話に連絡してくれ』と。

 

そうしたら、姉に言われました。

『私には【何か】が、どういう状態か、解らないんだ』と。

 

そのときに、やっと気がつきました。

私は、仕事柄、状態悪化のポイントが解る。

でも、家族は、『【何かあったとき】と言うのがどういうことか』が解らないんだ・・・と。

 

だから、姉に説明をしました。

『いつもと違うと思ったとき、いつも出来ていることが出来なかったとき。そういうときは、状態が悪くなっているサインだよ。

今は、お父さんは、とりあえず、一人でトイレに行ける。これが出来なくなったら、本当に危険だからね。』

 

その後も、何度も姉と連絡を取りました。

姉と相談して、姉から『今、お前が表立って動くと、父が『もう自分はダメなんだ』と、思うんじゃないかな』とのことだったので、『じゃあ、私は影で根回しする。お姉ちゃんが出来ないことを私はするから』と役割を決めました。

姉に、往診の際に、先生に報告すべき事を説明し、クリニックにも私から電話で父の状態を先に報告しました。

姉は、私の、助言を受けて、その通りに対応しました。

 

 

その結果、往診を受けたその日のうちに在宅酸素となりました。

姉から、「在宅酸素の機械の設置の立ち会いが一人で出来るか解らない。」と、連絡が入ったので、仕事を早く終わらせて、実家に向かいました。

設置はすでに終わっており、姉でも解ったとのこと。私も機械とボンベを確認しました。

ついでに、父に『身体が楽だから』といって、介護用ベッドのレンタルを提案し、父から頼むと言われて、私が立ち会い、一緒によく仕事をしている福祉用具の方に依頼をして納品してもらいました。

父は介護用ベッドに寝て『すごい楽だ』と、言ってました。

 

介護保険の申請をしたと、姉から聴いたので、『ケアマネの依頼について、今度家族で相談しよう』と、言うことになっていました。

ただ、私が酷い風邪を引いてしまったので、父のところへ行けないため、先送りになってしまい、今度の日曜日にいくことになっていました。



 

在宅酸素を使用するようになり、父は食事もとれるようになりました。元々体力のある人なので、もうしばらく大丈夫かも・・・と、思っていました、本気で。



 

しかし、週末に姉から電話があり、肋骨あたりに痛みがあり、他の先生が来てエコーをとったら水があるとのこと。月曜日(←今日)に主治医へ電話して相談して欲しい。と言われたそうです。

 

今日、母がクリニックへ電話し、主治医の先生が来て下さったそうです。

姉は仕事で不在でした。両親だけでした。

看護師さんからのメモが姉宛に残っていたそうです。

やはり肺に水が溜まり、それで呼吸苦をおこしている。それと、胸膜に転移があるかもしれないとのことで、酸素量が1Lから2Lに上がりました。

 

そして、主治医が母を台所へ呼んで、父に聞こえないように言ったそうです。

『あと、23ヶ月です』と。

 

姉から、その報告を聞いたとき、『嘘だ!!』と、思いました。

ベッドの納品のときの父の様子、姉から毎日来る父の状態を教えてくれるメールからは、とても状態は落ち着いており、食欲も戻ってきていました。

数回父と電話で話しましたが、声も元気でした。

 

でも、同僚が担当した、ターミナルの人達も、皆、初めは元気でした。

 

余命宣告を受けるときは、こういうものなのだろう・・・そう思いました。

 

姉が『どうやって親父に伝えれば良い?いや、伝えた方が良いのか?』と、私に訊いてきました。

実は、一昨年の11月に『肺に影がある』と、言われた段階で、私は父に確認をとっていました。

「お父さん、もし、がんだったら、どこまで自分の病気のことを知りたい?」と。

父はいいました。

「全て知りたい。余命宣告を受けたならいつまで生きられるか、それも知りたい。俺の人生だから、全部最後まで自分で決めたい。」と。

だから、姉にこのことを伝え、『お父さんも、知ったらもちろん動転するだろう、でも、お父さんは知りたいと言っていたら、伝えた方が良い。残りの時間をどう過ごすか決めたいと思うから。伝えるのは、お父さんの性格から、家族よりも先生のほうが良いと思うから、明日、私からクリニックに相談してみる』と、話しました。

 

姉と今後のことを電話で引き続き話し合い、その上で、私は社長に電話をして、父の余命宣告のことの報告と、それに伴い今後の自分の仕事について相談に乗って欲しいと頼みました。

 

今後のプライベートの予定は全てキャンセルしました。

 

私は、結局、父を見捨てることは、どうしても出来ませんでした。

 

父が自分の残された時間を知った時点で、今度は私も全面にでて動くことになるでしょう。

 

ケアマネを第三者に頼むことにしたのは『正解』だったと思っています。

今の私のケアマネとしての力量では、父の急激な悪化に対応できないと思いましたし、家族とケアマネの両立は『ターミナルでは無理』だと思いました。

二つの役割は私には背負えない。

だったら、プラン作成等は地元のベテランケアマネにお願いして、自分は娘として父を支えようと思いました。

もう、依頼するケアマネは決まっており、内々で承諾は得ています。

後は、父の『頼む』の言葉を受けて、私が正式に依頼をするだけです。

 

昨年のうちに、できる『根まわし』は全て終わらせてあります。

結果的に、自分の身体を壊したけれど、でも、『あと23ヶ月』と言われても、『環境』は全て整えておいたので、そこは慌てずに済みました。

 

あとは、どうやって父に『残された時間』を伝えるかです。

 

その為に、明日と明後日で、仕事をしながら必死に動きます。

そして、今度こそ、父の命と向き合います。

 

娘として、後悔しないように。

父が最後まで、父らしく過ごせるようにするために。




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父の熱発、38.5度

先日の水曜日の朝、仕事に行こうとしたときに、携帯電話が鳴った。

着信は実家からだった。

嫌な予感がした。

電話に出てみたら父だった。

『かたつむり・・・お父さん、具合が悪いんだ・・・。』

その声は、弱々しくて辛そうだった。

話を訊くと、23日前から熱が出て、電話をしてきた時点で38.5度あった。

父は「(癌の方を診てもらっている)クリニック行こうと思ってるんだけど・・・」と言った。

私は父に、

「今日の午前中の訪問は、後日に変更ができるから、今からそっちに行くから、クリニックにいこう!」

そう伝えて、実家に向かいました。

目の前のバスに乗れば、10分ほどで実家にいける。

アパートを借りるときに、ここにして良かったと、そのときに改めて思いました。

 

38.5度の熱。

普通の人ならば、特に気にする発熱ではない。

しかし、父の肺は『爆弾』を抱えていると同じだ。

肺がん・間質性肺炎・職業病とたばこで、肺がボロボロだ。

父には肺炎は命取り。

元気に釣りに行っているとはいえ、今年にはいってから体力がそれなりに落ちている。

38.5度の発熱を楽観的に考えられる要素は何一つないのだ。

 

実家に着いて、すぐに父のバイタル測定をした。

SPO2は、いつもの値の安静時92%だったので安心した。

しかし、脈拍は112だった。たぶんこれは高熱の為だろうと思った。

クリニックの留守番電話に、事情を伝えて受診する旨を報告した。バイタル数値と、父の諸症状も留守電に残した。

 

クリニックにはいつものようにタクシーで行ったが、38.5度あるので父の足取りは危なかった。しかし、身体を支えようとしたら、父は嫌がった。

『この頑固じじい!!』と、腹の中で怒鳴った。

でも、2階にあるクリニックへ行くときは、階段で行きたがる父を怒鳴りつけて、問答無用でエレベーターに乗せた。

 

その日は、父の主治医の担当日ではなかったが、私が思いつきで留守電で状況報告をしていたため、主治医を連絡を取り、処方する薬については相談してくれていたので、ありがたかった。

 

先生が父に質問するが、父は面倒なのか、『変わりない』『大丈夫』を連発。

事実と違うので、私が横から何度も父とケンカしながら口を出し続けた。

胸部レントゲンと血液検査をした。

胸部レントゲンは、肺炎は起こしていないとのことで、安堵した。

血液検査は翌日の朝には結果が出ているとのことで、『明日の主治医の受診を受けて欲しい』とのことだった。

薬も処方してもらった。

 

しかし、困ったことがひとつあった。

父が水分をとらないのだ。

元々水分はとる方ではないが、これだけ熱が出ているので、水分を補給してもらえないと、熱が下がらない。

父に、スポーツドリンク系のものを飲んで欲しいと頼んだが、『甘すぎて嫌だ!』と、拒否。

「そんなこといったって、飲まないと熱が下がらないんだよっ!!先生にも言われただろうがっ!!」 

と、クリニックの待合室で言い合いになる。たまたま他に患者さんがいなかったので迷惑は最小限に抑えられたが・・。

しかたがないので、『比較的さっぱりしたスポーツドリンクを知っていたので、仕事が終わったらそれを買って実家へ行く』と、両親に言った。

残業せずに職場をでて、その日は実家に泊まった。

もちろん、買ってきたスポーツドリンクを強制的に父に押しつけた。

しかし、一晩でも500mlの半分の飲んでいなかった。

お茶の方がいいと言う父に、『お茶ばかり飲んでいたら、逆に身体の水分がおしっこで出てしまうから逆効果だ!』と繰り返し説明するが聴いてくれない。

 

父は、今まで風邪を引いて寝込んだことがなかった人間だけに、高熱が出たときの対応法がわかっていないのだ。

 

そして、自分の身体が、高熱でダメージを受ける可能性が高いこともわかっていない。

 

父は、風邪を甘く見ているのだ。

 

家族で父がいうことをきくのは、私だけなのに、その私の話もだめなのだ。

 

 

だから、私は、翌日の木曜日の主治医の先生の受診にもついていって、先生に言った。

「先生、父は水分をとってくれないんです。『水分をとらないと、解熱剤を飲んでも熱は下がらない』と、何度も言っているんです。それでも、だめなんです。それと、『飲むなら、身体に必要な成分が入っているスポーツドリンクをのんでくれ』といってるんですが、でも、父は『甘いから嫌だ』と言って飲んでくれないので困っているんです。」

先生は、困ったように笑って、

「お父さん、水分とらないと、熱は下がらないよ。スポーツドリンクは甘くても薬だと思って飲んでください。口のなかが甘くて嫌だったら、スポーツドリンクと水を交互に飲んでもいいから、とにかくスポーツドリンク系を飲んでください。」

と、父に釘を刺してくださった。

 

家に帰ってから、父は少しではあるが、先生の言うとおりに、スポーツドリンクを飲んでくれた。

 

結局私は、実家に2泊して父の様子をみていた。

父の症状が悪化していないことと、自分も体調がおかしくなってしまったので、限界だと思い、昨日はアパートに戻った。

 

今朝、実家に電話したら、朝の服薬前の時点で、熱は36.9度まで下がったとのこと。

咳や痰は続いているが、一番酷かったときよりは、だいぶ楽になったとのこと。

 

とりあえず、ひと安心しました。

 

そんなわけで、今週は父の対応でドタバタして、仕事が思いっきり遅れてしまったので、今日は一日アパートに籠もって、誘惑と闘いながら仕事をします。


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