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ただ今、人生の仕切り直し中のケアマネ
プロフィール
HN:
かたつむり
性別:
女性
自己紹介:
心と身体を壊し、まだ人生の仕切り直し中のケアマネ。

保有資格:社会福祉士・介護福祉士・介護支援専門員。ついでに日商簿記2級・全商簿記1級
(Twitter@renrinoeda2)
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私が結婚しなかった理由~ケアマネまでの道のり5~

注意:この話は、個々の価値観もあると思います。
   抵抗感を持つ方もいるかもしれませんが、
   私がケアマネの仕事にたどり着くまでに、抱えた葛藤と理解してただければ幸いです。


今日は休みでしたが、今月中旬に社員が一人増える為(社長のお仲間)、今まで私が広々と使っていた棚を2段空けることなり、それに伴なって、棚の片づけと、もろもろを整理整頓するために、午後事務所に行ってました。

その時に、社長がいました。

社長が、私に子どもたちの話を始めました。

「早く、子どもたちが自立してくれるといいのに」

正直、なにをいってるんだと思いました。

「社長、一番下のお子さんは小学生になったばかりだし、一番上の子は、これから思春期で、一番難しい歳頃になるんですよ。まだまだお母さんが必要な年齢ですよ。」

そう私は答えました。

社長は三人の子どもの母親です。一番上が今春中学に入学し、一番下が同じく小学校に入学したそうです。2番目の子は小学4年生だと思います。

「子どもたちは、『家にはお金がないといいながら、お母さんは何だか楽しそうに仕事している』ように見えているようで・・・」

社長は世間話をするような口調で話を続けます。

「うちの子どもたちは、私がいなくなってしまうような気がしているらしい」


まあ、子どもたちに、そうみられて当然だろうと思いました。

だって、家にほとんどいないのだから。


2月に入社した社長の仲間から、社長が最近、事務所の近くにアパートを借りたと聴きました。
忙しくて家に帰る余裕がないのでしょう。

しかし、これは、母親としてしてはいけないことです。
社長は、アパートを借りていることを私には言いません。
私が、何度か社長に『カマ』をかけましたが、社長は言いません。
たぶん、私に言ったら、怒られることがわかっているんだと思います。

だから、はっきりと言いました。

「家にお母さんの姿がなければ、お子さんは当然そう思いになるのは当たり前ですよ」

出産すれば、生物学的には『母親』になれます。

しかし、真に母親となれるかは、その先、『子どもとともにどうやって生きていくか』そして『どのように子どもを育てていくか』にかかっていると、私は思います。

子どもを産んでいない私が、なぜ、偉そうにそんなことをいうのか・・・。
 
 
私は、社長に、私の子どもの頃の経験を話しました。


「社長、ご存知の通り、私の両親は共働きでした。私が物心ついたときには、母は内職をしていました。
私が幼稚園に入ると、結婚前に勤めていた、小さな町工場で働き始めました。
それでも、母の勤め先は、家に近くであり、母が若いころ(たぶん中学生の時)から働いていたところなので、学校の帰りは、母の職場にランドセルを置いて遊びに行きました。
だから、ほかの共働きの両親を持つ同級生たちよりは恵まれていたと思います。
小学生の時は『鍵』を持たずに済んだので。
母が働かないと、私の家族は生きていけないことは、私も子どもなり理解していました。
だから、そのことに不満をもったことはありません。
でも、同級生の家に行くと、お母さんがいて、お菓子とかを出してくれるのをみていると、やっぱり淋しかったです。
学校の帰りは、母の職場へ向かう為、登下校で決められた道を使わないので、同級生にいじめられたこともありました。『お母さんが働いてる工場へ行くんだから。仕方ないでしょう!』と反論しましたけど、何度もいじめられました。母には言いませんでしたけどね。」

社長は、私の話をどこまで聴いているかはわかりません。
都合の悪いことは、聞き流す癖があることは、とっくに知ってます。

それでも、私は、話を続けました。

「社長、他の人は知りませんが、私には『仕事』と『子育て』の両立は出来ないと思ったから、結婚をしなかったんです。」


社長は『女は結婚して子どもを産んで一人前』という価値観をどこかに持っています。


だから、一人の女としての私の生き方をどう思っているか、正直わかりません。


「生きていくために働かなけれならないのなら、母親も働くしかありません。
しかし、私は、自分が経験した『さびしい思い』を自分の子どもにさせたくなかった。
30歳を過ぎて、自分が就きたかった介護業界の仕事に入り、そのうえで子どもを育てるとなると、夜勤もあるので子供に淋しい思いをさせます。」

このことは、本当に何度も悩み考えました。

「でも、自分の夢を諦めて、結婚して母親になって子どもを育ると選択した時に、自分の子どもたちに『お母さんは、あなた(自分の子ども)にために、自分の夢を諦めたのよ』と、『絶対に自分が死ぬまで言わない』と、確信を持つことができなかった。何かの拍子にくちばしってしまうかも、と思ったら、その選択もできなかったんです。
生活の為に母親が働いているということであれば、子どもも理解してくれます。
でも、自分の『夢』の為に、私は、子どもを犠牲にしたくなかったんです。」


介護業界で働くことと、そのために大学に行くことを決心をする前に、このことを何度も繰り返し考え続け悩み続けました。


『二兎追う者は、一兎をも得ず』

私だって、人並みに結婚して、平凡でもいいから母親になりたかった。

だって、『平凡は当たり前』ではないから。


でも・・・


両方望んでは、両方とも失う・・・その時の私は、それがわかっていました。



「だから、私は『結婚』をしなかったのです」


私は、社長に言いました。


私の話を、社長はどう受け止めたかはわかりません。


それでも、そのまま私は、社長に厳しいこといいました。


社長の為、お子さん方の為。


「子どもは、小さいころは、いい子にして、とにかく我慢します」

幼い子供が、親の言うことに反論ができるわけがない。

「でも、成長するにつれて、我慢していたことが爆発します。」

我慢を続けた分だけ、その反動は間違いなく大きい。

そのことを、私は知っている。


「そうなってからでは、遅いんですよ」


私の言葉を、社長がどう受け止めたかはわからない。



たとえ母親になっていなくても、子ども時代は私にもあった。
 

経済的に高校も行けるかどうかという、生活環境の中で私は育ったので、我慢の連続だった。

私は公立の中堅の普通科の高校に行ける学力は一応あった。
でも実際には4~5ランク下げた公立商業高校を受験した。
私立の滑り止めの受験などできなかった。私立の高校に進学するお金がないから。
だから、試験会場に行けば、必ず絶対に受かる公立高校を受験するしかなかった。

小学校低学年の頃、友達がみんな当たり前に持っているおもちゃさえも、両親に買ってもらえなかった。
それを見かねた祖父が、私に買ってくれたものがあった。
昭和52年頃で、2500円ほどのおもちゃだった。

小学2年生の時に、父が子供用の自転車を買ってくれた。『月賦』で・・・。
そのとき私は素直に喜んだが、今考えるとそれが家の家計にどれだけ響いていたのだろう、両親が色々と切り詰めてくれたのだと思う。

思春期に、たまには両親に反抗もしたことはあったが、それでも、生活が厳しいことは、常に頭にあった。

もしかしたら、『あの頃』の我が家は、生活保護が受けられたのでは・・・と、今になって思う時がある。
しかし、母が自身が子どもの頃に生活保護を受けて、辛い経験をたくさんしたらしく、『アンタたちに辛い思いはさせたくないと思って、絶対に生活保護は受けたくないと思って、アンタたちがいたけれど、私は働いたんだ』と、大人になってから、母に言われたころがある。

姉と私を思っての、母なりの『母としての愛情と意地』だったのだろう。
 

私は、家の事情が分かっていたから、『爆発』はなかった。


でも、社長のお子さん方は違う。

社長は自分の『夢』のために働いてるのだ、家の家計の為の仕事ではない。
 
お子さん方は成長してある程度のことがわかるようになった『そのとき』に、社長は、どう説明するのか・・・。
 
いや、子どもたちは、母親は何もしてくれなかったと言うかもしれない。


幾ら、盛大に誕生日のお祝いをしても、
家族サービスで、どこかへ外出しても、
本当に子どもが求めているのは『それ』ではない。

子どもは『ただいま』と、家に帰ってきたときに、『お帰り』とむかえてくれる『お母さん』がほしいのだ。

だれもいない暗い家に帰ってくることは、子どもにとって、とても寂しいものなのです。
 
母親がそうしなければらない理由があれば、子どもなりに我慢ができる。

『お母さんは、自分たちの為に働いてくれているのだ』と、そう思える理由があれば。

 
でも、それを我慢しければいけない、まっとうな理由はなければ、子どもの心に傷が残る。

あるいは、それを充分に補って余りある『愛情』を母親から受けていると、子どもが感じることができなければ、同じく、子どもの心に傷が残ります。

親は「これだけやってあげた」と言っても、子どもがそう感じなければ、やっていないと同じなのです。


それがわかっていたから、『夢』を捨てられなかった私は、『結婚』をしなかったのです。
『母親』としての責任を果たせないことがわかっていたから。


それをあきらめたから、私は、今の仕事にたどり着けたのです。


何かを得るためには、何かを諦めなけらばいけない・・・。


もしかしたら、そのことは、子どもの時に自然に学んだことだったのかもしれません。




拍手やコメントをくださったかた、
ありがとうございました。
コメントのお礼のお返事は 後日書かせていただきます。
ご了承くださいますようお願いいたします。
(本当に、本当に、ずっと書けずにごめんなさいっ)


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二兎追う者は一兎をも得ず(ケアマネへの道のり④)

ご無沙汰してます。

相変わらず、書類の山に埋もれております。
先週は、鎮痛剤を飲んでも頭痛がとれず
とてもつらかったです。
その為、昨日はマッサージを2時間受けてきました。
少しは楽になったような気がします。
身体が疲れすぎたので、
最近は徹夜をすることができません。
睡魔に負けて寝てしまいます。
しかも、目覚まし時計をかけても、起きられないのです。
時計が鳴って止めるのですが、気がついたらまた寝てるのです。
あまりその辺の記憶がありません。
相当疲れてますね~。


さて、みなさん、
もし、『やりたい仕事』と『結婚』と
どちらか一つしか選べなかったらどうしますか?
ブロクを読んでくださっているかたのなかには、
『やりたい仕事』と『結婚』も両方を手にしている方も
多いかと思います。
何を言っているんだ??と、思っている人も多いかと思います。


でも、私は、どちらかしか選べないという状態でした。


以前に書いた通り、親の反対と家の経済的事情で
私は高校を卒業後、主に経理事務の仕事をしてました。
自分の与えられた環境で自分なりに
精一杯やっていこうと思っていました。


しかし、リストラにあいました。


親の敷いたレールに乗って、その結果うまくいかなかった。

この悔しさをどこに持っていったらいいのかわかりませんでした。

そして、これからどうしたらいのか考えました。

そして、考えた結論は

『親の敷いたレールに乗ってうまくいかなかった。
 だったら、自分のやりたことをやろう。
 やらないで後悔するより、やって失敗して納得したほうがいい』

でした。


そして、ヘルパー2級の講習を受けました。

しかし、その知識だけで、介護業界に入るのには、
とても不安がありました。

『しっかりと勉強したい』と思いました。

そして、大学の通信教育課程で学ぶことを考えました。

そのとき、私は29歳でした。
当時の結婚適齢期でした。

私が大学に入り勉強するということは、
働きながら、大学の勉強をしなければなりません。
それも、フルタイムで働かないと、
家に入れる生活費と学費が作れないのです。
さらに、プライベートをすべて大学の勉強に充てなければ
とても卒業はできないと思いました。


つまり、恋愛をしている時間は持てないのです。


当時、特定の男性はいませんでしたが、
私は、自分の人生で最大の選択を
しなければなりませんでした。


『大学・仕事』も『結婚』も両方を求めたら
両方ともうまくいかないと思いました。


どちらかを選ばなけれはならない。
自分はそういう境遇に生まれたのだと
自身を納得させるしかありませんでした。


そして『大学・仕事』を選びました。

それまで貯めていた貯金だけは足りなかったので、
1年さらに貯金をしてから
大学の通信教育課程に入りました。


実際、仕事以外の時間のほとんどは、勉強に当てました。

初心者の介護職よりも経験者の経理事務のほうが
給料もよいだろうと思い、
実習で仕事を辞めるまでは、経理事務の仕事をしてました。
経理事務は、忙しい時期も1年のなかに何度かあるので、
1年の半分は仕事に追われて、勉強もできませんでした。

大学で出会った人のなかには、
仕事と勉強の両立ができず、
やめていく人も少なくありませんでした。
 
 
 2年留年したものの、
無事に大学を卒業することができました。
社会福祉士の受験資格も得ることができました。


初めからあきらめていましたが、
やはり、恋愛や結婚を考えている余裕はありませんでした。


何かを得るためには
何かをあきらめる。


その結果、ケアマネの仕事に就くことできたのです。


結婚して、子どもを授かり、
女としての幸せも欲しいと思ったことが
なかったといえば、嘘になります。

それでも、あのとき、選択をしなければ
どちらも手に入らなかったと思っています。

あの時の選択は、後悔していません。


『二兎追う者は一兎をも得ず』が
私の人生のなかでの指針でもあります。


こんな私は、おかしいですか?


では、仕事します。



手やコメントをくださったかた
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私の原点(ケアマネまでの道のり③)

昨日、毎週身体のメンテナンスに行くお店で
熱を測ったら、なんと、38度ありました。
自覚症状は、全くなしで、
発熱以外は何の症状もないのです。

今朝は、37.4度まで下がっていましたが、
午前中の担当者会議が終わったら
早退してきました。
何せ、明日から1週間は、
とてつもなく忙しくなります。
ほぼ同時に3件新規を受けたので、いつもより忙しくなります。
現在の担当件数は28件。
担当件数30件まであと二人です。
でも、近日中に入所などで2人が終了のなる予定なので、
あと4件は持ちたいです。
やっぱり5万円の減給は痛いです(><)。


昨日は、片道2時間かけて母と墓参りに行ってきました。
母方のお墓参りです。
以前は、家の近くのお寺にお墓があったのですが、
叔父が亡くなった時に、後を継ぐ者がいないため、
母と叔母が相談して、叔母の家の近くの(といっても車で30分)
霊園の共同納骨堂に移しました。


先日も書きましたが、母方の祖父母と叔父・叔母は、
家の近くに住んでいたため、
姉も私もかわいがってもらいました。
そのことに気がついたのは、
祖父のお通夜の時でした。大叔母が
「かたつむりちゃんは、おじいちゃんとおばあちゃんがいれば
 お父さんとお母さんいらないくらいだったよね」
と、言われ、その時に、
祖父母に大切にしてもらっていたことに気がつきました。
その時は私は16歳。
思春期の真っただ中で、色々なことがあって祖父と距離を置いていました。
気づいたときは、すでに遅く、
祖母も私は13歳の時に亡くなっているので、
私は、取り返しのつかないことをしてしまったと思いました。
何も恩返しができなかったと、今でも後悔しています。


その祖父母を介護していたのが、
叔父と叔母(母の弟と妹)です。
ふたりにもかわいがってもらいました。
子どもの頃は忙しい両親に代わって、
私を色々なところへ連れて行ってくれました。
そして、本気で怒ってくれます。
だから、私は二人には頭が上がりません。

昭和50年中ごろから60年の初めくらいまで
在宅介護に関しては何の制度のない時代に、
祖父母の介護ははじまりました。

ふたりの介護は、まず、祖母の癌から始まりました。
まだ小学生だった私は事情を知らず、
両親から「リウマチ」ときかされていました。
外科治療はできない状態だったようで、
入院中には、当時主流の『コバルト照射』をしていました。
当時の私は、『コバルト照射』=『癌の治療』と
子どもながらにわかっていたのですが、
祖母の病名に何の疑いも持っていませんでした。
あとからきいた話ですが、
姉も本当の病名は聴かされていませんでしたが、
たまたま、祖母の診断書類をみてしまって、
とてもショックを受けてたそうです。
姉は当時高校生。
どうしたらいいかわからなくて、
祖母の見舞いに行くことができなかったと言っていました。


やがて、祖母は退院して、自宅で過ごすようになりました。
しかし、横になって過ごすことが多く、
思うように歩くこともできなくなり
介助が必要になった為、叔母が仕事を辞めて
祖母の介護をするようになりました。
祖父ももちろん介護していましたが、
祖父一人では大変だったのだろうと思います。
30歳前後の年齢で叔父が一人で
一家4人の生計を支えることになりました。

そんな矢先に、祖父が交通事故にあいました。
頭部を打ち、脳挫傷となり、手術を受けました。
叔父と叔母は、同時に二人を介護することになりました。
母も祖父の病院に泊まって介護をしてました。
当時の病院では、24時間完全看護のところは少なく、
家族か家政婦さんが付き添っている時代でした。
そのため、叔父と叔母と母で協力して
ふたりを介護していました。
そのかいもあって、少し時間はかかりましたが、
祖父はリハビリをして、ひとりで歩けるまでに回復しました。

祖父が回復するにしたがって、
祖母の病状は悪化していきます。
右か左か忘れましたが、
半身が異常に浮腫んでしまっていたことを記憶しています。
それでも、祖母はいつも私に笑ってくれていました。
(ただ、祖母も怒るとかなり恐い人でした)
祖母は脚が痛いと言っていた時に、
私は少しでも良くなってほしいと、足をさすったことがありました。
祖母は「ありがとう、お前がさすってくれたから痛くなくなったよ」と、
言ってくれました。
今から思えば、本当はまだ痛かったはずです。
私をがっかりさせないように言ってくれたのだろうと思います。
また、悪化する前に、祖母と母と私で銭湯に行った帰りに
母に「お母さんは先に帰るから、おばあちゃんと二人で
   ゆっくり歩いて帰ってきなさい」
といわれ、普通だったら10分もかからない距離を
祖母と二人でゆっくり歩いて帰ってきました。
その時に祖母は私に「一緒に歩いてくれてありがとう」
と言ってくれました。

昭和50年代に、がんの進行も進み、
歩くこともままならない状態の祖母が
自宅でぎりぎりまで過ごせたのは、
往診に来てくれた医師がいたからです。
その先生夫妻(奥様も医師)は私も診てもらっていましたが、
人情味のあるかたで、
しかも、眼科・耳鼻科・歯科以外は、
ほとんどに診療科目をみれたし、
診療所にでしたが手術の腕もある先生でしたので、
その先生の存在があったことも大きかったと思います。
私は、その先生夫妻以上に信用できる先生に
いまだに会ったことがありません。

そんな祖母も、自宅で看るのが限界になり、
近所の病院へ入院しました。
祖母は最後まで意識はしっかりしていたようです。
最後は、心不全を起こし、祖父に見守られて
永遠の眠りにつきました。


本当のことを知らされていなかった私には、
祖母の死は突然過ぎたので、
とてもショックを受けて、泣き続けました。
中学1年の冬でした。


祖母亡き後、祖父は生きる気力を無くしてしまいました。
体調を崩し、独りで歩くこともできなくなりました。
さらには認知症も発症しました。
記憶があいまいになり、
叔父が近所に一戸建てを購入して
祖父と叔父と叔母が移ったのですが、
新しい家を自分の家と認識できず、
前に住んでいたアパート(私の家の隣)に
不自由な脚で帰ってくることが何度もありました。
徘徊することもあり、通りがかった近所の人が
家まで連れてきてくれたこともありました。
食事も自分で食べることができなくなりました。
そんな祖父の口癖は「ばあさんのところへ早く逝きたい」でした。

当時は、認知症の人への対応など浸透してませんでしたから、
叔母は祖父によく怒っていました。
私も、強い口調で祖父に言った覚えがあります。
今なら、もっと違うことを言えたのにと思うことがあります。

そんななか、叔父は、祖父が家の中を
少しでも自由に歩けるようにと
自分で手すりを取り付けていました。
また、後からきいた話ですが、叔父は
夜勤明けでも(24時間稼働の工場に勤務していました)
祖父を近くの公園に連れれ行って、
煙草を吸わせていたそうです。
祖父は趣味が無く、酒とたばこが大好きだったのですが、
医者から両方とも止められてしまったので、
祖父には何もなかったのだと思います。
そんな祖父に叔父は
散歩の時にせめて1本だけでもと
思ったのかもしれません。
近所のかたが母に、
「あなたの弟さんはすごいわね」
と、言っていたそうです。
お風呂も叔父が介助して入れていたそうです。
 
 
叔母も大変だったと思いますが、
叔父は仕事の合間に祖父の介護をしていたにもかかわらず、
 いつも穏やかでした。(怒らせると恐いですが)
実は、祖母は3回結婚しています。
最初・2度目の夫とは死別です。
ですから、母と叔父と叔母は父親が違います。
母も叔父も、祖父には『何もしてもらっていない』といっていました。
それでも叔父が祖父を介護したのは
「おふくろ(祖母)を最後まで看てくれたから、おれは親父も看たんだ」
と、よく言っていました。


祖父は、自宅の階段を最後の2~3段を踏み外し、頭部を打ち、
数時間後に意識を失いました。
交通事故で脳挫傷をしたところを再び損傷したそうです。
手術をしましたが、意識が戻ることなく、
私の両親・叔父・叔母に見守られて、
祖母のもとへ旅立ちました。
私がもうすぐ高校2年生になる春でした。


祖父母が亡くなると、ほどなくして、
叔父は遠方へ転勤になりました。
叔父と叔母は結婚適齢期に両親の介護をしていました。
叔母は、35歳の時に叔父の親友と結婚して、
ジュビロ磐田のサポーターをしている息子が一人います。
よく旦那さんの悪口を聴かされますが、
それなりに幸せな生活を送っているように見受けられます。

しかし、叔父は、結婚の機会に
巡り合うことはなかったようで独身のままでした。
定年退職後は、購入した家に私の一家が留守番していたこともあり、
何よりも私の母を大切にしてくれていたので、
私たち一家をそのまま住まわせてくれて、
自分は隣の県にワンルームマンションを購入して
マイペースに生活していました。
叔父も叔母も長姉の母が幼いころは面倒をみていたそうなので、
ふたりとも母には一目置いています。
 
妻子のいない叔父の老後については
私は出来るだけのことはしようと考えていました。
祖父母を看ていた叔父の姿をみていたことや、
私が大人のなっても、幼い時と同じように
相談に乗ってもらったり
本気で怒ってくれたりして、
大切にしてもらっていたので、
そうすることが当然のことと思っていました。
私にとって叔父は、歳の離れた兄貴のような存在でした。
そして、頼りになる大きな大きな存在でした。


しかし、想像をしていなかった展開になりました。


叔父が電話で、食べても吐いてしまうと言い出したのです。
母も私も電話で何度も「病院へ行ってくれ」と言ったのですが、
大の病院嫌いの叔父は行こうとしませんでした。
当時、私の父が肺がんになり、
手術が受けられるかどうか通院で何度も検査をしてた時でした。
その時に、叔父は母に
「兄さんの治療代に使って、足りなくなったらいつでも言って」と
30万円のお金を渡したそうです。
私の父は、手術を受けることができました。
しかし、叔父の体調は悪化し、
管理人さんに付き添われて近所の診療所へ行ったときは、
そこでは看れないと、大きな病院を紹介され、
翌日、叔母と親友(叔母の夫ではない人)とその病院へ行き、
検査をして手術を受けましたが、
胃がんで手の施しようがないほど進行していました。
2週間だけ、マンションへ帰ることができましたが、
再入院し、食べることも飲むこともできず、
歩くこともできなくなり
癌の痛みに苦しみだしました。
その病院の痛みの緩和方法は『モルヒネ』でした。
私は、『時代遅れ過ぎるっ!』と思いましたが、
叔父には緩和ケアのある病院へ移す手筈を整えるのを
まっているだけの時間がなく、
例え出来たとしても、車での移送に叔父が耐えられないのは
叔父を看ていてわかりましたので、
残された時間を穏やかに過ごせるようにしてあげることが
出来なかったことが、とても悔しかったです。
私は、休みの日は必ず叔父のところへ行っていました。
飲みたがっていた『いろはすオレンジ』を持って
少し口にふくませてあげることしか、
私にできることはありませんでした。
休日にたまたま休みだった私は、母と叔母を休ませようとして、
二人の代わりに姉と二人で叔父の病室へ行きました。
 叔父はすでに、意識がもうろうとして、うわごとを言ってました。
酸素マスクをしてお腹も腹水で膨れ上がって、
テープ式の紙おむつをしていました。
パジャマのズボンははいてませんでした。
腹水でお腹が膨れ上がって、パジャマのズボンのゴムがきついと言っていたので、
数日前からはいていませんでした。
介護職として様々な方の介護をしてきましたが、
叔父の姿にとてもショックを受けました。
それでも、
 「おじちゃん、かたつむりだよ、いろはすオレンジ持ってきたよ。飲む?」
と、大きな声で話しかけたら、私の顔をみて笑ってくれました。
「おお、来たか、飲む」
と言ったので、吸い飲みに少量いれて、少し口に含ませました。
しかし、飲むことは出来ないので、
ほどんど口元のつけたガーグルベーズのなかに流れていきました。
「もういい、ありがとう」
それが、叔父が私にかけてくれた最後の言葉でした。
ガーグルベースを洗って戻ると、叔父はうわごとを言い続けていました。
ベッドのそばで立ち尽くした姉が、
『おじちゃん、仕事してるみたいだよ』と言いました。
叔父は、うわごとで仕事のことをずっと言い続けて、
時折、『苦しい』とか『痛い』と言うので、
そのたび、声をかけたり、痛いというところをさすっていました。
もう、叔父とは話ができないんだ・・・と、
覚悟をしなければならないと思いました。
翌日、叔父は急変し、職場の好意で私も病院へ行くことができ、
みんなに見守られて、叔父は旅立っていきました。
最後の叔父は素敵な笑顔でした。

叔父が旅立って来月で4年になります。
いまだに『いろはすオレンジ』をみると
病床の叔父を思い出します。
 
 
叔父を見送った時に、
『在宅を仕事をしたい、ケアマネの仕事をしたい』と、
本気で考えるようになりました。
祖父母と介護する叔父と叔母の姿、叔父の末期の姿が、
それらが、私のケアマネとしての原点なのだと思っています。


とても長すぎる文章になってしまいましたが、
書かせていただきました。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

では、仕事します。(おいっ!熱はっ!!)




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なぜ私が踏ん張れるのか(ケアマネまでの道のり~私の遍歴2)

先日私が
『新人が入社4~5か月で30件持つのは本当?!』と
ぼやいたことに対して、ご助言をいただき
ありがとうございました。


すぐに上限を持たされるのは『普通』なんですね(^^;
いや~~~、おそろしい業界だと思いました。
居宅介護支援事業所は、
持っている件数が直接の売り上げになるのですから
まあ、当然と言えば当然ですが、
それでも、あえて言いますが、
段階を踏んで仕事を覚えなければ、
質の良い仕事はできません。
質の良い仕事ができなければ
専門性は高くなりません。
今の新人への一般的な事業所の対応は、
砂地に家を建てているような状態です。
基盤ができていない家は簡単に崩れます。
それが、今のケアマネ業界の新人に対する対応なんですね。


新人が、生き残れるかどうかは、自分次第ということなのでしょうね。


そんなことを書くと、
これからケアマネになろうとしている人は、
絶対に怯みますよね。
私も、かなりの覚悟をして
ケアマネの仕事に飛び込んだのですが、
ここまできついとは思いませんでした。
でも、ケアマネを辞めようと思ったことは
今のところは1度もありません。


それはなぜか・・・。


ケアマネの仕事に就くことは
私にとっては『当たり前』のことではなかったんです。

私は、11年間うつ病に苦しんでいました。
ある理由で医者をかえて、
「治った」と言われたのが、昨年の6月でした。
今も、少量ですが、抗うつ剤を飲んでますし、
精神安定剤も2種類服薬しています。

介護福祉士は、一番うつ病で苦しんでいた時期に
取得した資格でもあります。

ケアマネの試験の時も、体調は最悪でした。
それでも、行かなければ受からない、と思って
試験を受けて、受かることができました。

しかし、試験に受かっても、
『うつ病』であることで
ケアマネの仕事に就くことができませんでした。

ケアマネになって、うつ病になってしまう人もいると
聴いたことがあります。
だから、最初からうつ病の人は雇いませんよね。
一度目の転職にチャレンジした時は、
電話で病気のことを話したら、
面接もしてもらえずに断られました。

当時通院していた医師には
「かたつむりさんは、うつ病が完治することはない。
 だから、ケアマネの仕事に就くのは無理だ」
と、はっきりと言われました。


ケアマネの仕事に就くことは、私には
『叶わない夢』なのだと諦めたこともありました。

しかし、それまで、通院していた医師に
あることで不信感を持つようになり、
思い切って病院をかえました。
そして、その病院で「もううつ病は治っているよ」
と、言われました。
ただ、『(自閉症ではない)発達障害』と
『アダルトチルドレン』であると言われました。

『発達障害』の人の特徴を調べると、
どうやらケアマネは不向きの仕事のようでしたが、
医師から、
「かたつむりさんは、発達障害の人が不得意としてる部分を
 自分なりに工夫して克服しているんですね、とてもすごいことです。」
と、言われました。
そんなことを意識して生きてきたわけではありませんが、
みんなが1回で覚えられることを、
私は5回くらいはやらないと覚えられないし、
みんなと同じように何かをするためには
自分なりに工夫しないとついていけないから
その努力を続けてきただけなのです。

とにかく、うつ病が治ったことで、
ケアマネへの転職の大きな障壁がなくなり、
無事に転職をすることができました。


だから、私にとって、ケアマネの仕事に就けたのは
『奇跡』に近いのです。

一度はあきらめた『夢』が叶ったのです。
だから、多少のことではあきらめるつもりはありません。
私にとって、就きたい仕事をすることを
当たり前ではないからなのです。


だから、このあと、また仕事します。
住宅改修の理由書を書き上げなけれな・・・。


ただ、さすがに3時間睡眠は、
身体が持たなくなってきました。
4カ月もそんな生活してたら当然ですよね。

では、仕事に戻ります。


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努力すれば報われる(ケアマネまでの道のり~私の遍歴~)

仕事でもプライベートでも
自分のモットーとしてるものがあります。

 『石の上にも三年』
 『急いては事を仕損じる』
 『二兎追う者は一兎をも得ず』

そして、
『何かを成し遂げるためには、努力の積み重ねが必要』
『一足飛びで、成果や結果は出ない』


私は9歳の時に父親にこう言われました。
『高校までは出してやる。
 だが、大学や専門学校に行きたかったら、
 自分で働いて行け』
さらに、
『高校は、私立はうちは金がないから無理だ。
 公立高校へ入るんだ』
子どもながらに現実を突きつけられた瞬間でした。


中学生時代は、看護師になるのが夢でした。
だから、高校は普通科を希望していました。
中学時代の成績は中の上くらい、ほどほどの普通科であれば
入れるだけの成績は一応ありました。
担任からも、「中堅の普通科ならば大丈夫だ」といわれました。
しかし、家族は
『お前なんかに看護師の仕事ができるわけがないっ!』
と、猛反対。
『高校を出て就職するために、手に職をつけるんだ』
と言い続けられて、
結局親の敷いたレールに乗って、
当時就職率100%の商業高校へ行きました。
そして、高校卒業後、一部上場企業へ就職しました。
もちろん事務職として・・・。


そんな私は、現在、
 社会福祉士
 介護福祉士
 介護支援専門員
の資格を持っています。
私の名刺をみると「すごいですね」と言う人がいます。

でも、すごいんではないのです。
それなりの努力をしてきました。

高校卒業後、一般企業へ就職した私は
どうやって社会福祉士の受験資格と得たのか・・・。

それは、働きながら
通信教育課程で4年制の大学を卒業し、
社会福祉士の受験資格を得たからです。


子どものころ看護師になるのが夢だった私が
昨年、ケアマネージャーの仕事に就いた時、
年齢は40歳代後半になっていました。
たぶん、年齢的には遅いほうだと思います。
でも、今までの様々な経験が、
ケアマネの仕事に活かされています。


ここまで来るのに、本当に紆余曲折でした。


辛い時も、苦しい時も
頑張ってきて、
あきらめないで本当に良かった。


頑張ればその分、何らかの形で自分に返ってきます。


高卒で一般企業の事務職で就職したかたつむりが、
どうやって、
ケアマネージャーの仕事に就くまでたどり着いたのが
今後、少しづつ書いていきたいと思います。


『努力』は、決して裏切りません。


それだけは、はっきりと言い切れます。


では、今夜も仕事の山と格闘します。


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