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ご無沙汰しています。
体調が悪い中、無理矢理仕事をしながら遅れている仕事の追い上げをしています。しかし、体調が悪いため、仕事の進み具合が悪いです。
父亡き後の諸手続きが終わったら、いっきに体調不良が悪化しました。
『疲れはあとで、いっきに出るから気をつけて』と、ご利用者様とご家族に言われていましたが、その通りになりました。
肥満だと健康診断で言われていますが、しかし体重が7kgも落ちて、『顔がやつれた』『顔色が悪い』とご利用者様とご家族に心配をしてもらっている、情けないケアマネです。
先日、父の納骨日が決まりました、と、いうか、私の知らないうちに決まってました。
明日16日が納骨です。
母が独断で決めたのです。
姉にも相談なかったので、姉もかなり激怒したようで、母を『叱った』とメールで書いてました。
私は、間違い電話で私のところへ電話をしてきたので、不審に思い、折り返し電話をして、母に訊いたら
『ああ、決まったわよ。16日に。かたつむりは具合が悪いから(納骨に)行けないって言ってたから、お姉ちゃんと二人で行ってくるから』
と、あっけらかんと言ってました。
母には、父の葬儀が終わったあとに、何度も言ってました。
「私もお姉ちゃんも疲れ果てている。こんなこというのはお父さんに悪いけどさ。だから、取り急ぎの事が終わったら、お願いだから少し休ませてくれ。納骨だってウチは葬式をやってないんだから49日にこだわる必要ないんだ。とにかく少し休ませてくれ、お姉ちゃんも私も身が持たないよ。」
姉も同様のことを言っていました。
でも、母は49日の4月にこだわりました。
私は、だから、こう言うしかありませんでした。
「お母さんが『4月にどうしても納骨』したいなら、今の私の体調では長時間の車の移動に耐えられないから、私は行けない。だから、お姉ちゃんと二人で行ってくれ」と。
そして、母は本当に私抜きで4月に納骨することを、姉にさえ相談せずに決めました。
私の生息地は、葬儀を無宗教でしたり、49日や法事はあまりこだわらない家がかなり多い地域です。
ですから、父の葬儀も、父の遺言に従い、無宗教で通夜も告別式もせずに、家族3人と最低限の父の知人だけで送りました。
ですから、我が家も特に49日にこだわらなくてもいいのです。その前をしていないのですから。
でも、母の中には何らかのこだわりがあったのでしょう。
しかし、今までの父の事全て背負ってきた私には事前の話もなく、私抜きで納骨をすることを、姉にも相談せずに一人で勝手に決めました。
私には事後報告どころか、実家に来たときに伝えるつもりだったようです。
当然、母と電話でケンカになりました。
正直どこかで期待していたことを泣きながら母に訴えました。
『私の体調が戻るのを待ってくれると思ったよ!』と。
そうしたら母は
『具合が悪いから行けないから、お姉ちゃんと二人で行けっていったのは、アンタでしょう!!』
と逆ギレしました。
お母さんは、納骨をなんだと思ってるんだ?!そうおもったら、虚しくなりました。
『これ以上、お母さんと話しても意味がないから電話を切る!!』
そう言って、私は電話を切りました。
そのあと、ずっと泣き続けていました。
必死に父のキーパーソンをして、無理を重ねて、身体壊して、減給になり生活が崩れて、それでも父の闘病を支えるために全てを背負い、父亡き後に母の生活を安定させるために手続きに動き回った娘に対して、納骨は蚊帳の外なのかよ!
そう思ったら、とても哀しくなりました。
その夜から、体調が更に悪化しました。
固形物が食べられなくなり、食事もそのものも取れなくなりました。
当然、動けなくなり、この2週間は何度も仕事を休みました。
明日も実は休みを取りました、体調が悪すぎるから。
食事は、最近お粥がようやく食べられるようになりましたが、一日1食食べるのがやっとで、後は水分で栄養がありそうなものを飲むようにしています。
母には、今の私の感情をぶつけた手紙を送りました。
でも、電話がかかってきたのは、手紙が届いたであろう日の1回だけ。私は電話に出る気になりませんでした。
その後は、電話は全くありません。
母が何を考えているのか、私には解りませんし、解ろうとも思いません。
先程、姉にメールを入れました。
明日納骨に行けなくてごめんなさい。
お母さんに会いたくないから、お父さんにお線香をあげに行けずにごめんなさい。
納骨の件は全部お姉ちゃんに任せきりでごめんなさい。
宜しくお願いします。
姉から返ってきたメールは。
気にしなくていい。
まずは自分の身体を治すことを優先にしなさい。
姉のメールをみて、本音を送りました。
『でも、本当の本当にこれで最期になるから、やっぱりお父さんの納骨に立ち会いたかった』と。
それを姉にメールで送った後に、声をあげて泣きました。
解約手続きのために、私の手元にある父の携帯電話。
形見として引き取らせていただけるようにお願いするつもりでいます。
待ち受けをかえて、病状が悪化した頃の、でも、まだベッドから降りられるときに、釣り仲間の孫を抱いてとって、痩せ細る前の父の笑った写真にしました。
その父の姿を見ながら、励まされたり、泣いたりして、毎日を過ごしています。
明日、何時に父が自宅を最期にするのかも私は知りません。
それでも、明日は、壊れた身体で自宅で仕事をしながら、心の中で父に手を合わせて一日を過ごしたいと思います。
父が亡くなり、10日ほど経ちました。
父の希望で、通夜も告別式をしませんでしたので、父との最期の時間は比較的ゆっくりと過ごせたと思います。
父の遺言
『俺の葬儀に金をかけるな、棺桶の中に花などいらない、通夜も告別式もいらない、お前たち3人だけで送ってくれたらそれでいい』
その言葉に従って、私が葬儀業者との打ち合わせをして葬儀を取り仕切りました。
『火葬式プラン』で依頼し、オプションは母が希望すること以外は、全て『父の遺言ですので』と、即決で断りました。
(今日姉から、「あのオプションの切り捨てるような断り方は、葬儀業者に少し同情した」と言われました。でも、『父の遺言』ですから)
弔問に来てくださった方は、『最期まで自宅で過ごせて、自宅から出棺出来るなんて、幸せね』と、皆さんおっしゃってくださいました。
『釣りに行きたい』
『自分の脚で外を歩きたい』
父が望んだ事は、結果的には何ひとつ叶えてあげる事ができなかった。
けれど、せめて、最期まで自宅で過ごして、自宅から送りだしたいと、それだけは、絶対にするんだと、私は決めていました。
私が暮らす地域では、葬儀を自宅ではなく、セレモニーホール等の場所を借りて行なうことが多いので、自宅から送り出すことどころか、病院で亡くなると、そのままセレモニーホールの安置所へ移される方も多いのです。
でも私は『父を、自宅で看とり、自宅から送る』これだけは、絶対にするんだと、決めていました。
その想いは母も姉も同じでした。
ただ、父の身体を綺麗に保つために、父が眠る部屋は暖房がつけられない為、余りの寒さに長い時間父の部屋にいることは出来ませんでした。
出来る限り、父のそばで過ごすようにしていましたが、特に私は元々体調が悪かったので無理ができませんでした。
その点では、少し父に淋しい思いをさせてしまったかもしれません。
そんななかでも、母はその寒い部屋で出棺まで毎晩いつものように父の隣に布団を敷いて寝ていました。
出棺の前日に、私は父のそばで、生命保険会社や社会保険事務所へ電話しました。
父が自分の葬式代にとかけていた生命保険と、遺族年金の受け取りの手続きを早く始めるためです。
父が一番心配していたであろう、父亡き後の母の生活を早く安定させるために、あえて父の前で行動を始めました。
父に、自分の行動をみてもらうために。
出棺の前日の夜は、父が眠る部屋で、母・姉・私の3人でしゃぶしゃぶを食べました。
今にも、ベッドから父の声がしそうな雰囲気でした。
はたから見たら不謹慎な行動かもしれませんが、最期の夜を、いつものように過ごせるのも、いいな・・・そう思いました。
出棺前の、湯灌の儀も納棺の儀も、通夜や告別式がないので、時間に追われることなく、ゆっくりと出来ました。
父は、亡くなってから出棺まで3日間ありましたが、肌がきれいでした。
湯灌の儀は、「服は訪問看護師さんが『釣りに行くときの服』を着せてくださったので、そのままでいいので顔を整えるだけにしてほしい」と、依頼したのですが、髭剃りと保湿だけで充分でした。化粧をする必要がないほど、それほど綺麗な肌のままでした。
父が息を引き取ってから、何度泣いたかわかりません。
ベッドの上の、ドライアイスの重さから解放された父の身体は冷たく固かった。
その脚をさすり、ドライアイスのかけらをタオルで必死にふき取りながら、声をあげて泣きました。
もうこれで最期なんだと・・・。
いつか、親は自分より先に逝く。
そんなことはわかっていたつもりだった。
けれど、
その現実を、つきつけられて、哀しんでいる自分がいる。
そして、自分にとっての父がどれほど『大きな存在』だったのか、思い知らされた。
昨年、父と衝突を繰り返して、話し合いの末、家を出た。
その後も、私の気持ちをわかってくれないと、実家から、そして父からも、距離を置いた。
今年の初めに実家に来た時に母から聴いた体調を崩した父の様子と、視界に入った父の顔。
そこから、もう一度キーパーソンとして奔走しつづけた。
毎晩姉と連絡をとり、父の事で相談しあった。
会社と掛け合い、土曜日に出勤し代わりに平日に休ませてもらうことで、姉と休みが被らないようにして、両親を少しでも安心できるようにした。
父のがんの再発がわかってから、父に対して、今の自分ができる精一杯のことをしてきた。
だから、父のことでは後悔はない。
あの時のケンカも後悔していない。
なぜなら、あの時に、自分の気持ちをはっきり父にぶつけたからこそ、わだかまりを持つことなく、最期の大事な時間を父のもとで過ごすことができたから。
でも・・・。
やはり、父は私にとって、辛い時や苦しい時に必ず助けてくれた『唯一の頼れる存在』だった。
我が家の大きな大黒柱だったのだ。
その、大きな『よりどころ』を失ったことで、これからは、本当に、自分自身の足で、自分自身の力だけで、生きていかなければならないのだと、思い知らされた。
荼毘に付される前の最期の別れの時に、穏やかな表情の父に誓った。
『お母さんのことは、ちゃんとやるからね』
そう呟いたら、涙があふれた。
父の棺が、扉の奥に移動されて、重い扉が閉められた時に、私は立っていることができず、柱に身体を預けて声をあげて泣いた。
収納の時の父の骨は少なかった。
155センチと男性としては小柄だったし、高齢でもあるから、それが普通なのかもしれないが本当に少なくて、驚いた。
そして、骨が黒くなっている部分がいくつもあり、かなり崩れていた。
それは、父が、『がん』という病気と、正面から闘い続けた証拠。
私は、そう感じた。
自分が知りたいと望んていたこととはいえ、『余命の告知』を受けて苦しんでいたときも、私達家族にいらだちをぶつけることは絶対にしなかった父。
弱音を吐くことはあっても、私達に感情をぶつけたり、八つ当たりすることは絶対にしなかった父。
自分が苦しくて痛くて辛いのに、私の身体を心配していた父。
亡くなる4日前までポータブルトイレを使い続けた父。
父と話す最期の機会と思って、自分の病院受診をせずに父のもとへ行ったとき、父を呼ぶ私の顔を見て安堵したように、痛みをこらえながら微笑んでうなずいてくれた父。
しかし、その時には、父はもう声を出すことができなくなっていた。
それでも、『いつもの父』だった。
幻覚・幻聴・せん妄が酷くなっていく中でも、不穏になることがなかった父。
判断力が落ちていく中でも、父の思考が比較的はっきりしているときを狙って、姉と私は何かをするとき、何かを変更するときは、必ず父の意思を確認した。それが、『すでに私が決めたこと』であっても、必ず最終判断は父にゆだねた。
『自分の人生だから、最期まで自分で決めたい』
それも、父の希望だったから。
最期の時、下顎の呼吸に変わったことに気がついた私は、母と姉に、呼吸が変わったから、あと少しで呼吸が止まることを伝えた。
3人で父のそばにいて、3人で自然と父の腕をさすっていた。
私は、なんと声をかければいいかわからず、ただ、いつものように『お父さん』と、繰り返し呼び続けた。
父がこと切れる寸前に、父の口が動いたが、読み取ることができなかった。
もしかしたら、生理的な動きだったのかもしれないが、もしかしたら、何かを伝えたかったのかもしれない。
末期がんの人は、耳は最期まで聞こえていると聴いたことがあるから。
でも、私には、読み取ることは出来なかった。
そして、静かに、父は永遠の眠りについた。
最期の最期まで、『強い父』だった・・・本当にそう思う。
慶弔休暇が終わり、アパートへ戻った私は、『お父さん!』と、叫びながら泣いた。
母の前では叫べなかったので、ずっと堪えていた。
もう、父の返事がない事はわかっていた。
でも、『お父さん』と泣きながら、繰り返し呼び続けた。
今、実家でこのブログを書いています。
しばらくは、週末は実家で過ごすことにしました。
母の緊張が切れた時が心配なので。
両親の部屋に、白い壺におさまってしまった父がいます。
その横に、どこかの釣り場で撮った『へら鮒を手にして嬉しそうに笑っている父』の写真があります。
本当に楽しそうな笑顔です。
心底『釣りバカ』だったんだな・・・つくづく思いました。
緩和ケア病棟で看護師をしている悪友は、
『哀しいなら、哀しいままでいいんだよ。無理に元気になろうとする必要はない。『大切なひとを失った哀しみ』は、簡単には癒せない。立ち直るまでに何年もかかる人だっている。だから哀しいなら、哀しいままでいいんだよ。後は時間に任せればいい。』
そう言ってくれた。
父を彼岸に送ってようやく気がついたことがある。
『お父さん、私は、あなたの娘で、本当に幸せです』と。
元気な時に、伝えてあげられればよかった・・・とは、思う。
でも、本当に、いなくなって、ようやく気がついたことだった。
父に伝えることは出来なかったけれど、父の娘でよかったと思える私は、幸せだと・・・心から思っています。
お父さん・・・本当に、今までありがとう。
そして、本当にお疲れ様でした。
父は今月に入り急激に悪化した。
父におかしな言動が目立ち始めた。何かが聞こえるのだ、父だけに。つまり幻聴である。
そして、父だけにみえるのだ。そう、幻覚や幻視も出始めたのだ。
また、話すことが現実と過去が一緒になったり、突然話が違う内容になり、話がおかしくなったりすることもでてきた。
そして、手を伸ばして、何かを取ろうとしていた。
今まで、出来ていた薬の管理を始め多くの事が、出来なくなってきた。
ベッド上で過ごすことが多くなり、一日の半分は寝ていることが多くなった。
先週の日曜日に実家へ行くと、父の様子が明らかにおかしかった。
常にイライラしつつ、でも強い不安感にも襲われ、一人でいることが出来なくなり常に誰かがそばにいないといけない状態だった。
一度も『弱さ』を家族に見せたことのなかった父の、この不安定な精神状態の理由はすぐにわかった。
命の期限を切られた人が必ず苦しむ、『死が迫っている恐怖』であり、それを受け入れられない『葛藤』。
何かの本で読んだことがある。
『死期が近づいている現実を受け入れる』前に、みんな必ず苦しむ葛藤。
まさに、それに父が苦しんでいるのだと、思った。
そのような状況でも、父は私達に、その苦しみをぶつけない。
八つ当たりをしたり、物を投げつけるようなことは、一切しなかった。
また、父の『強さ』を思い知らされた。
父が苦しんでいる理由がわかっても、どうすれば良いのか私には解らなかった。
どうにかして父の苦しみを少しでも取り除きたかった。
心は無理でも、せめて身体の苦痛だけでも。
息が苦しそうな父に、私は提案した。
『お父さん、辛そうだから、(訪問)看護師さんに来てもらおうよ』と。
父は『俺には解らない』と言った。
当然だ、今の父に判断が出来るわけがない。
でも、父の意思確認はどうしても必要だった。
父自身の事だけでなく、我が家の大事な事は全て父が決めて来た。
その父が、最期まで『父らしく』いるために、私は、最期まで父の意志を尊重すると決めていた。
常に『今まで通りに父に接する』と決めていた。
いずれ来るであろう、父が意識がなくなるその瞬間まで。
だから、父の支援のサービスに関しても、私は父に必ず事前確認や事前の了解を取ってから依頼をしていた、判断力が鈍くなっていても。
病状の進行で理解力も落ちてきている父に解る言葉で、何度も言葉を換えて、繰り返し父に説明を続けた、『苦しいのなら、看護師さんに来てもらおう』と。
『解らない』と、繰り返していた父が、私に訊いてきた。
『俺にとっての医療とは何だ?』と。
命の期限を切られている父にとって、自分が医療を受ける意味を見いだせないでいることは、すぐに解った。
だから、私は、父にこう答えた。
『お父さんにとっての医療は、(身体の)苦しさや痛みを取り除くためのものだよ』と。
父は、もう一度私に訊いてきた。
『お前から見て、俺はどう見えるんだ?』と。
私は即答した。
『はっきり言う。お父さんはとても苦しそうだ。身体の痛みもあるんでしょう?お父さんは私にはそういうことは言わないから、具体的には解らないけど、痛いのだろうとおもう。私は、せめて、お父さんの、この息の苦しさだけでも取り除きたいんだ。』
何も言わない父に、私は、訴え続けた。
『苦しいとか、痛いとか、辛いとか、どんな理由でもいいんだ、我慢しないで看護師さんに来てらっていいんだよ。そのために(訪問)看護師に来てもらえるようにお願いしたんだから。』と。
父は、苦しそうに言った。
『苦しいこと、痛いこと、辛いことが沢山ある。』と。
やっと、みせてくれた、父の本音のかけら。
『そんなに沢山あるのなら、なおさら来てもらおう。』
そういった私に、父は、怒るように言った。
『じゃあ、呼んでくれっ!!』
『それじゃあ、来てもらうよ!』
私は、父のその言葉を受けて、あえて父の目の前で、携帯電話で訪問看護師さんへ緊急の訪問を依頼した。
30分ほどで看護師さんは来て下さった。
母と私が立ち会った。
姉には報告したが、姉は『私が立ち会うと大ごとになるから、親父にとってよくない。だから私は、あえて行かずに部屋にいるよ』と、言った。
賢明な判断だと思った。
父は、看護師さんに苦しさや痛みを訴え続けた。
初めは、身体的な苦しみや痛みを訴えていたが、途中から話の内容が変っていった。
父の訴えが『心の苦しみや辛さ』にかわっていたのだ。
死期が迫っている父にとって、苦しいのは身体よりも、『こころ』だった。
父の言葉のひとつひとつを、しっかりと受け止めながら、父の言葉にうなずき、最低限の相づちと声掛けを続ける看護師さん。
父は1時間以上、自分の『苦しい想い』を看護師さんに、話し続けた。
やがて、父に変化が見られた。
父の表情が穏やかになり、笑顔も見られるようなった。
1時間以上にわたる父の話を聴く看護師さんの姿に、これが『傾聴』なのだと、私は、強い衝撃を受けた。
みな、『クライアント(=ご利用者様とご家族)の苦しい思いに耳を傾けて聴き、その思いを理解して、クライアントの気持ちに寄り添う』と、『傾聴』が大切だと簡単にいう。
しかし、私は、人間は相手の気持ちを全て理解することは不可能だと思っている。
その不可能である事を踏まえた上で、ご利用者様とご家族の気持ちを少しでも理解をする努力をすることが、福祉専門職として大切だと思っている。
だから、私は、ご利用者様とご家族の苦しい想いを理解しようと努力することを、『傾聴』という、漢字二文字で片付けられることが、とても嫌いだった。
長い時間、父の言葉をしっかり聴き、父の苦しい想いをしっかり受けとめようと、全身全霊で父と向き合う看護師さんの姿は、まさに必死に患者の想いを『傾聴』し、その苦しみに寄り添おうとしている姿だった。
その光景を、私はひたすら見つめていた。
表情が明るくなった父は、『写真を撮りたい』と、言い出した。
「看護師さんとお母さんと一緒に写真を撮りたい」といって、私に自分の携帯電話を渡そうとした。
私は、手ブレが酷いので、「お姉ちゃんに頼むから呼んでくる」といって、姉をよびにいった。
姉に『お父ちゃんが携帯で写真を撮って欲しんだって、私は手ブレが酷いから、姉ちゃん撮ってよ』と、いったら、当然姉は驚いた。
『なんだよ、突然、何が起きたんだよ』と。
私が姉に『看護師さんに話を色々と聴いてもらったら、気持ちが楽になったらしい』と、報告すると、『なるほど』と、姉も理解した。
姉と二人で父の部屋へ行くと、父は母に支えられて、トイレへ行くところだった。
ここ数日は、ベッドのそばのポータブルトイレに行くのがやっとだったのに、母に支えられながらもしっかりと歩いていた。
トイレから戻ってきても、『息が苦しい』と言わなかった。
看護師さんと話をしている途中から、『息が苦しい』とは言わなくなっていた。
看護師さんと母と一緒に写真を撮った父は、『今度は(家族)4人で(写真)を撮りたい』と言い出した。
看護師さんがiPadで家族の4人での写真を撮ってくれた。
それは、私達家族にとって初めての、家族4人で撮った写真でもあった。
父は、『もう一つしたいことがある』と、言い出した。
母に対してである。
父はいままで、母のことを、母の名前か、『お母さん』と呼んできた。
でも、一度でいいから呼んでみたかったそうだ、昔、近隣の人達が呼んでいた母の呼び名で。
その呼び名で母に向かって数回言った父。その表情はとても嬉しそうだった。
数日後、往診の時に立ち会ったケアマネさんが父に訊いたそうだ。
『これからどのように過ごしたいですか?』と。
父は、
『これからも家族が明るく笑顔で仲良く過ごして欲しい』
『女ばかりだったけど、楽しかったよ』
仕事中に、ケアマネさんから電話での報告の中で、父のこの言葉を教えてもらった。
父の希望は、すでに自身の事ではなく、自分がいなくなった後の私達家族の事だったのだ。
「父は、もう、自分がいなくなった後の私達家族の事を想っているのですね」
私は、泣きそうになるのを堪えながら、ケアマネさんに訊いた。
職場で受けた電話でなかったら、泣いていたかもしれない。
「そうだと思います」とケアマネさん。
父は、自分の死に対する恐怖を乗り越えたのだ・・・そう思った。
それが出来たのは、家族の力ではなく、訪問看護師さんが、まさに、苦しんでいる父の想いに必死に寄り添ってくれたからだと思った。
父は、訪問看護師さんが来るときに、『○○さん(父の話を聴いてくれた看護師さん)、くるかな?』と、何度も言う。
私は、『訪問看護師さんは指名制は出来ないんだからね。他の看護師さんの前で、○○看護師さんのことばかり言ったら、他の看護師さんに失礼だからね!』と、釘を刺してます。
父を苦しみのどん底から救ってくれた、○○看護師さん。
きっと、父には『天使』にみえたのかもしれない。
今年初めてのブログ投稿です。
本年もどうか、宜しくお願いします。
父の状態が、急激に悪化しました。
ひと月半ほど実家へ行っていなかったのですが、取りに行きたいものがあり、今月の上旬の朝に実家へ行きました。
正直、両親の顔を見たくなかったのですが、必要な物があったので、行きました。
自分の部屋で、持ち帰るものを選定して、荷物をまとめました。
正直、二度と実家に来なくても良いように・・・と、まで考えての荷物まとめでした。
そのときに、部屋に顔を出したのは、母だけでした。
いつもなら、父もちょっとは覗きに来るはず・・・私が怒っているから顔を出したくないのだろう。
そのときは、そう思っていました。
帰り際に、母に話しかけられて、一応私は話を聴いていました。そのときに「お父さん具合が悪くて寝てるんだ。」と、それだけ言って、別の話を始めました。
反射的に、「お父さんが寝てるってどういうこと!そこで別の話に切り替えるなよ!ちゃんと言えよ!!」
と、私は母に怒鳴りつけていました。
母が「そんな大声出さないでよ」と、言ったので、「大事なことを話さないからだろっ!!何でそれを飛ばすんだ!きちんと話せよ!!」と、更に怒鳴りました。
母の話では、父が食事を半分も食べなくなっていること、毎日入っていた風呂も1日おきで上がると疲れて動けなくなること、このところ寝ていることが多いこと・・・と、母の話を聴いていて、『やばい』と、思いました。
そして、母が話しているときに父がトイレに起きてきました。そのときの父の顔は『真っ白』で『肌につやが全くない』状態でした。
『もう危険だ』と、そう思いました。
母が、『二人で頑張っていくしかない』と、言い出したので、私が『二人ってなに?お姉ちゃんどうしたんだよ、やってくれてないかよ?』と訊いたら、『やってくれてるよ』と母。
そのときは、私はまだ動く気にはなってませんでした。
『私も具合が悪いから、動けないよ。親不孝者と言われるだろうけどね。でも、あれだけやって、身体壊しても、お父さんもお母さんもなんとも思っていないんだからね。』
と、吐き捨てるように、実家を後にしました。
父の事で動き、身体を壊してしまった事に対して、両親からは何も言ってもらえない。
でも、どうしても、『父の顔』が頭から離れない。
それに、父の今の状態を考えたら、いつ急激に悪化してもおかしくない、命にかかわる。
それも、解っていました。
自分がどうすれば良いのか解らず、混乱して、アパートで泣き叫びました。
でも、『今、動かなければ、間に合わない!』そう思いました。
そして、午後になって、姉に電話しました。
11月に家族で話し合ったとき、姉は『お父さんの病院の付き添いくらいは私にも出来る』と言いました。でも、もう、その状態ではないのです。
姉に言いました。
「お父ちゃんのこと、お母さんから聴いた。かなり具合悪そうだね。あのさ、お姉ちゃん、お父ちゃんはもう、病院の付き添いだけで済むレベルではない。いつ急変してもおかしくないよ。はっきり言うけど、かなり『危ない』よ。お姉ちゃん、どこまで出来るんだよ。」と。
私の言葉をうけて、姉が話し始めた父の状態は、思った以上に悪い状態でした。
姉は、『お前に連絡しようかどうか、判断が出来なかった』とのこと。
2日後に、往診があるとのことで、それまでのつなぎで、できる限り栄養のあるもの、食べ物が無理なら薬局に高カロリーの飲み物が売っているからそれでもいいから、とにかく栄養をとること。スポーツドリンクで水分を少しでも多く摂らせること。これを姉に伝えました。
すぐに医師を呼んでもよかったのですが、父が自分で自分の事がまだ出来る状態だったので、姉に伝えたことが出来れば2日後でも持つだろうと思ったのです。
その上で、姉に言いました『何かあったら仕事の携帯電話に連絡してくれ』と。
そうしたら、姉に言われました。
『私には【何か】が、どういう状態か、解らないんだ』と。
そのときに、やっと気がつきました。
私は、仕事柄、状態悪化のポイントが解る。
でも、家族は、『【何かあったとき】と言うのがどういうことか』が解らないんだ・・・と。
だから、姉に説明をしました。
『いつもと違うと思ったとき、いつも出来ていることが出来なかったとき。そういうときは、状態が悪くなっているサインだよ。
今は、お父さんは、とりあえず、一人でトイレに行ける。これが出来なくなったら、本当に危険だからね。』
その後も、何度も姉と連絡を取りました。
姉と相談して、姉から『今、お前が表立って動くと、父が『もう自分はダメなんだ』と、思うんじゃないかな』とのことだったので、『じゃあ、私は影で根回しする。お姉ちゃんが出来ないことを私はするから』と役割を決めました。
姉に、往診の際に、先生に報告すべき事を説明し、クリニックにも私から電話で父の状態を先に報告しました。
姉は、私の、助言を受けて、その通りに対応しました。
その結果、往診を受けたその日のうちに在宅酸素となりました。
姉から、「在宅酸素の機械の設置の立ち会いが一人で出来るか解らない。」と、連絡が入ったので、仕事を早く終わらせて、実家に向かいました。
設置はすでに終わっており、姉でも解ったとのこと。私も機械とボンベを確認しました。
ついでに、父に『身体が楽だから』といって、介護用ベッドのレンタルを提案し、父から頼むと言われて、私が立ち会い、一緒によく仕事をしている福祉用具の方に依頼をして納品してもらいました。
父は介護用ベッドに寝て『すごい楽だ』と、言ってました。
介護保険の申請をしたと、姉から聴いたので、『ケアマネの依頼について、今度家族で相談しよう』と、言うことになっていました。
ただ、私が酷い風邪を引いてしまったので、父のところへ行けないため、先送りになってしまい、今度の日曜日にいくことになっていました。
在宅酸素を使用するようになり、父は食事もとれるようになりました。元々体力のある人なので、もうしばらく大丈夫かも・・・と、思っていました、本気で。
しかし、週末に姉から電話があり、肋骨あたりに痛みがあり、他の先生が来てエコーをとったら水があるとのこと。月曜日(←今日)に主治医へ電話して相談して欲しい。と言われたそうです。
今日、母がクリニックへ電話し、主治医の先生が来て下さったそうです。
姉は仕事で不在でした。両親だけでした。
看護師さんからのメモが姉宛に残っていたそうです。
やはり肺に水が溜まり、それで呼吸苦をおこしている。それと、胸膜に転移があるかもしれないとのことで、酸素量が1Lから2Lに上がりました。
そして、主治医が母を台所へ呼んで、父に聞こえないように言ったそうです。
『あと、2~3ヶ月です』と。
姉から、その報告を聞いたとき、『嘘だ!!』と、思いました。
ベッドの納品のときの父の様子、姉から毎日来る父の状態を教えてくれるメールからは、とても状態は落ち着いており、食欲も戻ってきていました。
数回父と電話で話しましたが、声も元気でした。
でも、同僚が担当した、ターミナルの人達も、皆、初めは元気でした。
余命宣告を受けるときは、こういうものなのだろう・・・そう思いました。
姉が『どうやって親父に伝えれば良い?いや、伝えた方が良いのか?』と、私に訊いてきました。
実は、一昨年の11月に『肺に影がある』と、言われた段階で、私は父に確認をとっていました。
「お父さん、もし、がんだったら、どこまで自分の病気のことを知りたい?」と。
父はいいました。
「全て知りたい。余命宣告を受けたならいつまで生きられるか、それも知りたい。俺の人生だから、全部最後まで自分で決めたい。」と。
だから、姉にこのことを伝え、『お父さんも、知ったらもちろん動転するだろう、でも、お父さんは知りたいと言っていたら、伝えた方が良い。残りの時間をどう過ごすか決めたいと思うから。伝えるのは、お父さんの性格から、家族よりも先生のほうが良いと思うから、明日、私からクリニックに相談してみる』と、話しました。
姉と今後のことを電話で引き続き話し合い、その上で、私は社長に電話をして、父の余命宣告のことの報告と、それに伴い今後の自分の仕事について相談に乗って欲しいと頼みました。
今後のプライベートの予定は全てキャンセルしました。
私は、結局、父を見捨てることは、どうしても出来ませんでした。
父が自分の残された時間を知った時点で、今度は私も全面にでて動くことになるでしょう。
ケアマネを第三者に頼むことにしたのは『正解』だったと思っています。
今の私のケアマネとしての力量では、父の急激な悪化に対応できないと思いましたし、家族とケアマネの両立は『ターミナルでは無理』だと思いました。
二つの役割は私には背負えない。
だったら、プラン作成等は地元のベテランケアマネにお願いして、自分は娘として父を支えようと思いました。
もう、依頼するケアマネは決まっており、内々で承諾は得ています。
後は、父の『頼む』の言葉を受けて、私が正式に依頼をするだけです。
昨年のうちに、できる『根まわし』は全て終わらせてあります。
結果的に、自分の身体を壊したけれど、でも、『あと2~3ヶ月』と言われても、『環境』は全て整えておいたので、そこは慌てずに済みました。
あとは、どうやって父に『残された時間』を伝えるかです。
その為に、明日と明後日で、仕事をしながら必死に動きます。
そして、今度こそ、父の命と向き合います。
娘として、後悔しないように。
父が最後まで、父らしく過ごせるようにするために。
先日の水曜日の朝、仕事に行こうとしたときに、携帯電話が鳴った。
着信は実家からだった。
嫌な予感がした。
電話に出てみたら父だった。
『かたつむり・・・お父さん、具合が悪いんだ・・・。』
その声は、弱々しくて辛そうだった。
話を訊くと、2~3日前から熱が出て、電話をしてきた時点で38.5度あった。
父は「(癌の方を診てもらっている)クリニック行こうと思ってるんだけど・・・」と言った。
私は父に、
「今日の午前中の訪問は、後日に変更ができるから、今からそっちに行くから、クリニックにいこう!」
そう伝えて、実家に向かいました。
目の前のバスに乗れば、10分ほどで実家にいける。
アパートを借りるときに、ここにして良かったと、そのときに改めて思いました。
38.5度の熱。
普通の人ならば、特に気にする発熱ではない。
しかし、父の肺は『爆弾』を抱えていると同じだ。
肺がん・間質性肺炎・職業病とたばこで、肺がボロボロだ。
父には肺炎は命取り。
元気に釣りに行っているとはいえ、今年にはいってから体力がそれなりに落ちている。
38.5度の発熱を楽観的に考えられる要素は何一つないのだ。
実家に着いて、すぐに父のバイタル測定をした。
SPO2は、いつもの値の安静時92%だったので安心した。
しかし、脈拍は112だった。たぶんこれは高熱の為だろうと思った。
クリニックの留守番電話に、事情を伝えて受診する旨を報告した。バイタル数値と、父の諸症状も留守電に残した。
クリニックにはいつものようにタクシーで行ったが、38.5度あるので父の足取りは危なかった。しかし、身体を支えようとしたら、父は嫌がった。
『この頑固じじい!!』と、腹の中で怒鳴った。
でも、2階にあるクリニックへ行くときは、階段で行きたがる父を怒鳴りつけて、問答無用でエレベーターに乗せた。
その日は、父の主治医の担当日ではなかったが、私が思いつきで留守電で状況報告をしていたため、主治医を連絡を取り、処方する薬については相談してくれていたので、ありがたかった。
先生が父に質問するが、父は面倒なのか、『変わりない』『大丈夫』を連発。
事実と違うので、私が横から何度も父とケンカしながら口を出し続けた。
胸部レントゲンと血液検査をした。
胸部レントゲンは、肺炎は起こしていないとのことで、安堵した。
血液検査は翌日の朝には結果が出ているとのことで、『明日の主治医の受診を受けて欲しい』とのことだった。
薬も処方してもらった。
しかし、困ったことがひとつあった。
父が水分をとらないのだ。
元々水分はとる方ではないが、これだけ熱が出ているので、水分を補給してもらえないと、熱が下がらない。
父に、スポーツドリンク系のものを飲んで欲しいと頼んだが、『甘すぎて嫌だ!』と、拒否。
「そんなこといったって、飲まないと熱が下がらないんだよっ!!先生にも言われただろうがっ!!」
と、クリニックの待合室で言い合いになる。たまたま他に患者さんがいなかったので迷惑は最小限に抑えられたが・・。
しかたがないので、『比較的さっぱりしたスポーツドリンクを知っていたので、仕事が終わったらそれを買って実家へ行く』と、両親に言った。
残業せずに職場をでて、その日は実家に泊まった。
もちろん、買ってきたスポーツドリンクを強制的に父に押しつけた。
しかし、一晩でも500mlの半分の飲んでいなかった。
お茶の方がいいと言う父に、『お茶ばかり飲んでいたら、逆に身体の水分がおしっこで出てしまうから逆効果だ!』と繰り返し説明するが聴いてくれない。
父は、今まで風邪を引いて寝込んだことがなかった人間だけに、高熱が出たときの対応法がわかっていないのだ。
そして、自分の身体が、高熱でダメージを受ける可能性が高いこともわかっていない。
父は、風邪を甘く見ているのだ。
家族で父がいうことをきくのは、私だけなのに、その私の話もだめなのだ。
だから、私は、翌日の木曜日の主治医の先生の受診にもついていって、先生に言った。
「先生、父は水分をとってくれないんです。『水分をとらないと、解熱剤を飲んでも熱は下がらない』と、何度も言っているんです。それでも、だめなんです。それと、『飲むなら、身体に必要な成分が入っているスポーツドリンクをのんでくれ』といってるんですが、でも、父は『甘いから嫌だ』と言って飲んでくれないので困っているんです。」
先生は、困ったように笑って、
「お父さん、水分とらないと、熱は下がらないよ。スポーツドリンクは甘くても薬だと思って飲んでください。口のなかが甘くて嫌だったら、スポーツドリンクと水を交互に飲んでもいいから、とにかくスポーツドリンク系を飲んでください。」
と、父に釘を刺してくださった。
家に帰ってから、父は少しではあるが、先生の言うとおりに、スポーツドリンクを飲んでくれた。
結局私は、実家に2泊して父の様子をみていた。
父の症状が悪化していないことと、自分も体調がおかしくなってしまったので、限界だと思い、昨日はアパートに戻った。
今朝、実家に電話したら、朝の服薬前の時点で、熱は36.9度まで下がったとのこと。
咳や痰は続いているが、一番酷かったときよりは、だいぶ楽になったとのこと。
とりあえず、ひと安心しました。
そんなわけで、今週は父の対応でドタバタして、仕事が思いっきり遅れてしまったので、今日は一日アパートに籠もって、誘惑と闘いながら仕事をします。