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ただ今、人生の仕切り直し中のケアマネ
プロフィール
HN:
かたつむり
性別:
女性
自己紹介:
心と身体を壊し、まだ人生の仕切り直し中のケアマネ。

保有資格:社会福祉士・介護福祉士・介護支援専門員。ついでに日商簿記2級・全商簿記1級
(Twitter@renrinoeda2)
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初めてのがんターミナルの支援  『ケアマネ』として『娘』として

社長から、相談を受けた。

「新規の依頼が来てるんだ。末期ガンなんだけど、若い人なんだ。ごめん、私にはできない。かたつむりさん出来るかな?」

 

最初、なぜ、ベテランの社長が出来ないのか理解できなかったが、社長の話を聴いて、『そりゃそうだ、社長が無理だと思うのは当然だよ』と、納得した。

社長は私よりもひと回りほど上。

そのご利用者様は、社長と同世代。

 

『同世代だから、担当するのが辛い』と、社長。

 

社長の気持ちを非難するのは簡単だ。

 

しかし、自分と同世代で、自身が末期ガンと認識しているご利用者様を前にして、『冷静にいられる自信が自分にはない』と、社長は判断したのだ。

そして、ご利用者様側も、自分の同世代の『元気なケアマネ』をみて、どのように感じるか解らない。これも個人差がある。

 

私が、介護職時代に、派遣社員として半年間勤務した某有料老人ホームに入居してきた、進行性難病の女性がいた。

私と同世代のかただった。

その方は、若い職員には優しく接していたが、自分と同世代の職員にはとても厳しかった、拒絶に近い言動だった。当然私は『標的のひとり』となった。

最初は、『なんだ、この我儘ぶりはっ!!』と、思ったが、拒絶されている職員が、私と同世代かその上だと解り、納得した。

 

『同じ年代の人は元気に動けるのに、なんで私だけ、寝たきりなんだよ!!』

もし、彼女がそう思っていたら、辛くて悔しいのかもしれない。

もし、私が、彼女の立場だったら、どう思うだろか?

 

そう思ったら、結果的に他人に『八つ当たり的な言動が出てしまうのも当然かもしれない』と、あくまでも私の主観的な考えであるが、そう思ったら、ご利用者様の言動にも納得した。

 

だから、社長が『出来ない』という気持ちは理解できた。

 

では、今の自分が『末期がんのかた』の在宅支援の仕事が出来るのだろうか?

正直、一瞬だが、ためらった。

自分も父をがんで亡くした、自宅で父を介護して看取ってから、まだ8ヶ月だ。

自分のなかにある『娘としての感情』をコントロールできるだろうか?

感情移入しすぎて、流されてしまわないだろうか?

 

私も迷った。

 

しかし、ケアマネである以上、末期がんのかたの在宅支援の仕事は、いつかやらなければならない。

逃げているわけにはいかない。

今、そのときが来たのだ。

そう思い、引き受けることにした。

 

でも、私の考えは・・・甘すぎた。

 

病院側やキーパーソンの娘さんと連絡を取り合っていくうちに、まだお会いしていないのに『重なって』しまったのだ。

 

ご利用者様が『父』と・・・

キーパーソンの娘さんが『自分』と・・・

 

いつもなら、当たり前に出来ることが出来ない。

『ご本人を不安にさせてしまわないだろうか』と、考えすぎて、ケアブランの文章どころが、単語ひとつ選ぶのにも、迷いすぎている自分がいた。

 

 

社長に、『切り離して考えないと駄目だ、私だって同じだよ』と、言われた。

社長も、お父様を亡くされて一年経っていない。

しかし、言葉が悪いが、実家の近くに住む兄弟がキーパーソンをしていた社長と私では、立ち位置が違う。

だから、私は社長に言った。

 

「社長、申し訳ありませんが、私はキーパーソンとして、父の残りの時間と父の命を背負い続けたんです。だからこそ、ご本人が父と、娘さんが自分と重なってしまうんです」

そう言って、私は、頭を抱え込んでしまった。

どうしたらいいのか解らない・・そんな心境だった。

 

そう、まさに父の命を背負い続けた・・・そのくらいの気持ちで、キーパーソンとして踏ん張ってきた。

自分が、どんなに辛くても、自分が取り乱すことは『許されなかった』。

家族が、決断すべき事は、全て私が決断してその責任を背負った。

私が『キーパーソン』だったから。

 

社長は、すぐに自分が発した言葉を撤回してくれた。

そして、「無理なら私がやろうか?」と、いってくれた。

 

しかし、末期がん(ターミナル)は、時間との勝負。

特に、家族側はそれを痛切に感じる。

『社内でもケアマネ交代に費やす時間がもったいない』とそれだけは私にもわかった。

頭を抱え込んでいる場合でないだろう!

そう、自分のハッパをかけた。

そして、社長に即答した。

 

『この先の依頼をどうするかは、もう一度考えますが、今回の方だけは私が最期までやります』と、言い切った。

 

そして、自分の感情をどうやってコントロールしたらいいのか、答えが出ないまま、自宅を訪問した。

緊急で予定を早めて、同日に、介護用ベッドの納品と、初回訪問とアセスメントから担当者会議までを全てする事になったのだ。

 

お会いしたご利用者様は、とても気丈な方だった。

いや、たぶん、気丈に振る舞っているのだ・・・家族を心配させないために。

私は、そう感じた。

その姿さえも、『最期まで強かった父』と重なった。

 

しかし、その、気丈に振る舞っている、ご利用者様の姿をみて、すぐに『冷静になれた』自分がいた。

 

『ご本人がこれほど、気丈に振る舞っているのに、ケアマネの私が、動揺している場合じゃないだろう!!』

まるで、横っ面を張り倒されたような、衝撃を受けた。

そう、私はまた、ご利用者様に助けられたのだ。

 

私は、ケアマネとして末期がんのかたの支援をするのは、本当に初めてだった。

ケアマネになって、2年目に入り間もなく、父が肺がんを再発し根治不可能といわれてしまった。そして、私が父のキーパーソンとなった。

そのため、あえて、末期がんの方の担当は断っていた。

『絶対に、ご利用者様とご家族が、父と自分に重なるだろうし、娘としての感情に引きずられて、冷静な判断は絶対に出来ない』と、わかっていたから。

 

 

私は、ケアマネとしての冷静さを取り戻したところからは、逆に『がんの父を自宅で看取った体験』が、ケアマネとしての私の判断を支えてくれた。

 

訪問看護師さんが、詳細をいつも本当に細かく、私に報告をして下さった。

おかげで、お会いしてなくても、ご利用者様の状態が私でも把握できた。

その判断材料のひとつが、父が悪化していく状態をこの眼で見てきたことだった。

訪問看護師さんの話の内容から、父以上に悪化が早いことがわかった。

父でさえ早かったのに、それ以上の早さだった。

残された時間がもう無いことは私でもわかった。

 

実は、介護用ベッドの納品を早めたのは、訪問看護師さんからの助言をうけてのことだった。

福祉用具の方に頼み込んで、納品予定を早めて、すぐ納品し、その場で初回訪問と初回アセスメントから担当者会議まで一気にやった。

なぜなら、私が自宅訪問する日よりも先に入った訪問看護師さんが、電話で私に状態を説明して下さり『この方の状態は、とても厳しい』と、訪問看護師さんから助言を受けた。また、私自身お会いする前から、それまで通院していた病院側からの情報や、電話での家族との仮アセスメントを通して、急がないと駄目だとわかっていた。ただ、家族が都合がつかないといってすぐに動けなかった。多分家族はまだ時間ある、まだ大丈夫と思っていたのだろう。
しかし、私から家族に『時間が無い』とは言うわけには行かなかった。
なぜなら、私は医師でも看護師でもないのだ。

その5日後に、再度訪問をしたら、5日にしかたっていないのに、ご本人の状態が急激に悪化していることが、介護職出身の私でさえ、すぐにわかった。

ベッドのサイドテーブルに、みたことがあるお弁当箱大の容器があった。

ものは違うが、それが何であるかは、すぐにわかった。

父も使っていた『痛み止め』。それは、腹部に針を刺して固定して、点滴のようにして、痛み止めの薬を身体に入れるのだ。

それを使用しているということは、薬が飲めなくなっていることを示しているも同然だった。

 

ここまできたら、『もう、ケアマネが主体で出来ることは何もない』ということもわかった。

これは、私の逃げ口実ではない。本当の事だ。

もう、この先は、訪問診療の先生と訪問看護師さんが主体で動く状況である事は、娘として経験済みだったから。

だから、私は、訪問看護師さんの後方支援で、介護保険を含む福祉関係を全てを整える『脇役』に徹することに決めた。

幸い、訪問看護師さんは、本当に細かく私にもご本人の状態を電話で報告して下さり、訪問看護師さんの『医療職として視点での見解』と、『ケアマネに動いて欲しいこと』をはっきりを依頼して下さったので、私は、その依頼を受けて動いた。

先生と訪問看護師さんが、仕事をしやすくするために。

そして、ご本人とご家族が安心できるように。

 

訪問看護師さんから、こんな依頼がきた。

『介護用ベッドを、リビングに移してほしい。』

理由は、隣の部屋に置いたベッドに寝ていると寂しいのか、どうしても無理をしてリビングに来てしまうみたいだ。とのこと。

ベッドを置いてある部屋と隣のリビングは仕切りの襖は全て外しており、事実上繋がっている。

しかし、私達からすると、短い距離でも、ご本人にとっては『とても遠く』に感じるのだろう。

 

私は、最期の頃の『母の姿が見えないと不安がる父』を思いだした。

 

訪問看護師さんも同じ意見で、『きっとご家族が集まるリビングで過ごしたいのでしょうね』ということで、福祉用具の方に電話で再び頼み込んだ。受話器を持ったまま頭を何度も下げた。

福祉用具の方は快く承諾して下さり、その日のうちに対応して下さった。

実は、福祉用具の方は、父の時にお世話になった方でもある。

訪問診療の先生と訪問看護師さんは、今まで通院していた病院の相談員さんが手配して下さったが、福祉用具の事業所は、この方の会社にするとすぐに決めていた。

ご家族も、事業所の選択はケアマネに一任して下さっていた。

ターミナルの支援が初めての私には、サービス事業所の方のお力をいつも以上にお借りしなければならかった。

ターミナルの支援に未熟なケアマネに助言と苦言を、いつも以上にはっきり言ってくれるくらいの、経験豊富な担当者でないと、今の私では無理なことはわかっていたから。

 

福祉用具の方が介護用ベッド一式を納品したあとに、私におっしゃった。

『かたつむりさん、納品した福祉用具一式は、最期まで交換しないで済むものを納品しました。マットレスも褥瘡が出来ても、よほどの悪化がおきない限りは交換不要の物を納品しました。途中でマットレスの交換することは、更に状態が悪化しているご利用者様には、あまりにも負担が大きすぎます。マットレスの交換だけもです。だから、今回の納品の商品で最期まで過ごせますから、その点は安心して下さい』

この説明は、私にとって、とても大きな勉強になった。

 

このかたの支援をしているときに、『やはり、自分は父の死から全く立ち直っていないんだ』と、気づかされた。

そして、がん患者や家族の支援団体である『マギーズ東京』のドアを叩いた。

ここは、悪友看護師から、父の死から早い段階で教えてもらっていた。

しかし、それなりの距離があり、当時、心も身体もボロボロになりすぎていた私には、あまりに遠い場所だった。

そこまで行ける体力すら無かったのだ。

今回、臨床心理士さんに長い時間話を聴いてもらった。たぶん、2時間は話していたと思う。

自分が頭に浮かんだもの、思い出したことをそのまま言っていたので、自分が発する言葉は、全く整理されていなかっただろう事は、自分でもなんとなくわかっていた。

そして、涙があふれて止まらなくなった。

 

臨床心理士さんは私にこう言って下さった。

 

『今までのように、最期までお父さんが家長として一家の大黒柱であり続けられるように、最期までお父さんらしく過ごすことが出来るようにと、あなたは頑張ったのですね。そしてやり遂げたのですね』

 

家族や親類にも、わかってもらえなかったことだった。

ここに、私の『父への想いをわかってくれる人はいた』そのことに、私の心が初めて救われたような気がした。

そう・・私は、『最期の瞬間まで父のままでいて欲しい』と願っていた。

父はまさに、我が家の大きな大黒柱だった。

家の大事は全て父が決断して、家を、そして家族を守ってきた。

決して父と私の関係は、良好ではない部分も多かったが、それでも、私にとって父は家族を守り続けてきた『家長』だった。

だから、父は釣り三昧の釣りバカではあったが、基本的に自分の事を優先にすることは殆ど無かった。

自分の再発したがんが治らないと分っても、家族を優先にした。

『お母さんが大変だから、俺は最期は病院でいい』と父は言った。

その、父の言葉が私には辛かった。

なぜ、この状態になっても、父は自分の望みを言ってくれないのか?

『俺は最期までこの家にいたい。俺はこの家で死にたい』と。

それは、父が『家長』であるが故に、自分の個人的希望を口にすることを、『父が自分で許さなかった』のだろう。

 

だから、私は、父の残された時間を、父が一家の大黒柱のままでいられるように、そしで父らしく過ごせるように、奔走しつづけた。

それと同時に、父が『最期まで自宅で過したい』と選択がいつでも出来るように、その環境も整えた。

自分が出来ることは全てやった、全て整えた。

あとの判断は、父と母に任せることにした。

ここからは、父が自身で決めて欲しいと思った、『父が父でいるために』。

そして、父は最期まで自宅で過ごした。

 

父が亡くなった後に母から聴いた。

私には言わなかったが、父は母にこう言ったそうだ。

『お母さん、俺、最期まで家にいてもいいか?』と。

母は『もちろん、家にいていいよ』と、その場で返事をしたそうだ。

 

臨床心理士さんは、私の父への想いをわかって下さった・・・。

そう思ったら、胸のつかえが少しだけだが、楽になった。

 

来て良かった、話を聴いていただけて、本当に良かった・・・そう思えた。

 

臨床心理士さんから、

『お父さんの闘病を支えてきたこと、今回のケアマネとして初めてのターミナルの支援をしたことで、これからケアマネとして、末期がんの方の支援にどう関わるべきを、考えていくきっかけになったかもしれませんね』

そう言われた。

 

そのとき既に、自分のなかで、『末期がんの方の支援は、『主体は訪問看護師さん』である。そして、ケアマネを初めとした『福祉職は脇役』として、訪問看護師さんと患者さんと家族を支えるのが役目である』と、今の時点ではあるが、ケアマネとしての自分のやり方を見つけていた。

 

マギーズ東京に行ってから数日後のことだった。

帰宅途中に、訪問看護師さんから電話があった。

『もう、意識が混濁している、排泄もベッドでおむつ交換です。もう長くないです』

私は、早い段階でベッドの使用状況の確認も兼ねて、一度モニタリング訪問はしていた。だから、看護師さんにこう言った。

『私は、モニタリング訪問は済んでいます。ですから、ご本人とご家族の大事な時間を邪魔したくないので、私からはあえて訪問はしません。ですから、何かあれば連絡を下さい。すぐに対応しますので』と。

褥瘡ができかけていると、看護師さんが言っていたので、福祉用具の方がそのことも視野に入れて、褥瘡ができてもよほどのことがない限りは、最期まで交換しないで済むマットレスを入れて下さっています』と、お伝えした。

 

すぐに娘さんに電話して意思確認だけした。

『私達家族で、最期まで自宅で介護して看取ります』と、しっかりとした返事が帰ってきた。

私が担当を引き受けたときは、自宅での看取りにするのか、最期を病院にするのか、全く決まっていなかった。

けれど、『家族で自宅で看取る』と、どのような選択であれ、最期の時間をどうすごすのかを、しっかりと本人と家族で決めることが出来たことに、私は、とても安堵した。

 

いつ依頼があるかわらないと思い、常に持ち歩いていた『ストレッチャーでの移動が可能な介護タクシーのリスト』の出番は、結局一度もなかった。

 

ご本人が他界されたのは、その4日後だった。

訪問看護師さんから電話で報告を受けた。

私が担当を引き受けてから、2週間ほどのことだった。

 

 

落ち着いた頃をみはからって、私から娘さんに電話をした。

最期の挨拶をしたいので、お線香をあげさせていただけないかと、お願いした。

しかし、ご家族は既に仕事に戻っているため、互いの日程が合わないため、娘さんから『お気持ちだけで充分です、本当にありがとうございます』と、私を気遣って下さった。

 

大切なひとを看取った家族がこの後どうなるのかは、痛いほどよくわかっている。

娘さんが、再び自分と重なった。

この方も、私と同じように、これから苦しむのだろう・・・と。

 

娘さんに『今は、まだ気が張っていると思いますが、何かの節目でその緊張がきれてしまうことがこの先、あると思います・・・』と、話したら、娘さんは私にこう訴えてきた。

 

『もう、私、哀しくて辛いんです』と。

 

だから、私は娘さんに、マギーズ東京の存在を伝えた。

遺族を支援する制度は今の日本にはないこと。

その活動をしているのが、NPOやボランティアや一部の病院と・・とても少ないこと。

だから、『どうしても辛くて苦しかったらここに行ってみて欲しい』と、伝えた。

私が、最期の挨拶をしたかった理由のもうひとつが『この話を伝えたかった』からだった。

 

そして、少しでも娘さんに安心してもらえるように、あえて私は、自分の個人的な事を話した。ケアマネは『自分の個人的な話はするべきではない』という人も多いだろう。

しかし、正論が常に正しいわけではないし、正論とケアマネの基本的な立ち位置にこだわりすぎたら、逆にご利用者様とご家族の苦しみを解決できないことも多々ある。

だから、私は、『ケアマネ』であるとともに『父をがんで亡くした娘』としても話した。

 

専門職の言葉よりも、素人でも同じ立場の人(当事者)の言葉のほうが、相手の心に響くことは沢山あるのだ。

それを、専門職は、あまりにも知らなすぎる。

だから、あえて私は自分と父の事を娘さんに話した。

 

『私も今年の2月に父をがんで亡くしました。家族で父を自宅で介護して自宅で父を看取りました。実は、私も娘さんと同じなんです。実は私はマギーズ東京に行き、父の話を聴いていただいて、気持ちが少し楽になりました。だから、娘さんもご家族もおひとりで抱えないで、このようなところへ足を運んでみて下さい』

 

余計なお世話という人もいるだろう。

だが、ある意味では、家族は看取った後のほうが『苦しい』し『辛い』のだ。

 

本人が亡くなったことで、ケアマネの支援も訪問看護師さんの支援も終わりになる。

そのあとの遺族への支援は、遺族の心のケアは全くないのだ。
(一部の病院では遺族向けの外来があるそうだが、私も調べたが本当に少ないのだ)

 

残された家族は、『心の中の大きく開いてしまった空洞』と『深い哀しみ』と『喪失感』を抱えたまま生きなければらない。

その哀しみがいつ癒えるのか、心に空いた空洞がいつ小さくなりふさがるのか、全く解らない。

出口のないトンネルのなかを歩いているような、そんな気持ちにもなるだろう。

そして、相談するところがなく、苦しくて哀しい胸の内をはき出す場所がないのだ。

それとともに、『あれで本当に良かったのか?』『もっと出来ることがあったのではないか?』と、永遠に答えが出ない問いを自分の中で繰り返し続けていくのだ。

 

今の自分が、まさにそうだから。

 

 

かつて、私はケアマネになったら『末期がんの方の支援が出来る』ケアマネになりたい。

そう思っていたし、それは今でも変わらない。

 

介護職時代に、大好きだった叔父が、末期がんで病院で苦しみ続け、モルヒネ漬けになって死んでいった。

誤解の無いように言っておくが、病院は悪くない。

逆に、先生にも看護師さんにも、本当によくしていただいた。

ただ、がんに関しては、打てる手が少なすぎる病院だったのだ。

すでに、叔父は転院できるだけの体力も時間も無かった。

医者嫌いの叔父は、ギリギリまで病院いいかなかったから、結果的になんの手も打てなかったのだ。

真面目に生きてきた叔父が、なぜ、最期にあんなに苦しまなければならなかったのか・・・今でも、納得できない自分がいる。

そして、あのとき、ケアマネとしての今の自分の知識と経験があれば、何か手を打つことも出来ただろうに・・・と思うと、今でも悔しくてならない。

 

この『叔父への想い』が、父のときも、今回の担当ケースでも原動力になったのだ。

 

ケアマネとして、今の自分が出来ることはやったつもりだ。

でも、これで本当によかったのかどうか・・・その答えは、まだでていないが。

 

甘い判断で引き受けた、末期がんの方の支援。

 

ご利用者様本人から、ご家族から、一緒に支援をした支援者の方々から、私は沢山の事を教えていただいた。

そのことに感謝しながら、ご利用者様のご冥福をお祈ります。

そして、残されたご家族の方の哀しみと苦しみが少しでも軽くなることを祈りたいと思います。

                                     合掌







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研修に参加できる『幸せ』

ご無沙汰しております。

 

新しい職場で勤務を始めて、もう少しで3か月になります。

 

先月より、社長が担当していたご利用者様を引き継ぐかたちで、担当を持ち始めました。

今月になって、新規の方も少しづつですが担当を始めています。

 

今の職場は立ち上げたばかりの会社なので、それなりに『かなり大変』です。

 

ですが社長は、私が身体を完全に壊してしまい、思うように動けないことを承知の上で採用してくださり、また『かたつむりさんの体調を見ながら担当件数を増やすペースを考える』と言ってくださっているので、とてもありがたく思っています。

私も、その社長の言葉に甘えすぎないように、早く30件を担当できるように努力したいと思っています。

前職場のように『半年で30件持って当たり前』ということは言われませんし、逆に『半年で30件持つのは当たり前じゃないから』と、おっしゃってくださっています。

 

しかし、私は、会計事務所で経理・税務事務の仕事をしていた経験と、通信教育課程の経済学科の短大を卒業しているので(←会計事務所勤務時代に税理士の受験資格を取ろうと考えてました)、会社経営がなんとなくではありますが、多少はわかるんです。

もちろん知識上の事だけですけど。

会計帳簿で、会社の『体力』を判断することくらいは、一応私もできます。

単純な話ではありますが、会社経営の視点で考えると、私が30件を持たないと、自分の給料分が稼げないのです。つまり赤字が増えてしまうわけです。

しかも、会社は単独居宅(=ケアマネしかしない会社)です。

(実は、あえて、今回も単独居宅に就職しました。)

そう考えると、社長の言葉に甘えてばかりではいられないのです。

しかし、これで無理をして件数を増やすと、前職場と同じ失敗をします。

しかも、勤務先が以前と違う保険者(=市区町村)なので、法律は同じなのですが、多少やり方が違うので、先月はその違いでとても混乱して、かなりパニックになりました。

前職場の保険者と今の会社の保険者とのやり方の違いに、ようやく少しづつ慣れてきたところです。

 

そして、今の段階で、書類作成の業務を溜めない習慣をしっかりと身につけなければ、また、前職と同じ失敗をして、自分が苦しむことになるのは解っていましたので、事務処理を含めた一連の業務の流れを身につけることに必死になっています。

 

しかし、壊れた身体は、やはり元には戻りません。

一度身体を壊すと、本当に大変なんだな・・と、身をもって痛感している毎日です。

思うように身体が動かず、とても疲れやすくなり、また、体調も崩しやすくなっています。

自分の思うように動かない、無理がきかなくなってしまった自分の身体が、本当にもどかしいです。

今でも『生もの』は食べられない状態ですし、たぶん『お酒』はもうこの先は身体が受け付けないと思います。

でも、今の壊れたままの自分の身体と付き合っていくしかないので、この身体でどうやって仕事をすれば、自分の心身に負荷がかからないのかを、模索しています。

 

実は、就職してからは、積極的に研修や勉強会に参加しています。

ようやく、研修に参加できる環境になりました。

今は体調を考えて、地元の研修や勉強会のみにしていますが、それでもこの2年間は、とても自己研鑽の勉強や研修を出来る環境ではなかったので、こうして研修や勉強会に参加できることが、とても嬉しいです。

しかし、父が亡くなったから、こうして研修に行けるようになったわけですから、そう思うと正直とても複雑です。

 

介護は大変だったけど、それでも父ともう少し一緒に過ごしたかったです。

父の余命があと2週間といわれても、すぐに父の元へいくことが、仕事の関係で許されない状況だったので、私が父の元へいったときには、もう父は声を出すことができなかった。

そして、その翌日に危篤になり、次の日の早朝に亡くなりました。

しかも、父は亡くなる数日前から私が来るのを待っていたことを後から知りました。

『かたつむりはいつ来るんだ?』と父が何度も繰り返し母に訊いていた。

『もう一度最期にしっかりと父と話をすることができなかった』

そのことは、今でも私のなかで引きずっているのです。

 

まだ、父がいなくなった現実に、気持ち整理がついているわけではありません。

 

でも、前へ進むことが、父が一番望んでいることだと思うので、今はとにかく、仕事のスキルアップと自己研鑽のために、研修や勉強会に積極的に参加しています。

それが出来ることは、やっぱり嬉しいです。

研修や勉強会に参加すると、いつも新鮮な発見があります。

今の私は、学ばなければいけないことは山ほどあります。

介護保険以外にも、他分野の勉強もしたいです。

一応『社会福祉士』の肩書きを持っているわけですから、福祉全般を解っていないと、みっともないと思います。

私の頭の中の情報は、介護業界以外は古いので、全分野の情報の入れ替えもしたいです。

 

それと、私は、父が亡くなった後に『苦しんだ』経験から、グリーフケア(=遺族の心のケア)の勉強をしたいと思っているので、出来れば、通信教育過程の大学で心理学の勉強をしたいと思っています。自分が入学したいと思っている大学では、グリーフケアの勉強もできるのです。

この大学のことは、まだうつ病を抱えていた時に通っていたカウンセラーさんから聴いていたので6年ほど前)、チャンスがあったら入学したいとずっと思っていました。

今は一人暮らしをしているので、通信教育過程の大学の学費は安いとはいえ、自分の給料に生活がかかっているので、学費をつくれるかどうか解りません。

もしかしたら、出来ないかもしれませんが、チャンスがあったら入学して勉強したいと思っています。

 

今まで休んでいた音楽教室も、まだサックスだけですが、レッスンを再開しました。

フルートのレッスンは来月から再開予定です。

少しですが仕事以外の本を読む時間も持てるようになりました。

なにより、以前と違い、土曜日と日曜日が普通に休めるのです。

睡眠も普通にとれるのです。

睡眠時間を削って仕事をしなくて良いのです。

 

 

今、私は、『世間一般の日常生活』を、少しづつではありますが、取り戻し始めています。

 

そして、まだ、担当件数が少ない今のうちに、受けられる研修は受けてみようと思います。

 

今は、貪欲に福祉業界に限らず様々な分野の勉強がしたいです。

まあ、フトコロとも相談しながらになります。

本代にひと月に数万円も使えませんから(笑)

地元の図書館も活用したいですね。



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『仕事マニュアル本』作成中

8月から社会復帰しました。

新しい職場で勤務を始めています。

 

知人・悪友達に『自分の命より大事な仕事はないからな、今度こそ無理は絶対にするな!』と、皆さんに厳しくクギを刺されました。

本気で心配して怒ってくれる人がいることはありがたいものです。

 

私は体重が10kgも落ちたわけですから、本当に楽観視など出来ない状況でした。

あと、数日無理を押して仕事をしていたら、本当に倒れていたかもしれません。

現実に、仕事を辞めてから、電子レンジでものを温めることが出来ない、電気ポットに水を入れてお湯を沸かすこともできないくらいまで、動けなくなりましたので。


私は、太っている方なので、10kg減少しても、まだどうにかなったのかもしれません。

これが、もともと痩せている体型のかたが、10kg落ちたら、とても危険である事は、容易に想像できます。

 

今から考えても背筋が凍ります。

 

家族介護の、当事者以外からは見えない恐ろしい部分を、身をもって経験してしまった・・・そんな気持ちです。

 

 

 

今度の社長さんは、表裏のない人のようで、サバサバしたタイプの人のようです。

女性の集団の中で仕事をすることが苦手な私としては、今度の社長さんの気性はとてもありがたいです。

社長さんいわく『私は瞬間沸騰湯沸かし器な人間』とのこと。

『私も同じです』と社長さんには伝えました。

 

私も今でこそ、若いときよりも沸点が上がりました。

しかし、一度キレたら何をしでかすか解らない人間である事は自分自身も解っています。

ですから、『頼むから私を怒らせないで!!』と、願っているのですが、わざとなのか、私の地雷をしっかり踏んでくれるひとがいます。

実は私は、一定の限度を超えたことをされた場合、かなり根に持つタイプなんですよね。

 

 

 

話はそれましたが、私は今の社長には、採用面接時に、前職場を辞めた経緯と、今の自分の体調をすべて話しました。それでも社長は、それを承知の上で私を採用してくださいました。

そのこともあり、社長は、私の体調に配慮して下さり、とてもありがたくと思っています。

この酷暑なので、正直、身体がついて行きません。

先日、地元のケアマネ協会へ会員の申し込みに行ってきたのですが、移動時間は1時間を少し越えたくらいで、今まで普通に移動していた時間でした。

でも、しっかり熱中症になってしまい、経口補水液や、塩分が含まれる飲み物の500mlのペットボトルを何本も飲む羽目になりました。

 

体力が無いことは自覚していましたが、ここまで落ちているとは思いませんでした。

ものすごいショックを受けました。

社長自身も、さすがにこの酷暑での連続での訪問は堪えたようで、

『かたつむりさん、しばらく、日中は外へ出ない方がいい、具合が悪くなる。現に私が具合悪くなっているから』と、言われました。

かといって、涼しくなるまで担当をもたないわけにもいきません。

今の事業所は、以前の職場よりも営業エリアが狭いので、移動に時間を取られることはあまりないと思います。

(私が、前の職場での担当していた利用者様のエリア範囲を話したら、社長が驚いていました)

ですから、社長には、『暑い間は、訪問が連続で数件になることは避けて、経口補水液常備で訪問に行くので、予定通り引き継ぎをして大丈夫です。』と、伝えました。

 

前職場で右も左も解らない状態の初心者で2ヶ月目に13件引き継ぎしたことを考えれば、今の職場は、私にとっては『幸せ』ですよ。

 



 

私は、引き継ぎが始まる前に、どうしてもやっておきたいことがありました。


 

私は、書類作成そのものは苦手ではありません。

10年間一般企業で仕事をしていましたので、社内文書・社外文書・会議書類など、様々な書類をつくってきましたし、経理畑の人間ですので、数字に関しても全く平気です。

 

しかし、それでも、ケアマネになって一番苦労したのは、書類作成でした。

特に支援経過が苦手でした。

本を読んでも、自分が探している答えが見つからない。

だから、マニュアル本に頼るのをやめました。

ひとりひとり違うのだからそこに『答えはあるはずがない』と私は思いました。

 

前職場では「『必要最低限』の事が書いてあればいい、省けるものは省いていい」と言われましたが、その必要最低限が解らない。

なぜなら、自分は基礎が出来ていないから。

省略というものは、基礎がしっかりと出来て、始めて省略ができるものです。

その『基本』を理解が出来ていない私には、いきなり必要最低限(=減算にならない範囲)を言われても解らないのです。

それを質問すると『運営基準と解釈通知を読んで』との返事が返ってきました。

前社長より例文は受け取りました。しかし、基本中の基本のみで、イレギュラーな部分の書き方が、私にはどうしても掴めなかったのです。

自分で調べて理解するには、当時初心者の私には時間がかかることでした。更に、2年目に入ったときに自分が頸椎ヘルニアを発症して全身の激痛に耐えながら、癌を再発した父の闘病で奔走しなければならなかった私には、自分で調べて勉強することはなど、身体的にも精神的にも時間的にも出来ませんでした。

しかし、それを『いいわけ』とされました。

 

でも、今の社長は、そのことを理解してくれています。

だから、『基礎からのやり直しをしたい』という、私の気持ちも尊重してくださいました。

遠回りだけれど、長い目で見れば、ケアマネとしての力がしっかりとつく。
『急がば回れ』ということです。

そうなれば、会社としても『しっかりとした戦力』にもなります。

そして、会社としても、書類作成が出来なければ、後が大変です。

だからこそ、『社長は私の基礎からのやり直し』を認めて下さったのだと思います。

 

 

今、自分を取り巻く環境が、自分の体調と生活以外は落ち着いたので、冷静に色々と考えられるようになって、ようやく自分がケアマネとして『今、自分がケアマネとして何を身につけなければならないこと』なのかが、解り始めたところです。

 

そのため、引き続き基礎固めを続けています。

 

 

まずは、1ヶ月かけてこんなものをつくりました。




 

自分専用の『仕事マニュアル』です。

インテーク→アセスメント→ケアプラン作成→サービス担当者会議→モニタリング→再アセスメントの流れを、書籍やインターネットから情報を集めて、自分なりの『マニュアル本』を作りました。

とんでもない厚さになりました。

暫くは、この本に頼りながら仕事をしていきます。

 

 

そして、お仕事マニュアルの第二弾として、こんなものをつくりました。


 

 

 

 

自分専用の『支援経過の文例集』です。

 

前職場で自分が入力していた支援経過の文章を思い出しながらもう一度見直して、その上で、『書籍』や『インターネットでの様々な文例集』を参考にして、30年度法改正の内容も自分なりに踏まえながら、つくりました。

 

気がついたら30ページ近くまでになってしまいました。

 

このマニュアルをみながら、またはワードで立ち上げてコピペしながら、試してみたいと思います。必要であればその都度追加や修正をしていきたいと考えています。

 

 

そして、担当者会議の要点の書き方やケアプランの文章等もインターネットの文例を参考にして自分なりのマニュアルを作りました。






 

 

当面は社長のケースを引き継ぐかたちで担当を増やしていき、新規のかたを持つことは当面は避ける方向で、社長と話をしています。

今の保険者や地域のサービスの情報が、私がまだ分らない状態で新規を受けるのは難しいだろうと、社長が判断したためです。

この社長の判断はありがたかったです。

月5件ペースでまずは30件を持つことを目標にしていくことになりました。その期限は特にありません。

当初は、1年後に30件との話でしたが、新規の依頼が多く入っているので、そのようなことも言っていられなくなりました。

社長から『かたつむりさん、話が変わってごめん』と、言って下さいました。

『社員に謝って下さる社長とは、器量が凄いな』と、思いました。

人間、なかなか自分の非を認められず、それを他者になすりつける人もいます。

私も、なぜか全て私が悪いことにされて、酷い目に遭ったことは何度もあります。

だから、謝罪がちゃんと出来る人は信用できる人だと思いました。

 

この会社なら大丈夫。

そう思っています。

 

しかし、社長は、『かたつむりさん、突然来なくなったりしないでね』と、毎日何度も私に言います。

理由を訊いたら、就職したけれど、自分に合わないと思ったら、1週間で突然来なくなるケアマネが多いとのことでした。

その話を訊いたときに、私は開いた口がふさがりませんでした。
そんなことをしているケアマネは、どこに行っても、ケアマネとしてまともな仕事は出来ないと思います。
あまりにも無責任すぎます。


私は、前職場では自分で引き継ぎは出来なかった。
どんな正当な理由であれ、結果的にご利用者様とご家族に、各サービス事業所に迷惑をかけてしまった。
だから、ご利用者様とご家族に、各サービス事業所には、本当に申し訳ないことをしてしまったと思っています。
その謝罪すら、直接することは許されなかった。
混乱を大きくすることを避けるためには仕方がなかった。
でも、ご利用者様とご家族に、各サービス事業所に謝罪できなかったことが、今でも心残りです。
だから、突然会社に来なくなるなんて、私の価値観では考えられませんでした。



私は、医師からドクターストップをかけられたので、仕方がなかったし、それだけの余力はもう無かった。

私は、ずっと自分の壊れた身体を、無理矢理動かして仕事をしていたので、『もしかしたら自分で引き継ぎが出来ないかもしれない』と、すでに父がターミナルになった時点で想定はしていた。その場合に供えて、プラン変更等が必要な利用者は、1人を覗いて全て、プラン変更を終わらせた。

残りの一人は入院中で容態が安定して、在宅へ戻るための支援の方向性が出来たとこまでは、どうにかやった。

本当はそのかたが退院して、新しい支援体制をつくるまではやりたかった。
けれど、もう身体が限界を超えてしまっていた。
悔しかったけど、申し訳無いと思ったけど『もう無理だ』と思った。

だから、万が一引き継ぎが出来なかった場合にそなえて、全てのご利用者様とご家族には、そのときにできる限りの布石は打っておきました。

『もし、万が一こういうことがこの先起きたら、このような方法がある』などの情報提供をしたり、サービス事業者間のつながりをしっかりつくっておく等、思いつく手は全て打ちました。

ご利用者様とご家族にかけるご迷惑を、少しでも少なくするために。


それでも、やはり、どのような理由であれ、この状況になってしまったことに対して、ご利用者様とご家族、サービス事業者のかたには、本当に申し訳ないと思っています。

ただ、もれ聴いた話では、ご利用者様とご家族は逆に私の体調を心配して下さっているとのことで、とてもありがたいと思いました。

同じ、在宅での家族の介護を経験した者同士だからこそ、ご利用者様とご家族のかたには、『私が潰れた理由』を解って下さっている方がいるのだろうと、推察しています。

本当に、ありがたく思っています。

 

同じ失敗は、繰り返さない。

もう、身体は元には戻らないけれど、今の自分の身体状況に合わせながら、『ケアマネージャーとしての責務』に、もう一度真摯に向き合いたいと思います。






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後輩に仕事を『指導』するということ

注意:今日はかなりの辛口です。非難と苦情は受け付けません。
   そして、自分の発言を撤回する意思はありません。
   なぜなら、自分が間違ったことは言っていないと確信しているからです。
   このことを踏まえた上でお読み下さい。


今、私は、仕事を辞めてから、日々の体調をみながら、もう一度ケアマネ業務の基礎の基礎から勉強をやり直している。

 

食事も取れないくらいの状態だったから、本格的に勉強を始められたのは、この2週間くらいからだ。

それでも、出来ないときもある。

 

 

ターミナルの父の諸対応と介護で、肝心なときに情報収集ができなかった『30年度法改正』の内容の確認も、今ようやく出来る状況になった。

そして、こんな本からもう一度勉強を始めている。





これが、ケアマネとしての今の私の状態だ。

 

 

私は、2年半もケアマネとして仕事をしてきたが、現状は、実務の基本の基本すら身についていなかった。


そのことに気がついたのは、父のケアマネさんとの出会いだった。

職場ではなく、ターミナルの父の介護を通して気がついたのだ。


彼女の仕事をみていて、『自分のやり方は間違っているのでないか?』と、本当にはじめて思った。


ケアマネ一人一人やり方は違うし、ご利用者様とご家族にあわせて柔軟に対応しなければならないので、いろんなパターンは当然ある。


だが、根底となる基盤はひとつ。


そこが出来ていない自分がいることは、気がついてはいた。


なぜなら、ずっと手探りでやっていたから。


これまでの私のケアマネとしての武器は、紆余曲折な自分の人生経験だった。


ケアマネとして本来持つべき知識は、身についていなかった自覚は自分でもあった。


でも、仕事を辞めるまでの約2年間は、自分は自己研鑽をしている時間が本当に無かった。

寝る時間も削り、休日に『休む』ことも出来なかったから。

 

その理由は、今まで私のブログを読んで下さっている方であれば、ご理解いただけるかと思っています。

 

私は、砂地に家を建てているような状態で、今までケアマネの仕事をしていたのだ。



 

ケアマネとしてのしっかりとした基盤を『自分のなか』につくりたくても、ケアマネ2年目になったばかりで頸椎ヘルニアを発病した。

まともに風呂は入れない、シャワーで頭を洗こともできないほどの激痛に常に襲われている日々。

あまりの激痛で仰臥位もとれず、左側臥位でしか臥床が出来ない状態で、まともに寝ることさえできない状態だった


それでも、とにかく仕事をすることで精一杯だった。

 

その状態の私に、さらに父のがんの再発という『辛いこと』が重なった。


身体の痛みが治まらない自分の身体を、仕事で酷使しながら、更にキーパーソンとして父の対応に追われる日々。


父の予後の方針が決まるまでの4ヶ月の間、両親では医師の説明が理解できないため、私は毎週父の病院の付き添いをしなければならなかった。

そのため、その時期は、ほぼ毎週土曜日に振替出勤をしないと仕事が終わらない状態だった。


職場でも、家庭でも、私の代わりはいなかったから、自分の身体を酷使するしかない状況だった。


毎日身体が悲鳴を上げ続けていた状態では、自己研鑽の勉強をするとか、研修を受けにいくとか、そんな状況ではなかった。そんな余力はまったくなかった。

 

それでも、自己研鑽の研修に行かない事を前職場の社長や管理者に何度も非難された。


非難されたとき、逆に『あのときの私』に、自己研鑽にいける術があったのなら教えて欲しいくらいだった。

だが、そんな反論が出来る余力さえ私には無かった。


普通に寝ることも出来ずに、ベッドにありったけの毛布と布団を重ねて座位で短い時間で睡眠にしないと、次の日の朝、動けない身体になっていた私に。

そして、食事もまともに受け付けなくなっていた私に。

父の残された時間に対しての、家族としての責務を独りで背負っていた私に。

どうすれば、身体が悲鳴を上げている状態で、仕事をしながら、父のキーパーソンとして奔走しながら、やっとの思いで立っていた私に、自己研鑽の研修に行けと、なぜ平気でいえるのか?
逆に私は、社長と管理者の思考が、どうしても理解できなかった。
 

 

このような経験もあり、いろんなところからの情報も踏まえた上で、私はこう思っている。

『ケアマネ業界を含め、介護業界は、新人や後輩に仕事を教えるのは、はっきり言って下手だ』

そう、私は言い切れる。


大体の先輩ケアマネは『私達は、自分で調べて仕事を覚えてきた。だから、あなたも自分で調べて仕事を覚えなさい』という。

確かに、『自身で調べること』自体はとてもは大事だ、異論は無い。

だが、その調べ方が間違っていたら、どうなるだろうか?

私は、それで、何度も失敗した。

解釈間違いをして失敗したこともあった。

 

そのときは、会社として責任の所在をどうするのだろうか。

仕事を教えてもらえず、自分なりに悪戦苦闘しながら調べて、その結果、間違えた、元新人ケアマネが『悪い』というかたちで終わるのだ。

指導している人が誰もいないから、『指導した者として責任の負う』先輩ケアマネがいないのだ。
誰かが、しっかりと指導しなければ、新人は、大事なところで大きな間違いをする。
それが、結果的には、会社の存続の危機にも繋がりかねない。
その責任を、会社は、その元新人ケアマネ独りに負わせて、『トカゲのしっぽ切り』をすることで、危険を回避するのだ、『全てあなたが悪い』と言って。

 

私は、同僚達が既にその知識を持っていたのに、教えてくれなかったこともあった。

質問しても『私では解らない』という返事が何度も返ってきた事も少なくなかった。

きちんと教えてくれたことも確かにあった、しかし、頻度としては少なかった。

ちなみに、みなさん主任ケアマネである。

主任ケアマネの責務のひとつには、後進の指導もあったはずだ。

たとえなくても、先輩や上司が後輩や部下に仕事を教えるのは、世間では『当たり前』のことだ。


 

私は、いろんな職種で、沢山の後輩を育ててきた。


本当に『本気で後輩に仕事の指導』をしているときは、自分の仕事が2倍になる。

そして、一般企業で働いていたときは、私は自分の仕事は後まわしになることもあった。

それだけ、『後輩を育てると言うことは、それほど大変で大きな仕事』だった。


なぜなら、その『社員としての後輩の今後』を、そして何より『これからの会社を大きく左右する大事な仕事』だからだ。


後輩が仕事を覚えられないと、教えた側にも怒られるのが一般企業では普通にある。

『お前の教え方も悪いんだ。指導の仕方をもう一度考えろ』と。

営業部門での後輩の指導は、指導する側も上司にかなり厳しく怒られた。
なぜなら、会社の営業部門は、会社の利益に直結する部門だからだ。

そんな企業で、私は社会人としてスタートしたので、『後輩を育てるという仕事の重要さ』は骨身にしみている。

 

 

でも、介護業界では、仕事を教えるという概念すら無いように私は思った。

はっきりいって、私は、私の価値観に当てはめると『介護業界で、まともに仕事を教えてもらえたことが無い』と、言い切れる。


仕事での『指導』というのは、口頭で言うだけのものではない。

後輩や部下の仕事のチェックをして、具体的な助言とサポートをして始めて『指導』というのだ。


でも、今の私は、基礎からやり直している。

主任ケアマネが複数いた職場に在籍していたにもかかわらずだ。

少なくとも会社が『本当に指導をしていた』なら、ここまでの基礎から自分で勉強をし直すことはしないで済んだはずだ。

 

これが、ケアマネ業界の現状。

ケアマネ業界は、後進の指導が出来ないのだ。

 

 


『先輩ケアマネが後輩に仕事を教えないのは、同僚ではなく『ライバル』だから。『ライバル』には自分の手の内は見せない。もし、それを後輩に教えたら、自分の武器がなくなる。そして、利用者を後輩に取られてしまう。だから、先輩ケアマネは、肝心なことは教えないのだ、『ライバル』を減らすために』

 


こんな文章を目にしたことがある。

そのときに、妙に納得している自分がいた。

 



職能団体が、専門職としての底上げをしようと頑張っているようだ。

しかし、現場では、後輩を育てるどころか、『潰している』のが現状だ。

 

はっきり言い切れる。

他の人が私の立場だったら、もう、とっくに潰れている。

 

私は、ケアマネの仕事に就けるようになるまでに、他の人より乗り越えなければならない『壁』が、あまりにも多すぎた。

父は、病気と闘いながら、それでも、私が『今の状況になること』を恐れていた。


だから、私はどうにか踏ん張れた。

悪友達にも助けられた。


なにより、このままでは父に申し訳ないと思った。

 


今、私は、本当に貪欲にケアマネとしての自己研鑽の為に勉強がしたい。


一番、ケアマネとしての基盤をつくるのに適した時期に、自分の病気と父の病気で、その機会をつくることができなかった。

そして、『本当の意味』で、そのときに助けてくれる人は、業界にはいなかった。


ケアマネとしての基盤をつくれなかった2年間の遅れを取り戻したい。


まだ、体調が戻りきらない、まだ思うように動ききれない身体だが、その日の体調と相談しながら、基礎からやり直している。


『運営基準の13条』の『意味』も、今なら読んで理解することも出来る。

『介護サービス計画書の様式及び課題分析標準項目の提示』の内容も今なら読んで理解できる。


過去の私には『独りで読んで理解する』のは無理だった。


少なくとも、これらを今読んで理解できるようになったということは、ケアマネとして、その分だけは成長は出来たのだろう。

だから、過去に解らなかったことも、今なら解ることも多いかもしれない。

確認するためには、どこから情報を引っ張ってくれば良いのかも、ようやく解ってきた。

今までの失敗に対して、今後どうすれば良いのか、その答えを今つかみかけているところだ。


3年弱、独りで苦しんだ結果、ここまでようやくたどり着いた。

だから、今までの遅れを少しでも取り戻せるように、全力を尽くしたい。

 

でも、私のような苦労を、これからケアマネの仕事に就く新人さんには、して欲しくないと、願っている。

 

本当に、後輩ケアマネさんには、こんな苦労はして欲しくない・・・。

 

心から、そう願っている。

 

 


私は、初めて『本気で主任ケアマネになりたい』と、思っている。

主任ケアマネなって、やりたいことを見つけたからだ。

それは、スーパービジョン以前に、『後輩ケアマネ』を育てたい。
自分が持っているもの全てを、後輩ケアマネに教えて伝えられるようになりたい。
自分と同じような苦しい思いをする新人ケアマネさんをつくりたくないから。
そして、新人ケアマネさんに、理不尽なことで潰れて欲しくないから。

その為にも、ケアマネとして、そしてその前に一人の人間として、もう立派なオバサンだけど、これからもしっかりと自分自身も成長したいと、今、思っている。




前職場の事をかいたので、前職場への非難ととる人もいるでしょう。

ただ私としては『自分の経験をありのままに書いただけ』です。

このことで、私を非難される方は、私を非難する前に、『ご自身がしっかりと責任を持って後輩を育てている』と言い切れるのか、『しっかりとご自身を顧みて』から、その上で私を非難して下さい。

この文章で、私を非難される方は『しっかりと責任を持って後輩を育てた経験が無い方』だろうと、私は推測しています。






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『命』をみつめた1ヶ月

仕事が休みの朝9時過ぎに、仕事の携帯電話が鳴った。

 

「たった今、Aさんが亡くなりました。」

 

連絡を下さったのは、Aさんが救急搬送された病院のソーシャルワーカーさんからだった。

 

A様は、独居身寄りなしの男性で、多くの疾患を抱えていた。

在宅酸素も必要だったが、本人が強く拒否して使用していなかった。

それどころか、「これが一番の薬だ」と、たばこまで吸っていた。

 

包括から依頼を受けて、私が担当になって約2年ほど。

『他人からの世話』を嫌がるAさんを、包括の担当のかたは、2年以上かけてようやく介護保険の利用まで引っ張ってきて、私が担当ケアマネになった。

当時の私は、まだ、若葉マークの新人ケアマネだった。

自分に本当に出来るのかと、不安でいっぱいだった。

 

 

薬の管理が出来ないAさんは、体調管理のため、訪問看護だけは絶対に必要だった。

嫌がるAさんに「主治医の先生から『訪問看護さんには絶対来て貰うように手続きしてくれ』と、私いわれてるんで、手続きします!!」と、強行しました。

ちなみに、嘘は言ってません、主治医の先生の意見は、『訪問看護は必要』でしたから。

 

初めはかたくなだったAさん、訪問看護さんと私は焦らずに時間をかけて、私たちを受け入れていただけるように努力していった。

そして、少しずつAさんも私たちを受け入れてくれるようなってきた。

ふるさとの話、高度成長期の働き盛りの頃のことなど、少しづつ自分の事を話してくれるようになった。

 

今年の春に体調を崩した。

食事の準備も、預金を下ろすことも、病院へ行くことも出来なくなった。

私は、ここぞとばかりに、Aさんにいった。

「人間は、具合が悪くなることがある。こういうときのために、ヘルパーさんに来て貰おう。体調が良いときは部屋の片付けをてつだってもらって、具合が悪いときは、買い物や食事の準備をしてもらえるから。」

「私たち(訪問)看護師さんややヘルパーさんやケアマネージャーの私は、法律上、Aさんの代わりに、お金を下ろしに行くことが出来ない。だから、そういうお手伝いを出来る方(=社協の自立支援事業)にも、定期的に来て貰おう。」

と、必要性を説明して、訪問介護と社協の自立支援事業の支援を依頼した。

 

この支援は、何度も提案したが、「俺は自分で出来るから、そんなのいらないっ!!」と、頑なに断られ続けていた。

だから、Aさんに必要性をわかって貰えるまで、つまり『体調を崩して、そういう支援が必要だ』と、痛感して貰うまで待つしかなかった。

もちろん、すでに『根回し済み』だったので、すぐにプラン変更をした。

Aさんは拒否をすることなく、ヘルパーさんも社協の職員のかたを受け入れてくれた。

「みんなが来てくれるから、ありがたい」と、何かの折に言葉にしてくれた。

そのときの表情をみて、『本当の気持ちだ』と、私は思った。

 

何度か体調を崩しかけたが、ヘルパーさんの生活支援のおかげで、食事を食べることが出来たので持ち直した。

それでも、外に出るのが辛くなってきていたので、Aさんは自分でクリニックへ行こうとしなかった。

『誰でもいい』というかたではないため、私が、何度も足を運び、説得をしてクリニックへ強制連行した。

先生に、「私も毎回、通院同行が出来るとは限らないんです・・・」と、グチをこぼしたら、「じゃあ、夜になるけど、俺のほうからいくよ、ただレントゲン検査の時だけは、こっちに来て欲しいから、そのときだけ、ケアマネさん頼むよ」と、特別に往診をしてくだることになった。

そのおかげで、今年の酷暑はどうにか乗り切った。

 

しかし、涼しくなってからAさんの様子がおかしくなった。

ヘルパーさんから、「最近横になっているままで起きない。」とのこと。

訪問看護師さんも注意して見ていてくれた。『バイタルは元々良くないかただが、それよりも、やせてしまって、肌のつやがなく、意欲低下の状態になっている』と、訪問看護師さんから報告を受けた。
やがて、食事もとれなくなり、水分摂取も少なくなっていった。

昨年まで、支援者一同『火事になったら困るから、使わないでくれ!!』と、いつもAさんに頼んでいたのに、『気をつけているから大丈夫だ』と、使い続けていた石油ストーブも石油が入れなくなったため、暖房器具が小さな電気ストーブのみになった。
Aさんに、「これから寒くなるから、電気ストーブと電気カーペットを買おうよ」と何度も言うが、「まだいらない」「寒くない」と購入を拒否した。

当然、暖房器具をそろえないといけないが、勝手に買うことは出来ない。

Aさんは、認知症があるといえ、判断力は充分にあった。自分の了解をしていないことを勝手にやったら、Aさんが激怒して、支援者全員拒絶され、出入禁止になることはわかっていた。

 

Aさんの了解を得て購入したいと考える、ケアマネである私を含めた福祉職サイドと、医療の視点で迅速な対応を求める医療職サイドで、ズレが出始めた。

 

本来ならば、中立の立場に立つべき私は、福祉職サイドの視点に完全になっていた。

つまり、完全に自分の立ち位置を見失っていたのだ。

その為、訪問看護の方達の要求が、あのときの私には『あまりにも無理すぎたもの』に感じてしまい、それ故に、訪問看護との衝突も何度かあった。

そのなかで、医療職サイドへの『不信感』が、『あのときの私』には出てきてしまった。

ケアマネとして『大きなミスをした』と、今なら穴があったら入りたいほど、痛いほどわかる。

しかし、あのときの私にはわからなかった。

 

訪問看護のかたからの「Aさんが、タダなら電気カーペット欲しいって言っている」のひと言で、福祉職サイドで気がついたことがあった。

もしかして、お金の残金を気にしているのではないか・・と。

 

だから、社協の職員が本人に預金通帳を見せて、まだお金があるから大丈夫である事を説明したら、「ならば買う」と、言ってくれた。

私はその脚で、飛んで買いに行った。

翌日から更に冷えるのがわかっていたから。

重たかったけれど、バスを使ってAさん宅に持って行った。

電気カーペットのセッティングは社協のかたが手伝ってくれた。

 

そのときに、私は、Aさんの言葉ではなく、その言葉に向こうの『Aさんの本音』がわからないと、何も出来ないと思った。

Aさんの本当の気持ちが知りたい』と、そのときにはじめて本気で思った。

そして、このまま、『自宅で、独りで苦しみながら死なせることだけは、絶対にさせない』と、自分のなかで決めた。

 

 

本人への説得を繰り返して、電気ストーブの追加購入、ブレーカーの交換、そして電気カーペットをそろえた。

暖房設備をそろえることを優先したのは、部屋を暖かくしないと、何かを飲む気にもならないだろうと思ったから。

そうしたら栄養が全く摂れないし、脱水も起こすと思ったからだった。

 
しかし、Aさんはエンシュア一缶も一日で飲めなくなっていた。
ただ、お茶と水分は取ってくれていた・・・生きるためには足りない量ではあったが・・・。

暖房設備が整ったので、急いでプラン変更をしようと視点を切り替えた。
『最期』を考えた上でのプランを。

 

ヘルパーさんが入る回数を増やして、福祉用具や夜間巡回などの支援の追加など、大きくプラン変更することにした。サービス担当者会議の日程も決めた。区分変更をかけることも当然することにしていた。


本来ならば、『生活環境を整える』ことと『プラン変更』を同時進行をするべきだったのはわかっていた。しかし、とにかく命を守るためには、まず、部屋を暖かくすることが最優先だと私は思って動いていた。

それでも、動きながらも、訪問看護スタップからの要求を頭の中で整理しつつ、助言を求めるために訪問間ステーションへ電話をして、助言も貰って、頭の中では、今のAさんに合わせたプランをすでに立てていた。

 

そんなかで、Aさんの状態悪化と意欲低下は更に進み、主治医から「レントゲンを撮りたいから連れてきて欲しい」と、連絡を受けた。

しかし、私が何度も訪問して説得するも、Aさんは「病院へ行きたくないっ!俺は家に居るんだ!!」と、繰り返し受診を拒絶した。
その拒絶ぶりだけは『元気』だった。

見かねた主治医は、クリニックの看護師にさんを自宅へ向かわせて採血だけした。

 

日曜日にヘルパーさんから連絡が入った。

Aさんがトイレに行けないようで、部屋のゴミ箱に排尿している。念の為に尿瓶とリハビリパンツを買いたいけど、いいですか?」と。

 

ヘルパーさんの報告を聴いて、私は『強行で動かなければならない時が来た』と、腹をくくりました。

Aさんの性格からして、私のなかで、自分の事は自分でしようとするAさんが、自力でトイレに行けなくなったら『危険』と、思っていました。

もう猶予はない、明日中に強行しなければ・・・そう決めました。

 

私は、ヘルパーさんに「本人の了解を得られたら買って下さい。それと、少しでも『おかしいな、変だな』と、思ったら、迷わすに訪問看護ステーションへ電話をして下さい」と伝えました。

 

訪問看護への連絡の指示は、介護職は、電話していいのか、ためらってしまう場合があるため、あえて言いました。

間違った判断でも『ケアマネからの指示』とすればいいわけだし、なによりも後で『あのときに電話すれば良かった』と、ヘルパーさんに後悔して欲しくなかったからです。

 

月曜日に、最初にAさん宅に訪問した訪問看護のスタッフから電話がありました。

Aさんの状態が更に悪化している。これじゃクリニックへ連れて行けない、先生に連絡したから、ケアマネさんに連絡が行くと思う」とのこと。

私は、訪問先のモニタリングを早急に終わらせて、Aさん宅へ向かいました。

この日は、元々事務業務をするつもりでいたので、訪問は1件だけにしていました。

でも、頭の片隅にこのようなことも想定はしていました。

訪問して私が目にした、Aさんの姿は、金曜日にあったときと全く違い、介護職出身の私でも、『このままにしては危険』とわかるほどでした。

しかも、私ひとりでの車椅子の移乗は、Aさんの衰弱と苦しそうな様子から危険で無理だと判断し、訪問介護事業所へ電話しました。先方は毎日Aさんの支援にはいっているので、状況はある意味ではケアマネの私よりわかっているので、即動いてくれました。

しかも、来てくれたヘルパーさんは、『くせ者』ご利用者様でも柔軟に対応ができる、私が信頼しているサ責のヘルパーさんだった。

このヘルパーさんとならば、絶対に連れて行ける、たとえ強制連行でも。

そう確信が持てた。

 

か「Aさん、クリニックの先生のところへ行くか、救急車を呼ぶか二つに一つだよ」

A「いやだ、このまま家に居たい、死んだっていい!」

へ「Aさんをこのままにして帰れないよ!」

か「そんじゃ、先生のところへ行こうよ、先生が「脱水を起こしてるから点滴をしたいって。」脱水で死んだらつまらないよ!」

こんな『すったもんだ』を1時間した。

Aさんが「(クリニックの)先生のところへ行って、必ず家に帰ってこれるのならば行く」と、折れてくれた。

クリニックへ電話して、了解をいただいたので、ヘルパーさんとふたりがかりで車椅子へ移乗してクリニックへつれて行った。

そこで、クリニックの看護師さんとバトンタッチして一度事務所へもどった。

 

夕方にクリニックから電話がはいった。「点滴が終わったので迎えに来て欲しい」と。

私は、ヘルパーさんの助けをまた求めた。

『給付の上げかたは、後で考えよう、自費サービス扱いも含めて』と、訪問介護事業所の責任者のかたと即決で決めた。

とにかく『Aさんのことが優先だ』と。

 

クリニックへ行ったら私は診察室へ呼ばれた。

先生はとても深刻な顔をしていた。

見せられた胸部レントゲンの写真で、素人の私でも深刻な状態であることは十分すぎるほどわかった。

先生から、Aさんの状態の説明を受けた(ここでは詳細は書けないのでご了承ください。)

そして、『レントゲンだけではわからないから、設備のある病院へ搬送したいのだが、本人に何度説明しても拒否されているから、困っているんだよ』と、先生の話。
そして『救急搬送するならば、今しかない、その後ではもう遅いんだよ』と先生は言葉を続けた。

 

医師である先生が決められないことは、ケアマネである私は決められない。

それに、ケアマネには、沢山の義務はあるけれど、決定権は一つとして持っていないのだ。

本人と家族の意向に基づいてケアプランを立てるのが、ケアマネージャーの一番の仕事。

しかも、私は、ケアマネの業務を遙かに超えたことまでしているが、それでも、全てはAさんの意思に基づいたものだった。

 

でも、このまま家に帰れば、Aさんは、数日を待たずに、苦しみながら孤独感のなかで死んでいくことになるのは、私にも充分にわかっていた。

だから、私は、最後の賭けに出ることにした。

「先生、私がもう一度だけ、Aさんを説得してみます。それで駄目なら、家に連れて帰ります。」

ケアマネとして、これをしても良いのか、正直わからなかった。

ただ、『このまま自宅で、孤独ななかで苦しみながら死なせなてなるものか!』その想いだけで動いた。

 

別室でAさんとふたりだけになった。

ヘルパーさんは、私がお願いする前に配慮して下さり席を外してくれた。

 

私は、先生から受けた病状の説明をありのままにAさんに伝えた。

「だから、原因を調べないと、先生も対応が出来ない、だから、原因を調べるために大きな病院へ行こう。原因がわかったら一緒にその先のことを考えよう。」

私は、そう繰り返してAさんに言った。いや、訴えていた。

そのときの私は、ケアマネではなく、一個人のかたつむりになっていた。

まだ掴めていないAさんの本心に、ぶつかっていくためには、自分の本心もぶつけなければならない。

『ケアマネの立場』とかそんなことにこだわっている場合ではなかった。

身寄りのない人の在宅の看取りはとても困難だ。難しい条件が全てそろわないと不可能だ。

その時点ではAさんの在宅のターミナルの支援は不可能だった。

だからこそ、とにかくAさんを助けたかった。

Aさんを孤独ななかで死なせたくなかった。

 

『嫌だ』と首をふるAさん。

私は、最後にずっと言うのをためらっていた言葉を、泣くのを堪えながら、なかば叫ぶようにAさんにぶつけた。

もう、それしかなかった。

 

「私はAさんに長生きして欲しいんだよ!お願いだから、自分から生きることをあきらめないで!!」

 

もしかしたら、言ってはいけない言葉だったかもしれない。

でも、これが私の『本当の気持ち』だった。

 

「だから、原因を突きとめるために、大きな病院で検査を受けて、お願いだよ!!」

 

私が言っていたことは『懇願』になっていた。

 

Aさんはうつむきがちに言った。


「わかった、検査を受けにいく。」


その言葉をいってから、ゆっくりと顔を上げた。


その表情から、考えた末のAさんの結論だったことは、私でもわかった。

 

「検査を受けて、その結果が出たら、その後のことは一緒に考えよう」

 

私の言葉にAさんは、「そうだね」と笑って下さった。

 


先生が搬送先の病院を見つけて下さった。


ケアマネでも他人であるため、家族の代わりは出来ないから、私は救急車には乗れなかった。

救急隊員に同乗できない事情を説明し、その代わり名刺を渡して「明日の朝一番に病院へ連絡しますと伝えて下さい」と、お願いした。

そして、出発する救急車を見送った。

 


搬送された翌日と次の日に、事務手続きの関係もあり病院へ行った。

Aさんに頼まれたことを対応した報告がしたいと、その都度、ソーシャルワーカーさんに依頼して、ソーシャルワーカーさん立ち会いのもと、両日ともAさんに会うことが出来た。

 

私の主観が入っているのは自覚しているが、酸素マスクをつけたAさんは、とても穏やかに笑っていた。

私はAさんに、「家に帰るためにしっかり検査をして、原因を調べて貰って下さいよ。そうでないと、私もAさんが自宅で過ごすための対策のしようがないので、協力して下さい。」

そう頼んだ。本気で。

Aさんは「そうだね、その時は宜しく頼むよ」と、サチュレーションがついた左手を上げた。

私は「もちろん、私で良ければ!」と、Aさんに軽く敬礼した。

そういってふたりで笑った。

 

私が帰ってしばらくしてから、Aさんは急変した。

意識どころか心臓も停止寸前だったそうだが、奇跡的に持ち直して、看護師と話ができるまでにはなった。

ただ、私が会ったときよりは、状態が悪くなっていると、病院のソーシャルワーカーさんから連絡を受けていた。

いつ何が起きてもおかしくないと最後に言われた。

 

そして、Aさんは、病院から彼岸へと旅立った。

 

独居身寄りのないご利用者様のターミナル。

これが、ケアマネとして初めての『ターミナル』に関わる支援だった。

 

 

ケアマネとしての私の対応に賛否両論は出るだろう。

でも、今でも、Aさんを救急搬送したことは、私は後悔していない。

Aさんは本当に嫌なら、納得が出来ないのなら、絶対に『検査を受けに行く』とは言わなかったと思う。

でも、それは、私の一方的な考えかもしれない。

このことの、正しい答えは永遠にでないままだ。

 

そして、このひと月の私のAさんへの対応も・・・。

 

 

Aさんが亡くなったことを各事業所へ報告した。

私が不信感を持ってしまっていた、訪問看護の所長へも電話して、Aさんが亡くなったことを報告した。

「医療職のかたから見たら、私の対応はケアマネとして至らないところがあったと思います。」

そのときは、本当に素直に謝るつもりでいた。

多分、本当に『するべき事』が他にあったのかもしれない・・・そう思っていた。

所長ならそれを知っているかもしれない・・・と、思った。

そのときは、なぜか、もう不信感は全くなかった。

 

 

しかし、所長からいわれた言葉は

 

「かたつむりさん、よく頑張ったよ。」

 

そして、クリニックでのAさんの説得をしたときの私が言った言葉を所長に伝えたときに、所長が私にこう言ってくれました。

 

Aさん、そう言ってもらえて、きっと嬉しかったんだよ。」

 

私は、所長のその言葉を聴いて、堪えていた涙があふれた。

 

医療職サイドと意見が違ってぶつかり合っていたけれど、Aさんへ想いは同じだったのだと・・・そんな当たり前のことが、ようやくわかりました。

 

所長のその言葉で、私のなかの医療職サイドへの『わだかまり』が、ようやく溶けました。

 

これからも、視点が違う医療職のかたとは意見がぶつかることがあるだろう。

でも、意見は違えど、『ご利用者様への想いは同じ』なのだと、それは、これからは信じることが出来ると思いました。

 

所長とは「これからも宜しくお願いします。」と互いに言って、電話を切った。

 

 

 

病室でみた、酸素マスクをつけながらも穏やかな笑顔のAさん。

それが私がみた、Aさんの最後の姿でした。


最期は病院だったけれど、身内のかたはいなかったけれど、病院のスタッフのかたに見守られて、息を引き取ったAさん。

自宅で死亡した状態で発見されて、『警察介入される』かたちにならなくて、本当によかったと、それだけは思っています。

 

私は、Aさんが自宅に戻ることは絶望的とわかっていながら、それでも、私は、Aさんが自宅に戻ったときのプランをどうするか、病院から電話を受けるまで、本気で考えていました。

 

Aさんだけでなく、私自身もあきらめたくなかったのです。

もう一度Aさんが自宅に戻ってくることを。

 

Aさんから多くの事を学びました。

 

Aさんと出会えたことに感謝しながら、彼岸へと旅立ったAさんのご冥福をお祈りします。

 

Aさん、本当にありがとうございました。

 

 

合掌



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『地獄』から這い上がって

ご無沙汰しています。

この2週間は首と全身の痛みがひどすぎて、辛すぎる毎日を送ってます。
ヘルニアが悪化したわけではなく、
家族の私の頸椎ヘルニアの無理解から
無理をして部屋の掃除をさせられた結果、
首と身体の痛みが増したのです。
そのことが原因で、両親とただいま大喧嘩中です。
(約2週間口をきいてません)


twitterで、『ある施設の入居者が誤嚥性肺炎が死亡したことで、施設を相手に遺族が訴訟を起こした』という記事をみた。


ご高齢のかたは、身体機能が低下していくことはどうしても避けられない。
施設や介護スタッフが必死に気を付けても、結果的に『避けられない事』として、このようなことは起きてしまう。
そのたびに訴訟をおされたら、介護の仕事は出来なくなる。
人間は生きている以上、『老い』は避けられない。
『老いていく』以上、命にかかわる危険は増えていく。
これを100%確実に回避するのは、どんなに努力しても不可能だ。

なぜ、家族はそれをわかってくれないのか・・・このような記事を見るたびにいつも思う。


そして、このようなことが取り上げられるたびに、私はいつも『自分の過去の出来事』を思い出す。

もう、10年以上たっているので、あえて、『過去の自分の出来事』を、ここで書かせていただく。

 
私が介護の仕事をはじめて、3年程たった頃のことだった。
当時働いていた施設で、ある男性が入居していた。
身体機能が急激に低下しており、嚥下力もかなり落ちていた。
夕食は毎日近所に住む家族が来てくださって、食事を介助してくださっていた。
あれほど、嚥下力が落ちて、常にむせ込んでいる身内の食事介助をすのは、家族としても恐かっただろうと思った。
それでも、毎日夕方に食事の介助に来る家族の姿に、その入居者様とご家族との強い絆を感じた。

常にむせ込みながらの食事介助は、当然危険を伴う。
だから、怖がって、その方の食事介助をしない(=逃げている)介護スタッフも多かった。
正直、私も恐かった。

でも、みんなして逃げていては、その方は食事ができなくなる。
なにより、介護を仕事としている者が、そのような理由で逃げるのは『みっともない』と、私は思った。
だから、私はその方の食事介助をした。
皆逃げているから、当然、私が介助をする機会が増えてしまった。
それでも、私はその方の食事介助を続けた。

ある日、とろみをつけた水分を介助で飲んでいただいていた時だった。
ご利用者様が突然苦しみだした。
気管に入ったことがすぐにわかった。
他の職員に状況を説明して、すぐに看護師に来てもらうように頼んだ。
しかし、看護師はなかなか来なかった。
  

後から知ったが、看護師に連絡をした職員が『誤嚥を起こして窒息している』という肝心はことを、看護師に伝えて居たかったのだ。
そのため、看護師は緊急性がわからず、結果的に来るのが遅くなったのだ。


当時は、まだ黙認されていた時代だったので、私が吸引器で、必死にのどに詰まったとろみの水分を取ろうした。
しかし、私の力では出来ない事はわかってはいた。
それでも、必死に吸引した。
そして、ご利用者様の動きがとまった。
その後に看護師たちが来た。
私が事情を説明すると、看護師がベッドに乗り心臓マッサージを開始して、他の職員が救急車要請をして、救急車が到着するまでにベッドごとご利用者様を1階までお連れした。
その時も看護師は心臓マッサージを行なったままだった。

救急車が来て搬送される時、私は当然自ら救急車に同乗した。看護師のひとりも同乗してくれた。
その時その看護師は、『この仕事をしている以上、こういうことはある』と言ってくれた。
その時は・・・。

ご利用者様は、結局搬送先の病院で死亡確認をされた。

そのあと私は、施設長と看護師とともに警察署へ行った。
 『事情聴取』を受けるために。
私はかなり長い時間事情聴取を受けた。

警察のかたが、最初に言った。
「介護の仕事をしている以上、こういうことは必ずある。だから、貴方は悪くない。でも、あとから家族が何を言ってくるかわからない、そのために、事実を説明する必要がある。だから、事情聴取をしなけばいけない。辛いだろうが、話してほしい」と。

私は、気力で、ありのままを説明し、警察の質問に必死で答えた。
事情聴取が始まったのが午後の1時位だったと思うが、終わったのは夕方の4時をとっくに過ぎていた。

取り調べをした警察のかたが、私にもう一度言った。
『介護の仕事をしている以上、こういうことは避けて通れないことだ。どうか、今日のことを乗り越えて、これからも頑張ってほしい』と。


遺族の方から、責められることは全くなかった。
毎日夕方食事介助に来ていたから、誤嚥の危険性は、ご家族なりにわかってくださっていたのだと思いう。
だから、表向きは病気で亡なったことにしてくださっていた。
息子さんは、私に『どうか、ご自分を責めないでください』と何度もおっしゃってくださった。
本当に、ありがたかった。


だから、私は、逃げずに仕事を続けた。

しかし、職場の人達の私へ向ける言動が、残酷すぎた。

施設長をはじめ、ほとんどの同僚に、私を『人殺し』扱いされた。

副主任からこう言われた。
「あなたしたことは、『過失致死』だ」と。
数人の同僚から、何の説明もないとはどういうことだと責められたが、説明をする会議や報告の場を施設側で作る様子もなかったし、自分でセッティング余力などあるはずもなかった。
味方ががいない中で、仕事をすることだけで精いっぱいだった。
同僚たちから責められ続ける中で、仕事をすることで精いっぱいだった。

事故報告書を何度書いて出しても、『書き直し』と言われて返された。
その意図は、『私かたつむりの過失である』と書かせたいことは、最初からわかっていた。
でも、最後まで『自分の過失である』とは書かなかった。
自分が悪いところは、全くないとは思っていない。
でも、事故が起きた原因を、施設全体で考えもせずに、全てを私の責任に押し付けようとする、施設側の考えが許せなかったし、辛かった。

私を擁護してくれる人はほとんどいなかった。
一緒に救急車に乗ってくれた看護師さえも態度と変えて私を非難する側についた。

当時、うつ病を患っていた私は、完全に追い詰められたことで、病状が急激に悪化した。
父は『年寄りはいつか死ぬ。こういう死に方だって当然ありえる。そのことで、お前を責めるような施設など辞めてしまえ!』と、言ってくれた。
父のその言葉に背中を押されて、退職届を出した。
退職届は当然受理された。


そんな、打ちのめされた状態の中で、介護福祉士の試験を初めて受けた。
1次試験のときも、2次試験のときも、終わって家に着いたら、動けなくなって、両親の部屋の床で2時間以上寝たままになっていた。
満身創痍で受けた国家試験だった。
そんな最悪の状態で受けた試験だったが・・・合格した。
自分でも『奇跡』だと思った。



仕事を辞めてから、自分の部屋に籠ることが多くなった。
救急車の音を耳にするたびに、『あの時』のことを思い出して、耳を塞いで泣いていた。
暗い部屋で、膝を抱えて過ごすことも多かった。
何度もカッターの刃を見つめたこともあった。

そんななかで、私が唯一外に出ることができたのが、フルートのレッスンを受けるため音楽教室に行くときだった。
フルートを吹いているときだけ、現実から逃げられた。
また、悪友看護師が、電話でいつも私の話を聴いてくれた。
私の話を聴いてくれていた彼女は何度も言った。
『アンタの身に起きたことはの他人事でなはない、私もいつ、その立場になるかわからない』と。



本気で介護の仕事を辞めようと思った。

色々な事と引き換えにして、働きながら大学へ行き福祉学の勉強をして、介護業界に飛び込み、働きながら社会福祉士の国家試験に合格して、最悪の中で介護福祉士も試験も合格した。

でも、もう、この仕事は続けられない、あまりにも辛すぎる・・・と思った。
 


しかし、ある日、なぜか、こんなことを考えた。

『このまま、私が介護の仕事を辞めたら、亡くなったご利用者様はどう思うだろう・・・』と。

その方が結果的ではあるが、その命と引き換えに『私に教えてくれた事』があるような気がした。

このまま逃げては、亡くなったご利用者様に、顔向けできない。

あの事故にたいして、過失責任が問われることはなかった。
けれど、自分の介助中にひとりの方の命が消えたことは事実なのだ。
そのことに対して、刑事責任や民事の責任はなくても、その事実を重く受け止める責務は自分自身にはある。

皆が忘れても、私自身は一生忘れてはいけないことだ。

そして、あえて『これからも介護の仕事を続けること』が、『その方に対しての私が出来る唯一の償い』でもある。




そう思えた時に、『もう一度介護の仕事に戻ろう』と、迷わずに決心ができた。



前を向けるようになるまでに1年かかった。
 
 
 
 
 
その辛く哀しい経験と、苦悩の日々のことは、すぐに活かされることになった。





就職した施設での夜勤中のことだった。

私が休憩時間に入り、仮眠をとろうとしたときだった。

仮眠室のドアを同僚が強くたたいた。

『○○さんが、息をしていない!!』

同僚がそう叫んだ。
 
 
私が、その方の部屋へ行くと、第一発見者の同僚が心臓マッサージをしていた。

しかし、その後、どうしたらいいのか、同僚たちはわからず、みんな動揺していた。

だから、私が動いた。

第一発見者の同僚に言った。

『私が心臓マッサージをする!!だから、救急車要請をして施設長に連絡をして!!』

救急搬送要請をする際に、発見時の説明が必要だとおもい、第一発見者の同僚に指示した。

私は、心臓マッサージをしながら、同僚たちに指示を出しつづけた。

『救急車がきたらすぐに入れるように、施設の玄関を開けて待機していて!!』

『一人で大変だけど、ナースコールの対応はあなたひとりで対応して!!』

同僚が、それぞれ諸対応の為に部屋を出て行ったあと、私はひとりで心臓マッサージを続けた。
 腕が折れそうに痛かった。
それでも、今日の夜勤のスタッフで心臓マッサージをしながら指示だしを出来るのが自分しかいなければ、やるしかなかった。
とにかく必死だった。

救急隊が到着して部屋に来た時に、第一発見者の同僚に再度指示だしした。

『発見時の状況を救急隊員に伝えて!』

他の同僚にも同時に指示を出した。

『利用者様の情報を救急隊の人に伝えて!』
 
私は、救急隊員に『このまま私が、心マ(=心臓マッサージ)をしたほうがいいですか?!』ときいたら、『お願いします!!』と、すぐに返答が来た。

私が心臓マッサージをすることで、救急隊員が他の対応ができるのなら、そのほうがいい。
そう思って、腕の痛みを堪えて必死に心臓マッサージを続けた。
電気ショックをかけるときだけ、救急隊員の指示通りに手を離し、再度指示に従い、心臓マッサージを続けた。

それは、ご利用者様がストレッチャーに移乗するまで続いた。

ご利用者様がストレッチャーに乗った時に時計をみたら、発見から30分以上経っていた。

両腕のあまりの痛みと重さで自分の腕ではないような気がした。



救急車に職員の同乗を求められた時に、私が、第一発見者の同僚に同乗するように促した。
『医師に発見時の説明が必要だから、貴方がいかなくてならない』と。

状況は違えど『あの時』の私と同じだった。
しかも、同僚は一人で救急車に同乗するのだ。
まだ若い彼女には残酷すぎることはわかっていた。
でも、彼女が行くしかなった。
私は、彼女に、『財布と自分の携帯電話を持って行ったほうがいい、タクシーで戻ってくことになるかもしれないし、誰かと連絡を取ることになった時に、携帯電話がないと困るから』
そう彼女に伝えて、同乗する彼女を送った。

搬送先の病院が決まり、救急車が病院へ向かったところで、急変をすでに伝えている家族電話して、搬送先の病院を伝えて、向かっていただいた。
同時に、施設長にも電話で伝えた。
施設に向かっている途中だった施設長は、そのまま病院へ向かった。

ご利用者様は病院で死亡が確認された。

心肺停止で発見されたが、病院で死亡確認をしていただけたことで、警察が介入するという最悪の事態だけは避けられた。



第一発見者の同僚は施設に戻ってから、ずっと泣いていた。

まだ、若い彼女には残酷な経験だったろう。

『あの時』の自分と重なった。

しかし、私の時とは全く違う。

彼女は、『「見まわり中に、息が止まっているご利用者様を発見』したのだ。 
しかも、彼女は、『決められた時間に、きちんと各部屋を巡回していた』うえでのことだったのだ。
彼女には、『一点の非もない』のだ。

だから、私は彼女に言った。
『あなたは、夜勤中にちゃんと決められた時間に巡回をしていた。
 だからこそ、あの時点で発見ができた。
 もし、もう少し遅かったら、その場で救急隊員が『亡くなっているから救急搬送ができない』といわれて、変死扱いされて、警察が入れば、ご利用者様の遺体は警察に運ばれて検死されていた。
 それは、ご本人にも、ご家族にも、とてもつらい事。
 あなたが、きちんと仕事をしていたからこそ、救急搬送ができた。
 あなたは、やるべきことはしっかりやっていた。
 あなたは、何一つ悪くない。
 辛いだろうけれど、高齢者を支援する仕事をしている以上、このようなことはどうしても避け
 て通れない。
 私も同じような経験がある。
  だから、どうか、このことに負けないで、立ち直って、介護の仕事を続けてほしい』
 


しかし、彼女は、その後退職をした。


彼女には、時間がかかってもいいから、立ち直って、また、介護の仕事に戻ってきてほしいと、心から願った。




あの時のことが、今でも私の教訓となっている。


だからこそ、ケアマネとなった今、ひとりひとりのご利用者様の身の上に起こりうる可能性がある『事故』を予測して、少しでも回避できるよう努力している。
だからこそ、認知症のない判断力があるご利用者様で、無茶なことをするかたには、私は本気で怒る。
ご利用者様とそのご家族の生活をその身の安全を守るために、必要であれば、嫌われようとも、あえてご利用者様を怒る。
それでも、絶対に危険は完全には回避はできない。
だからこそ、リスク(=危険なこと)の話は、包み隠さずにご利用者様とご家族に話すことにしている。

ご利用者様とそのご家族はもちろん。
そして、現場で支援をしてださっているスタッフの方たちを守るために。


高齢者の支援に携わる人が、私のような辛い経験をしないで済むようにと願いながら・・・。



この私の文章を読んで非難するひともいるだろう。

だが、『ひとの命』を『ひとの人生』を背負って仕事をするということがどういうことか、本当に理解しているかたならば、安易な非難に言葉は言わないはずだ。
介護に携わる者がこのようなことと背中あわせで、ご利用者様と向き合って、懸命に仕事に取り組んでいることは、ご理解下さっているかたならば、非難の言葉はいわないと、私は確信している。

非難をしているひとは、『自分は安全な場所にいて、現実を知らずに安易に他人を非難している、無責任な人間』であると、私は思っている。

それでも、非難をするならば、自分で誤嚥と窒息などのリスクの高い高齢者の介護を半年、いや、ひと月24時間付ききりで、介護をしてから言ってほしい。


介護現場で頑張っている人たちが、どれだけ『多くの重いもの』を背負って仕事をしているか、わかれば、安易な非難は絶対にできない。
私はそう確信している。



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『恩を仇で返す』ご利用者様

このところ、キーパーソンが外国にいる方や、身寄りのない方などが、相次いで体調が悪化してしまい、家族が対応すべきことを、私が動く結果となったため、5月はかなりハードな1か月となりました。

おかげで、土日は疲れ果てて、仕事の追い上げができませんでした。

6月こそは、事務仕事の遅れを少しでも巻き上げたいものです。


私が最近担当することになったご利用者様(Aさん)は、身寄りのない女性です。

急激に具合が悪くなり、動けなくなって、あともう少し遅かったら死んでいただろうという状態で、近所の人に助けられました。

しかし、近所の人は誰に相談したらいいかわからず、ヘルパーをしていたと聴いたことがある、やはり近隣に住む女性(Bさん)に相談に行きました。

Bさんは、介護保険の申請手続きから、病院の対応、取り急ぎの自費ベッドの手配、ゴミ屋敷と化した自宅の片づけなど、無償の善意ですべてしました。

顔しか知らなかったAさんの為に。

そして、色々な経緯を経て、私がAさんの担当ケアマネージャーとなりました。


Bさんは、ヘルパー会社でサービス提供責任者をしていただけあり、とてもテキパキして、『今Aさんに何の支援が必要か』もしっかり把握していて、初めは私はBさんの意見に乗っかる形で、計画書を作成して支援のスタートをしました。
なぜなら、Bさんが必要と考えている支援内容が、私と同じことだったので、当然異論がなかったからです。

Aさんは『Bさんが神様のように見える』と、いっていました。
『Aさんがいなければ、私は死んでいた』と。
事実、本当に死んでいたと思います。

サービスもスタートして、Aさんも薬の効果が出てきたのか、最初に会った時よりも、随分状態が良くなってきました。
具合が悪くて動けないことのほうが多かったのに、自分で出かけることもできるようになりました。

すると、Bさんに対すAさんの態度が変わってきました。

はっきりいって、Aさんは、Bさんが『うっとうしく』なってきたのです。
Aさんの中でBさんが『ただのうるさいひと』に変わってしまったのです。
Bさんがはっきりとものを言う人だから、自分の痛いところや苦言を言われることが不愉快になってきたのでしょう。

AさんはBさんを避けるようになり、私に「これはBさんには言わないでほしい」と、いうことが増えてきました。

Bさんに対する否定的な言葉も出てきました。
 
 
2か月ほど前までは、BさんがいないとAさんは、『生きていけない』状態でした。

 それをBさんは、無償で善意で毎日、Aさんのことで数か月一生懸命に動いてくれていたのです。

それを、自分が動けるようなったとたんに、手のひらを返すような行動をはじめたのです。

たぶん、Bさんは、今までAさんの為してきた事にたいして、恩着せがましいことを言う人ではないでしょう。
介護業界で働く者として、状況を知っていて、そのままにしておくことができなったのでしょう。
介護専門職として、当たり前の、でも、簡単には出来なことを、Bさんは、当然のことのようにやってきたのです。

でも、最近はあからさまに、Aさんからは、Bさんを嫌悪する言動が見えてきました。


私は、Aさんの担当ケアマネージャーです。
だから、Aさんの意向を汲んだ支援をするのが仕事です。

しかし、かたつむり個人としては、AさんのBさんに対する態度が許せませんでした。
『Bさんは、アンタの命の恩人だろう!恩を仇で返す事をするのか!アンタは人として最低だ!』
そう、何度も怒鳴りそうになりました。
とりあえず、今は、抑えていますが、Aさんの『人として許せない言動』に、いつか、この言葉が口から出る可能性はあるとおもいます。


先日の定期訪問で、Aさんは私に不愉快そうに言いました。

「あなたは、私の担当のケアマネージャーでしょう?私が困ってることは何かわかっているはず。それなのに、なんで今日来るときに調べて持ってこないの?」

具体的な相談事は、Aさんからは、何ひとつとして聞いてません。

それで、自分の思うように動けと言うのです。

お金に困っていることはわかっていました。

しかし、Aさんは『働いていた時に税金滞納』をしているので、助成制度は使えません。
病気などで仕事が出来ずに滞納したということであれば、色々な手はあります。
しかし、元気に働いているときの滞納です。

義務を怠っている人間には、権利を使う資格はありません。

AさんはBさんに最初に言われています。
『滞納分を払わなければ、助成はうけられない』と。



利用者が何に困っているのかは、訊かなくても把握するのがケアマネージャーです。

だから、ある程度は、困っていることは何かは、私もわかっています。

しかし、Aさんが払う能力があったにも関わらず、税金滞納した以上、ケアマネージャーとして手が打てないのです。

はっきり言って、Aさんの自業自得なのです。

税金を納めずに、色々な助成制度だけは使わせろとは、虫がいい話です。



ですから、私は、Aさんに、こう答えました。

「私は、Aさんから、『こういうことに困っている』とか、『こういうことで何かあるか調べてほしい』とか、貴方から『相談を受けた』ことは一度もありません。
 その状態で、ここで、貴方が求めるものを提示できないことをたいして、御立腹されても、はっきり言って困ります。
 貴方が何を求めているのか、言っていただけなければ、私にはわかりません。
 福祉関連の制度は、とても情報量が多く、全てを頭の中に収めることは、少なくとも私には不可能です。
 ですから、私は、即答できなことが多いので、ご相談を受けた場合に即答ができないときは『調べてお返事します』というかたちで、他のご利用者様とはやっています。
 今までの色々な流れで、今は私がAさんの担当ケアマネージャーになっていますが、ケアマネージャーを選ぶ権利はAさん、貴方にあります。
 その場での質問に常に即答できる能力は、今の私にはありません。
 すべての質問に即答できるケアマネージャーがいいというのであれば、私ではなく、どうぞ、そういうケママネージャーさんをご指名してください。
 貴方に、ケアマネージャーを選ぶ権利がありますので。
 それと、税金滞納している以上、ペナルティはあります。
 ですから、様々な支援制度はありますが、税金滞納があるので、使えないもののほうが多いでしょう。」

そう言いました。

はっきり言って、きつい言葉です。
でも、人は、『国民の義務を果たした』うえで、『国民の権利を主張』することができるのです。
そして、世の中はAさん中心には、まわっていないのです。
さらには、ケアマネージャーは『御用聞き』ではありません。
専門職として、『その考えは間違っている』と言うことも、責務のひとつです。
 少なくとも、わたしは『言いなりケアマネ』ではありません。
『人の道として』間違っていることは、遠慮なくはっきりと言わせていただきます。
『それは、間違っている』と、はっきり言います。
たとえ、担当を降ろされようとも。
 

Aさんは、私の言葉に慌てました。

「かたつむりさんが、嫌だとか、不満だとか、そういうことではないのよ!」

と、必死に否定してきました。


私は、『困ったこととか、知りたいことは事前に教えて頂けますか、即答できなければ、調べてお返事しますので』と、Aさんに伝えました、笑顔で。


しかし、その一方で、そんなAさんを冷めた眼でみている、『かたつむり個人』がいました。


Aさんが、なぜ、兄弟と『絶縁状態』になっていることが、このことでよくわかりました。

これでは、兄弟は、Aさんとは、かかわろうとはしないだろうと思います。
  
  
  
担当ケアマネージャーとして善処はします。

しかし、かたつむり個人としては、Aさんは『許せない』分類の人間です。

『ケアマネージャーとしての立場』と『かたつむり個人の価値観』のはざまで、どうやって仕事をしていくべきか。


『個人の価値観』と『専門職としての価値観』の大きな隔たりの中で、どう自分をコントロールして、クライアントの支援をしていくのか
、という、専門職として、大切な、そして難しい『課題』と、初めて向き合うことになったようです。






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何を目指して、介護保険事業所を立ち上げたの?

先日、知人からメールが来た。


以前、ブログに書いた、『訪問介護事業所』を経営している、古い知人である。



用件は

『うち(知人の事業所)に来てほしい、給与等の待遇は出来る限り考慮するから』

という、引き抜きである。

彼の会社も人手不足らしい。



確かに彼には、若いころ世話になった。

だからと言って、仕事で公私混同するほど、私も馬鹿ではない。

古くからの知人であればなおさらだ。



彼は、リーダーシップもとれる。

経営者には向いているとは思う。



普通の会社であれば・・・。






彼に、こんなメールを送った。



私は、訪問介護の経験はありませんので、サ責はできません。

    ※サ責=サービス提供責任者
         ヘルパーさんを取りまとめて、
         ケアマネと連絡を取り合う管理職的な立場の人。

昨年に頸椎ヘルニアをしていますので、介護の仕事はできません。

 

今、私はケアマネとして、37件担当しています。難しい状況にあるかたも少なくありません。私はケアマネとして、この37人のかたとそのご家族に対して責任があります。安易に転職は即決はできません。

 

A(知人)さんは、私をどのような位置付けで、必要と考えているのでしょうか?

 

私は、まだ2年足らずのケアマネです。

それでも、自分なりに目指しているケアマネ像というのがあります。

それは、間違いなく、営利追及とは相反します。

 

ケアマネ事業所を立ち上げるつもりならば、私だけでは経験不足です。

 

それに、私の父が肺癌を再発しています。目立った進行はみられませんが、治療は打つ手がなく、ターミナルを見据えて、転院先の病院の手続きをとったところです。

父のキーパーソンとして動き回っている状態であり、今後の事をかんがえると、給料がさがるのは大変困ります。    

 

父のことを抱えたケアマネでいいのか、そのことも含めて、Aさんがヘルパー会社の経営者として、何を目指しているのか、お聞きしてから、父のことを含めて、考えさせていただきたいとおもっています。

 




彼から、翌日にメールが来た。

色々書いてあったが、つまりこの話は白紙にしてほしいということだった。

利益追求する社長としては、今の私は『考え方の相違』や『給与待遇面』『家庭事情]』を考えると、雇えないそうだ。

思った通りの返事が来た。

最初から、そう思っていた。

伊達に若いころからの付き合いではない。

 

 






彼に、今度はこんなメールを送った。



ご連絡ありがとうございます。

 

思った通りの返事がかえってきたというのが、正直なところです。

 

経営者として利益追及は当然のこと。

 

しかし、介護保険事業所であるなら、利用者さんの立場にたった質の高い支援ができないと、淘汰されます。

 

その相反するものを、どこに落としどころをつけるかが、大切だとおもいます。

 

利益追及で走りすぎると、間違いなく、職員は辞めていきます。

 

私がケアマネとして一番信頼しているヘルパー事業所は、小さな会社です。社長が、専門職として確固たる信念をもって仕事をしているので、ヘルパーさんの専門職としてのレベルが高いです。

 

私は、そこの会社には絶対の信頼を持ってお願いができます。

 

介護保険事業所は、利益追及の為には、まず、ケアマネが安心して依頼できる事業所でいられるかという事が大前提です。

 

一般企業と同じ感覚で経営をしていたら潰れます。

 

生意気なことを書きましたが、私も若いころのままのかたつむりではありません。

介護職として10年以上、様々な方のご支援をしてきました。

ある夜勤中に私は、心肺停止になったご利用者様の心臓マッサージをしながら、同僚たちに指示だしをしたこともあります。

私もそれなりに、介護職として経験を積んできました。

その上での、『専門職』としての私の意見だと思って、受けとめて頂ければ、幸いです。





彼が、この文章に対してどう思ったかは、わからない。

返事が来ないから。

まあ、まさか私から頭ごなしに言われるとは思っていなかっただろう。


こっちも伊達に、介護職や相談員を合わせて10年以上やってきたわけではない。









介護業界は、売り上げのあげにくい業界だと思っている。



特に株式会社にとって、介護保険での商売は、とてもやりにくい業界だと思う。

なぜなら、自分たちで、商品(サービス)の単価を決められないから。

介護保険で、加算項目があるとはいえ、基本的には一律で決められている。


そのなかで、経営者はどうやって、経費を賄い、人を雇い、売り上げをあげて、利益を出していくか。


利益を積み重ねていかなければ、株式会社としての『体力』がつかない。

会社に危機的な何かがあった時に、『利益積立金』がなければ、会社はすぐに倒産する。



介護業界での利益追求は、本当にやりにくい。



でも、客(ご利用者様)に来てほしならば、それなりに満足できるサービス(支援)ができなければ、客は来ない。

また、安心してケアマネが依頼できる会社でなければ、客(ご利用者様)は、紹介してもらえない。


たぶん、彼がそれがわかっていないのだろう。


ヘルパー会社として、仕事を依頼が来るようにするにはどうしたらいいのか。

そして、人材確保のためにはどうすればいいのか。

それを、もう一度考え直さなければ、ダメだと思う。


そして、何よりも・・・

彼自身が、『何をしたくて』ヘルパー会社を立ち上げたのか。



これが、ご利用者様を支援することとつながっていなければ、間違いなく会社は潰れる。



そのことに、彼が、自分自身で、早く気がついてほしいと思う。



頭が切れる男だけに、余計にそう思う。




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突き付けられた現実『孤独死の一歩手前』で・・

ただいま、事務所におります。

出勤ではありません。

自分の棚の掃除・整理に来ています。

いままで社長と二人で仕事をしてきましたが、ぽつぽつと職員が増え始めて、現在は4名でやっております。
また、来月に一人入る予定です。
ちなみに、また社長の『お仲間』。
お仲間同士で集まって仕事をするのもいいですが、価値観の近いもの同士で仕事をしても、新たな刺激もないだろうし、社長に『異論を』いう人もいないだろうから、社員の構成としてはどうなのかな?と個人的には思ってます。

『『イエスマン』ばかりを集めては、会社は潰れる』と、何度も社長に言ってきました。

苦言をいう職員を切ってしまっては、会社は潰れる。

豊臣秀吉は、苦言を言う『弟:秀長』がいたことが、天下をとれた理由の一つだと私は『勝手に思って』います。
そして、秀長が死んでから、豊臣家は傾いていたと、歴史の素人の私は、『勝手に解釈』しています。

私は『経営者』ではありませんが、会社経営も当てはまると思っています。


この話は、また、機会をみて、書きたいと思っています。



そんなわけで、私は、今まで広々と使っていた『棚』のスペースを空けなけばらなくなりました。
今まで、整理整頓などしている余裕もなかったので、時間をつくってやらなけらば・・・と、思ってましたが、そんな時間が取れるくらいなら、仕事が溜るはずがありません。
ですから、片付けと整理の為だけに職場に来ています。

シュレッダーをかけているのですが、業務用ではないので、大量やるといったん止まってしまうので、その合間に打ってます。




前おきがながくなりましたが・・・。



昨日、新規のかたの訪問に行ってきました。


ある訪問介護事業所の社長からの依頼です。


電話に出てその社長から、開口一番言われました。


『かたつむりちゃん、新規受けてくれない、お願い。かたつむりちゃんにお願いしたいの。』


この社長は、私が、初心者の時に持った困難ケースを一緒に支援した訪問介護事業所(=ヘルパー会社)の社長です。
 この会社の社長やサ責さん(=サービス提供責任者)やヘルパーさんたちには、本当に助けていただきました。
今でも感謝していますし、『この会社に依頼をすれば絶対大丈夫』と、私的にはとても信頼している会社です。
ですから、社長には頭が上がらないわけです。
 

当然引き受けました。


この社長に依頼したのは、最近までうちの事務所と同じ地域で別の訪問介護事業所のサ責をしてたかた(Aさん)でした。


Aさん同席で、昨日初回訪問に行ってきました。

そこはB団地でした。

B団地は、生活保護世帯や高齢世帯が極端に多いときいていました。

高度経済成長期に立てたままの団地は、エレベータがありません。

数年前までB団地に住んでいいた、別のご利用者様の奥様は、
「あそこの団地の人たちは経済的に苦しくて、具合が悪くなっても病院に行けないのよ。行くときは救急車になって、もう戻ってこれなくで、病院でみんな死ぬの」
と、言ってました。
 

昨年末に、そこの地域を管轄している、包括支援センター(以下:包括)の管理者(今は異動で別の方に替わっています)さんから訊かれました。
「かたつむりさんのところは、B地域は、対応してくれるかな?」と。
この包括の管理者さんとは、私自身が仕事でいろいろとつながりを持っていました。

 実は包括の担当エリアが変わり、最近、その包括がB地域の担当になったばかりでした。
 
たぶんその団地のことを言っているのだろうと思いました。
困難ケースも多いだろう、とは思いました。
でも、うちの会社に来るケースは、なぜか『楽』なケースは一件もありません。

だから、

「その先の地域も私は行ってますので、地域的には大丈夫です。新規の受け入れの判断は社長になりますが。」

と、答えたら、数日後にすぐ、うちの事務所に依頼が来ました。



そんな団地なので、『楽なケースではない』と、すぐに思いました。



物が散乱した部屋で、取り急ぎ依頼した自費ベッドで、ご利用者様(C様)は横になっていました。

Aさんは
「私が入ったときは、『ゴミ屋敷』だったの。私がここまで片付けたのよ」
と、言ってました。

Cさんは、独居。独身。
20年以上前にお母さまを亡くされてから、ずっと独りで暮らしてきました。
兄弟とは音信不通。事実上の絶縁状態。
持病がありましたが、年金が少ないため、Cさんは、自転車置き場の仕事を仕事をしていたそうです。
Aさんはそこに自転車を置いていて、二人は『顔見知り』でしたが、互いの名前も知らなったそうです。

Aさんの話しでは、年が明けてから持病が悪化して、動けなくなり、トイレに行けず、食事もとれず、寒さの中で、汚れた布団の上で動けずにいて、衰弱してしまっていたそうです。

近所の人が、Cさんの異変に気付いたそうですが、どこに助けを求めたらいいのかわからなかったそうです。

そこで、Aさんが『介護の仕事をしている』ことを思い出して、Aさんの連絡先を探して、助けを求めたのだそうです。

役所でもなく・福祉事務所でもなく・包括支援センターでもなく、いち訪問介護事業所の職員に・・・。

Aさん曰く
「最初はだれのことを言っているのかわからなかった。来て顔を見て分かった。だってお互いに名前もしらなかったから。」

とのこと。

そして、

「私が来たときは、『孤独死』寸前の状態だったの。もう少し遅かったらどうなっていたか・・・こうやって、みんな『孤独死』になっていくのね。」


行政や包括支援センターは何をやっているのか・・・と、思いつつ、介護業界で仕事をしている者として、『現実』をまた突き付けられて、衝撃を受けました。

Aさんが包括へ行き、すべて手続きをして、介護申請をして、ケアマネ頼める段階まで持ってきたそうです。

一個人の、他人であるAさんが・・・。

Cさんは言いました。


「どこに助けを求めたらいいのか、わからなかった」


これが現実。


困ったときの相談場所が、高齢者に広まっていないのです。


私はCさんに言いました。


「Cさん、Aさんが『神様』に見えるでしょう。」と。


Cさんは、思いを込めた表情で言いました。


「ええ、本当にAさんは『神様』よ。Aさんには本当に感謝しているわ。Aさんがいなかったら、私はあのまま死んでいたわ・・・」と。



これが、高齢者を取り巻く現実。




Cさんの支援内容については、Aさんがすでに考えていて、それを私が、ケアマネとして実行してほしいとの事。
Aさんの提案に、もちろん私は異論はなく、そのままでプランを立てることにしました。



今の、高齢者を取り巻く現実を突きつけられて、自分の甘さを痛感しました。


そして、また、初心にかえって、『高齢者を取り巻く現実』を見つめて、ケアマネとして、仕事に精進したいと、思いました。




では、片づけに戻ります。




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『間一髪』の出来事。

今日は土曜日ですが、
明後日に父の病院の付き添いで休みをとっているため、
今日もまた仕事です。
ただ、今までの病院の受診が月一回になり、
移行するクリニックは、受診後に出勤できる場所にあるので、
今までのような、無謀な生活はだいぶ改善されると思います。


私の担当している方で、ある老々夫妻がいます。
夫が私の担当利用者様で、介護者は実質奥様だけ。
息子さんが一人いますが、障害者のため介護は難しい状態です。


ご主人は多くの病気をお持ちで、
私が1年前に他事業所から交代で引き継いだ時は、
実質引きこもりで、ADLも介助がないと歩行できず、
更に困ったことに『認知症が無いのに』
自身の身体のことを理解しておらず、一人で歩こうとして転倒してしまうのです。
そんなわけで、奥様はご主人から24時間目が離せない状態でした。
奥様の介護休養の時間をつくりたくて、ショートステイの提案をするも
本人が嫌がりました。
しかし、このままでは、奥様も倒れてしまうし、
ご主人のADLも低下して、寝たきりになるは時間の問題でした。

ですから、ご主人に
「奥様に頼りっぱなしで毎日生活していたら、奥さんが倒れます。
 そうしたら、ご主人はこの家で生活できませんよ。
 それに、このまま、家だけで過ごす生活をしていたら
 ご主人歩けなくなりますよ。
 そうしたら、やっぱり家で暮らせませんよ。
 これからも家で暮らしたいのなら、
 ご主人も努力してください!!」
と、あえて説教して、とりあえす、デイサービスに行くようなりました。
週1回ですが・・・。
それでも、2年半受診以外は外へ出なかった人なので、
大きな進歩でした。


でも、奥様の身体が限界に来ていましたので、
ショートステイの利用の話を進めはじめました。
ただ、病気が多い為、ショートステイ側も
医師からの注意事項を知りたいとのことで、
病院側とも連絡取り、情報提供もしました。
そうやって話をすすめていたところ・・・。
 

ご主人が人工透析になってしまいした。


もともと、末期の慢性腎不全だったので、
いつかはそうなるだろうとは
ご夫妻も私も思っていました。


しかし、私の勉強不足が、そこで露見してしまいました。


透析クリニックは院内の介助をしないとのことなのです。
「うちでは介助ができないので、家族がヘルパーが対応してください」
と言われました。
奥様は当然追い込まれます。
院内は介護保険のヘルパーは使えません。
社長に助言を求めたら、
「『あれもやった、これも調べた、いろいろやったけどだめだった。』そのうえでないと介護保険課は、相談に乗ってくれない」
とのことでした。

そのため、私は、地域の他の透析クリニックや病院に電話をしまくり、送迎と院内介助の対応をしているか問い合わせました。
しかし、どこもダメでした。
次に、ご主人が身体障碍者手帳2級を持っているので、障碍者支援で対応できないかも訊きましたが、介護保険同様、院内介助は無理との返答でした。


いろいろ調べてはいたのですが、父のこともあり、
最近仕事の対応が遅くなってしまっていたので、思うように動けずに、
自分で自分にイライラしていました。


とにかく、いろいろ調べたけど、どれもダメだったので、
夫妻の状況と調べた内容を文書にして、万全の態勢で介護保険課に掛け合う準備をしました。


ですが、その日の午後に介護保険課に掛け合うつもりでいた日の午前中でした。

奥様から電話がありました。

蚊のなくような声で。

「かたつむりさん、もう辛い。主人がもう透析に行きたくないと言っている。透析に行かないでこのまま死にたいと言っている。私もどうしたらいいか考えられない、もう死にたい」
そう言いました。


マズい!!


とっさに思いました。


楽天家なご主人と、気丈な奥様の言った言葉です。



奥様は、以前から
「かたつむりさん、私もう無理よ!」とは何度も言ってました、笑いながら。
社長に怒られるのはわかっていましたが、
訪問時はいつも2~3時間滞在し、奥様と話す時間をしっかり持つようにしていました。
奥様のはけ口をつくるために・・・。
サービスの手配と開始が、多くの持病の為にどうしても遅れてしまうので、
支援体制が整うまで、
せめて、私に愚痴をぶつけてほしいと思っていました。


やっと、デイサービスとショートステイの併用利用が見えてきたときの
人工透析。


デイサービスは利用継続できていますが、
話を進めていた、ショートステイは白紙になりました。

ショートステイ利用中の透析時は家族の送迎対応が最低条件です。
これでは、家族の介護休養にはならないのです。



ご夫妻にとっては、地獄のどん底に突き落とされたも同然でした。



私は奥様に電話口で、
「病院内のヘルーパ―に関して、調べるべきことは全てしたから、詳細を書いた書類も作ったので、今日の午後1番に介護保険課にかけあってくる!絶対にヘルパーを入れる許可をとってくるから!」
そう言いきりました。

介護保険課が『無理です』といったら、
「そうしたら、このご夫妻は間違いなく心中しますよ!!それでもいいんですか!!」
そこまで言うつもりでいたのです。
元々ケンカ覚悟で行くつもりでした。


午後、介護保険課に行って事情を説明したら、
病院内のヘルパー介助が、
今回の件は『特例で認められるものに該当する』とのことでした。
『ケアマネがきちんと、条件に充てはまる状況を記録に残して、ケアマネが必要と判断すれば大丈夫です。今、私(=介護保険課職員)にしてくださった説明をそのまま記録に残せば大丈夫です』とのことでした。

奥様に急いで電話をしました、
『透析クリニックでヘルパーが使えると、介護保険課から言われた』ことを伝えたら、奥様は喜んでくれました。


後日、自宅に伺い、私の家の事情とはいえ、対応が遅れたことを謝罪して頭を下げました。
 
奥様は、『かたつむりさんもお父さんのことで大変なんだから、わかっているわよ。でも、本当に、かたつむりさんありがとう。』
そう言ってくださいました。
 
どこのヘルパー会社にするかは、
本来ならばヘルパー会社を数社提示して、
ご夫妻に選んでいただくのが筋なのですが、
時間がないので、私が一番信頼しているヘルーパ―会社にお願いしました。
週3日すべて対応していただける見通しになり、事後報告で手配をしたことを奥様に合わせて伝えました。


担当者会議が、ご夫妻の都合で来月になってしまいましたが、奥様が、
「あと少し頑張れば、ヘルパーさんがやってくれると思えば、大丈夫よ」
と、言って下さいました、

私といつものように長話をしたあと、
「久しぶりに、声を出して笑ったわ。かたつむりさん、ほんとうにありがとう」
そう、笑顔でおっしゃってくださいました。



間にあってよかった・・・。


本当に、そう思いました。


そして、奥様が私に『死にたい』と言って下さったことに、心から感謝しました。


奥様がその言葉を、『本当の気持ち』を言って下さらなかったら、私は、お二人がそこまで追いつめられていることに、気づけなかったのです。

本当は、その言葉を聴かなくても、気づくべきなのが『ケアマネージャー』なのです。

そのことに気づけなかった私は、ケアマネとして『決定的な失敗』をしたのだということも、充分自覚しています。
今、自分で自分に腹が立っています。



でも、とにかく、ご夫妻に少しでも光が見えたことに、少しだけ安堵しました。



依頼したヘルパー会社は、私が初心者のときに受けた困難ケースを一緒に支援した会社です。
その方の対応で、私は、包括その他から『かたつむりさんはケアマネとして何もしていない』と責められ続けられました。自分なりに考えがあっての行動なのに、非難されて、とてもつらかったです。
そんな中で、このヘルパー会社は、最初から
『私は、担当ケアマネであるかたつむりさんの支援の方針にしたがって、一緒に支援していきます』
と言ってくれた、唯一の会社でした。
そして、色々を助言をいただきながら、最後まで支援をすることができました。
このとき『地域ケア会議』で、私は包括と実質対立し、結果、私の意見を正論で通しました。
『安全な場所にいて、責任も取らずに、非難だけする輩に、文句は言わせない』
そう思って、望んだ『地域ケア会議』でした。
包括・各支援事業所・行政など色々な方が見えてましたが、誰も私の言葉に反論しませんでした。
私がケアマネになって4カ月目のことでした。
そこから、みな、手のひらを返すように私を非難しなくなりましたが、一番苦しい時に味方してくれたのは、そのヘルパー会社だけでした。


その会社だからこそ、このご夫妻の支援を依頼しました。
今後の、自宅での身体介助や生活支援を見すえての依頼です。
小さな異変にもきっと気がついてくれるはずです。
私が信頼する『サービス提供責任者』のお兄さんは、私の『無茶な依頼』を心良く引き受けてくださいました。
「かたつむりさんからの依頼ですから」と。


私は、危うくご夫妻を『殺してしまう』ところでした。

今回のことで、ケアマネージャーの仕事は、
利用者様のそのご家族の命にかかわる仕事なのだど、現実的に実感しました。


今回の失敗を肝に銘じて、これからも精進したいと思います。



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